奥の細道 草加宿〜鉢石(はついし)宿(日光)
■元禄2年(1689年)3月27日
千住宿-(日光街道)-草加宿-(日光街道)-粕壁
(かすかべ)宿
深川・採荼庵から出立、千住宿から日光街道を北に進む。次の宿場は草加宿で、元禄2年(1689年)頃の草加宿は小規模な宿場町だった。農家がほとんどの、のどかな風景が広がっていた。
草加宿を過ぎてすぐの札場河岸公園に、芭蕉旅立の像がある。復元された船着場は綾瀬川が舟運に利用された頃で、芭蕉が訪れたときは賑わい始める前のことである。復元された船着場から見える矢立橋は、奥の細道に因んでから命名された。
芭蕉旅立の像
復元された船着場からの矢立橋
草加宿から越谷宿を経て粕壁(かすかべ)宿に到着。東陽寺に宿泊したと云われている。本殿手前右手に、曽良日記にある「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と彫られた石碑がある。深川を出発した芭蕉は、約28kmの距離を歩いた。なお往時の旅人は、1日40kmは歩いていた。
東陽寺 石碑
■元禄2年(1689年)3月28日
粕壁宿-(日光街道)-栗橋関所-(日光街道)-間々田
(ままだ)宿
曽良日記「廿八日 マゝダニ泊ル カスカベヨリ九里」
東武鉄道日光線の幸手駅入口交差点から、日光街道を北へ進む。商店の北側の外壁に、芭蕉と曽良の旅姿が描かれている。
芭蕉と曽良の旅姿
曽良日記「此日栗橋ノ関所通ル 手形モ断モ不入」
栗橋関所跡 栗橋関所跡碑 栗橋関所案内板
東武鉄道日光線の栗橋駅入口交差点から5分ほどすると、右手に栗橋関所跡がある。広範囲に発掘が行われている。4号線の土手堤に、栗橋関所跡碑 / 栗橋関所案内板 がある。栗橋関所案内板には、当時の地図や将軍が利根川に舟の橋を架かけて渡る錦絵が描かれている。幕府は下総国・中田宿へ渡る渡船場を利用して取り締まった。以前は対岸側にあったため、房川渡中田関とも呼ばれていた。日光街道は、栗橋関所から利根川を房川渡(ぼうせんのわたし)で渡河していた。
利根川橋からの利根川眺望
■元禄2年(1689年)3月29日
間々田宿-(日光街道)-小山宿-(日光街道)-喜沢追分-(壬生道)-飯塚宿……室の八島……金売吉次の墓-(壬生道)-文挟
(ふはさみ)宿
供養塔を兼ねた道標 馬頭観音 出征馬碑

小山宿から日光街道(265号線)を北に進むと、約3kmのところに五差路の喜沢(きざわ)東交差点がある。往時は喜沢追分とよばれたところで、日光街道は直進してすぐに右方向の小路を進む。壬生(みぶ)宿 / 鹿沼宿 を経由して日光街道・今市宿へ至る壬生道(日光西街道 / 18号線)は北西へ進む。壬生道は日光への近道であった。北側の三角地帯に、供養塔を兼ねた「左壬生道 右宇都宮道」道標 / 明治27年(1894年)造立の馬頭観音 / 出征馬碑 が並んでいる。

曽良日記「此間姿川越ル 飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半 飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ(小クラ川)川原ヲ通リ 川ヲ越 ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカゝリ 室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)」
芭蕉は飯塚宿の外れから、西にある小倉川(現:思川)の川原を北に進んだ。小倉川(現:思川)の流れが往時と同じであれば、妙典寺から台林寺辺りまでは川に近い。小倉川(現:思川)を渡った対岸の場所は、栃木刑務所の南側500m辺りと推定されている。ここから西へ進み、5町(約545m)ほどの「毛武ト云村」を通り室の八嶋に立ち寄った。
蓮華寺 思川 / 旧大光寺橋 地蔵
栃木県下野市の花見ヶ岡交差点を左折して44号線を西へ進む。すぐ右手に蓮華寺がある。5分ほどすると、思川に架かる大光寺橋を渡る。右手に旧大光寺橋が見える。大光寺橋から5分ほどの大光寺町交差点を右折して北へ進むと、すぐ右手に地蔵 / 傍らに傾いた石祠2基 がある。
地蔵から10分足らずの左手に西光寺がある。
西光寺
大神神社参道入口の鳥居(南側) 大神神社拝殿 大神神社裏側入口の鳥居
西光寺から5分ほどの惣社東工業団地交差点を左折する。さらに5分ほどの室の八嶋入口交差点の北側に、大神(おおみわ)神社の鳥居がある。長い参道を進むと、社殿手前左手に室の八嶋がある。大神神社は、式内社論社 / 下野国総社 だったと云われている。南に2.8kmほどのところに下野国庁跡がある。
桜咲く参道
室の八嶋
嶋の間の水路 案内板抜粋 芭蕉句碑
奈良時代から歌枕として都にまで知られた地名で、万葉集や古今和歌集を始めとする和歌集に登場する。八の嶋に社がある。東武鉄道宇都宮線・野州大塚駅から15分ほどのところであるが、芭蕉と同じ様な道筋を辿る。雰囲気が期待される小雨が降る日に出発している。天平の丘公園では薄日となり、さらに晴天となる。
大神神社から北西に進み、すぐの突き当りの交差点を左折すると、すぐ左手に栃木国府局がある。風景印は、毎年4月に大神神社で催される流鏑馬 / 室の八嶋にある芭蕉句碑「いと遊に 結びつきたる けふりかな」 の図柄になっている。
栃木国府局風景印
曽良日記「壬生ヨリ楡木へ二リ ミブヨリ半道バカリ行テ 吉次ガ塚 右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」
壬生道に戻る。壬生町の本丸1丁目交差点から20分ほどすると、北関東自動車道を潜る。5分足らずの上稲葉交差点を越えた右手の畑に、金売り吉次(かねうりきちじ)の墓がある。金売吉次は平安時代末期の商人で、平治物語 / 平家物語 / 義経記 / 源平盛衰記 などに登場する伝説の人物。源義経が源頼朝と不仲になり奥州平泉に逃げたとき、同行した吉次がここで病死したと云わている。
金売り吉次の墓

栃木県鹿沼市にある平成橋東交差点から60分ほど日光市に入ると、右手に杉並木寄進碑がある。川越藩主・松平正綱 / 信綱父子が寛永2年(1625年)から20数年を掛けて寄進した。20万余りの杉苗を紀州熊野から取り寄せ、日光街道 / 壬生道 / 会津西街道 に植えた。案内板は今市市になっているが、平成18年(2006年)に合併して日光市になっている。

杉並木寄進碑 杉並木寄進碑案内板
壬生道(日光西街道)車道側 壬生道(日光西街道)遊歩道側
杉並木寄進碑から先は鬱蒼とした杉並木になる。左側に遊歩道が山道の様に続いている。同じ景色の杉並木道は、ところどころ途切れていても流石に飽きる。
杉は住宅用材など木材需要に使える様になるまで、約50年掛かると云われている。寛永2年(1625年)から20数年を掛けて寄進した杉は、元禄2年(1689年)にはそこそこ育っていたと思われる。 
杉並木寄進碑から30分ほどすると文挟(ふはさみ)宿に入るが、往時の面影はない。
元禄2年(1689年)3月29日 芭蕉は文挟宿に泊まった。
JR日光線・文挟駅名標
■元禄2年(1689年)4月1日
元禄2年(1689年)3月は閏月で、3月29日の翌日は4月1日になる。
文挾宿-(壬生道)-追分-(日光街道)-今市宿-(日光街道)-鉢石
(はついし)宿……日光山……上鉢石町・五左衛門宿
追分から壬生道を振り返る
道標 追分地蔵堂
壬生道(日光西街道)は追分で日光街道と合流する。三角地帯に追分地蔵堂がある。像高2mの石造地蔵は、室町時代頃の作と推定されている。空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に造立、大水で流されて今市の河原に埋もれていたと云われている。今市七福神(恵比寿)になっている。境内に読み取れない道標がある。 
稲荷神社 西行戻り石
鉢石(はついし)宿の石屋町街区公園のところにある交差点から北東へ進み、すぐの交差点を左折する。すぐ右手の稲荷神社に“西行戻り石”がある。西行は東大寺再建の基金集めのため奥州平泉に勧進の途上、日光に立ち寄った。大石の上にいた村の子供にどこへ行くのかと尋ねると、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草を刈りに行く(麦刈り)」と歌で答えた。驚いた西行がこの場で男体山を遥拝、引き返した時の「ながむながむ 散りなむことを きみも思へ くろ髪山に 花さきにけり」西行歌碑がある。
西行は芭蕉が憧れていた1人であるため、当然訪れていると思われる。
大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋の左手に、二荒山(ふたらさん)神社の神橋(しんきょう)がある。奈良時代末に架けられ、寛永13年(1636年)現在の様な朱塗りの橋になった。神事 / 将軍社参 / 勅使 / 幣帛供進使 などに使用され、一般は下流の日光橋を通行した。現在は往復することが出来る(有料)。明治35年(1902年)に洪水で流され、明治37年(1904年)に再架橋された。長さ28m / 巾7.4m / 高さ10.6m の木造朱塗りの橋で、本来は橋脚のない構造であったが石の橋脚で補強されている。
神橋

天平神護2年(766年)勝道上人は日光山の麓に辿り着いたが、大谷川の激流に阻まれ対岸に渡ることができなかった。首から髑髏(どくろ)を下げた異様な姿の深沙大王が現われ、2匹の大蛇で橋を架けた。この神橋橋渡し伝説から、山菅蛇橋(やますげのじゃばし)とも呼ばれた。錦帯橋(岩国市・錦川)や 猿橋(大月市・桂川)とともに日本三奇橋に数えられている。

輪王寺黒門 輪王寺三仏堂 輪王寺護摩堂
突き当りを道なりに右へ、北に進む。右手の輪王寺黒門を潜ると、正保2年(1645年)再建された三仏堂(重文)がある。平成19年(2007年)〜平成30年(2018年)大規模修理が行われており、実物大の写真が架けられていた。三仏堂は拝観料が必要である。輪王寺は天平神護2年(766年)に創建された紫雲立寺が始まるとされる。平安時代に嵯峨天皇から“満願寺”の称号が下賜された。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したため寺領を没収され一時衰退した。江戸時代初期に天海大僧正(慈眼大師)が住職となってから復興する。明暦元年(1655年)後水尾上皇から“輪王寺”の称号が下賜された。戊辰戦争の後に明治政府によって輪王寺の称号を没収され、旧称の満願寺に戻される。明治15年(1883年)栃木県のとりなしによって輪王寺の称号が許された。
日光東照宮石鳥居 日光東照宮五重塔 日光東照宮表門
輪王寺黒門から北へ進むと、突き当りに元和3年(1617年)に造営された日光東照宮がある。江戸時代初期に輪王寺住職になった天海大僧正(慈眼大師)が、徳川家康を東照大権現として日光山に迎えた。元和4年(1618年)造立の石鳥居(重文)を潜ると、左手に文化16年(1818年)再建の五重塔(重文)がある。石鳥居は、鎌倉八幡宮 / 京都八坂神社 の鳥居とともに日本三大石鳥居に数えられている。突き当りにある寛永13年(1636年)建立の表門から先は拝観料が必要である。
日光二荒山神社神門 日光二荒山神社楼門 日光二荒山神社拝殿
日光東照宮の手前左手にある五重塔手前を左折すると、神護景雲元年(767年)創建の本宮神社が始まりの日光二荒山神社がある。正式名称は“二荒山神社”であるが、宇都宮の二荒山神社との区別のためにそれぞれ地名を冠している。日光二荒山神社 / 宇都宮二荒山神社 ともに延喜式神名帳に記載されており、それぞれ下野国一宮を称している。古くは、男体山(2.486m)=新宮権現 / 女峯山(2.464m)=滝尾権現 / 太郎山(2.368m)=本宮権現 を神体山とする“日光三社権現”と称された。元和3年(1617年)日光東照宮造営の際、現在地に移転した。正保年間(1644年〜1648年)再建と云われる拝殿 / 元和5年(1619年)再建の本殿 は重文。
大猷院仁王門 大猷院二天門 大猷院皇嘉門
日光二荒山神社の西側に、承応2年(1652年)に造営された徳川3代将軍・家光の墓所・大猷院がある。仁王門(重文)から先は拝観料が必要である。二天門(重文)には、大猷院の額が架かる。皇嘉門(重文)は本殿の右手奥にある楼門で、奥に家光の墓所・奥の院がある。
あらたふと 青葉若葉の 日の光
芭蕉は参拝後、上鉢石町・五左衛門の旅篭に泊まった。