松尾芭蕉
松尾芭蕉は正保元年(1644年)松尾与左衛門と妻・梅の次男として、伊賀国(現:伊賀市)で生まれる。月日は解っていない。また出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしているため、どちらで生まれたか解っていない。俳号は初め実名の宗房(そうぼう) だった。次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。
松尾芭蕉生家(赤坂)
伊賀上野城
伊賀流忍者博物館 俳聖殿

伊賀国は元和元年(1615年)に伊勢津藩に組み込まれ、明治維新を迎えている。藤堂高虎によって築かれた高さ約30mの石垣に、昭和初期に築かれた模擬天守がある。旧城域の上野公園には、俳聖殿(重文) / 伊賀流忍者博物館 がある。俳聖殿は昭和17年(1942年)芭蕉生誕300年を記念して建立された。芭蕉の旅姿を表現しており、丸い屋根は旅笠 / 俳聖殿の木額が顔 / 八角形のひさしは蓑と衣姿 / 堂は脚部 / 回廊の柱は杖と足 になっている。

寛文12年(1672年)芭蕉29歳、故郷の伊賀上野から江戸に出たと云われている。日本橋小田原町に住んだと云われている。延宝3年(1675年)から俳号は桃青を用いている。

関口芭蕉庵門 瓢箪池 休憩施設

都電荒川線・早稲田駅から8号線(新目白通り)を東に進む。5分ほどの交差点手前を左折して北へ進む。すぐに神田川に架かる駒塚橋を渡ると、右手に関口芭蕉庵がある。入口は胸突坂側にある。後に芭蕉を慕う人々により建てられた龍隠庵が始まり。正確には、桃青が住んだ住居跡地である。鬱蒼とした敷地には、少し濁っている瓢箪池 / 句碑 がある。瓢箪池には「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑があるが、貞享3年(1685年)深川芭蕉庵で詠まれた句。芭蕉庵を思わせる休憩施設がある。
東京都文京区関口2-11-3

延宝5年(1677年)日本橋から神田川沿いの関口に移り、3年間住んでいた。当時は旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、桃青はこれに携わっていた。労働や技術者などではなく、人足の帳簿づけの様な仕事だった。このため、工事現場か水番屋に住んだと云われている。この頃に桃青は寿貞(じゅてい)という女性と同居して、家庭らしいものを持っていたと云われている。寿貞とは後で尼になったときの名前で、本名や生まれた年は解っていない。

都営新宿線・森下駅から西へ、5分足らずの新大橋交差点を左折して南へ進む。すぐ右手に芭蕉記念館(有料施設)がある。芭蕉記念館観覧券は、100円だったころのもの。平成24年(2012年)頃に200円に値上がりしている。稲荷神社付近から発見された芭蕉が愛好したと云われる石蛙が展示さえれているが、撮影禁止 / 模写禁止 とつまらない。
芭蕉記念館観覧券
芭蕉稲荷神社 芭蕉庵跡碑

芭蕉記念館からさらに南へ進む。すぐの小名木川に架かる万年橋の手前を右折すると、すぐ右手に芭蕉稲荷神社がある。芭蕉没後の元禄10年(1697年)深川の芭蕉庵は武家屋敷になった。大正6年(1917年)津波来襲後に、稲荷神社付近から芭蕉が愛好したと云われる石蛙が発見される。大正10年(1921年)東京府は常磐一丁目を旧跡に指定した。稲荷神社は芭蕉稲荷神社と改称され、小さな境内には芭蕉庵跡碑 / 句碑 などがある。
東京都江東区常盤1-3

延宝8年(1680年)桃青37歳のとき、深川に居を移す。隅田川と小名木川の合流点辺りにあった、門人の杉山杉風(さんぷう)の生簀(いけす)番屋を改築して住んでいたと云われている。この辺りの隅田川は、三つ又と呼ばれる月見の名所であった。
北斎の絵 現在の万年橋
大きな転機となった芭蕉の深川遁世であるが、理由は諸説ある。芭蕉は俳諧の宗匠として門人も増え、これからという時だった。俳諧の誠を求めるために、すべてを捨てて深川隠遁と云われる生活に切り変えたと云われている。

姉の子供で甥の桃印(とういん)と内縁の妻(妾)である寿貞(じゅてい)の駆落ち説がある。関口では同居していたが、深川に居を移すときにはいなくなっている。藤堂藩には、藩民が他藩で仕事をする場合は5年に1度は帰郷して近況を報告する義務があった。違反すると、縁者にも厳しい罰則があった。芭蕉は桃印の件で対応する必要があり、桃印を死んだことにして自らも深川に隠遁した。当時の深川は江戸ではなく、人目を避けるのに都合が良い場所であった。
晩年の寿貞は、肺結核を病んで深川の芭蕉庵に住んでいた。元禄7年(1694年)6月2日に死去、享年42歳と云われている。芭蕉とは8歳差の年齢となる。芭蕉の甥・猪兵衛が、寿貞の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けている。芭蕉も元禄7年(1694年)10月12日(新暦11月28日)に寿貞の後を追う様に亡くなる。
芭蕉に深い関係のあった寿貞という女性がいたことは事実である。また深川に居を移すときにいなかった寿貞が、晩年は深川の芭蕉庵に住んでいた。俳聖芭蕉の俗っぽい逸話である。

延宝8年(1680年)深川に居を移してから以後、天和3年(1683年)と元禄2年(1689年)に移転している。その場所はすべてこの近くであった。元禄7年(1694年)大阪で病没するまで、15年間の拠点であった。「古池や蛙飛びこむ水の音」は、貞享3年(1685年)深川芭蕉庵で詠まれた。

芭蕉句碑
田原の滝 田原神社

富士急・十日市場駅から北へ進む。すぐに139号線に突き当たり、右折して北東へ進む。5分足らずで旧道が右方向に分岐、すぐに富士五湖・山中湖を水源とした桂川に架かる佐伯(さへき)橋がある。佐伯橋から南西方向に田原の滝(たはらのたき)が見える。富士山の火山活動で溶岩が冷却凝固して形成された柱状節理は、桂川の侵食により美しい渓谷美を造り出していた。上下2段からなっていたが、明治31年(1898年)に両岸が崩落して1段の滝になる。大正12年(1923年)の関東大震災以降は崩壊が進んだ。昭和30年(1955年)に砂防堰堤が設置され、往時の渓谷美は失われている。
天和2年(1682年)深川芭蕉庵が消失、田原に約半年間滞在していた。佐伯橋を渡った北側の小公園に、「勢ひあり 氷消えては 瀧津魚」芭蕉句碑がある。
旧道はすぐに139号線に合流するが、三角地帯に田原神社がある。宝永4年(1707年)冨士宝永山噴火のとき、鎮火祭を斎行したと云われている。心霊スポットになったことがあり、「人形やぬいぐるみを供えることはご遠慮下さい」の看板がある。

松尾芭蕉は、延宝3年(1675年)から桃青を用いている。弟子・李下が深川の庵に芭蕉を植えたことから、俳号を芭蕉にしたと云われている。芭蕉は、バショウ科の多年草である。深川の庵に芭蕉が植えられたのは、天和元年(1681年)であることが句集で確認されている。既に延宝8年(1680年)に深川に居を移したときに、芭蕉号を用いている。芭蕉を植えたから芭蕉を名乗ったのではなく。芭蕉号に因んで芭蕉を植えたことになる。芭蕉の号の由来は、はっきりしていない。
元禄7年(1694年)大坂・花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、51歳で亡くなる。御堂筋の中央大通りとの交差点の南、東側の植樹帯に「松尾芭蕉終焉の地」石標がある。西側の難波別院(南御堂)には、芭蕉が病床で詠んだ枯野の句碑「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」がある。
松尾芭蕉終焉の地 枯野の句碑
義仲寺山門 木曽義仲墓 巴塚
JR東海道本線・膳所駅より北へ進む。すぐのY字路を右へ進むと、旧東海道と交差する。左折すると、すぐ左手に義仲寺(ぎちゅうじ)がある。木曽義仲は平家討伐の兵を挙げ、平家の大軍を打ち破り都に入る。寿永3年(1184年)粟津ヶ原で源範頼 / 義経と戦い、討ち死にする。義仲寺は、木曽義仲が葬られた地に尼僧となった側室・巴御前が草庵を結んだのが始り。天文22年(1553年)近江守護・佐々木六角氏が再興したと云われている。境内には、本堂の朝日堂(ちょうじつどう) / 翁堂(おきなどう) / 無名庵(むみょうあん) / 文庫 / 芭蕉をはじめ数多くの句碑 がある。境内全域が国の史跡に指定されている。
松尾芭蕉墓

翁堂

貞享年間(1684年〜1688年)に松尾芭蕉は、たびたび義仲寺を訪れている。元禄7年(1694年)大阪で逝去したとき遺言に従い、ここに墓が造られた。翁堂には、芭蕉の座像が置かれている
古池や 蛙飛びこむ 水の音 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
奥の細道めぐりT
奥の細道めぐりU 作業中