紫式部
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紫式部のことはほとんど解かっていない。
■藤原為時(949年頃〜1029年頃)と藤原為信の娘との間に、天禄元年(970年) / 天延元年(973年) / 天元元年(978年) などの誕生年説のある次女が生まれる。
■次女の本名は解っていない。当時の呼称からすると、藤原為時の女となる。
■藤原為時の次女の日記には幼い頃の父との思い出は綴られているが、母のことは記されていない。そのため、母の記憶がないほど幼い時に死別したと云われている。
次女が生まれ育ったのは、父方の曾祖父・藤原兼輔(877年〜933年)が残した堤第と云われている。
■長徳3年(998年)藤原為時の次女は藤原宣孝に嫁ぐが、藤原宣孝と云われる詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」があり、「藤原もも」とする説がある。
■兄弟は、姉と藤原惟規である。姉は長徳2年(996年)父の任官により家族で越前国へ赴く以前に天然痘で死去したと云われている。藤原惟規は天延2年(974年)生まれであるが、次女の誕生年が解らないので兄または弟なのか解らない。
■藤原為時は藤原為信の娘が死去後、再婚している。後妻(不明の女)との間に、惟通 / 定暹 / 女(藤原信経室) の3人がいる。
■長徳3年(998年)藤原為時の次女は藤原宣孝に嫁ぎ、側室になった。
藤原為時の次女の年齢は、誕生年が天禄元年(970年)の場合は28歳 / 天延元年(973年)の場合は25歳 / 天元元年(978年)の場合は20歳 となる。往時の結婚年齢からすると、20歳でも遅い。
■藤原宣孝は父・藤原為時の元同僚で、確認されているだけでも既に3人の女性との間に4人の息子がいる。藤原宣孝の生年は不明である。長男・藤原隆光が藤原為時の次女と同じ位の年齢であることから、藤原為時の次女より20歳位年長であったと云われている。また藤原為時の次女は嫡妻(正妻)ではなく側室だった。藤原宣孝は正妻と暮らし、藤原為時の次女のもとに通っていたと云われている。藤原為時の次女と宣孝の間には、長保元年(999)頃に娘(大弐三位)が生まれる。藤原宣孝は長保3年(1001年)に病没した。嫁いでから3年後のことである。
■長保3年(1001年)藤原宣孝が病没して後家になった藤原為時の次女、宮廷出仕を始めた寛弘2年(1006年)頃まで、どうしていたのか解っていない。長保元年(999)頃に生まれた娘(大弐三位)は7歳頃、子育てをしていたと思われる。
堤第(つつみてい)
堤第→大津湊
大津湊→越前国府
越前国府跡