奥の細道 関ケ原→大垣
■元禄2年(1689年)8月21日頃
芭蕉は、敦賀まで出迎えに来た路通と大垣に着いた。敦賀から大垣までの道筋は解っていないが、関ケ原宿-(中山道 / 約5.5km)-垂井宿-(美濃路 / 約10km)-大垣宿 と結びの地に向かったと思われる。
脇本陣門が残る相川脇本陣跡 / 江戸時代前期の高僧・至道無難禅師生誕地石標 から中山道(21号線)を東に進む。
相川脇本陣跡 至道無難禅師生誕地石標
[寄り道]JR東海道本線・関ヶ原駅
すぐの関ヶ原駅前交差点を左折して北に進むと、すぐ右手に由緒がありそうな古民家 / すぐにJR東海道本線・関ヶ原駅がある。
古民家 JR関ヶ原駅
町並み 法忍寺 若宮八幡神社
関ヶ原駅前交差点から東に進む。5分ほどすると、左手に法忍寺 / 左手に関ヶ原の戦いのときに社殿が焼失した若宮八幡神社 と続く。
若宮八幡神社から5分ほどすると分岐があり、旧中山道は左方向に進む。すぐ左手に地蔵の祠がある。この道はJR東海道本線と21号線に挟まれた道で、5分ほどすると56号線に突き当たる。
地蔵 町並み
旧中山道は右折して56号線を南に進む。すぐの21号線との一ノ軒交差点手前を左折して細い道を東に進む。
[寄り道]徳川家康最初陣地跡
山内一豊出世の松案内板
徳川家康最初陣地跡 山内一豊出世の松
秋葉神社 真念寺 地蔵
一ノ軒交差点から21号線を東に進む。車道は除雪しているが、歩道は雪が積もったままである。すぐ右手に徳川家康最初陣地跡がある。5分ほどすると左方向に旧中山道の松並木が見え、左手に案内看板 / 左下方向に山内一豊出世の松 がある。すぐ左手に天下茶屋がある。5分ほどすると左手に秋葉神社、5分ほどすると右手に真念寺 / 左手に地蔵の祠と続く。5分ほどすると右手に若宮八幡神社石標、奥に鳥居が見える。社殿は東海道新幹線を越えたところにある。5分ほどすると、日守西交差点で旧中山道と交差する。
若宮八幡神社鳥居
六部地蔵
関ヶ原宿道標 松並木
旧中山道は右折して56号線を南に進む。すぐの21号線との一ノ軒交差点手前を左折して、細い道を東に道なりに進む。5分ほどの右手に六部地蔵 / 右手に関ヶ原宿道標 / すぐ左手に山内一豊陣跡(東軍)と続く。
六部または六十六部は、日本廻国大乗妙典六十六部経聖
(ひじり)の略称。法華経六十六部を写経,日本全国六十六ヵ国に納経するために廻国した。江戸時代になると、全国社寺を巡礼して修業している人を言う様にもなった。宝暦11年(1761年)読経して行脚中の行者がこの地で亡くなり、里人が祠を建立したと云われている。
山内一豊陣跡
野上七つ井戸 町並み 伊冨岐神社鳥居
町並み 道標 中山道垂井宿案内板
山内一豊陣跡から10分ほどすると。左手に野上七つ井戸がある。5分ほどすると左手に伊冨岐神社鳥居がある。5分ほどの21号線バイパスを越えると、すぐ左手に「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」道標 / すぐ左手に中山道垂井宿案内板 と続く。野上は間(あい)の宿だったところ。
すぐに日守西交差点で21号線と交差、すぐ右手に垂井一里塚 / 右手に日守の茶所 と続く。垂井一里塚は南側のみであるか、ほぼ完全な形で残っている。東京都板橋区にある志村一里塚とともに、中山道の国指定文化財の一里塚になっている。この辺りが、浅野長政嫡男・浅野幸長陣跡(東軍)。
垂井一里塚
日守の茶所 西濃新四国四拾五番札所 弘法大師 地蔵の祠
日守の茶所は、関ヶ原山中にあった秋風庵を明治になって移築したもの。大垣新四国八十八ヶ所弘法45番札所になっており、「西濃新四国四拾五番札所 弘法大師」と彫られた石柱 / 左手に地蔵の祠 がある。
道標 不明の石塔 / 地蔵 松島稲荷神社
日守の茶所から5分ほどすると、右手に「南宮江近道八町」と彫られた道標がある。すぐに日守交差点で21号線を斜めに横断、東海道本線の踏切を渡る。5分ほどすると、左手に不明の石塔 / すぐ右手に松島稲荷神 / すぐ右手に地蔵 と続く。
地蔵
町並み 八尺堂地蔵道道標 愛宕神社
西の見付跡 本龍寺 油屋卯吉の家
地蔵からすぐのY字路を右に進む。すぐに前川に架かる橋を渡り、十字路を過ぎたところが垂井宿西口になる。右手に八尺堂地蔵道道標 / 右手に愛宕神社 / 右手に西の見付跡 / 左手に本龍寺 / 右手に文化末年(1817年頃)築の油屋卯吉の家 / 左手に旧旅籠長浜屋 と続く。
八尺堂地蔵は地下八尺から掘り出された大日如来石像を、八尺四方の堂を建立して祀ったと云われている。本龍寺の山門は、明治時代に脇本陣の門を移築したもの。油屋卯吉の家は土蔵造りに格子を入れ軒下には濡れむしろを掛ける釘をつけるなど、宿場時代の商家の面影を残す建物。
旧旅籠長浜屋
■中山道69次 57番 垂井(たるい)宿
所在地:岐阜県不破郡垂井町
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1179人 家数:315 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:27
古くからの主要道で、国府が置れていた。一の宮(南宮大社)の門前町として、美濃地方の中心地であった。江戸時代には美濃路と中山道の追分で栄えた。物資の流通が増えたことから、大八車が5街道で初めて使用許可された。参勤交代の大名 / 日光例幣使 / お茶壺 / 善光寺参り / 朝鮮通信使 / 琉球使節などの往来があった。西町 / 中町 / 東町の3町に分かれ、本陣は中町 / 問屋場は3ヶ所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で六斎市が開かれた。西の見付は宿場の西入口で、東の見付までは766mあった
南宮社大鳥居 道標
旧旅籠長浜屋からすぐ右手に南宮大社大鳥居(重文)がある。大鳥居は寛永19年(1642年)三代将軍・徳川家光の寄進により南宮社が再建されたとき、約400両で石屋権兵衛が建立した。大鳥居の左側に「南宮社江八町」と彫られた道標がある。一町は109.09m、八町は872.72mになる。鳥居の西側辺りに、脇本陣があったと云われている。
南宮社大鳥居からすぐ右手に金岩家問屋場跡がある。東の桝形を過ぎると、左手に安永6年(1777年)築の旅籠丸亀屋がある。東側から見ると、突き当りにある。旅籠丸亀屋は、浪花講や文明講の指定旅籠であった。
問屋場跡 東側から見た旅籠丸亀屋
東の桝形から5分足らずの右手に東の見付跡 / 右手に相川の人足渡跡 と続く。東の見付は宿場の東入口で、西の見付までは766mあった。相川は昔から暴れ川で、時々氾濫を起こしていた。橋を架けることが難しく、人足渡しであった。
東の見付跡 相川の人足渡跡
相川橋を渡り、相川橋北交差点を右折する。すぐに梅谷川に架かる追分橋を渡ると、すぐに美濃路と中山道の垂井追分がある。直進して東に進むのが:美濃路 左折して北に進むのが中山道。三角地地帯の手前に「← 中山道」「→ 美濃道」道標 / 奥に宝永6年(1709年)造立の「是より 右 東海道大垣みち 左 木曾街道たにぐみみち」道標 / がある。
垂井追分道標 垂井追分道標
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織田信長が元服した古渡城 / 清州城 など、織田信長の天下布武への道でもあった。関ヶ原の戦いでは、東軍の先鋒である福島正則が起(現:愛知県一宮市)から美濃へ進軍した。戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、吉例街道とも呼ばれた。
江戸時代の東海道は熱田宿(宮宿)と桑名宿は七里の渡しであったが、水難事故が起こり易い難所とされていた。このため遠回りであるが、美濃路と中山道を利用することも多かった。将軍上洛時 / 朝鮮通信使 / 琉球王使 / お茶壺道中 などが通行した。
宿場は、宮宿(愛知県名古屋市熱田区) / 名古屋宿(愛知県名古屋市中区) / 清須宿(愛知県清須市) / 稲葉宿(愛知県稲沢市) / 萩原宿(愛知県一宮市) / 起宿(愛知県一宮市) / 墨俣宿(岐阜県大垣市) / 大垣宿(岐阜県大垣市) / 垂井宿(岐阜県垂井町) があった。
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垂井追分からすぐ左手に垂井郵便局がある。風景印は、垂井祭の曳き山車 / 重文の南宮大社楼門 の図柄になっている。すぐの流交差点を過ぎると垂井の松並木になる。10分足らずで松並木は終わる。
垂井郵便局風景印
垂井の松並木 美濃路標識  垂井の松並木
垂井の松並木が途切れてから5分ほどすると、JR東海道本線・大垣街道踏切を渡る。5分ほどすると綾戸北交差点があり、さらに5分足らずの左手に六社神社がある。すぐ左手に由緒ありそうな門がある。この辺りから美濃路は途切れている。
六社神社 由緒ありそうな門
5分ほどの21号線の綾戸口交差点手前を左折して東に進む。こここから美濃路が復活するが、5分足らずで突き当り美濃路は途切れる。東に進み、八幡神社辺りから南に進んでいた様である。突き当りを右折して迂回する。すぐに21号線に突き当たる。左折して21号線を東に進む。5分ほどの長松町東交差点から左方向に進む。すぐ左手に八幡神社鳥居がある。
八幡神社鳥居
慈応寺 敬恩寺
八幡神社鳥居からすぐに21号線を潜るT字路があり、右折して南に進む。ここから美濃路が復活する。美濃路は北に延びていた。5分ほどの右手に木造薬師坐像と木造十一面観音立像の案内板がある慈応寺 / すぐ右手に敬恩寺 と続く。5分足らずの十字路を左折すて東に進むと、すぐ左手に社がある。
社からがすぐのT字路を右折して南に進む。すぐ右手に2基の道標が並んでいる。手前の道標は「従是 南宮社 近道」と彫られている。南宮社は直線距離で4kmほど離れている。どの様に進んだら近道なのか、少し気になるところ。奥の道標は「← 大垣 岐阜」「→ 垂井 京都」が並び、下に「道」と彫られている。
美濃路道標 南宮社道標
林松院 美濃路の名残りの様な道 白鬚神社
2基の道標からすぐの右手に林松院がある。美濃路はすぐのY字路を左方向に進み、大谷川を渡っていた。Y字路を右方向に進み迂回する。すぐの214号線を左折して大谷川を渡る。左手下に途切れた美濃路の名残りの様な道がある。渡り終えたら、すぐに左折してすぐに右折する。美濃路が復活、すぐ右手に白鬚神社がある。すぐの左角に社があり、道は変則十字路になる。右折して左折する様に東に進む。
5分ほどすると突き当り、美濃路は途切れる。斜めに横切る様に、南側を通る214号線 / 31号線 の中曽根町西交差点辺りに通じていた。31号線を東に進むと、5分ほどのところに中曽根町交差点がある。往時の名残りはないが、中曽根町西交差点辺りから中曽根町交差点辺りは、美濃路の経路となる。中曽根町交差点で再び途切れ、31号線を東に進む。5分足らずのところを左折すると、すぐに美濃路に突き当たる。左折して西に進むとすぐに美濃路は途切れる。
右折して美濃路を東に進むと、5分ほどの右手に常夜燈 / すぐ左手に瓊瓊杵(ににぎ)神社と続く。
常夜燈 瓊瓊杵神社
古民家 法栄寺 秋葉神社
瓊瓊杵神社から東に進み、5分ほどの十字路を右折して南に進む。すぐに31号線と交差する。迂回して西側にある静里町交差点で31号線を越える。美濃路を南に進むと、すぐ右手に法栄寺 / 隣接して秋葉神社と続く。
秋葉神社からすぐに南東方向に曲がる。T字路を左折して北東に進むとすぐの突き当りに長源寺がある。
長源寺
T字路まで戻り、南東方向に土手道を進む。すぐに大きく曲がり、分岐を左方向に進む。曲がりくねりながら杭瀬川に架かる塩田橋方向に進む。途中、土手の中段右手に祠が見える。
杭瀬川に架かる塩田橋を渡る手前に、明治13年(1880年)造立の塩田常夜燈がある。木製 / 高さ約4.3mの銅板葺 で、造立時は茅葺であった。往時ここには塩田港があり、杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識だった。杭瀬川の水運は物資輸送に重要な役割を果しており、赤坂港と桑名港間の航行が盛んであった。中継港として塩田港は、常に20〜30隻の船が停泊していた。船頭相手の銭湯 / 米屋 / 雑貨屋 などの店が軒を並べて賑わっていた。
塩田常夜燈
杭瀬川に架かる塩田橋を渡り、道なりに杭瀬川沿いに進む。31号線に突き当たる手前で大きく曲がるところ、右手に天文4年(1535年)室町幕府12代将軍・足利義晴の命で若森城城主・宮川安定が創建したと云われる徳円寺がある。
塩田橋 徳円寺
31号線に突き当り、右折して東に進む。すぐに山王用水を越えると、、すぐに養老鉄道の踏切を渡る。すぐ左手に水神神社 右手に愛宕神社 がある。愛宕神社は、暗い地下道か高所恐怖症には辛い歩道橋は避け立ち寄っていない。
水神神社 愛宕神社
稲荷神社 大泉寺 大垣船町郵便局
大垣船町郵便局風景印 常隆寺 町並み
すぐの船町交番前交差点を暗い地下道で潜ると、すぐ左手に稲荷神社 / すぐ右手に大泉(だいせん)寺 / すぐ右手に周囲の町並みに合わせた大垣船町郵便局 / すぐ左手に常隆寺 と続く。大垣船町郵便局の風景印は、住吉燈台 / 奥の細道むすびの地 の図柄になっている。
水門川 川船
常隆寺から東に進むと水門川があり、西岸が奥の細道むすびの地となっている、元禄2年(1689年)3月27日 深川の採荼庵(さいとあん)を出立して約5ヶ月、奥の細道の旅が終わる。
水門川は大垣市笠縫町付近から大垣城に沿う様に流れ、牧田川から揖斐川を経て伊勢湾に至る。揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っていた。
芭蕉は「伊勢にまかりけるを 人の送りければ」「蛤のふたみに別行秋そ」と詠み、9月6日に船町港から水門川を船で下り桑名宿に向かい伊勢神宮遷宮に拝礼した。故郷の伊賀上野 / 京都 / 大津・義仲寺 などを巡り、元禄5年(1692年)5月に江戸に帰った。
新しい芭蕉庵に2年ほど居住、再び上方に旅に出る。元禄7年(1694年)大坂・花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、51歳で逝去する。
史跡 奥の細道むすぶの地 松尾芭蕉の旅立ちを見送る谷木因
谷木因俳句道標 蛤塚 谷木因白桜塚
水門川の西岸に、奥の細道むすびの地案内板 / 「史跡 奥の細道むすぶの地」石柱 / 松尾芭蕉の旅立ちを見送る谷木因像 / 「南 いせ くわなへ十り さいがうみち」谷木因俳句道標 / 蛤塚 / 「惜むひげ剃りたり窓に夏木立」谷木因白桜塚 などがある。
谷木因(たに ぼくいん)は大垣の廻船問屋で、北村季吟(きたむら きぎん)の門人。松尾芭蕉とは同門の友人である。野ざらし紀行のとき、木因亭に泊まっている。隠居宅を、白桜下と名付けている。