奥の細道 鼠ヶ関→弥彦→出雲崎→高岡

■元禄2年(1689年)6月18日 象潟→酒田 7泊 / 6月25 酒田→鶴岡 / 6月26日 鶴岡→浜温海(はまあつみ) / 6月27日 浜温海→鼠ヶ関(ねずがせき)→山北(さんぽく)

念珠の松
JR羽越本線・鼠ヶ関駅から線路沿いに北へ道なりに進む。すぐの「念珠の松」標識を左折すると、すぐ右手に念珠の松庭園(有料施設)がある。庄内に酒井忠勝が入封した元和8年(1622年)頃、村上屋旅館・佐藤茂右エ門が盆栽の松を庭に地植えした黒松。村上屋旅館は、昭和35年(1960年)に廃業している。
史蹟念珠関址碑 念珠関址
「念珠の松」標識まで戻り、北へ道なりに進む。10分ほどの鶴岡市鼠ヶ関交差点の北東側の7号線沿いに「史蹟念珠関址」碑がある。庄内に酒井忠勝が入封した元和8年(1622年)以後に羽州浜街道に設けられ、明治5年(1872年)に廃止された関所址。古代鼠ヶ関址に対し、近世念珠関(ねずがせき)址と呼ばれている。
鼠ヶ関は古代の奥州との国境に設けられた関所。白河の関(しらかわのせき) / 勿来関(なこそのせき) とともに奥州三関と云われた歌枕の地。芭蕉が訪問した頃は近世念珠関があったが、未だ古代鼠ヶ関址は見つかっていなかった。
芭蕉と曾良は、浜温海から別行動になっている。芭蕉は海岸線を下って鼠の関を通り / 曾良は温海川
(あつみがわ)に沿って湯温海を通り 山北で落ち合った。 鼠ヶ関を越えると越後の地になるが、芭蕉が鼠ヶ関で詠んだか解っていない。
象潟辺りから暑さと雨にたたられ、曾良は体調不良で旅の様子を記せなかった。
JR羽越本線・鼠ヶ関駅から線路沿いに南へ進むと、5分足らずの右手に古代鼠ヶ関址碑 / 案内板 がある。昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、存在が確認されたところ。新潟県と山形県の県境付近にある。鼠ヶ関は奈良時代に設けられた蝦夷防備のための前線基地で、平安時代(794年〜1185年)中期から末期の頃に閉鎖されたと云われている。元和8年(1622年)以後に羽州浜街道に設けられた近世念珠関(ねずがせき)址と比較すると、扱いが淋しい。
古代鼠ヶ関址碑
古代鼠ヶ関址碑から道なりに港方向に進むと、すぐのT字路手前左手に新潟県と山形県の県境碑がある。漁村の集落にある県境は、北側が山形県鶴岡市 / 南側が新潟県村上市 になる。鼠ヶ関は平成17年(2005年)の合併で。鶴岡市になっている。記念スタンプが設置されている。
県境碑 記念スタンプ
源義経上陸の地碑
弁天島 鼠ヶ関郵便局風景印
T字路を右折して北へ進むと、すぐ左手に鼠ヶ関マリーナ / 道を挟んだ右手に「源義経上陸の地」碑 がある。源義経は源頼朝の追討を逃れ京から奥州平泉に向かう途中、 能登半島から佐渡を経て鼠ヶ関に上陸したと云われている。弁天島は鼠ヶ関海岸にある島で、昔は干潮時のみ陸続きになっていた。現在は陸続きになっている。海に突き出した弁天島には灯台が設置されている。鼠ヶ関港は、江戸時代には北前船が寄港する港でもあった。
鼠ヶ関郵便局の風景印は、鼠ヶ関海岸 / 弁天島 / 厳島神社鳥居 / 鯛 の図柄になっている。

■元禄2年(1689年)6月28日 山北→村上 2泊

当時の村上は、村上藩2代・榊原政邦15万石の城下町であった。芭蕉と曽良は宿を取ると、村上城中に家老・榊原帯刀を訪ねた。榊原帯刀は曽良がかつて仕えていた伊勢国長島藩初代藩主・松平康尚の4男で、越後高田藩榊原家の家老・榊原直久の養子となった。翌日、榊原帯刀から金百疋(現在の貨幣価値で10万円程度)が届けられた。
古峯神社 藤基神社神門 藤基神社
JR羽越本線・村上駅から530号線を東へ進むと、20分ほどの左手に古峯神社がある。往時はここに村上城(舞鶴城 / 本庄城)飯野門があった。村上城の三ノ丸には、北から順に山辺里門 / 大手門 / 飯野門 が設けられていた。飯野門は米沢街道から村上城下に入った旅人が、最初に目にする門であった。飯野門跡の30号線を挟んだ南側の三の丸跡に、享保2年(1717年)創建の藤基(ふじも)神社がある。徳川家康の異母弟とされる内藤信成と歴代城主を祀る。
村上城址登城口 石柱 四ツ門跡付近 黒門跡付近
本丸石垣 本丸 多聞櫓跡
飯野門跡からすぐの突き当りを左折、次の交差点に標識があり右折する。突き当りに村上城址登城口がある。
[交通]JR羽越本線・村上駅-(徒歩20分)-村上城飯野門跡-(徒歩20分)-本丸
明応年間(1492年〜1501年)村上に居所を移した本庄房長が、標高135mの臥牛山に築城した。木柵で防御された中世式の城郭であった。慶長3年(1598年)領主となった村上頼勝が近世城郭への改築工事を行い、元和4年(1618年)領主となった堀直寄の時代に完成した。戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で分裂する。慶応4年(1868年)親幕府派の藩士が火を放って庄内方面へ脱出、庄内藩兵と合流し新政府軍と羽越国境で交戦した。明治4年(1871年)に廃城となり、明治8年(1875年)までに焼け残っていた建築物は解体・売却された。

■元禄2年(1689年)7月1日 村上築地(ついじ)/ 7月2日 築地→新潟

芭蕉が訪れた頃の新潟町は、信濃川 / 阿賀野川 水系に領分を持つ諸藩や幕領の回米積み出しにも使われていた地であった。明暦元年(1655年)の移転後に西回り航路が整備され、元禄年間(1688年〜1704年)には日本海側最大の港町となった。
古い家並み
■元禄2年(1689年)7月3日 新潟→弥彦
弥彦駅駅舎 弥彦駅スタンプ
弥彦線は、弥彦駅から東三条駅を結ぶ路線。越後一の宮・彌彦神社への参詣客輸送のため、大正5年(1916年)弥彦駅〜西吉田駅(現:吉田駅)が越後鉄道によって開業する。翌年に弥彦神社社殿を模した木造駅舎(現駅舎)が竣工した。
弥彦駅スタンプ
弥彦神社鳥居
弥彦神社神門 弥彦神社拝殿

式内社 / 越後国一宮 である弥彦神社は越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓にあり、弥彦山が神体山。万葉集にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰された。神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬され、源義家 / 源義経 / 上杉謙信 などに所縁と伝えられる武具などが社宝となっている。社殿は大正5年(1916年)に再建されたもの。

弥彦山ロープウェイ往復乗車券 弥彦山ロープウェイスタンプ
昭和33年(1958年)開業の弥彦山ロープウェイ は、弥彦山山麓から高低差420mを5分で結んでいる。
ロープウェイからの越後平野眺望
御神廟鳥居 御神廟 弥彦山頂からの眺望
弥彦山頂に御神廟(奥の宮) があ、天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。
■元禄2年(1689年)7月4日 弥彦→出雲崎
JR越後線・出雲崎駅から大門交差点を左折して南西に進む。5分ほどすると352号線と合流、西に曲がりくねったアップダウンのある道を道なりに進む。“良寛と夕日の丘公園”への分岐手前左手に、浄玄寺がある。良寛の末の妹・みかが嫁いだ寺で、往時は海沿いにあったが平成26年(2014年)に移転した。
浄玄寺
町並みが見えるところで道は大きく左に進路を変え、下り坂になる。さらに大きく右に進路を変え、良寛堂の左手に出る。
出雲崎の町並み
良寛堂は良寛の生家・橘屋の屋敷跡にある。良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。宝暦8年(1758年)出雲崎の名主・橘屋の長男子として生まれた。良寛は跡を継ぐために名主見習いをしたが、見習い2年目の18歳の時に光照寺で修行を始めた。この年は全国各地で米騒動が頻発、越後でも天災 / 悪疫 / 凶作によって餓死者を出していた。年貢の厳しさで貧しい暮らしに苦しめられた人たちが反抗、米騒動の首謀者はみせしめに処刑された。獄門での首切りの立会い が嫌で、出家の動機と云われている。
芭蕉が訪れたとき、良寛は生まれていなかった。
良寛堂
出雲崎は徳川幕府の直轄地(天領)で、北国街道の宿場町 / 佐渡金山の荷揚げ / 北前船の寄港地 として賑わった。佐渡で産出した金銀は出雲崎に陸揚げされ、北国街道を経由して江戸へ輸送された。出雲崎宿は日本海と小高い丘に挟まれた細長い平地にあり、約4kmに及んでいた。道の両脇に“妻入り家屋”が軒を連ねていた。“妻入り家屋”とは、建物の正面玄関が妻側(短い壁側)にあって奥行きが長い構造の建物。往時は間口広さに応じて屋敷税が掛けられていたため、この様な街並みになった。
江戸時代の出雲崎は北国街道屈指の宿場町で、人口は約2万人もいたと云われている。越後随一の人口密度を誇り、経済の中心地だった。
北国街道沿いの妻入り家屋
良寛堂から北国街道を北東に進むと、左手に遊郭建築物がある。
遊郭建築物(左側)
良寛堂の左手に出た352号線は、海岸の住吉町交差点に突き当たる。352号線は南西に進み、北東に進む道は402号線になる。402号線を北東に進むと出雲崎港郵便局がある。風景印は、良寛堂の図柄になっている。
出雲崎港郵便局風景印
石井神社への階段 住吉神社
良寛堂から北国街道を南西に進むと、すぐ左手に石井神社の摂社・住吉神社がある。石井神社は和銅4年(712年)佐渡から移転した出雲崎町の総社。住吉神社左手の長い石段を登ったところにある。石井神社と同じく、日本海に近い丘には寺社があるが、丘を渡り歩くことはできない。
芭蕉園 / 銀河の序を刻んだ碑(中央) 芭蕉像
住吉神社からすぐの左手に芭蕉園がある。元禄2(1689年)7月4日 弥彦を発った芭蕉は出雲崎に着いて1泊、7月5日には出雲崎宿から次の鉢崎宿に向かっている。ここは芭蕉が宿泊した大崎屋跡の向かいにあり、良寛の生家・橘屋と権力争いをした廻船問屋・敦賀屋の跡地である。出雲崎は「荒海や 佐渡によこたふ天の河」の詩想が生まれた地で、直江津・聴信寺で詠んだ。芭蕉園には、銀河の序を刻んだ碑 / 芭蕉像 / 東屋 がある。
北国街道妻入り会館 出雲崎寄港地の町家 出雲崎尼瀬郵便局風景印
芭蕉園から10分ほどすると、左手に出雲崎尼瀬(あまぜ)郵便局がある。風景印は、石油機械掘第一号井 / 記念碑 の図柄になっている。
出雲崎町尼瀬の沖合は、昔から海面に石油が浮き出ていた。明治の初めにランプが使われる様になり、石油の需要が高まった。活発に採掘が行われたが、僅かしか採れなかった。明治23(1890年)米国から輸入した綱掘
(つなぼり)式掘さく機で井戸を掘り、明治24年(1891年)掘削に成功した。この第一号井戸は国内初の石油機械掘りで、近代石油産業の発祥を伝えるものとなっている。
出雲崎のマンホール

出雲崎おけさを踊る女性 / 日本海の荒波と沈む夕日 / 油田の鉄塔 / 生産量日本一の紙風船 の図柄。

波模様の背景 / 江戸時代から正月の行事として行われてきた獅子舞 の図柄。
出雲崎尼瀬郵便局を過ぎると、風情ある妻入り家屋の町並みが続く。
出雲崎尼瀬郵便局から10分ほどの左手にポケットパークがあり、すぐのT字路を左折して坂を登ると右手に出雲崎代官所跡がある。出雲崎は元和2年(1616年)徳川幕府の天領となり、代官所が置かれた。何回か移転したが、ここが最後の代官所であった。
出雲崎代官所跡 出雲崎代官所跡碑
最初は良寛の生家・橘屋に近くで町の中央に位置、上杉氏時代の陣屋(秋田屋敷)にあった。寛永2年(1624年)京屋与右衛門家があった尼瀬町の稲荷町 / 享保9年(1724年)地滑りで被害を受け出雲崎の羽黒町 / 宝暦13年(1763年)再び尼瀬町の稲荷町 / 文化5年(1808年)地滑りで同じ尼瀬町内の現在地 に移転した。
元禄2年(1689年)7月5日 芭蕉が訪れたときは、京屋与右衛門家があった尼瀬町の稲荷町にあった。
出雲崎代官所獄門跡 石柱 尼瀬獄門跡 供養塔
代官所から北国街道に戻り、南西に進むと5分ほどの左手に尼瀬獄門跡がある。代官所の附属機関として牢屋も造られ、尼瀬獄門は極刑の執行をする刑場であった。数多くの斬首がなされ、重罪人の生首は浜辺に晒されたと云われている。地蔵堂 / 天明3年(1783年)造立と云われる供養塔 がある。
地蔵堂
2023年7月26日(水)新潟駅05:56-(越後線)-06:47吉田駅06:51-(越後線)-07:24出雲崎
出雲崎駅から出雲崎宿の路線バスは、土・日は運休 / 平日は2往復 となっている。到着した時間帯に運行はなかった。乗り合いタクシーの情報があったが、乗り場には停まっていなかった。地元の方に路線バスやタクシーのことを聞いて、諦めて歩くことにする。出雲崎駅と良寛堂往復 / 出雲崎宿場内往復 で16kmほどを歩く。当日は午前中から防災放送で熱中症アラートが案内されており、曰く「出歩かないでください」だった。良寛堂から出雲崎駅の帰路は、足がつり痛みのため時々立ち止まる状態になる。500mlペットボトル11本を飲み干す。30分は持つ瞬間冷却剤を2ヶ使用するが、あっという間にぬるま湯になった。
■元禄2年(1689年)7月5日 出雲崎→鉢崎(はっさき) / 7月6日 鉢崎→今町(現:直江津) 2泊
直江津駅前郵便局風景印 直江津郵便局風景印 聴信寺
JR東日本信越本線 / えちごトキめき鉄道・直江津駅北口から北東に進む。すぐの直江津交差点を左折して北に進むと、すぐ右手に直江津駅前郵便局がある。風景印は、JR直江津駅駅舎(4代目) の図柄になっている。直江津駅前郵便局から北に進むとやがて突き当り、右折する。すぐの十字路を左折、すぐの十字路を右折する。すぐ右手に直江津郵便局がある。風景印は、直江津港 / 国分寺三重塔 / 親鸞像 の図柄になっている。直江津郵便局から東に進みすぐのT字路を左折すると、すぐ左手に承元1年(1207年)創建の聴信寺がある。
[交通]JR信越本線 / えちごトキめき鉄道・直江津駅-(徒歩15分)-聴信寺
芭蕉は美濃の商人・宮部弥三郎の紹介状を携えて聴信寺を訪ねたが、忌中とのことで宿泊を断られた。やむなく聴信寺を後にする。芭蕉と知り、人を走らせて戻るよう説得した。再三断ったが、雨も降り出したので古川市左衛門方の宿に落ちつくことになる。
7月7日、聴信寺で「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」を詠んだ。出雲崎で詩想が生まれたことになっているが、でき過ぎの感がある。曽良が随行していなければ、7月7日に出雲崎で詠んだことになっていたと思う。
七夕は旧暦7月7日の行事だったが、明治の改暦により新暦の7月7日に行う様になった。
■元禄2年(1689年)7月8日 今町(現:直江津)→高田 3泊
平成14年(2002年)に完成したえちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅の駅舎は、高田城をモチーフにしている。実は、駅前の通路を覆うアーケードとのこと。このアーケードは雁木と呼ばれ、古くから豪雪地帯に伝わるもの。歩道の雪よけの役目を果たしている。
えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅
えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅より東へ進むと、右手に高田公園がある。慶長15年(1610年)徳川家康の六男・松平忠輝が、信濃川中島から福島城に入封する。慶長19年(1614年)福島城を廃城、高田城を天下普請によって築城する。城地の縄張りと工事の総監督は、松平忠輝の舅・伊達政宗が行った。石垣は築かなかったと云われていたが、明治初年に本丸付近を撮影した写真に石垣が写っていると云う。越前福井藩と加賀前田藩を押さえ込む配置で、幕府にとって重要な位置付けとなっていた。慶長19年(1614年)築の三重櫓は天守の代用とした。現在の模擬三重櫓は、平成5年(1993年)に復興されたもの。
模擬三重櫓
明治3年(1871年)廃城となり、陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用された。旧城地の東半分は旧状を留めていないが、本丸を含めた西半分には堀 / 土塁の一部が残る。陸軍第13師団の入城時に3000本を越える桜が植栽された。堀には失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われ、外堀の大半は蓮に覆われている。
[交通]えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅-(徒歩15分)-高田公園
西堀に架かる西堀橋
元禄2年(1689年)芭蕉が訪れた頃は、貞享2年(1685年) 〜宝永7年(1701年 )稲葉正往10万3千石の城下町だった。
高田城址公園に、国登録有形文化財の小林古径(こけい)邸がある。日本画家・小林古径は、明治16年(1883年)新潟県中頚城郡高田土橋町(現:上越市)に生まれる。大正9年(1920年)東京都大田区馬込の農家を改造した画室を設けた。昭和9年(1934年)画室に隣接したところに、設計:吉田五十八 / 施工棟梁:岡村仁三 による本邸を新築する。平成5年(1993年)解体され、平成7年(1995年)上越市は本邸の解体部材を購入する。解体時に作図された図面に基づき、平成13年(2001年)高田城二の丸跡に、画室を合わせて復元した。
小林古径邸
上越市マンホールは、高田城の外堀に浮かぶ白鳥と黒鳥 / 堀に咲く蓮の花 / 背後に市の木・桜 の図柄になっている。
上越市マンホール

■元禄2年(1689年)7月11日 高田→能生 / 7月12日 能生→市振 / 7月13日 市振→滑川 / 7月14日 滑川→高岡
親不知
(おやしらず)の難所を越えて市振(いちぶり)の宿に泊まる。市振は寛延年間(1748年〜1751年)に市振関所が置かれたところ。
滑川から富山には行かず、常願寺川〜神通川〜庄川を渡り高岡に宿を取った。数しらぬ川を渡り終えて「わせの香や 分入
(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)

高岡城堀 本丸跡 土橋の石垣
本丸と二の丸を結ぶ土橋の石垣 / 三の丸に民部井戸 が残る。三の丸と本丸に朝陽橋が架っている。
朝陽橋 民部井戸
射水神社鳥居 射水神社 護国神社
本丸跡に越中国一宮射水神社がある。奈良時代以前の創建と云われている、明治8年(1875年)現在地に移転した。二の丸跡に昭和10年(1935年)創建の招魂社が始まりの高岡市護国神社がある。
あいの風とやま鉄道・高岡駅より北へ、高岡駅前交差点を右折して58号線を北東へ進む。10分足らずの古城公園前交差点の北側に、高岡古城公園がある。慶長10年(1605年)初代加賀藩主・前田利長は隠居して富山城に入るが、慶長14年(1609年)富山城は焼失する。前田利長は魚津城に移り、新たに築城したのが高岡城である。慶長19年(1614年)前田利長は死去、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となる。廃城後は加賀藩の米蔵 / 塩蔵 / 火薬蔵 / 番所 などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されていた。
[交通]あいの風とやま鉄道・高岡駅-(徒歩/約10分)-高岡古城公園
高岡古城公園に高山右近銅像がある。織田信長 / 豊臣秀吉 に抜擢され明石12万石の大名となったが、切支丹禁令を拒否して追放された。細川忠興の斡旋により、豊臣秀吉の内諾を得て加賀藩に1万石以上の高禄で迎えられた。前田利長が隠退後の慶長14年(1609年)に築かれた高岡城は、築城の名手・高山右近が縄張りをした。徳川幕府の禁教令は愈々厳しく、慶長19年(1615年)高山右近は国外追放となる。ルソンに渡ると大歓迎を受けたが、間もなく悪疫に冒され元和元年(1616年)に生涯を終えた。
高山右近銅像
あいの風とやま鉄道・高岡駅から南に10分ほどのところに瑞龍寺(有料施設)がある。前田利長が織田信長・信忠の追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した法円寺が始まり。慶長18年(1613年)高岡に移され、慶長19年(1614年)前田利長は死去に伴い菩提寺となる。前田利長の法名・瑞龍院に因んで瑞龍院と改称、後に瑞龍寺に改称する。
瑞龍寺山門

あいの風とやま鉄道・高岡駅から16.5kmのところに、氷見線の終点・氷見駅がある。海岸にある雨晴海岸、芭蕉が訪れていてもおかしくない風景である。

雨晴海岸