奥の細道 那須湯本〜白河の関〜矢吹宿
■元禄2年(1689年)4月20日
那須湯本-(現:栃木県道21号線 / 湯本小島線)-漆塚-(現:県道28号線 / 大子那須線)-芦野宿 / 遊行柳-(奥州街道)-境の明神-(奥州街道)-白坂宿-(旗宿道)-旗宿
曽良日記「朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不レ知シテ難レ通。」
県道28号線(大子那須線)は、芦野宿の西側で旧奥州街道と交差している。往時は宿場を通らない道が別にあったとは考えられず、旧奥州街道に合流したと思われる。

奥州街道に合流。すぐに奈良川を渡ると芦野宿に入る。芦野宿は奈良川に沿って設けられている。左手に享保12年(1727年)造立の地蔵がある。この地蔵は左足を前に出していることから坐り地蔵と呼ばれている。芦野宿は城下町として発展、本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:25 だった。

地蔵堂
地蔵堂からすぐに桝形になり、突き当りを左折する。往時の屋号や職種が記された燈籠風の石造物が数多くある。2基撮影したところで、あまりに多いので止める。すぐの突き当りを道なりに右へ進む。南からの道と合流、旧奥州街道は北へ進む。
足袋屋 本田屋
反対方向(南)に進むと、すぐ右手に5基の石仏石塔群 / すぐの左手に日本三大聖天(しょうてん)三光寺 がある。
石仏石塔群 三光寺
“三大なんとか”は、複雑になる場合が多い。東京都台東区・本龍院(待乳山聖天)と奈良県生駒市・宝山寺(生駒聖天)は確定で、埼玉県熊谷市・歓喜院(妻沼聖天) / 静岡県小山町・足柄山聖天堂(足柄聖天) / 三重県桑名市・大福田寺(桑名聖天) / 兵庫県豊岡市・東楽寺(豊岡聖天) のいずれかを加えるのが一般的な様である。
染屋 住吉屋 / 奥州道中 芦野宿 石標 丁子屋
芦野郵便局風景印 石の美術館 石の美術館 不動明王
旧奥州街道に戻り、北へ進む。すぐ右手に「奥州道中 芦野宿」石標 / すぐ左手に江戸時代初期創業で元旅籠の鰻料理・丁子屋 / すぐ右手に「地蔵尊参道」石柱 / すぐ右手に番所跡に建てられた芦野郵便局 / すぐ左手に本陣跡に建てられた石の美術館 と続く。芦野郵便局の風景印は、遊行柳 / 「田一枚 うえて立ち去る 柳かな」芭蕉句碑 の図柄になっている。
建中寺 地蔵 / 二十三夜塔 / 三界萬霊塔 / 不明の石塔

石の美術館から5分足らずの右手に建中寺がある。旗本・芦野氏歴代の墓がある。芦野氏は、地頭としてこの地を治めていた。江戸時代は3000石の旗本だったが、那須一族のため1万石以上の待遇を受けて参勤交代も行っていた。 すぐに左へ曲がる手前左手に、享保2年(1717年)造立の地蔵 / 二十三夜塔 / 三界萬霊塔 / 不明の石塔 が並んでいる。ここが芦野宿の北口になり、枡形になっている。

おくの細道遊行柳標識 遊行柳
西行歌碑 芭蕉句碑 蕪村句碑

すぐに奈良川を渡ると、294号線に合流する。 294号線を横断すると、左手に遊行庵(食堂)や無料休憩所がある。北側の小路に「おくの細道遊行柳」標識があり、西へ進む。すぐの十字路を左折すると、右手に遊行柳が見える。遊行柳は昔から種々の紀行文に記載され、西行 / 芭蕉 / 藤村 などが訪れたことでも知られている。「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」西行歌碑 / 「田一枚 うえて立ち去る 柳かな」芭蕉句碑 /「柳散 清水涸 石処々」蕪村句碑 がある。

旧奥州街道に戻り北東へ進むと、すぐ左手に「甦る豊郷」碑 / 不明の文字塔 と続く。斜め左の旧道に入る。不明の文字塔から5分足らずの左手に愛宕神社 / すぐ左手に「べこ石の碑」案内板 と続く。覗き込むと右手に大石がある。嘉永元年(1848年)造立したもので、儒教的道徳が彫られていると云う。牛の形には見えないと思った挙句、傍らにあった不明の石塔のみを撮影していた。
愛宕神社
無縁諸霊…… 石仏石塔群
べこ石の碑からすぐのT字路を右折すると、294号線に突き当り左折する。すぐに分岐があり、旧奥州街道は左へ進む。分岐の三角地帯に草に埋もれている文政2年(1819年)造立の「無縁諸霊……」 / すぐ左手に石仏石塔群 / すぐ左手に神号碑「出羽大神 月山大神 湯殿山大神」 / すぐ左手に峰岸館従軍者之碑 と続く。峰岸館従軍者之碑は、戊辰戦争のときに黒羽藩内の農民が峰岸館で洋式兵隊の訓練を受け各地で戦功を挙げた顕彰碑。
出羽大神 月山大神 湯殿山大神
石仏石塔群 馬頭観音 光明真言 / 二十三夜塔
 
板屋一里塚

すぐに294号線に合流すると、すぐ左手に光明真言百萬遍供養塔 / 不明の石塔 / 燈籠 / 地蔵 がある。すぐに分岐があり、旧奥州街道は右へ進む。5分ほどすると、右手に馬頭観音4基 / すぐ右手に光明真言と二十三夜塔 / すぐ左手に農民を諭す語句が彫られていると云う諭農の碑 / すぐに板屋一里塚 と続く。板屋一里塚は両塚が残っているが、道路が掘り下げられたために位置が高くなっている。西側の塚に埋もれる様に、不明の石塔 / 大乗妙典供養塔 / 馬頭観音 がある。

馬頭観音 馬頭観音 馬頭観音 / 不明の石塔
板屋の一里塚から5分足らずの右手の丘に、馬頭観音4基 / 右手に馬頭観音2基 / 馬頭観音と不明の石塔 と続く。10分足らずの右手に永禄10年(1567年)創建の高徳寺がある。
旧奥州街道 高徳寺
高徳寺からすぐの右手に石仏石塔群がある。上段は馬頭観音2基と不明の石塔 / 下段は馬頭観音3基。すぐ右手に馬頭観音5基 / 牛頭観音(右端)がある。
石仏石塔群 馬頭観音5基 / 牛頭観音
不明の石塔 / 地蔵 / 地蔵 / 不明の石塔
石仏石塔群から5分ほどすると、294号線に合流する。すぐ右手の丘に石仏石塔群 / 右手に五輪塔 と続く。 さらに5分ほどすると、右手に石材店の燈籠がある。
五輪塔 燈籠
石仏石塔群
常夜燈 興楽寺 興楽寺観音堂
石材店の燈籠から15分足らずの右手に、狛犬 / 石仏石塔群 がある。すぐに分岐があり、旧奥州街道は左へ186号線を進む。すぐ右手に常夜燈がある。すぐの分岐を右へ進むと、すぐ右手に興楽寺 / 境内に那須三十三所観音10番札所の観音堂 がある。
興楽寺から5分ほどすると、294号線と合流する。すぐ左手に泉田一里塚がある。下野国最北端の一里塚になる。
泉田一里塚
石仏石塔群 初花清水碑
泉田一里塚から5分ほどのところを左折する。すぐに「この先300m初花清水」標識があり右折する。すぐ右手に石仏石塔群 / すぐ右手に初花清水碑 と続く。歌舞伎・箱根権現躄(いざり)仇討は、棚倉藩士・飯沼勝五郎と妻・初花が佐藤剛助(滝口上野)を仇討ちした物語。仇を探している内に足を病んだ飯沼勝五郎は、この地で療養する。初花清水は初花が用いた清水で、飯沼勝五郎が山肌に刻んだのが瓢石(ふくべいし)すぐの294号線と合流するところの左手に、不明の石塔 / 瓢石碑「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」 / 瓢石 がある。
不明の石塔 / 瓢石碑 / 瓢石

瓢石からすぐに奈良川に架かる戸板橋を渡る。すぐに旧奥州街道は右へ進むが、294号線を進んでいる。

馬頭観音 地蔵 / 地蔵 / 不明の石塔 地蔵 / 光明真言三百遍供養塔

戸板橋を渡ってからから5分ほどすると、右手に豊穣の碑がある。5分足らずで旧奥州街道と合流する。5分ほどすると右手に馬頭観音がある。すぐの分岐を旧奥州街道は左へ進み、すぐに294号線と合流する。すぐ左手に地蔵2基と不明の石塔 / 左手に地蔵と光明真言三百遍供養塔 と続く。

 
境の明神
石仏石塔群から5分ほどすると下野(栃木県)と奥州(福島県)の国境(県境)で、国境の両側に境の明神がある。下野側・境の明神は天喜元年(1053年)創建。明治39年(1906年)の火災で焼失、明治41年(1908年)再建された。奥州側・境の明神は文禄4年(1595年)創建。古来より国境を往来する際には両神社を参拝、道中の安全を祈願したと云われている。松尾芭蕉は元禄2年(1689年)に境の明神に参拝している。「風流の 初やおくの 田植うた」芭蕉。
奥州側・境の明神からすぐ左手に「衣がえの清水」標識がある。弘法大師が衣を濯いだと云われている。旧甲州街道で放水路に落下したことがあり、草深いところには踏み入れていない。
衣がえの清水標識 草深い道
不明の石塔 山の神神社鳥居 廻国供養塔 / 不明の石塔 / 馬頭観音
大勢至菩 酒井元之丞戦死の跡
「衣がえの清水」標識から5分足らずの右手に不明の石塔がある。さらに5分足らずの左手に山の神神社鳥居 / 左手に石仏石塔 / 大勢至菩薩 / 左手に不明の石塔 / 左手に「戊辰戦役旧大垣藩士 酒井元之丞戦死の跡」と案内板 / 社 と続く。慶応4年(1868年)戊辰戦争の会津若松攻めの前哨戦で、白河城攻防戦が展開された。大垣藩銃隊長・酒井元之丞は、敵の銃弾を胸に受けて戦死する。
白坂宿は、芦野宿と白河宿の間が長過ぎる為に設けられた宿場。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:27 だった。「雨が降っても傘いらず」と云われるほど軒を連ねていた。
町並み
すぐに右に分岐する道は旗宿(はたじゅく)道で、約7kmの山道になる。
曽良日記「古関を尋て白坂ノ町ノ入口より右ヘ切レテ、籏宿ヘ行」
■元禄2年(1689年)4月21日
旗宿→白河の関
(しらかわのせき)跡→関山・満願寺-(東山道 / 現:県道伊王野白河線 / 76号線)-白河城下-(陸羽街道)-矢吹宿
五街道としての奥州街道は、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河までとなる。以北は陸羽街道などと呼ばれていた。
旗宿で1泊した芭蕉は翌4月21日霧雨のなか、宿の主人に聞いた集落の西にある住吉・玉津島明神を祀る“いにしえの関の明神”を参拝した。
白河の関 / 鼠ヶ関
(ねずがせき) / 勿来関(なこそのせき) は奥州三関(さんかん)と云われ、古代の奥州との国境に設けられた関所。
曽良日記「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉津島ヲ一所ニ祝奉
(いわいたてまつる)宮有。古(いにしへ)ノ関ノ明神ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山へ参詣」
芭蕉は白河の関に思いを馳せ、「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」とみちのく路に踏み出した感動を込めて記している。「関守の宿を水鶏
(くいな)にとはふもの」と「西か東か先(まず)早苗にも風の音」と詠んでいるが、奥の細道には掲載されなかった。
「卯
(う)の花をかざしに関の晴着(はれぎ)かな」曽良。
この後、集落から北北東にある関山(618m)に登り、山頂の行基開基と云われる満願寺を参拝した。白河の城下に進み、中町左五左衛門を訪ねて4里ほど離れた矢吹宿に到着して一泊した。
芭蕉は白河関跡に行ったのか?
芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)で、白河藩主・松平定信が白河神社のある場所を白河の関跡と断定したのは寛政12年(1800年)である。
白河の関の場所は諸説伝えられていた。宿の主人に聞いた集落の西にある住吉・玉津島明神を祀る“いにしえの関の明神”は、白河神社なのか。
白河関跡は旗宿の南側に位置している。宿の主人に聞いた集落の西にある住吉・玉津島明神 / 曽良日記「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉津島ヲ一所ニ祝奉宮有。」と方角が違っている。
白河関跡 史跡 白河関跡

白河の関入口に、史跡 白河関跡碑 / 関地案内石標 / 式内 白河神社石標 などがある。白河の関は京都〜近江国〜美濃国〜信濃国〜上野国〜下野国を経て多賀城に至る東山道の要衝に設けられた関門で、蝦夷(えみし)の南下や物資の往来を取り締まる機能を果たしていた。 古代日本の律令国家が編纂した六国史(りっこくし)に、養老2年(718年)に初めて記載されている。平安時代(794年〜1185年)中期には閉鎖されたと云われている。

関地案内

白河の関の場所は諸説伝えられていたが、寛政12年(1800年)白河藩主・松平定信が白河神社のある場所を白河の関跡と断定して古関蹟(こかんせき)碑を造立した。
奥州街道(294号線)の東側を通る東山道(現:県道伊王野白河線 / 76号線)沿いにあり、旗宿の南側に位置している。奥州街道・白坂宿から約7kmほどのところにある。
昭和34年(1959年)〜昭和38年(1963年)に実施された発掘調査では、竪穴住居跡 / 掘立柱建物跡 / 空掘 / 土塁 / 柵木
(さくぼく) などの古代の防禦施を示す遺構が発見された。昭和41年(1966年)白河関跡として国の史跡に指定された。

古関蹟
 

白河神社参道 / 鳥居                       幌掛の楓

白河神社参道を進むと、鳥居の手前右手に古関蹟 / 幌掛の楓 がある。幌掛の楓は源義家が安倍貞任攻め(前九年の役)で白河関を通過するとき、この楓に幌をかけて休息したと云われている。

参道を進み階段を登ると、成務天皇5年(135年)創建と云われる白河神社がある。延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載されている式内社で、古来より戦勝を祈願する武人が多く参拝している。

白河神社拝殿

白河神社拝殿左手に、白河の関に題材をとる平安時代の和歌三首が彫られている古歌碑がある。「便りあらばいかで都につけやらむ今日白川の関はこえぬと」平兼盛 / 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」能因 / 「 秋風に草木の露をはらわせて君がこゆれば関守もなし」梶原影季。源頼朝は文治5年(1189年)奥州平定のため平泉に向かう途中、戦勝を祈願している。梶原景季の歌は、この時に源頼朝に命じられて詠んだもの。 白河関は古来より歌枕として数多く詠まれた場所で、能因 / 西行 / 芭蕉 などが訪れている。

古歌碑
 

空堀跡                          土塁跡

白河神社拝殿右手方向に、空堀跡 / 土塁跡 がある。
 
旗立の櫻                         従二位の杉
古関蹟 / 幌掛の楓 から右へ進むと、旗立の櫻 / 従二位の杉 がある。旗立の櫻は治承4年(1180年)源義経が平泉から平家追討に向かう途中、戦勝祈願をした際に源氏の旗をこの桜の木に立てかけたと云われている。旗宿の地名は、この事に由来すると云われている。従二位の杉は鎌倉時代初期 の歌人で新古今和歌集選者の従二位・藤原家隆が、自ら植えたと云われている。幹回りが約6mある樹齢800年の老杉。

従二位の杉から道なりに白河神社拝殿方向へ進むと、奥の細道白川の関碑や「光台に 見しい み志かは 見さりしを 聞きてぞ 見つる 白河の関」西山證空歌碑がある。

奥の細道白川の関碑

2015年 8月 2日(日) 晴

JR東北本線・白河駅より関の森公園行きバスに乗車する。平日より土日祭日の方が、往復の利便性が良い。白河駅10:40→関の森公園11:12 / 関の森公園12:15→白河駅12:47 は、約1時間の散策ができる。関の森公園バス停手前の白河関バス停で下車、運賃は片道660円だった。往復とも途中も含め貸切状態であり、このままでは更なる減便になるかも知れない。旗宿の白河市合併の条件にバス路線存続があり、路線廃止はない様である。
当日は白河関まつり開催日であった。白河の関までの無料バスが運行されていないか期待したが、白河の関は全く関係していない白河関まつりであった。白河関で地元の方2組と雑談したが、“白河関まつり”自体を知らなかった。逆に、ここ白河関で何かやるのかを尋ねられる。
2015年3月白河駅に立ち寄ったときは、バスの便がない時間帯だった。WEBにはタクシーで3000円余の記載が複数あったので聞いて見ると。4500円と告げられ断念している。流石に片道4500円は高い。