奥の細道 岩出山→山寺→羽黒山→酒田→象潟
■元禄2年(1689年)5月13日 一ノ関→平泉→一ノ関 / 5月14日 一ノ関→岩出山
岩出山は岩出山要害の城下町で、岩出山伊達家が領していた。
城下の町並み
応永年間(1394年〜1428年)奥州探題であった大崎氏の家臣・氏家直益が築城した。天正18年(1590年)小田原の陣後の奥州仕置きで、小田原に参陣しなかった大崎義隆と葛西晴信は改易となる。氏家吉継の旧領も含めて、木村吉清が領することになる。岩手沢城には木村吉清の家臣・萩田三右衛門が入城する。同年、大崎氏 / 葛西氏 らの旧臣は反乱を起こす。伊達政宗は葛西大崎一揆鎮圧に向かうが、蒲生氏郷から一揆の扇動を疑われる。関与を疑われた伊達政宗は豊臣秀吉により無罪とされるが、天正19年(1591年)米沢から葛西・大崎旧領に移封される。伊達政宗は岩手沢城に入城して岩出山城に改称、慶長5年(1601年)仙台城築城までの12年間の居城となる。岩出山城は伊達政宗の四男・伊達宗泰を初代とする岩出山伊達家が居住する要害になり、明治維新まで続いた。
岩出山城跡は、城山公園 / 有備館 / 宮城県立岩出山高等学校 / 大崎市立岩出山小学校 となっている。
本丸跡 西の腰曲輪 / 伊達政宗像 伊達政宗像
JR岩出山駅から164号線を西へ道なりに進むと、城山公園がある。西の腰曲輪跡に伊達政宗像がある。仙台城跡に置かれていたもの。仙台城跡の銅像は第2次世界大戦における金属類回収令で失われ、コンクリート造りになっていた。昭和37年(1962年)に移設された。
有備館(ゆうびかん)は、元禄4年(1691年)頃に岩出山伊達氏3代・伊達敏親により城内の隠居所・下屋敷の敷地内に開設された仙台藩の学問所(春学館)。元禄4年(1691年)城の北麓にあたる現在地に移転、有備館と改称される。茅葺きの書院造の御改所(主屋)は、寛永9年(1633年)岩出山伊達氏2代・伊達宗敏によって建てられた日本最古の学問所建築物。城山公園の北側にあり、有備館駅に近い。
有備館の南東側に阿部東庵記念館がある。長崎で蘭学、京都で茶道 / 歌道 / 医学 を学んだ。岩出山伊達家10代・伊達邦直に仕えた御奉薬係 / 御典医。

■元禄2年(1689年)5月15日 岩出山→鳴子町(通過)→堺田 2泊 / 5月17日 堺田→笹森関所→山刀伐峠(なたぎりとうげ)→尾花沢 10泊 5月25日夜、庚申待に招待される。

鳴子温泉は、古代から中世にかけては“玉造湯(たまつくりのゆ)”と呼ばれていた。福島・飯坂温泉 / 宮城・秋保温泉 とともに奥州三名湯に数えられた。鳴子こけしは、文化・文政年間(1804年〜1830年)頃が始まりと云われている。
鳴子郵便局風景印は、荒雄岳 / 鳴子ダム / 鳴子こけし の図柄になっている。
鳴子こけしポスト 鳴子郵便局風景印
庚申待(こうしんまち)

人の体には三尸(さんし)という虫がおり、60日周期で訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝に告げに行くとされる。罪状により寿命が縮められる。三尸は起きていれば告げに行くことがないので、この晩は夜通し騒いで寝ずに過ごすのである。室町時代の中頃から庚申待が行われる様になり、さらに講集団が組織された。江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、供養のため庚申塔が造立される様になった。

■元禄2年(1689年)5月27日 尾花沢→立石寺

JR仙山線・山寺駅より北に進み、すぐの突き当りを右折する。すぐの十字路を左折して、すぐに立合川に架かる山寺宝珠橋を渡る。すぐのT字路を右折すると、左手に登り口がある。
[交通]JR仙山線・山寺駅-(徒歩10分足らず)-山寺登り口

五大堂 / 開山堂
宝珠院立石寺(りっしゃくじ)は貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で慈覚大師円仁が創建したと云われ、山寺(やまでら)の通称で知られている。
地蔵群 弥陀洞からの仁王門
芭蕉は人々が勧めるので、尾花沢から立石寺を訪れた。約30kmの道のりで、到着後はまだ陽が残っていた。麓の坊に宿を借りて、山上の御堂に登った。弥陀洞(みだほら)辺りで、「閑さや岩にしみ入蝉の声」が詠まれたと云われている。
立石寺には雨風に削られた風化した洞窟が多く、祠が置かれているところもある。
開山堂 / 五大堂
眼下に立合川に架かる山寺宝珠橋 / 山裾を通るJR仙山線と山寺駅 が見える

■元禄2年(1689年)5月28日 立石寺→天童→最上川中流に位置する船着き場である大石田 3泊 / 6月1日 大石田→舟形町→新庄 2泊
新庄の風流宅で「水の奥氷室尋ぬる柳哉」 / 風流の本家筋に当る盛信宅で「風の香も南に近し最上川」と詠んだ。

JR奥羽本線・新庄駅スタンプ
JR奥羽本線・新庄駅構内展示の山車 新庄城の本丸南西隅にある天満宮

毎年8月24日〜26日に開催される新庄まつりは、天満宮の例祭で東北三大山車祭とされる。天満宮は応永年間(1394年〜1428年)角館時代から続く戸沢氏の氏神で、転封に伴い移転してきた。元和8年(1622年)新庄藩に転封になると新庄城下へ移転、新庄城が完成すると寛永5年(1628年)戸沢氏の氏神と城の鎮守社として新庄城の本丸南西隅に移転した。天満宮社殿は寛文8年(1668)に新庄藩2代・戸沢正誠が再建したもの。宝暦6年(1756年)領内泰平風雨順時五穀成就諸人快楽を祈願して行われた天満宮祭りが新庄まつりの起源とされる。藩政時代を偲ばせる古式ゆかしい神輿渡御行列などが催される。往時は、藩主が在城の隔年に行われていた。

新庄は山形県北東部に位置する盆地で、国内有数の豪雪地帯として知られている。家屋を守るための雪囲いも見られる。
家屋の雪囲い

■元禄2年(1689年)6月3日 新庄→川舟にて東田川郡立川町を経由して羽黒町 7泊

出羽三山 / 五重塔 / 鏡池 は、歌枕として数多く登場している。江戸時代に参拝した方により造立された出羽三山供養塔は、各地で見られる。
芭蕉は6月3日から9日まで滞在、6月5日 羽黒山にて「涼しさやほの三か月の羽黒山」 / 6月6日 残雪残る月山にて「雲の峰いくつ崩れて月の山」 / 6月7日 湯殿山にて「語られぬ湯殿にぬらす袂
(たもと)かな」と詠んだ。

出羽三山の入口は、羽越本線・鶴岡駅になる。羽黒山は鶴岡駅前-(バス約35分)-羽黒随神門-(徒歩約10分)-五重塔-(徒歩60分〜90分)羽黒山頂 / 月山は鶴岡駅前-(バス約90分)-月山8合目-(徒歩2時間30分〜3時間)-月山 / 湯殿山は路線バスがなく、タクシーなどの利用となる。

山伏がいる出羽三山の駅。羽黒山 / 月山 / 湯殿山 / 山伏 の図柄になっている。 出羽三山といで湯の町。法螺貝 / 羽黒山五重塔(国宝) の図柄になっている。
羽黒山 / 月山 / 湯殿山 は出羽三山と呼ばれ、古くから山岳修験道の山岳信仰の山として知られている。羽黒山は標高414mの山で、出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置している。羽黒山には、三山の神を祀る出羽三山神社・三神合祭殿 / 五重塔(国宝) がある。
羽黒山五重塔は、承平年間(931年〜938年)平将門によって建立されたと云われている。現存する五重塔(国宝)は、応安5年(1372年)に羽黒山の別当・大宝寺政氏が再建したと云われている。
 
杉木立の2446段の羽黒山参道
出羽三山神社・三神合祭殿 / 鏡池
鏡池に映る出羽三山神社・三神合祭殿
文政元年(1818年)再建の出羽三山神社・三神合祭殿前に鏡池がある。古くは“羽黒神社”を“いけのみたま”と読ませており、信仰の対象となっていた。古くから奉納された銅鏡が埋納されているので鏡池と呼ばれている。
鐘楼 蜂子神社などの境内社
鐘楼は元和4年(1618年)出羽山形藩2代・最上家信によって建立されたもの。
■元禄2年(1689年)6月10日 羽黒町→鶴岡 3泊
「珍しや山をいで羽の初茄子び」と詠んだ。
日枝神社 町並み 内川沿いの 家並み

鶴岡は亀ヶ崎城の城下町。元和8年(1622年)出羽山形藩3代・最上義俊はお家騒動(最上騒動)により改易となる。信濃国・松代城より譜代大名・酒井忠勝が庄内藩145万石として入封、明治維新まで続く。古くから庄内平野の中心地であり、江戸時代初期には145軒も造り酒屋があった。日枝神社は鶴岡で最も古い神社と云われている。

■元禄2年(1689年)6月13日 鶴岡から川舟に乗って酒田 2泊
「暑き日を海にいれたり最上川」「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」と詠んだ。
JR羽越本線・酒田駅スタンプは、飛島 / 山居倉庫 の図柄 と「暑き日を海にいれたり最上川」がある。
最上川河口 / 木造六角灯台
酒田は平安時代初期には出羽国の国府が置かれていた地で、最上川が日本海に注ぐ河口に位置している。古くから日本海沿岸や内陸河川交通の要地として、多くの豪商が軒を並べていた。寛文12年(1672年)西回り航路(北海道〜北陸 〜山陰〜下関〜瀬戸内海〜大坂〜江戸)が開拓され、北前船が往来した。江戸時代中期の酒田は、戸数3800軒 / 酒屋20軒 / 染屋18軒 / 鍛冶屋58軒 / ローソク屋17軒 / 油屋33軒 / 研ぎ師2軒 / 桶屋42軒 / 大工122軒 / 木挽き26軒 / 回船問屋97軒 / 川舟(2〜5人乗り)218艘 / 川舟(1人乗り)255艘 / 漁舟39艘 の記録がある。酒田の代表的な産物は刃物 / 木工品 / 酒 などで、蝦夷地(現:北海道)で使用された打刃物のほとんどは酒田産であった。
 
常夜燈                         木造六角灯台
日本海 / 酒田港 / 最上川河口を一望できる日和山公園に、文化10年(1813年)造立の常夜燈 / 明治28年(1895年)建立の木造六角灯台 / 往時活躍した千石船(1/2で再現) などがある。 酒田郵便局風景印 は、鳥海山 / 旧灯台 / 日和山公園 の図柄になっている。
千石船 酒田郵便局風景印
酒田は亀ヶ城の城下町でもあった。 元和8年(1622年)出羽山形藩3代・最上義俊は改易となり、酒井忠勝が庄内藩13万8000石で入封、鶴ヶ岡城を居城とした。亀ヶ崎城は支城として存続、城代が置かれ明治維新まで続いた。僅かに土塁が残る。
酒田東高と八幡神社の間にある土塁
 
本間家旧本邸                         本間家別館
酒井本間家は佐渡本間氏の分家で、酒田を中心に日本最大の地主と称された大庄屋・豪商。元禄2年(1689年)新潟屋の暖簾を掲げた本間原光を初代とする。3代・本間光丘は士分の取り立てを受け庄内藩の財政再建に取り組み、砂防林の植林も行った。大名貸では東北の多くの大名家から借入要請に応えた。そこから得た利益を元手に土地を購入、拡大した。さらに北前船交易の隆盛もあり、三井家 / 住友家 に劣らぬ大商家となった。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇った。
本間家旧本邸は 明和5年(1768年)本間家3代・光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造した旗本2000石格式の長屋門構えの武家屋敷。本間家別館は、新潟屋開業から代々商いを営んだ場所。
宝暦5年(1755年)〜宝暦6年(1756年)宝暦の大飢饉で多くの農民が餓死したことから、豊作のときには米を庄内藩の米倉に貯蔵しる備蓄計画を起案した。この計画は昭和20年頃まで維持された。
酒田駅前郵便局風景印は、本間美術館本館 / 庭園・鶴舞園 の図柄になっている。
 
浄福寺唐門                       浄福寺本堂
浄福寺は文明7年(1475)肥後菊池家の一族・菊池武明が出家して本願寺道場を創建したのが始まりと云われている。浄福寺唐門は、本間家3代・本間光丘が死去する前年の寛政12年(1800年)に寄進したもの。京都や近江の職人を呼びよせ、莫大な資金を掛けて建立した。
 
日枝神社随神門                      日枝神社拝殿

日枝神社は貞観17年(875年)近江国坂本の山王宮(日吉大社)を勧請、寛永13年(1636年)現在地に移転する。現社殿は天明4年(1784年)本間家3代・本間光丘によって建立された。本間光丘が寄進した随神門は明治27年(1894年)の震災で倒壊、明治40年(1907年)本間家6代・本間光輝が再建した。
庄内藩の支藩・松山城(松嶺城)の大手門は、寛永4年(1792年)本間重利が寄進したものである。松山城大手門は、山形県内で唯一の現存する城郭建築物である。

鎧屋(あぶみや)は酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄した。石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りの屋敷は、弘化2年(1845年)の大火後の再建と云われている。内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷 / 板の間 が並んでいる。
鎧屋
 
宿泊ホテルからの眺望                       山居倉庫     
 
ケヤキ並木 / 山居倉庫                      三居稲荷神社
山居(さんきょ)倉庫は明治26年(1893)に建てられた米保管倉庫。敷地は新井田川(にいだがわ)の中洲にあり、船着場も設けられていた。最上川舟運の拠点のひとつで、港が近く舟運にも適していた。当初は本間家が出資して酒井家が経営していた。白壁 / 土蔵造り 9棟からなり、米10800トン(18万俵)の収容ができる。夏の高温防止のために背後にケヤキ並木、内部の湿気防止のために二重屋根になっている。先人の知恵が生かされた倉庫で、令和4年(2022年)まで米倉庫として使用された。樹齢150年以上のケヤキ35本が連なる中程に三居稲荷神社がある。旧藩主・酒井家の太郎稲荷および徳川家の禎祥稲荷を勧請して、山居稲荷神社に合祀して三居稲荷神社と改称して倉庫鎮守とした。

■元禄2年(1689年)6月15日 酒田→吹浦 / 6月16日 吹浦→象潟(きさがた)2泊

象潟は松島と並ぶ風光明媚な歌枕で、芭蕉は「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容した。「象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」「汐越(しおこし)や鶴はぎぬれて海涼し」と詠んだ。西施は中国春秋時代の美女の名前。

JR羽越本線・象潟駅から西に進む。すぐの象潟駅前交差点を右折して7号線を北へ進むと、5分足らずところに交差点がある。すぐの五差路を北西方向に、川沿いに進む。すぐの突き当りを左折して西に進むと、すぐ右手に文治2年(1187年)創建の熊野神社鳥居がある。
[交通]JR羽越本線・象潟駅-(徒歩約10分)-熊野神社
象潟駅スタンプは、鳥海山 / 蚶満寺
(かんまんじ)/ 九十九島 の図柄になっている。
象潟駅スタンプ
熊野神社は神明の森と呼ばれる小高い丘にあり、芭蕉や江戸時代後期の旅行家・菅江真澄らが訪れている。往時は鳥海山と九十九島(つくもじま)が一望出来たと云われている。芭蕉が訪れたときは熊野神社の祭りの日で、宿が女客でいっぱいだったため宿を替えたと云われている。曾良は「象潟や 料理何くふ 神祭」と詠んでいる。
熊野神社
蚶満寺山門 蚶満寺本堂 蚶満寺鐘楼
熊野神社鳥居から東へ進む。すぐの中橋を渡り道なりに進むと、7号線と斜めに交差する。交差点を東方向に進み、JR羽越本線の踏切を越える。すぐのT字路を左折して北に進むと、すぐにJR羽越本線沿いの道となる。すぐ右手に仁寿3年(853年)創建の蚶満寺(かんまんじ)境内が広がる。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られる。江戸中期の建立と云われる山門は、木造切妻造瓦葺の八脚門。
[交通]JR羽越本線・象潟駅-(徒歩約15分)-蚶満寺
蚶満寺境内からの眺望(左:駒留島) にかほ市象潟町マンホール
紀元前466年に鳥海山が噴火、山体崩壊により浅い海と多くの小島できた。やがて砂丘によって仕切られて潟湖となり、小島には松が生い茂り風光明媚な象潟の地形ができあがった。古来より歌枕の地として知られ、古今和歌集や新古今和歌集などにも登場する。江戸時代には、東の松島 / 西の象潟 と称された。芭蕉は西行を偲んで訪れ、芭蕉を偲んで与謝蕪村や小林一茶が訪れている俳人の巡礼地。
元禄2年(1689年)6月に松尾芭蕉が奥の細道で訪れ、九十九島
(つくもじま)と呼ばれた象潟の景観を絶賛している。芭蕉は中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んでいる。
文化元年(1804年)象潟地震で海底が隆起して陸地化した。現在も102の小島が丘となって水田地帯に残り、往時を偲ぶことができる。
蚶満寺境内から線路沿いに南に進み、JR羽越本線の踏切を渡る。すぐに左折して7号線を南に進む。 象潟駅前交差点から5分ほどの左手に秋田象潟郵便局がある。風景印は、鳥海山 / 九十九島(つくもじま) / 小砂川海岸 の図柄になっている。
秋田象潟郵便局風景印