松尾芭蕉
松尾宗房(そうぼう)は、寛文12年(1672年)29歳のとき江戸に出たと云われている。最初に住んだ場所は、日本橋の貸家 / 後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅 など諸説ある。江戸では在住の俳人たちと交流を持ち、延宝3年(1675年)から桃青(とうせい)を用いている。
関口芭蕉庵門 瓢箪池 芭蕉庵(休憩施設

都電荒川線・早稲田駅から8号線(新目白通り)を東に進む。5分ほどの交差点手前を左折して北へ進む。すぐの神田川に架かる駒塚橋を渡ると、右手に芭蕉を慕う人々により建てられた龍隠庵(りゅうげあん)が始まりの関口芭蕉庵がある。延宝5年(1677年)桃青が神田上水の改修工事に携わったときに住んでいた住居跡である。延宝8年(1680年)深川に移るまでの4年間居住した。延宝5年(1677年)または延宝6年(1678年)桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。江戸や京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。
鬱蒼とした敷地には、芭蕉庵 / 庭園 / 少し濁っている瓢箪池 / 句碑 がある。瓢箪池には「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑があるが、貞享3年(1685年)深川芭蕉庵で詠まれた句である。
東京都文京区関口2-11-3

都営地下鉄・森下駅A1出口から50号線を西に進むと,すぐに万年橋通りと交差する。左折して南に進むと、すぐ右手に芭蕉記念館がある。さらに南へ進み、すぐの小名木川に架かる万年橋の手前を右折する。すぐ右手に芭蕉稲荷神社がある。大正6年(1917年)津波来襲後に、付近から芭蕉が愛好したと云われる石蛙が発見される。石蛙は芭蕉記念館に展示されているが、撮影禁止となっている。芭蕉稲荷神社の狭い境内に、芭蕉庵跡碑 / 句碑 などがある。
芭蕉稲荷神社 東京都江東区常盤1-3-12
芭蕉記念館観覧券
芭蕉稲荷神社 芭蕉庵跡碑
延宝8年(1680年)桃青37歳のとき、深川に住まいを移す。隅田川と小名木川の合流点辺りにあった、門人の杉山杉風(さんぷう)の生簀(いけす)番屋を改築して住んでいたと云われている。この辺りの隅田川は、三つ又と呼ばれる月見の名所であった。
深川に住まいを移した理由は諸説あるが、俳号・芭蕉をこのときから用いる様になる。天和3年(1683年)と元禄2年(1689年)に移転しているが、場所は近くであった。元禄7年(1694年)大阪で病没するまで、深川は15年間の拠点であった。「古池や 蛙飛びこむ 水の音」は、貞享3年(1685年)深川芭蕉庵で詠まれた。
姉の子供で甥の桃印(とういん)と内縁の妻(妾)である寿貞(じゅてい)の駆落ち説がある。関口では同居していたが、深川に住まいを移したときにはいなくなっている。藤堂藩には藩民が他藩で仕事をする場合は、5年に1度は帰郷して近況を報告する義務があった。違反すると、縁者にも厳しい罰則があった。芭蕉は桃印の件で対応する必要があり、桃印を死んだことにして自らも深川に隠遁した。当時の深川は江戸ではなく、人目を避けるのに都合が良い場所であった。
晩年の寿貞は、肺結核を病んで深川の芭蕉庵に住んでいた。元禄7年(1694年)6月2日に死去、享年42歳と云われている。芭蕉とは8歳差の年齢となる。芭蕉の甥・猪兵衛が、寿貞の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けている。芭蕉も元禄7年(1694年)10月12日に寿貞の後を追う様に亡くなる。
芭蕉に深い関係のあった寿貞という女性がいたことは事実である。また深川に住まいを移したときにいなかった寿貞が、晩年は深川の芭蕉庵に住んでいた。
芭蕉像 / 芭蕉句碑
田原の滝 田原神社

富士急・十日市場駅から北へ進む。すぐに139号線に突き当たり、右折して北東へ進む。5分足らずで旧道が右方向に分岐、すぐに富士五湖・山中湖を水源とした桂川に架かる佐伯(さへき)橋がある。佐伯橋から南西方向に田原の滝(たはらのたき)が見える。富士山の火山活動で溶岩が冷却凝固して形成された柱状節理は、桂川の侵食により美しい渓谷美を造り出していた。上下2段からなっていたが、明治31年(1898年)に両岸が崩落して1段の滝になる。大正12年(1923年)の関東大震災以降は崩壊が進んだ。昭和30年(1955年)に砂防堰堤が設置され、往時の渓谷美は失われている。
佐伯橋を渡った北側の小公園に、芭蕉像 / 芭蕉句碑「勢ひあり 氷消えては 瀧津魚」がある。旧道はすぐに139号線に合流するが、三角地帯に田原神社がある。宝永4年(1707年)冨士宝永山噴火のとき、鎮火祭を斎行したと云われている。心霊スポットになったことがあり、「人形やぬいぐるみを供えることはご遠慮下さい」の看板がある。
天和2年(1682年)天和の大火(八百屋お七の火事)で深川芭蕉庵が消失する。
松尾芭蕉は甲斐谷村藩(現:山梨県都留市)の国家老・高山繁文に招かれ、田原に約半年間滞在していた。