奥の細道旅立ち

芭蕉は隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家
元禄2年(1689年)3月27日 芭蕉46歳のとき、弟子の河合曽良とともに深川の杉山杉風の採荼庵(さいとあん)から出立する。
都営地下鉄大江戸線 / 東京メトロ半蔵門線・清澄白河駅から463号線(清澄通り)を南に進む。10分足らずの仙台堀川に架かる海辺橋を渡ると、すぐ右手に採荼庵跡 / 芭蕉像 がある。

採荼庵跡
仙台堀川は寛永年間(1624年〜1644年)に開削された運河で、芭蕉は仙台堀川を利用したと推定される。仙台堀川から隅田川を遡り、千住で舟を降りた。千住は現在の千住大橋付近と推定されている。千住大橋の北側左手の大橋公園に、「奥の細道 矢立初めの地」石標がある。芭蕉は、ここで見送りの人と別れたとされる。矢立の初め「行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪」
千住大橋 奥の細道 矢立初めの地
大橋公園からすぐに足立市場前交差点がある。旧日光街道は市場前の旧道を進む。すぐ右手に「ひだり草加 日光道中千住宿 みぎ日本橋」標柱 / 芭蕉像 / 案内板 / 休憩所 がある。
標柱 芭蕉像
JR常磐線・北千住駅のスタンプは、奥の細道へ旅立つ松尾芭蕉「芭蕉旅立ちの地」の図柄になっている。
北千住駅のスタンプ
河合曾良
河合曾良(かわい そら)は江戸時代中期の俳諧師で、蕉門十哲の一人とされる。慶安2年(1649年)信濃国高島城下の下桑原村(現:長野県諏訪市)高野七兵衛の長男として生まれる。両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時に養父母が亡くなったため、伊勢国長島の住職・深泉良成に引き取られる。寛文8年(1668年)頃より長島藩主・松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。松尾芭蕉の奥の細道における奥州 / 北陸 の旅に同行、行脚の史実を正確に伝える曾良旅日記(重文)を残した。
宝永6年(1709年)幕府巡見使の1人として九州を廻るが、宝永7年(1710年)壱岐で病に掛かる。対馬に向かう一行と別れ、壱岐国可須村風本(現:壱岐市勝本)の中藤家で62歳で病死したと云われている。勝本公民館バス停から勝本港沿いの道を北へ進むと、左手に「河合曾良終焉之地」石柱がある。
雨にけぶる勝本港 河合曾良終焉之地石柱
壱岐市の北側に位置している城山バス停から382号線を北へ進むと、すぐ左手に標識がある。道なりに進むと、左手の能満寺の中藤家墓地に河合曾良の墓がある。
[交通]郷ノ浦フェリーターミナル-(バス)-郷ノ浦本町バス停-(バス)-城山バス停
河合曾良の墓
城山バス停から左へ進む。すぐのY字路を右方向に坂を登ると、城山公園がある。名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐に、天正19年(1591年)兵站基地として勝本城を築城する。慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去して朝鮮から撤兵した後に建物は取り壊された。本丸跡の石垣や礎石群が残されている。本丸跡からは、勝本港 / 若宮島 / 辰の島 / 名烏島 などが見える。あいにく訪問時は暴風雨警報で対馬への船便が欠航になる天気で、けぶってよく見えない。
本丸石垣
河合曾良句碑 曾良280年忌記念碑 御柱
城山公園に、「ゆきゆきて たふれ伏すとも 萩の原」河合曾良句碑 / 平成元年(1989年)造立の曾良280年忌記念碑 / 御柱 がある。平成6年(1994年)生誕の地・諏訪市と終焉の地・旧勝本町は、友好都市提携を結び現在に至っている。御柱は、6年間の役目を終えた古御柱を諏訪市から譲り受けたもの。平成10年(1998年)から続き、既に4回目となっている。
正願寺山門 正願寺本堂 河合曾良の墓
 元文5年(1740年)没後30年を経て、故郷・諏訪の正願寺にも墓が造立された。
旧甲州街道は上諏訪駅方面に進むと、元町交差点から二筋に分かれる。上諏訪宿の宿場通りを右へ、北に進む。元町交差点からすぐの右手に貞松院の塀が見える。右折して塀沿いに進むと、すぐ右手に上原五山の法明寺と光明寺が合併した法光寺がある。法光寺からすぐの右手に、永禄5年(1562年)に再興されたと云われる正願寺がある。
長野県諏訪市岡村1-15-3
JR中央本線・上諏訪駅からは徒歩約10分