紫式部墓所 / 紫式部供養塔
藤原為時の次女・藤式部は、寛弘8年(1012年)頃まで宮中で奉仕したと云われている。藤式部が何所で何時亡くなったのか解っていない。源氏物語が評価されていたのに、解っていないのは不思議なことである。
寛仁3年(1019年)頃に死去したとされるが、誕生年が天禄元年(970年)の場合は49歳 / 天延元年(973年)の場合は46歳 / 天元元年(978年)の場合は41歳 で亡くなったことになる。
藤式部の娘・大弐三位は長和6年(1017年)18歳頃に母の後を継ぎ、彰子(上東門院)に女房として出仕している。大弐三位は母・藤式部の死去に触れていない。
京都市営地下鉄烏丸線・北大路駅の南側をる北大路通を西に進む。すぐに北大路通は南西に曲がる。堀川北大路交差点を左折して堀川通を南に進むと、すぐ右手に小野篁(おのの たかむら) / 墓紫式部 墓所入口がある。北大路駅から10分ほどである。
入口左側に小野篁卿墓 石柱 / 右側に紫式部墓所と彫られた自然石がある。
短い参道を進むと、右手に小野篁墓 石柱 / 奥の塚に五輪塔 / 傍らに小野篁の顕彰碑がある。小野篁(802年〜853年)は、平安時代初期の公卿 / 文人。
次いで左手に平成元年(1989年)造立の紫式部顕彰碑 / 右手に紫式部墓 石柱 / 奥の塚に高さ約80cmほどの五輪塔 がある。

この地は、雲林(うりん)院の末院・天長元年(824年)創建と云われる白毫(びやくごう)院があったところ。紫式部の墓に関しては、正平年間(1346年〜1370年)に編纂された河海抄に記載されたのが初見である。
白毫院が廃寺となり、紫式部の墓は行方知れずになったとされる。天正11年(1583年)白毫院の跡地に、羽柴秀吉が本能寺の変に倒れた織田信長の菩提を弔う総見院が創建される。往時は広大な境内に豪壮な伽藍が立ち並んだと云われているが、明治の廃仏毀釈により多くが失われた。
紫式部と小野篁の墓は、昭和12年(1937年)に整備されたもの。塚や五輪塔は後世のものと思われる。

紫式部墓所入口から堀川通を北に進む。すぐの堀川北大路交差点を左折して北大路通を西に進む。15分ほどの千本北大路交差点を左折して千本通を南に進むと、10分ほどの右手に寛仁元年(1017年)創建の引接(いんじょう)寺がある。閻魔大王を祀っていることから、千本ゑんま堂で知られている。引接とは、仏が生きる者を浄土に往生させることをいう。小野篁が閻魔法王の姿を刻み、納めた祠が始まりとも云われている。

本堂右手横の回廊を奥に進むと、右方向に紫式部像と高さ6mの紫式部供養塔(重文)がある。
源氏物語で愛欲を描き風紀を乱したとして、紫式部は地獄に堕ちたとされる。地獄に堕ちて苦しむ紫式部を供養するために、南北朝時代の1386年に造立された。