松尾芭蕉
松尾芭蕉は正保元年(1644年)松尾与左衛門と妻・梅の次男として、伊賀国で生まれる。出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしているため、どちらで生まれたか不明になっている。
松尾芭蕉生家(赤坂)
本名は松尾宗房(むねふさ)で、 寛文4年(1664年)初出した俳号・宗房(そうぼう)は実名を音読みしたもの。寛文12年(1672年)29歳のとき、江戸に出たと云われている。延宝3年(1675年)から桃青(とうせい)を用いている。桃青は、憧れの詩人であった唐の時代の詩人・李白に由来する。白い李(スモモ)で“李白”と号すなら、未熟な自分は青い桃で“桃青”と号することにしたと云われている。延宝8年(1680年)深川に居を移したときに、芭蕉も用いる様になる。複数の俳号が存在するが、桃青が主たる俳号と云われている。芭蕉も別号であったが、松尾芭蕉で後世に受け継がれる様になる。俳号・芭蕉は、深川の庵に芭蕉を植えたことが由来とされてきた。しかし芭蕉が植えられたのは、天和元年(1681年)であることが句集で確認されている。芭蕉を植えたからではなく、俳号・芭蕉に因んで芭蕉を植えたことになる。要するに、俳号・芭蕉の由来ははっきりしていない。
俳聖殿門 俳聖殿
伊賀市上野公園(伊賀上野城址)に、昭和17年(1942年)芭蕉生誕300年を記念して建立された俳聖殿(はいせいでん / 重文)がある。俳聖殿芭蕉の旅姿を表現しており、丸い屋根は旅笠 / 俳聖殿の木額が顔 / 八角形のひさしは蓑と衣姿 / 堂は脚部 / 回廊の柱は杖と足 になっている。
歴史街道スタンプは、俳聖殿 / 芭蕉 / 忍者 の図柄になっている。
歴史街道スタンプ
松尾芭蕉終焉の地 南御堂 枯野の句碑

京街道の終点・高麗橋から西へ、御堂筋を左折して南へ進む。中央大通りを越えると、東側の植樹帯に松尾芭蕉終焉の地石柱がある。元禄7年(1694年)大坂・花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、51歳で逝去する。西側の難波別院(南御堂)には、芭蕉が病床で詠んだ枯野の句碑「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」がある。天保14年(1843年)芭蕉の150回忌に俳人たちによって造立されたと云われている。

義仲寺山門前石柱群 義仲寺山門 義仲寺朝日堂(本堂)
JR東海道本線・膳所駅より北へ進む。すぐのY字路を右へ進むと、旧東海道と交差する。右折して東へ進む。すぐ右手に義仲寺(ぎちゅうじ)がある。治承4年(1180年)木曽義仲は平家討伐の兵を挙げ、平家の大軍を打ち破り都に入る。寿永3年(1184年)粟津ヶ原で源範頼 / 義経 と戦い、討ち死にする。木曽義仲が葬られた地に、尼僧となった側室・巴御前が草庵を結んだのが始り。天文22年(1553年)近江国守護・佐々木六角氏が再興したと云われている。
木曽義仲墓 巴塚 松尾芭蕉墓
貞享年間(1684年〜1688年)松尾芭蕉はたびたび訪れている。元禄7年(1694年)大阪で逝去したとき、遺言に従いここに墓が作られた。境内には、本堂の朝日堂(ちょうじつどう) / 翁堂(おきなどう) / 無名庵(むみょうあん) / 文庫 / 芭蕉をはじめ数多くの句碑 がある。境内全域が国の史跡に指定されている。
翁堂
関口芭蕉庵 / 深川の芭蕉庵跡 / 甲斐国・田原
奥の細道旅立ち / 河合曾良
草加宿〜鉢石(はついし)宿
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