奥の細道 吉崎→敦賀 | ||
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆金沢で曾良は体調不良になる。体調不良は腹の具合と云われ、伊勢国長島の親戚のところへ行って養生するために先に発つことになった。 奥の細道は、芭蕉が江戸に戻ってから旅の記録を紀行文という形に創り上げた。旅の日程や行った場所を前後させたりすることもあり、曽良日記によって明らかにされていた。体調不良になったことで随行できなくなり、金沢から大垣至る足取りは解らないことが多い。 大聖寺から天龍寺までの行程は、元禄2年(1689年)8月7日 大聖寺→森岡 / 8月8日 森岡→今庄 / 8月9日 今庄→吉崎→浜坂→汐越の松→金津→丸岡→天龍寺 である。金沢から25日間随行した立花北枝と天龍寺で別れる。足取りは益々解りにくくなっている。 天龍寺から敦賀までの行程は、8月10日 天龍寺→永平寺 / 以降、永平寺→福井→鯖江(さばえ)→武生(たけふ)→北国街道・今庄宿→板取宿→8月14日 敦賀である。 |
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■元禄2年(1689年)8月9日 今庄→吉崎→浜坂→汐越の松→金津→丸岡→天龍寺 | ||
JR北陸本線・加賀温泉駅から加賀周遊バスCANBUS 加賀越前線を利用する。1日3便の運行になっている。1便でJR加賀温泉駅前→吉崎御坊蓮如上人記念館バス停
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七不思議堂 | ||
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蓮如記念館 | ||
JR北陸本線・加賀温泉駅から30分ほどで蓮如記念館バス停に着く。バス停西側にある七不思議堂は、富山県砺波地方から明治14年(1881年)築の古民家(国指定登録有形文化財)を移築したもの。地元吉崎に残る蓮如伝説に因む展示館になっている。 |
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305号線を挟んだ南側に、吉崎郵便局 |
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吉崎郵便局風景印 | ||
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305号線を南西に進む。すぐのT字路交差点を南東方向に進むと、延享3年(1746年)創建の吉崎西別院(本願寺派) |
吉崎西別院山門 | 吉崎西別院本堂 | |
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吉崎東別院山門 | 吉崎東別院本堂 | 吉崎東別院宝物館 |
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北潟湖 | 吉崎御坊跡 | |
北 / 西 / 南 を北潟湖に囲まれた小高い丘に、文明3年(1471年)本願寺8世・蓮如が北陸における布教拠点として創建した吉崎御坊があった。往時は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び、寺内町を形成していた。文明7年(1475年)戦国の動乱で焼失すると、蓮如は吉崎を退去する。蓮如の吉崎御坊滞在は、僅か4年に過ぎない。 吉崎御坊は永正3年(1506年)朝倉氏は加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退け、吉崎の坊舎を破却した。 |
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親鸞は平安時代末期に浄土宗を開宗した法然に師事、法然の教えを広めた僧侶。 弘長2年(1262年) 11世・顕如のとき、大阪石山本願寺で織田信長と敵対する。顕如は和睦、退去して天正19年(1591年) |
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歎異抄(たんにしょう) 江戸時代から、親鸞の著作から知られる思想と歎異抄との相違が指摘されている。 |
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芭蕉が訪れたときは丸岡藩4万3千石の城下町で、丸岡藩4代・本多重昭が治めていた。 [交通]北陸本線・丸岡駅-(徒歩60分)-丸岡城-(バス40分)-北陸本線・福井駅 |
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丸岡城天守 | 望楼からの丸岡町 | 銃眼 / 物見窓 |
市街地東の小高い丘陵にある丸岡城は、天正4年(1576年)柴田勝家の甥・柴田勝豊が築城した。柴田勝豊が天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝が越前丸岡4万6000石を与えられた。青山宗勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。 慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの功により、徳川家康の次男・結城秀康が越前国67万石を与えられた。丸岡には結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。 慶長18年(1613年)鬼作左こと本多重次の嫡男・本多成重が4万石を与えられて入封、結城秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。寛永元年(1624年)松平忠直が豊後国に流罪となると、本多成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名となった。元禄8年(1695年)4代・本多重益のときお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わってキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入封する。明治4年(1871年)の廃藩置県まで、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。 |
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丸岡城天守(重文)は現存12天守の一つで、北陸地方で現存する唯一の天守である。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から、現存最古の天守と云われていた。調査により寛永年間(1624年〜1644年)竣工と判明した。屋根は珍しい石瓦で、笏谷石(しゃくだにいし)を使用している。各層に銃眼や物見窓が設けられている。石垣は“野づら積み”で、自然の石を積み上げている。昭和23年(1948年)福井大震災で倒壊したが、再建される。 小松市・興善寺 / あわら市・蓮正寺 / 丸岡町野中山王の民家 に城門が移築されている。珍しい五角形の内堀が廻らされていたが、埋め立てられている。 |
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丸岡城スタンプ | ||
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JR北陸本線・小松駅の西側を通る25号線を北に進む。360号線との細工町交差点を越えると、101号線になる。道は2車線道路と狭くなり、歩道もなくなる。JR小松駅前から15分ほどの右手に、文明7年(1475年)大島村(現:小松市大島町)に創建されたのが始まりの興善寺がある。山門は丸岡城の裏門を明治3年(1871年)移築したもの。 | |
興善寺山門 | ||
天龍寺は曹洞宗永平寺の末寺で、承応2年 |
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■元禄2年(1689年)8月10日 天龍寺→永平寺 |
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JR北陸本線・福井駅から直通バス・特急永平寺ライナーを利用、30分ほどで到着する。 |
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永平寺通用門 | ||
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永平寺中雀門 |
永平寺仏殿 |
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■元禄2年(1689年)8月11日 永平寺→福井 | ||
芭蕉が訪れた頃の福井は福井城の城下町で、越前国福井藩25万石7代藩主・松平昌明が治めていた。松平昌明は延宝2年(1674年)に5代藩主となった松平昌親で、延宝4年(1676年)に隠居している。6代藩主・松平綱昌が発狂、貞享3年(1686年)7代藩主に再任された。 | ||
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←福井駅スタンプ 歴史と観光 ふれあいの街。一乗谷朝倉氏遺跡の図柄。 福井駅スタンプ→ 越前六十八万石 永平寺 歴史ロマンあふれる駅。永平寺の図柄 |
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福井市のマンホールは、福井市のシンボルである不死鳥(フェニックス)の図柄になっている。 第二次世界大戦の空襲 / 地震 / 水害 から不死鳥のごとく復興したことなどから、不死鳥が福井市のシンボルになっている。 |
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内堀 | 春の内堀 | |
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石垣 | 本丸石塁 | 天守台 |
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御本城橋を渡ると、東側に結城秀康騎馬像がある。 御廊下橋は平成20年(2008年)に復元されたもの。 |
結城秀康騎馬像 | 御廊下橋 | |
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寛永元年(1624年)に福居、さらに福井と改名された。天守台の傍にある“福の井”は“福井”の由来となったと云われている。 |
福の井 | 建屋がなかった頃の福の井 | |
JR北陸本線・福井駅から北へ進むと、内堀に囲まれた福井城跡がある。文明3年(1471年)朝倉頼景が居館を築いたのが始まり。天正元年(1573年)織田信長によって朝倉氏は滅亡、天正3年(1575年)越前国を与えられた柴田勝家が北ノ庄城を築城する。天正11年(1584年)羽柴秀吉により落城、柴田勝家はお市の方とともに自刃する。 慶長6年(1601年)徳川家康の次男・結城秀康が越前国67万石で入封、北ノ庄城跡地に天下普請により築城する。結城秀康の嫡男・松平忠直は、大坂の陣での戦功の不満から幕府に反抗的態度を取る様になった。元和9年(1623年)松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流された。 本丸跡に、福井県庁 / 県会議事堂 / 県警察本部 / 公園 がある。本丸御殿の一部が、市内の瑞源寺に移築されている。柴田神社のあるところは、柴田勝家が築城した北ノ庄城本丸跡と云われている。 |
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東尋坊にはJR芦原温泉駅から、京福バス 89系統(金津・東尋坊線) また花火と書かれたコーンに棒が掛けられ、立ち入り禁止の張り紙が至る所にあった。後日調べてみると、8月11日に水中花火大会が行われていた。10日も経つのに、後 |
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東尋坊タワー | ||
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東尋坊の由来には様々あるが、現:福井県勝山市・平泉寺の悪僧・東尋坊に由来する伝承がある。寿永元年(1182年)東尋坊や覚念などの衆徒たちは、坂井港の勝地を探って安山岩の絶壁の上に酒宴を開いた。覚念は東尋坊に日頃の恨みを持った僧たちと共に、東尋坊が酒に酔ったところを見計らい絶壁へ連れ出して突き落した。 |
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東尋坊 | 雄島 | |
東尋坊から、北東4kmほどのところにある雄島(おしま) |
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本興寺門 | 本興寺 | |
JR北陸本線・武生駅前を通る196号線(北国街道)を北に進み、すぐのT字路を左折して西に進む。5分ほどすると、右手に延穂元年(1489年)創建の本興寺がある。この辺りは708年〜1100年代まで越前国府があったところで、約800m四方の範囲だったと云われている。 | ||
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長徳2年(996年)越前守に任官した藤原為時が家族を伴い赴任した。家族は廓内にある国主館に住んだと云われている。 |
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本興寺本堂 | ||
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紫式部ゆかりの紅梅 | 紫式部ゆかりの紅梅 | |
境内に“紫式部ゆかりの紅梅”がある。藤原為時の次女は京都に戻るときに、梅を植えたと云われている。植えた梅は白梅だったが、亡くなった後に娘・賢子(大弐三位)が母を偲んで紅梅を植えたと云われている。現在の紅梅は4代目で、樹齢200年を超える老木で高さ10mほどある。 | ||
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往路を戻り、すぐの十字路を右折して南に進む。5分ほどの十字路南東側に武生天王郵便局がある。風景印は、日野山 / 昭和42年(1967年)復元の金灯篭 / 菊人形 の図柄になっている。 武生天王郵便局から190号線を東に進む。2つ目の交差点を左折して196号線(北国街道)を北に進むと、すぐ右手に武生駅がある。 |
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武生天王郵便局 |
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■元禄2年(1689年)8月14日 敦賀に到着。気比の明神社に夜参する。16日まで敦賀に滞在した。 | ||
元禄2年(1689年)芭蕉が訪れたとき、敦賀藩(鞠山藩 / 1万石)初代・酒井忠稠が治めていた。敦賀藩は小浜藩2代藩主・酒井忠直の次男・酒井忠稠が1万石を分与された小浜藩の支藩である。藩庁は金ヶ崎城の北に位置する鞠山陣屋に置かれていた。 |
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←敦賀市マンホール 立石岬灯台 / 日本三大松原・気比の松原 の図柄。松は市木になっている。 敦賀市マンホール→ 満開の桜の木の図柄。 |
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JR北陸本線・敦賀駅スタンプ | ||
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ロマンチックな港町 敦賀。金ヶ崎山 / 敦賀港 / 町並み の図柄。 | 金ヶ崎山 / 敦賀港 / 町並み / 気比神宮例大祭で巡行する山車 の図柄。 | 敦賀港と気比神宮の駅。気比の松原 / 気比神宮 の図柄。 |
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JR北陸本線・敦賀駅より北西に進む。 |
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敦賀駅前郵便局風景印 | ||
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気比神宮中鳥居 | ||
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気比神宮大鳥居(重文) | 気比神宮外拝殿 | |
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白銀交差点から10分ほどの気比神宮交差点を越えた右手に、仲哀天皇8年(199年)創建と云われる気比神宮がある。古事記や日本書紀にも記事がある古社。北陸から畿内への入口に位置、北陸道総鎮守として朝廷から重視されていた。社殿のほとんどは第二次世界大戦の空襲で焼失、空襲を免れた大鳥居(重文)が残る。芭蕉は「奥のほそ道」で、元禄2年(1689年)8月14日〜16日敦賀に滞在した。 |
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気比神宮絵馬 | ||
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気比神宮交差点を越えた左手に、銅像 / お砂持ち神事案内板 がある。承安3年(1301年)当時は、気比神宮辺りまで入江であった。時宗遊行上人・他阿真教が敦賀を訪れたとき、気比神宮西門前の参道、周辺が沼地となって参拝者が難儀していた。上人自らが先頭に立ち、浜から砂を運んで |
お砂持ち神事銅像 | ||
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お砂持ち神事案内板からすぐ左手に敦賀郵便局がある。風景印は、気比の松原 / 松原海水浴場 の図柄になっている。 |
敦賀郵便局風景印 | ||
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すぐの元町交差点を直進して8号線を北東に進む。すぐの曙交差点を左折すると、すぐ右手に寛和年間(985年〜987年)創建の天満神社がある。 |
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天満神社 | ||
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天満神社角の交差点に標識があり、右折して北東に進む。5分ほどすると、平成21年(2009年)に休止となったJR敦賀港線の踏切を越える。遮断機や警報機は撤去され、線路側に固定柵が設置されている。踏切から旧敦賀港駅方向に、 |
JR敦賀港線 | 金ヶ崎山 | |
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すぐ左手に天平8年(736年)創建の金前寺がある。織田信長による越前攻めで金ヶ崎城が落城したときの兵火 / 昭和20年(1945年)敦賀空襲
により焼失した。 |
金前寺 | 金ヶ崎跡・天筒山城跡碑 | |
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金前寺境内沿いに西に進む。北西に曲がる左手に、明治15年(1882年)に竣工した敦賀港駅ランプ小屋が移築されている。旧長浜駅舎とともに国内における最古の鉄道建築物になっている。ランプ小屋は、列車に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫。かつては主要な駅に存在した。電灯に変わるなど用途がなくなり、急速にその姿を消していった。 |
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敦賀港駅ランプ小屋 | ||
金ヶ崎跡 | ||
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登り坂から石段になり、すぐ右手に愛宕神社がある。 | |
愛宕神社 | ||
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金崎宮拝殿 | 金崎宮本殿 | |
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絹掛神社 | 金ヶ崎跡碑 | 絵馬 |
敦賀港駅ランプ小屋から5分ほどのところに、明治23年(1890年)創建の金崎宮(かねがさきぐう)がある。 |
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金崎宮境内からの眺望 | ||
金崎宮境内からは、手前に旧敦賀港駅跡 / 中央に煉瓦倉庫 / 市街地 が眺望できる。 |
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金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した海抜86mの金ヶ崎山に築かれた山城である。治承4年(1180年)〜元暦2年(1185年)の治承・寿永の乱のとき、平通盛が木曾義仲との戦いのために築城したと云われている。 延元元年 / 建武3年(1336年)南朝方の新田義貞は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じて気比氏治の居城であった金ヶ崎城に入城する。北朝方の越前守護・斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされ、飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ延元2年 / 建武4年(1337年)落城する。尊良親王 / 新田義貞の嫡男・新田義顕は自害、恒良親王は捕縛される。 延元3年 / 暦応元年(1338年)新田義貞が奪還するが、足利方の越前平定により越前守護代・甲斐氏の一族が守備する。 元亀元年(1570年)織田信長は朝倉義景攻めのとき、朝倉景恒は織田信長に対し開城する。次いで越前に進軍しようとしたとき、同盟関係にあった近江・浅井氏が裏切り朝倉氏に味方する。 |
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月見御殿址 | 月見櫓跡からの眺望 | |
月見櫓跡までの登り坂の途中に、尊良親王御墓所見込地がある。安政年間(1855年〜1860年)経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒 / 円鏡
/ 椀 が出土した。明治時代に尊良親王御墓所見込地碑が造立された。 |
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敦賀赤レンガ館 | キハ28形 | |
金前寺から南に進み、JR敦賀港線の踏切を越えて道を戻る。すぐのT字路を右折して西に進むと、すぐ左手に敦賀赤レンガ館がある。 |
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コンテナが積まれている旧敦賀港駅構内 | ||
敦賀赤レンガ館から西側にある敦賀港は近いが、 |
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敦賀ムゼウム | 敦賀港 | |
旧敦賀港駅からUターンする様に南に進むと、すぐ右手に「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。ムゼウムとは、ポーランド語で資料館を意味する。杉原千畝(すぎはら ちうね)は外務省職員で、昭和14年(1939年)〜昭和15年(1940年)リトアニアのカウナス日本領事館領事代理に赴任していた。ナチス・ドイツの迫害により、リトアニアには欧州各地から避難民が逃れてきていた。外務省からの訓令に反して、昭和15年(1940年)7月〜8月の間に日本を通過する大量のビザ(通過査証)を発行した。ユダヤ人を中心に6000人以上の避難民にビザ発給、救ったことで知られる。リトアニアからシベリア鉄道でウラジオストックまで9000km、さらにウラジオストックから船で荒れた冬の日本海を3日間掛けて敦賀港に到着した。敦賀市は難民を受け入れ、ここから安住の地への出発が始った。敦賀ムゼウムには、ビザの写し
/ ユダヤ人の歴史や感謝のしるし が展示されている。 |
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敦賀ムゼウムから南に進むと、鉄道資料館 |
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鉄道資料館 | ||
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鉄道資料館から南西に進む。すぐの交差点南西側の市民センター前に、「国々の 八景更に 気比の月」句碑 / 芭蕉翁月塚石柱 が有る。 |
芭蕉句碑 | 芭蕉翁月塚石柱 | |
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