奥の細道 矢吹宿〜須坂温泉〜松島〜平泉

■元禄2年(1689年)4月22日 矢吹宿→須賀川宿(8泊) / 4月29日 須賀川宿→郡山 / 5月1日 郡山→福島

■元禄2年(1689年)5月2日 福島→飯坂温泉
飯坂温泉に着いた芭蕉は、鯖湖
(さばこ)湯に入浴したとされる。
芭蕉と曽良 入浴の地 石柱 鯖湖碑 お湯かけ薬師
木造の湯樽塔 鯖湖湯
福島交通・飯坂温泉駅北側の交差点を左折して、湯沢通りを北西に進む。10分ほどの左手に、「芭蕉と曽良 入浴の地」石柱 / 芭蕉と曽良の案内板 / 鯖湖の碑 / お湯かけ薬師 / 鯖湖湯 と続く。
芭蕉と曽良の案内板には、入浴してから宿を探したことが記されている。見つかった宿は、土間に筵を敷いただけの薄汚い貧乏家だった。灯火はなく、囲炉裏のそばに寝床を取って寝た。夜になって雷雨がひどく、寝ているところに雨が漏れてくる。蚤や蚊にくわれて眠られなかった記載がある。
鯖湖湯は、飯坂温泉発祥の湯とされる。日本最古の木造共同浴場建造物であったが、平成5年(1993年)に改築された。芭蕉が訪れた頃の飯坂温泉宿の風呂は、共同浴場だった。現在でも飯坂温泉には、共同浴場が9ヶ所ある。入浴料金は、波来湯のみ大人300円 / 波来湯以外大人200円 (2023年5月現在)である。正岡子規 / 与謝野晶子 / ヘレン・ケラー も利用している。
鯖湖湯中心に、中央に鯖湖湯 / 飯坂温泉発祥の地の文字 / 外周に福島果物(リンゴ・モモ・サクランボ・梨)の図柄のマンホールがある。
飯坂町マンホール
旧堀切邸表門 旧堀切邸主屋 旧堀切邸十間蔵
鯖湖湯の北方向に、江戸時代の豪農・豪商だった旧堀切邸の下蔵が見える。敷地面積は約1230坪で、明治13年(1880年)の火災以前は現在の約2倍の敷地面積であった。明治14年(1881年)築の主屋 / 安永4年(1775年)築の十間蔵(県内最古・最大の土蔵) / 旧堀切邸下蔵 / 明治20年(1887年)頃築の新蔵 / 明治13年(1880年)の火災以前から建つ中の蔵と道具蔵 / 平成22年(2010年)築の下蔵と詠帰亭 / 源泉かけ流しの足湯・手湯 がある。明和元年(1764年)白河藩から堀切姓を許される。
旧堀切邸裏門側の塀

■元禄2年(1689年)5月3日 飯坂温泉→白石 / 5月4日 白石→仙台(4泊) / 5月8日 仙台→多賀城→鹽竈(しおがま)

多賀城政庁跡への階段 多賀城政庁跡 多賀城南門跡
多賀城(多賀柵 / 多賀国府)はJR東北本線・国府多賀城の北西方向にあり、駅前から道標に従って進む。神亀元年(724年)に築かれたと云われる多賀城には、陸奥国(現:岩手県 / 宮城県 / 福島県)の国府が置かれていた。出羽按察使(あぜちつか)が配置され、出羽国(現:秋田県 / 山形県)も統轄していた。奈良〜平安時代の東北地方における政治 / 軍事 / 文化 の中心地だったが、南北朝時代(1336年〜1392年)から荒廃したと云われている。
多賀城南門跡のすぐ傍に、天平宝字6年(762年)造立と云われる壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれる多賀城碑(重文)がある。壺碑は平安時代の終わり頃からの歌枕で、江戸時代初期に発見された。砂岩を加工して碑面を造り文字を彫刻しており、覆屋(おおいや)で保護されている。
芭蕉は「泪
(なみだ)も落つるばかり也」と変わらぬ姿に感動している。
奈良・平城宮跡や福岡・太宰府跡とともに、日本三大史跡に数えられている。
多賀城碑
鹽竈に到着した芭蕉は、鹽竈神社裏坂の治兵衛の宿に泊まった。
■元禄2年(1689年)5月9日 鹽竈神社→松島
鹽竈神社は、JR仙石線・本塩釜駅の西方向の一森(いちもり)山(標高55m)の頂上にある。塩竈湾を東に望む高台に位置している。裏坂の鳥居まで、本塩釜駅より10分足らずである。鹽竈神社の参道は、表坂 / 七曲り坂 / 裏坂 がある。
JR仙石線・本塩釜駅スタンプ JR仙石線・本塩釜駅スタンプ

本塩釜駅より北に進み、すぐの交差点を左折する。さらにすぐの交差点を右折して北に進み川を渡ると、右手に塩釜駅前郵便局がある。風景印は、遊覧船 / 塩釜港 / マリンゲート塩釜 / ガス燈 / 市花・白菊 の図柄になっている。

塩釜駅前郵便局が風景印
鹽竈神社表坂 鹽竈神社七曲り坂
表坂は石鳥居から随神門まで202段の急勾配の石段を登る。石鳥居は寛文3年(1663年)に伊達綱村によって造立され、現在の社殿より早い時期のもの。芭蕉は奥の細道で、「宮柱ふとしく 彩椽(さいてん)きらびやかに」と記している。七曲り坂は塩を煮るために海辺へ通った道で、奈良時代から続く参道。七折りしていることが由来になっている。
鹽竈神社裏坂 五重石灯籠 志波彦神社の鳥居
四季桜
製塩に用いた塩窯 えびや茶屋

裏坂は緩やかな階段道で、五重石灯籠を経て志波彦神社の鳥居 / 製塩に用いた塩窯 / えびや茶屋 / 四季桜 のところに出る。五重石灯籠 には二匹の狛犬が乗っている。
幼稚園から小学校3年生まで塩釜に住んでおり、志波彦神社の鳥居がある辺りは授業の写生でたびたび訪れていたところ。えびや茶屋は団子屋で、当時既に存在していた老舗。四季桜はヒガンザクラの一品種で、10月頃に開花して4月頃まで咲き続ける

鹽竈神社東神門
鹽竈神社唐門と回廊 鹽竈神社随身門
鹽竈神社は、日本神話に登場する塩土老翁神(しおつちおじ)が製塩を教えたことに始まる伝承がある。弘仁11年(820年)に編纂された弘仁式に記載されたのが初見とされる。陸奥国一宮で、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。
社殿は元禄8年(1695年)仙台藩4代藩主・伊達綱村が造営に着手、5代藩主・伊達吉村のときの宝永元年(1704)に竣工した。拝殿は,寛文3年(1663年)拝殿を再用している。社殿14棟と表坂鳥居は重文。
鹽竈神社左右宮拝殿

塩竈みなと祭は毎年7月第3月曜日(海の日)に実施される祭りで、広島・厳島神社の管絃祭 / 神奈川県真鶴町・貴船神社の貴船まつり とともに日本三大船祭りとされている。

境内に文治神籠がある。文治3年(1187年)鹽竈神社を崇敬する奥州藤原三代・藤原秀衡の三男・藤原忠衡が、奥州藤原家と源義経の平穏を祈願して燈籠を寄進した。
平家を打倒した源義経は源頼朝と対立する。文治3年(1187年)奥州藤原氏3代・藤原秀衡を頼り奥州平泉に逃れ、高館(
たかだち / 衣河館)を与えられたと云われている。同年に藤原秀衡が死去する。文治5年(1189年)奥州藤原氏4代・藤原泰衡は源頼朝の源義経引渡要求の圧力に耐えかねて急襲、源義経は正室・郷御前と4歳の娘を道連れに31歳で自害した。藤原忠衡は父の遺言を守り最後まで源義経を守護したため、兄・藤原泰衡に討たれる。源頼朝は奥州に出兵、藤原泰衡は家臣の造反により殺されて奥州藤原氏は滅んだ。
文治神籠
奥の細道には、この燈籠に感銘を受け「渠(かれ)は勇義忠孝の士なり。佳名今に至りてしたはずと言う事なし」と記している。

境内にある銅鉄合製文化灯籠は、文化6年(1809年)仙台藩9代藩主・伊達周宗が幕府から命じられた蝦夷地警護を完遂したことから奉納されたもの。銅と鉄が複合された燈籠で、鳳凰や龍など縁起の良い霊獣や花 / 鳥の精緻な意匠が施されている。

銅鉄合製文化灯籠
志波彦神社は、宮城郡岩切村(現:仙台市岩切)の冠川の畔にあった延喜式神名帳に記載されている式内社。明治7年(1874年)鹽竈神社の境内に移された。
志波彦神社神門 志波彦神社拝殿

丹六園 / 味噌屋・太田與八郎商店 / ポケットパーク

鹽竈神社を参拝した芭蕉は、船で籬島などを眺めながら松島へ向かった。本塩釜駅より鹽竈神社に向かう途中、5分余のところに“芭蕉船出の地”がある。往時はこの辺りまで海岸線であった。1720年頃創業の廻船問屋が始まりの丹六園 / 弘化2年(1845年)創業の味噌屋・太田與八郎商店 の東側がポケットパークになっており、案内板がある。
幼稚園から小学校3年生まで塩釜に住んでいた頃、小遣いで買える食べ物は駄菓子 / 焼き芋 / お好み焼き だった。焼き芋 / お好み焼き は払える金額に合わせて切ってくれた。丹六園の“志ほがま”は高級品で、めったに食べれる物ではなかった。
芭蕉船出の地
松島湾に浮かぶ島々
松島はかつて八百島と呼ばれ、大小の島々が松島湾に浮かんでいた。芭蕉は奥の細道で「扶桑第一の好風にして 几洞庭 西湖を恥ず」と記している。芭蕉は「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」と、ここでは句を残さなかった。「松島や ああ松島や 松島や」は、後世の創作である。曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。
宮津・天橋立 / 広島・宮島(厳島)とともに日本三景になっている。
幼稚園から小学校3年生まで塩釜に住んでおり、遠足と言えば松島だった。
遊覧船
JR仙石線・松島海岸駅スタンプ JR仙石線・松島海岸駅スタンプ 五大堂スタンプ
JR東北本線・松島駅とJR仙石線・松島海岸駅が最寄り駅となるが、五大堂や瑞巌寺は松島海岸駅の方が近い。五大堂は徒歩10分足らず / 瑞巌寺は徒歩5分余り である。
五大堂のある小島
すかし橋 五大堂
五大堂は松島を代表する建物で、大同2年(807年)坂上田村麻呂が東征のとき毘沙門堂を建立したのが始まり。後に慈覚大師円仁が木造五大明王像を安置したことから五大堂と呼ばれる様になった。現在の建物は慶長9年(1604年)伊達政宗が再建したもので、東北地方最古の桃山建築と云われる重文。秘仏とされる平安時代中期作の木造五大明王像(重文)は、33年周期で開帳される。次回は2039年になる。
瑞巌寺は天長5年(828年)慈覚大師円仁が延福寺を創建したのが始まりとされる。戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。江戸時代に入り、松島を含む仙台藩を領した伊達政宗が慶長9年(1604年)〜慶長14年(1609年)に本堂(国宝)などの伽藍を造営した。このとき、松島青龍山瑞巌円福禅寺と改称した。古くは松島寺とも通称された。瑞巌寺は仙台藩の歴代藩主である伊達氏が大神主となって保護し隆盛を極めた。
瑞巌寺山門
 
参道 拝観券
瑞巌寺山門から長く伸びる参道の両脇は、杉木立に覆われていた。平成23年(2011年)3月の東日本大震災により、津波が境内に到達して参道の杉木立の多くが枯死した。料金所手前左手に、文久3年(1863「年)鋳造の延命地蔵がある。
延命地蔵
中門(重文) 本堂(国宝)
明治維新後に神仏分離令を発令され、廃仏毀釈運動が起こった。瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、付属の建物の多く荒廃して失われた。明治9年(1876年)に明治天皇東北巡幸の際に下賜金があり、徐々に財政難を脱していった。平成20年(2008年)から平成30年(2018年)まで平成の大修理が行われた。
庫裏(国宝)
松島郵便局風景印 松島海岸郵便局風景印 松島町マンホール

松島郵便局風景印は、松島湾 / 瑞巌寺本堂と庫裏 / 芭蕉と曽良 の図柄。松島海岸郵便局風景印は、松島湾 / 五大堂 の図柄。松島町マンホールは。松島湾 / 五大堂 の図柄。道路の柵は、五大堂の図柄。とそれぞれなっている。

道路の柵
■元禄2年(1689年)5月10日 松島→石巻 / 5月11日 石巻→戸伊摩 / 5月12日 戸伊摩→一ノ関 / 5月13日 一ノ関→平泉
平泉は、奥州藤原氏4代(清衡 / 基衡 / 秀衡 / 泰衡)が約100年に渡り華やかな文化が栄えたところである。藤原清衡創建の中尊寺 / 藤原基衡創建の毛越寺(もうつうじ) / 藤原基衡夫人創建の観自在王院 / 藤原秀衡創建の無量光院 があったが、往時を偲ぶものは金色堂(国宝)と毛越寺浄土庭園しかない。
平泉は奥の細道の折り返し地点に辺り、芭蕉は藤原三代の栄華を偲んだ。杜甫の詩・春望「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」を踏まえて、「夏草や 兵
(つはもの)どもが 夢のあと」と「五月雨の 降り残してや 光堂」を詠んだ。
JR東北本線・平泉駅 JR東北本線・平泉駅 JR東北本線・平泉駅
JR東北本線・平泉駅より31号線(毛越寺通り)を西に進む。5分足らずの十字路を右折して北に進むと、すぐ右手に平泉郵便局がある。風景印は、中尊寺金色堂の図柄になっている。
平泉郵便局風景印
31号線(毛越寺通り)まで戻り西に進む。5分ほどすると、突き当りに毛越寺山門がある。毛越寺山門は、大正10年(1921年)一関城の大手門を移築したもの。
毛越寺山門(移築城門
毛越寺拝観券 毛越寺スタンプ 毛越寺スタンプ
毛越寺は、嘉祥3年(850年)藤原基衡によって中尊寺と同年に創建された。創建時は中尊寺をしのぐ規模だったと云われている。火災や兵火 により荒廃、寛文年間(1661年〜1672年)には水田になっていた。平成元年(1989年)平安時代の本堂が再建された。
毛越寺本堂 毛越寺浄土庭園
JR東北本線・平泉駅より西に進む。すぐの十字路を右折して、110号線(中尊寺通り)を北に進む。すぐにJR東北本線の踏切を渡ると、左手にある無量光院跡では発掘が行われている。無量光院は、奥州藤原氏3代・藤原秀衡が京都の平等院を模して創建した。往時は平等院の規模を上回る煌びやかな寺院であったが、奥州藤原氏の滅亡以降の度重なる火災で焼失した。吾妻鏡には、無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。土塁 / 礎石 / 池跡 が残るが、立ち入ることはできない。
無量光院跡
標識 階段

無量光院跡から10分ほどすると右手に標識があり、右折して坂を登る。次いで階段を登ると、左手に郭 / 中央に階段 / 右手に事務所がある。高館(たかだち)義経堂は入山券(大人300円)が必要である。
JR東北本線・平泉駅から高館義経堂事務所まで 20分ほど掛かる。

高館義経堂入山券
突き当りからの眺望  
義経堂のある高台の郭 義経堂 宝篋印塔
階段を登り突き当りを左に進むと郭があり、階段を登ると義経堂(ぎけいどう) / 宝篋印塔(ほうきょういんとう) がある。義経堂は天和3年(1683年)仙台藩4代藩主・伊達綱村が甲冑姿の義経の木像を収めて建立した。宝篋印塔は、藤原秀衡 / 源義経 / 武蔵坊弁慶 の供養のために昭和61年(1986年)に造立された。義経堂周囲は木々に囲まれ、階段越しに北上川 / を束稲山(たばしねやま) が眺められる。
義経堂のある高台からの眺望
突き当りを右に進むと、高館(衣河館)があった郭に芭蕉句碑がある。郭が狭いのは、北上川によって大幅に浸蝕されたためである。
高館(衣河館)があった郭  芭蕉句碑

寛治元年(1087年)奥六郡を領する勢力者となった藤原清衡は、嘉保年間(1094年〜1096年)頃から磐井郡平泉を居館とした。嘉承3年(1108年)に中尊寺造営を開始、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。高館は藤原清衡の時代から要害とされていたと云われている。
平家を打倒した源義経は源頼朝と対立する。文治3年(1187年)奥州藤原氏3代・藤原秀衡を頼り奥州平泉に逃れ、ここに居館(衣河館)を与えられたと云われている。文治5年(1189年)奥州藤原氏4代・藤原泰衡は源頼朝の源義経引渡要求の圧力に耐えかねて急襲、源義経は正室・郷御前と4歳の娘を道連れに31歳で自害した。源頼朝は奥州に出兵、藤原泰衡は家臣の造反により殺されて奥州藤原氏は滅んだ。

西行(1118年〜1190年)は、20代後半の頃と文治2年(1186年)に平泉を訪れている。文治2年(1186年)は、東大寺再建のための砂金勧請に奥州藤原氏3代・藤原秀衡を訪ねたとき。山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠んだ。
芭蕉が「夏草や 兵
(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んだのはこの場所とされる。

中尊寺簡易郵便局風景印 世界遺産平泉ポスト 世界遺産平泉ポスト側面
110号線(中尊寺通り)に戻り北西に進む。すぐにJR東北本線の踏切を渡ると、300号線と交差する左手に中尊寺簡易郵便局がある。風景印は、中尊寺金色堂の図柄になっている。平泉郵便局風景印との違いは、局名だけである。重厚な紺色の世界遺産平泉ポストがある。
中尊寺簡易郵便局から北西方向に進むと、すぐに中尊寺参道がある。中尊寺は標高130mほどの東西に長い丘陵に位置しており、月見坂は古くから参拝者の表参道として利用されてきた。
平泉スタンプ 中尊寺スタンプ
中尊寺は、嘉祥3年(850年)藤原清衡によって毛越寺と同年に創建された。
金色堂
(こんじきどう)は藤原清衡が建立した阿弥陀堂で、天治元年(1124年)の上棟。建物の内外を総金箔張りとなっていることから、この名がある。現在は鉄筋コンクリート造の覆堂内にある。藤原清衡が廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡 / 基衡 / 秀衡 3代の遺体(ミイラ)が安置されている。
金色堂覆堂