奥の細道 金沢→大聖寺
■元禄2年(1689年)7月15日 高岡→倶梨伽羅峠→金沢 9泊
芭蕉が訪れたときの金沢は、加賀100万国の加賀前田家5代・前田綱紀が藩主であった。支藩に、富山藩10万石 / 大聖寺藩7万石 などがあった。
蕉門・小杉一笑が元禄元年(1688年)に36歳での早世したことを知る。芭蕉は小杉家の菩提寺・願念寺で追善句会を催し、「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」と詠んだ。
金沢は第二次世界大戦の戦災を受けることなく、城下町の遺構が色濃く残る。北陸の中心的な都市であり、全国から多くの人が訪れる観光地になっている。徒歩でも観光できるところが多いのが魅力である。御茶屋街と呼ばれる遊郭街は、文政3年(1820年)散在していた御茶屋を集めて町割りしたのが始まり。加賀藩から公許された花街で、にし茶屋街 / ひがし茶屋街 があった。主計町(かずえまち)茶屋街は明治になってから設けられた。往時の花街は、観光客で賑わっている。
←金沢駅スタンプ
日本三名園 兼六園の駅。金沢城 / 兼六園 の図柄。

金沢駅スタンプ→
日本三名園 兼六園の駅。
JR金沢駅あんと内に金沢駅内郵便局がある。風景印は、金沢港口にある郵太郎ポスト / 兼六園の徽軫(ことじ)燈籠 の図柄になっている。郵太郎ポストは、昭和29年(1954年)国鉄・金沢駅舎の落成記念に設置された。金沢の伝統工芸である加賀人形をモチーフに製作した陶器製の人形が郵便ポストの上に乗っている。
金沢駅内郵便局風景印 郵太郎ポスト
後:もてなしドーム / 前:鼓門 鼓門夜景
JR金沢駅東口(兼六園口)を出ると、もてなしドーム / 鼓門(つづみもん)がある。金沢城門ではなく、金沢伝統芸能の能楽で使われる鼓をイメージしたもの。
JR金沢駅東口(兼六園口)から金沢駅通りを南東に進む。すぐ左手に金沢駅前郵便局がある。風景印は、金沢駅もてなしドーム / 鼓門(つづみもん) の図柄になっている。
金沢駅前郵便局風景印
尾山神社神門(社殿側から) 尾山神社神門(春) 尾山神社社殿
金沢駅通りを南東に進む。近江町市場に近い武蔵交差点を右折して157号線を南西に進む。157号線は往時の北国街道である。5分ほどの左手に明治6年(1873年)創建の尾山神社がある。金沢城跡の西側に位置している。加賀藩の藩祖・前田利家と妻の芳春院(まつ)を祀る。明治8年(1875年)竣工の尾山神社神門は重文。
尾山神社スタンプは、昭和60年(1985年)頃のもの。
尾山神社から西に進むと、10分足らずのところに足軽屋敷2棟を移築した足軽資料館がある。足軽資料館を抜けて水路沿いに進むと、長町武家屋敷跡がある。
足軽資料館 長町武家屋敷跡
157号線(北国街道)まで戻り南に進む。10分足らずの 犀川に架かる犀川大橋を渡ると、西側ににし茶屋街 / 東側に寺院群 がある。金沢駅からは少し遠いが、江戸時代の中心地・片町や香林坊(こうりんぼう)からは近い。片町や香林坊は金沢城に近い地で、北陸街道沿いに商店が建ち並んでいた。
にし茶屋街
武蔵交差点から百万石通りを東に進む。武蔵交差点の南東側に近江町市場がある。5分ほどの尾張町交差点を左折、すぐの突き当りを8右折して百万石通りに平行する道を進む。すぐ左手に、久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)がある。明治元年(1868年)神仏分離令により現在地に移転した。この辺りに、金沢から越前国松岡まで25日間随行した立花北枝宅があった。道を挟んだ南側に泉鏡花記念館がある。
境内の裏手から、主計町へと抜ける「暗がり坂」に通じている。花街に遊びに行く旦那衆が通った坂であると云う。
久保市乙剣宮
主計町茶屋街 主計町茶屋街 浅野川沿いの主計町茶屋街
尾張町交差点から東に進み、橋場交差点を左折する。すぐの浅野川に架かる浅野川大橋を渡らずに左折する。浅野川沿いに進むと、狭い通りが花街を彷彿する主計町(かずえまち)茶屋街がある。
浅野川に架かる中の橋
浅野川に架かる浅野大橋を渡ると、359号線に古い建物の町並みが続く。
359号線に古い建物の町並み
ひがし茶屋街 ひがし茶屋街 ひがし茶屋街
359号線の東側に、最も規模が大きく重要伝統的建造物群保存地区にも指定されているひがし茶屋街がある。
橋場交差点まで戻り、百万石通りを南に進む。すぐに西側を平行する小路に、加賀藩中級武士の武家屋敷・寺島蔵人邸がある。金沢市内には武家屋敷が残っている。
寺島蔵人邸
橋場交差点から10分ほどの兼六園下交差点を右折して土産店が建ち並ぶ紺屋坂を登ると、右手から金沢城に入れる。
遺構として、石川門(重文) / 三十間長屋(重文) / 鶴丸倉庫(重文) / 石垣 / 堀 / 土塀 がある。鼠多門 / 橋詰門 / 橋詰門続櫓 / 菱櫓 / 五十間長屋 / 玉泉院丸庭園 が再建された。
金沢城石川門
石川門 櫓(春) 石川門 櫓門塀(鉄砲狭間)
二の丸跡 菱櫓
天文15年(1546年)に造営された尾山御坊(金沢御堂)は、加賀国の統治を行う加賀一向一揆の拠点となっていた。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれ、空堀や柵などを巡らした要塞になっていた。大阪石山本願寺と同じく防御に優れた造りになっていた。
天正8年(1580年)大阪石山本願寺が織田信長に降伏すると、大聖寺城主・佐久間盛政は尾山御坊を陥落させた。佐久間盛政は跡地を修繕して金沢城と名付けた。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家は羽柴秀吉に敗れる。柴田勢の佐久間盛政は敗走して捕縛され、後に自刃する。同じ柴田勢だった能登国小丸山城・前田利家は寝返り、羽柴秀吉に味方する。柴田勝家の本拠地・北ノ庄城攻めに加わり、羽柴秀吉より金沢城を与えられる。前田利家は本拠地を金沢城に移し、尾山城と改称する。前田利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。
金沢の地名が広く知られていたため、慶長7年(1602年)頃から金沢城の名称が定着したと云われている。明治6年(1873年)存城とされ、軍施設が置かれて建物の一部を残して撤去された。
徽軫(ことじ)燈籠(春) 噴水(春) 雪吊り(春)
金沢城跡の南側に兼六園がある。水戸・偕楽園 / 岡山・後楽園 とともに、日本三名園に数えられる。延宝4年(1676年)加賀藩5代藩主・前田綱紀が造営した蓮池庭が始まりで、文政5年(1822年)松平定信によって兼六園と命名された。兼六園の噴水は文久元年(1861年)に造られ、現存する日本最古の噴水。高いところに位置する霞ヶ池を水源として、池の水面との高低差を利用して自然の水圧で吹き上がっている。雪吊りは北陸特有の湿気の多い重たい雪から樹木を守るために施される。
兼六園スタンプは、昭和60年(1985年)頃のもの。 市内に徽軫(ことじ)燈籠デザインの消火栓蓋がある。
兼六園スタンプ 金沢市消火栓蓋
兼六園の南側に隣接して成巽閣(せいそんかく)がある。文久3年(1863年)加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建て造営した。
成巽閣入口 成巽閣
兼六園から百万石通りを挟んだ西側に、天平年間(729年〜748年)創建と云われる石浦神社がある。金沢で一番古い神社とされる。
石浦神社社殿

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆元禄2年(1689年)3月27日 深川の杉山杉風の採荼庵(さいとあん)から出立して3ヶ月半、金沢で曾良は体調不良になる。体調不良は腹の具合と云われ、伊勢国長島の親戚のところへ行って養生するために先に発つことになった。
奥の細道は、芭蕉が江戸に戻ってから旅の記録を紀行文という形に創り上げた。旅の日程や行った場所を前後させたりすることもあり、曽良日記によって明らかにされていた。体調不良になったことで随行できなくなり、金沢から大垣至る足取りは解らないことが多い。
元禄2年(1689年)7月23日 曾良は「行き行きて 伏れふすとも 萩の原」と書き残して出立した。
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■元禄2年(1689年)7月24日 金沢→小松
金沢から山中温泉を経て越前国松岡までの25日間、立花北枝が随行した。立花北枝は蕉門十哲の1人で、加賀国小松町研屋小路に生まれる。金沢に住み、兄・牧童とともに刀研ぎを業とした。
金沢を出発、小春・牧童・乙州らは町外れ迄 / 雲口・一泉・徳子 らは野々市町迄 / 竹意は小松迄 随行した。小松に到着語、近江屋に投宿した。芭蕉が訪れたときは、加賀藩金沢城の支城で前田佐渡孝貞が城代であった。城代と城番が併存、実質城番が支配していた。城番は2人づつ3組6名で、毎年3月15日に交代していた。
JR小松駅西口から25号線を渡ると、小松駅前郵便局がある。風景印は、弁慶と富樫泰家 / 歌舞伎殿 / お旅まつりの子供 の図柄になっている。
小松市マンホールは、市の木・松の葉 / KOMATSUの文字 / 市の花・梅 の図柄になっている。
小松駅前郵便局風景印  小松市マンホール
[寄り道]小松郵便局
25号線を北に進むと、5分足らずのところに細工町交差点がある。細工町交差点を右折して360号線を東に進む。北陸線高架を潜り、5分足らずの左手に小松便局がある。風景印は、小松空港 / 安宅の関跡 / 弁慶 の図柄になっている。
小松郵便局風景印
細工町交差点まで戻り、直進して360号線を西へ進む。地子町交差点を右折して北へ進むと、城下町を思わせる町並みが続く。
すぐのT字路が小松市役所前交差点で、小松市役所 / 芦城公園 / 石川県立小松高校 辺りが城域となっていた。小松市役所駐車場前に「七十間長屋跡」石柱がある。
[交通]JR北陸本線・小松駅-(徒歩約10分)-小松市役所前交差点
七十間長屋跡 石柱
小松城は、天正4年(1576年)加賀一向一揆方の若林長門守によって築城されたと云われている。天正7年(1579年)柴田勝家の攻撃により落城した。天正11年(1583年)丹羽長秀の家臣・村上頼勝が城主となる。慶長3年(1598年)丹羽長重が城主となるが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に組して改易となる。
芦城公園 土塁(芦城公園) 三の丸石垣
  関ヶ原の戦い後、加賀藩初代・前田利長の所領となり城代が置かれた。元和元年(1615年)一国一城令で廃城となる。寛永16年(1639年)加賀藩2代・前田利常の隠居城として整備された。完成した城域は金沢城の約2倍の規模を誇り、広大な水堀に浮かぶ姿から浮き城の別名がある。本丸の天守台には、天守の代用として御三階櫓が築かれた。万治元年(1658年)前田利常の死後は加賀藩金沢城の支城となり、城番により統治された。明治5年(1872年)廃城になる。
本丸櫓台石垣
芦城公園に、約2000万年前の珪化木(けいかぼく)が展示されている。木が火山灰に埋まって炭化、岩石の珪酸によって生成された化石。芦城公園の珪化木は巨大で、世界的にも珍しいと云う。
珪化木
小松大川郵便局風景印 来生寺山門
芦城公園 の東側を通る北国街道(101号線)を北に進むと、左手に小松大川郵便局がある。風景印は、 白山の遠望 / 小松城址 / 桜並木 の図柄になっている。 北国街道は小松大川郵便局から北に進み、小松大橋手前の大川町交差点を右折して東に進む。突き当りに 室町時代中期創建と云われる来生寺がある。山門は明治5年(1872年)小松城が取り壊しの際、鰻橋御門を移築したもの。北国街道は左折して梯(かけはし)大橋を渡る。

大川町交差点まで戻り、左折して南に進む。10分ほどの左手に興善寺寺がある。山門は越前丸岡城の裏門を明治3年(1871年)移築したもの。

興善寺山門 興善寺本堂
興善寺は文明7年(1475年)大島村(現:小松市大島町)に創建されたのが始まり。寛永16年(1639年)小松城が2代藩主・前田利常の隠居城となったとき、城下町が町割りされて現在地に移転した。興善寺から更に南に進むと、15分ほどの左手にJR北陸本線・小松駅がある。
■元禄2年(1689年)7月25日
小松を出発しようとしたところ、多くの人たちに引き止められて予定を変更する。多田八幡神社を訪れた後、山王神社神主・藤井伊豆の宅に行き句会開催。この夜は藤井宅に泊る。
多田八幡神社鳥居 多田八幡神社社殿 多田八幡神社 記念撮影用看板
多田八幡神社はJR小松駅の南西方向、徒歩25分ほどのところにある。 西側を南北に通るのが北国街道。武烈天皇5年(504年)創建の延喜式内社、多太神社 / 多田神社 / 太田神社 などの表記がある。
芭蕉神社 芭蕉句碑
寿永2年(1183年)加賀国篠原(現:石川県加賀市旧篠原村)における篠原の戦いで、木曾義仲に敗れて戦死した平家の武将・齋藤実盛の兜(重文)を木曽義仲が奉納した。斎藤実盛はかつて義仲の父・源義賢が大蔵合戦で討たれたとき、幼い義仲を木曾へ逃がした恩人であったと云われている。源平合戦から500年後の元禄2年(1689年)木曽義仲を慕う芭蕉が参拝、実盛の兜によせて「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と詠んだ。
山王神社鳥居 山王神社社殿 金毘羅社
山王神社はJR小松駅の南西方向、徒歩20分ほどのところにある。能美郡得橋郷国府村(現:七尾市古府町)に創建されたのが始まりで、治承3年(1179年)現在地に移転して山王宮と称した。明治8年(1875年)本折(もとおり)日吉神社と改称した。毎年5月に行われる“お旅まつり”は、加賀藩の第2代藩主・前田利常が小松城に隠居した寛永17年(1640年)行われている莵橋(うはし)神社と本折日吉神社の春季例大祭。
日吉稲荷社
■元禄2年(1689年)7月26日 小松→片山津→小松

片山津は、JR北陸本線・加賀温泉駅からバスで10分余りのところにある。以前は大正3年(1914年)開業の北陸鉄道・片山津線が、動橋(いぶりはし)駅〜片山津駅を結んでいた。昭和40年(1965年)に廃止された。

承応2年(1653年)大聖寺藩2代・前田利明が鷹狩りのとき、柴山潟の水鳥の群れの様子を見て温泉が湧き出しているのを発見した。藩費で掘削に着手したが、湯源を確保することができなかった。何度も開発が試みられたが難航、明治15年(1882年)に源泉が確保され開湯した。
砂走公園あいあい広場 旧旅館
片山津温泉街の中心部に砂走(すなはせ)公園あいあい広場があり、足湯が設けられている。古い建築物はほとんど残っていない。ソープランド街として知られ、9軒が営業している。
片山津郵便局の風景印は、白山 / 片山津温泉郷 の図柄になっている。
昭和33年(1958年)加賀市が発足する。平成17年(2005年)加賀市と山中町が合併して改めて加賀市が発足する。マンホールは旧加賀市の市章 / 市のキャラクター・かも丸君 の図柄になっている。かも丸君は市鳥・鴨をモチーフしたもの。
片山津郵便局風景印 旧加賀市マンホール

■元禄2年(1689年)7月26日 夜に越前寺宗右衛門宅に招かれて句会。
■元禄2年(1689年)7月27日 小松の諏訪宮で祭礼があり参詣。

莵橋神社鳥居 莵橋神社鳥居 莵橋神社社殿

諏訪宮=莵橋(うはし.)神社は、JR小松駅から徒歩10分ほどのところにある。JR小松駅から25号線を北に進み、すぐの細工交差点を左折して西に進む。すぐの京町交差点で北国街道と交差する。西に進むと、すぐ右手に莵橋神社がある。
慶雲元年(704年)創建と云われ、延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座莵橋神社」とある古社。能美郡得橋郷小野村にあったが、得橋郷上小松村→小松城内→慶安4年(1651年)現在地に移った。加賀国総鎮守で、莵橋大神と諏訪大神を祀っている。江戸時代には小松城と金沢城の鎮護社となっていた。明治8年(1875年)小松諏訪神社と改称させられたが、明治15年(1882年)莵橋神社現に復称した。

毎年5月に行われる“お旅まつり”は、加賀藩の第2代藩主・前田利常が小松城に隠居した寛永17年(1640年)行われている莵橋神社と本折日吉神社の春季例大祭。

■元禄2年(1689年)7月27日 小松→(山代温泉)→山中温泉 8泊
JR北陸本線・ 加賀温泉駅からバスに乗車、15分ほどの山代温泉を経由して35分ほどで山中温泉に着く。以前は明治32年(1899年)開業の北陸鉄道・山中線が、 大聖寺駅-(8.9km)-山中駅を結んでいた。途中駅の河南駅で山代線(旧連絡線)が接続していた。昭和46年(1971年)に廃止された。山中駅跡はバスターミナルになっている。
旅館群 町並み
山代温泉は神亀2年(725年)行基が羽を休める八咫烏(やたからす)を見つけ、手を浸したところ温泉を発見したと云われている。薬王院温泉寺は行基が温泉守護のため、薬師如来などを彫り、堂宇を建てたのが始まり。
旅館
山代温泉古総湯 山代温泉総湯
山代温泉古総湯の西方向に山代郵便局がある。風景印は、山代温泉古総湯 / 湯の華太鼓 の図柄になっている。
山代郵便局風景印
■元禄2年(1689年)7月27日 小松→(山代温泉)→山中温泉 8泊
JR北陸本線・ 加賀温泉駅からバスに乗車、15分ほどの山代温泉を経由して35分ほどで山中温泉に着く。以前は明治32年(1899年)開業の北陸鉄道・山中線が、 大聖寺駅-(8.9km)-山中駅を結んでいた。途中駅の河南駅で山代線(旧連絡線)が接続していた。昭和46年(1971年)に廃止された。山中駅跡はバスターミナルになっている。
山中バスターミナル
奈良時代に行基が発見したと云われている。山中温泉は山に囲まれた街であり、大聖寺川の渓谷沿いなどに旅館が立ち並ぶ。山中漆器の産地で、土産物屋が多い。民謡・山中節は、江戸時代の元禄期から歌い継がれているとされる。
町並み
旅館
総湯・菊の湯 旅館
■元禄2年(1689年)8月1日 黒谷橋
鶴仙渓(かくせんけい)に掛かる黒谷橋は、古来から那谷寺(なたでら)に通じる橋として利用されていた。 橋から続く道は那谷道とも呼ばれ、峠を越えて那谷寺や小松に通じていた。 芭蕉が訪れたときは木橋で、現在の橋は昭和10年(1935年)に架けられた石橋。
芭蕉はここが気に入り散策しながら、「この川の黒谷橋は絶景の地なり行脚の楽しみここにあり」と絶賛した。
黒谷橋
鶴仙渓遊歩道の黒谷橋のたもとに、明治43年(1910年)建立の芭蕉堂 / 茶店 がある。
芭蕉堂 茶店

芭蕉の館(有料施設)は、芭蕉が滞在した和泉屋久米之助宅に隣接の扇屋別荘を改築したもの。芭蕉が書き残した「やまなかや 菊は手折らじ ゆのにほひ」の掛軸真蹟などがある。

芭蕉の館
山中郵便局の風景印は、黒谷橋 / 鶴仙渓 の図柄になっている。
旧山中町マンホールは、こおろぎ橋 / 大聖寺川 / コサギ の図柄になっている。 平成17年(2005年)加賀市と山中町が合併して改めて加賀市が発足する。マンホールは合併前のもの。
山中郵便局風景印 旧山中町マンホール

■元禄2年(1689年)8月5日 山中温泉→黒谷橋→那谷寺(なたでら)→小松

加賀温泉駅から那谷寺を通る加賀周遊バスCANBUSが運休になっていた。路線バスは小松駅から1日3往復の北鉄加賀バス・粟津線那谷寺行きに乗車、粟津(あわづ)駅 / 粟津温泉 を経由する。小松駅→那谷寺バス停は約40分掛かる。以前は明治44年(1911年)開業の北陸鉄道・粟津線と大正3年(1914年)開業の北陸鉄道・連絡線があり、新粟津駅〜粟津温泉駅〜那谷寺〜河南駅を結んでいた。粟津温泉駅から2駅目が那谷寺駅であった。昭和37年(1962年)粟津線と連絡線の粟津温泉駅・宇和野駅間が廃止された。
芭蕉と立花北枝は養老元年(717年)創建と云われる那谷寺へ行き、奇岩遊仙境の岩肌を臨み「石山の 石より白し 秋の風」と詠んだ。
那谷寺バス停から南に進むと、すぐ右手に那谷阿弥陀堂 / 那谷郵便局 と続く。風景印は、奇岩遊仙境 / 紅葉 / 石段 / 那谷寺本殿(重文) の図柄になっている。
那谷阿弥陀堂 那谷郵便局風景印
山門
金堂華王殿 奇岩遊仙境
唐門
唐門〜大悲閣の階段 大悲閣(本堂)
那谷寺(拝観600円)は養老元年(717年)創建の厳屋寺が始まり。寛和22年(986年)那谷寺と改称した。本尊の千手観音は33年毎開帳の秘仏で、平成19年(2017年)に開帳された。南北朝時代には新田義貞の攻撃を受ける。その後も浄土真宗に改宗する者が増えて衰退した。加賀藩2代藩主・前田利常が伽藍を再建した。慶長2年(1597年)建立の唐門 / 拝殿 / 大悲閣(本堂) は重文。
駐車場にある御柱は、創建1300年の平成29年(2017年)御柱立柱祭で建てられたもの。
御柱
芭蕉が那谷寺から小松に戻るとき、粟津温泉を通ったと思われる。

那谷寺から小松に行く路線バスは、粟津温泉 / 粟津駅 を経由する。那谷寺から粟津温泉は徒歩50分の距離である。 以前は明治44年(1911年)開業の北陸鉄道・粟津線があり、新粟津駅〜粟津温泉駅を結んでいた。昭和37年(1962年)廃止された。
粟津温泉は養老2年(718年)に開湯した北陸最古の温泉地で、11号線(小松山中線)沿いにある。
温泉街の北側にある粟津郵便局の風景印は、那谷寺 / いでゆ太鼓 の図柄になっている。

粟津郵便局風景印
法師 黄門杉
粟津温泉街の中心地にある法師は、養老2年(718年)の開湯から続く老舗旅館。北陸最古の旅館で、文化財指定の旅館になっている。法師の前に、道を塞ぐ様に樹齢約400年の黄門杉がある。加賀藩2代藩主・前田利常が那谷寺に参拝する際に立ち寄って植えた。前田利常は中納言に任じられており、中納言の中国名・黄門から小松黄門と呼ばれていた。 元々は法師の敷地内にあったが、道路の拡張によって道のど真ん中になった。
水戸光圀も中納言に任じられており、水戸黄門と呼ばれていた。
旅館
昭和8年(1933年)竣工の粟津演舞場 旅館
400年も前から地元で語り継がれている恋物語・おっしょべ恋物語は、恋人の聖地になっていると云う。旅館の奉公人として働いていたお末と竹松の恋物語。
おっしょべ公園 お末と竹松の像
芭蕉は7月24日に金沢から小松に到着、山中温泉の8泊を経て8月5日に小松から大聖寺に向かった。小松滞在中、源義経を慕う芭蕉が安宅の関(あたかのせき)を訪れているか気になるところである。
梯川
安宅の関にはJR北陸本線・小松駅より安宅線に乗車、関跡前バス停で下車する。日中は概ね2時間毎の運行(2023年8月)である。関跡前バス停からバスの進行方向に進むと、すぐに交差点がある。直進して梯(かけはし)川沿いに進むと、すぐ左手に安宅の関があったとされる安宅住吉神社がある。
安宅住吉神社鳥居 安宅住吉神社社殿
安宅は古代の安宅駅の地とされ、海陸交通上の要地であった。中世には日本海海運の中継ぎ港として商品流通の拠点であり、北前船の寄港地 / 小松城下の外港 として船問屋の倉庫が林立して賑わっていた。平安時代中期に編纂された延喜兵部式では安宅駅 / 南北朝時代〜室町時代初期に成立した義経記(ぎけいき)では安宅の渡 / 承久3年(1221年)承久の乱以前から書き始められた八雲御抄では安宅橋 の記載がある。
寛正6年(1465年)に成立したと云われる謡曲・安宅 / 元禄15年(1702年)成立の勧進帳 の舞台として知られている。寿永3年(1184年)加賀守護に任ぜられた富樫氏6代・富樫泰家は、文治3年(1187年)源義経や武蔵坊弁慶を見逃したとされる創作。
史実でないが安宅住吉神社は関所跡とされ、観光バスも立ち寄っている。
住吉橋から河口方面を望む 安宅郵便局風景印 小松市マンホール
交差点まで戻り梯川に架かる住吉橋を渡ると、安宅の町並みになる。2本目の十字路を左折すると、すぐ右手に安宅郵便局がある。風景印は、勧進帳の巻物の変形外枠 / 勧進帳・安宅の関 の図柄になっている。小松市のマンホールには、勧進帳の弁慶 / 巻物に「清き水となり 台地をうるおせ」の図柄になっているものがある。
■元禄2年(1689年)8月6日 小松→大聖寺(だいしょうじ)2泊
JR北陸本線・大聖寺駅スタンプは、「加賀百万石の支藩・大聖寺藩城下町の駅」の文字 / 長流亭 / 時鐘堂 / 大聖寺流し舟 の図柄になっている。大聖寺駅1番ホーム(金沢方面)に、山中温泉で詠んだ「やまなかや 菊はたおらし ゆのにほひ」芭蕉句碑がある。
大聖寺駅スタンプ 芭蕉句碑
元禄2年(1689年)当時は、加賀藩支藩の大聖寺藩2代藩主・前田利明が治めていた。
JR北陸本線・大聖寺駅より北に進む。5分ほどの大聖寺南町交差点を左折して、305号線を西へ道なりに進む。すぐの図書館前交差点を過ぎると、すぐ左手に大寺聖南通郵便局がある。風景印は、白山 / 市木・黒松 / 大聖寺十万石まつりの神輿 / 長流亭 の図柄になっている。
寺聖南通郵便局風景印
寺聖南通郵便局からすぐの十字路を左折して南西に進むと、突き当りに天正4年(1576年)創建の全昌寺がある。大聖寺城主だった山口玄蕃頭宗永の菩提寺。 芭蕉は全昌寺に8月6日から2泊している。芭蕉到着前の前日、曾良も泊まっている。「終宵(よもすがら)秋風聞や うらの山」曾良
全昌寺
305号線まで戻り、西に進む。大聖寺関町交差点交差点を右折して北へ道なりに進むと、左手に錦城山公園がある。
[交通]JR北陸本線・大聖寺駅-(徒歩15分)-錦城山公園
大聖寺城(錦城)は、鎌倉時代に狩野氏によって築城される。建武2年(1335年)に中先代(なかせんだい)の乱に呼応した名越時兼が南下してきたとき、大聖寺城で迎撃したと云う。中先代の乱は、鎌倉幕府14代執権・北条高時の遺児・時行が鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。建武4年(1337年)新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略している。戦国時代には日谷城などとともに一向一揆の拠点となっていた。天文24年(1555年)越前国・朝倉宗滴が加賀に侵攻、大聖寺城は落城する。永禄10年(1567年)堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱する。足利義昭の斡旋により和議が成立するが、大聖寺城は焼払われる。天正3年(1575年)越前を平定した織田信長軍は加賀に侵攻、柴田勝家に命じて大聖寺城を修復させる。天正4年(1576年)佐久間盛政が城主となる。天正8年(1580年)柴田勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略、拝郷家嘉が城主となる。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い後は溝口秀勝 / 慶長3年(1598年)小早川秀秋の家臣・山口宗永(玄蕃)が城主となる。翌年に小早川秀秋は転封となるが、山口宗永(玄蕃)は豊臣秀吉直臣となり当地に留まった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで山口宗永(玄蕃)は西軍に組したため、東軍の前田利長に攻められて大聖寺城は落城する。山口宗永(玄蕃)は嫡男・修弘と共に自刃した。その後は前田家の家臣が城代を務めたが、元和元年(1615年)の一国一城令での廃城となった。寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常の三男・前田利治が7万石を分地され立藩、大聖寺城跡地に大聖寺陣屋を設けた。
本丸への登り坂 贋金造りの洞穴  土塁
錦城山公園入口から標識に従い、本丸へ進む。すぐに本丸と東丸との分岐があり、すぐ左手に“贋金造りの洞穴”がある。明治政府に武器弾薬の供出を命じられた大聖寺藩は、必要な資金を贋金を作り賄った。1分銀に金メッキを施す方法であるが、光沢があり過ぎた。このため山代温泉の湯に数日間浸けて、古い金貨と見分けが付かない様にした。以降も金貨偽造を続けたが、明治2年(1869年)に露見する。贋金作りを命じられた市橋波江は、切腹させられた。大聖寺藩は、継嗣に旧禄高の2倍を与えて跡を継がせている。
本丸跡 東屋 山口玄蕃頭宗永公碑
錦城山公園入口から10分ほどすると、本丸跡に辿り着く。夏草に覆われた東屋や案内板 / 北側に山口玄蕃頭宗永公碑 がある。西の丸方向に、夏草に覆われたところを進む。方角が解らなくなり、泥だらけになる。忠霊塔に下る階段が現れ、安堵する。
 長流亭 江沼神社鳥居 江沼神社社殿
錦城山公園入口を北へ進むと、すぐ右手に茶室・長流亭(重文)がある。大聖寺藩3代藩主・前田利直の休息所として、小堀遠州の設計により宝永6年(1709年)に建てられた数寄屋造りの建築。隣接して宝永元年(1704年)創建の江沼神社がある。大聖寺藩3代藩主・前田利直が邸内に天満天神社を創建したのが始まり。松嶋神社が明治10年(1877年)に江沼神社と改称、明治12年(1879年)天満天神社を合祀する。
福田橋 山口玄蕃頭宗永公御堂 山口宗永首塚
慶長5年(1600年)山口宗永(玄蕃)と嫡男・修弘は、新町で共に自決した。昭和10年(1935年)に架け替えられた旧大聖寺川に架かる福田橋を渡った右手に、山口宗永首塚がある。嫡男・修弘は山口宗永の菩提寺・全昌寺に葬られている。
旧大聖寺川に架かる福田橋から南へ進むと、5分足らずの右手に吉田屋薬舗がある。吉田屋は酒造業 / 薬種業 を本業としていた豪商で、大聖寺藩に火薬を納める御用商人でもあった。文政7年(1824年)4代・吉田屋伝右衛門は、古九谷再興のため九谷村に吉田屋窯を開いた。九谷村は山奥で不便なため、文政9年(1826年)山代温泉に移された。吉田屋窯の作品は、緑 / 黄 / 紫 / 紺青 の四彩を用いた色絵が多く“青九谷”と称されている。古九谷再興の資金負担は膨大で、吉田屋の財政を圧迫し続けた。文政10年(1827年)伝右衛門が死去、文政13年(1831年)財政難で僅か7年で終えることになる。衰退していた九谷焼を再興したことで高く評価されている。大半の家屋敷と酒造業の株(藩の酒造業免許)を売却、以後薬舗の取り扱いを専業とする様になった。
吉田屋薬舗
深田久弥生家 深田久弥生誕之地 石柱 時鐘堂
深田久弥文学碑 八間道船乗場 深田久弥 山の文化館

日本百名山で知られる深田久弥(ふかだ きゅうや)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)生まれの小説家(随筆家) / 登山家。大聖寺中町通りにある深田久弥生家前には、“深田久弥生誕之地”石柱がある。深田久弥生家から北へ進むと、すぐ右手に平成14年(2002年)再建された旧藩時代の時鐘堂がある。江沼神社の鳥居を潜ると、右手に「山の茜を顧みて 一つの山を終りけり 何の俘のわが心 早も急かるる次の山」深田久弥文学碑がある。江沼神社の北東側に“大聖寺川流し舟”の八間道船乗場があり、旧大聖寺川を渡った右手に深田久弥山の文化館がある。明治43年(1910年)に建てられた絹織物工場・山長の事務所 / 石蔵 / 門 を修築したもので、国登録文化財になっている。石蔵はかつて生糸の保管庫として使われていた木骨石造りで、1階は深田久弥遺品を中心とした展示室 / 2階は資料の収蔵庫として使用している。