越前国府→京都 / 結婚 / 死別 / 宮中
越前国府跡
長徳3年(998年)藤原為時の次女は藤原宣孝に嫁ぐため、1年半を過ごした越前国府から京都に戻った。藤原為時の次女の年齢は、誕生年が天禄元年(970年)の場合は28歳 / 天延元年(973年)の場合は25歳 / 天元元年(978年)の場合は20歳 となる。往時の結婚年齢からすると、20歳でも遅い。
藤原為時の次女の憧れは、応和4年(964年)生まれの村上天皇の第七皇子・具平親王だったと云われている。詩歌や書に優れた文化人であったとされる。身分の差があり過ぎて高望みというべきものであった。
藤原宣孝は父・藤原為時の元同僚で、確認されているだけでも3人の女性との間に4人の息子がいた。藤原宣孝の生年は不明である。藤原宣の長男・藤原隆光が藤原為時の次女と同じ位の年齢であることから、藤原為時の次女より20歳位年長であったと云われている。また藤原為時の次女は嫡妻(正妻)ではなく側室だった。藤原宣孝は正妻と暮らし、藤原為時の次女のもとに通っていたと云われている。
結婚生活は、必ずしも幸せなものではなかったと云われている。長保元年(999年)頃に、娘(大弐三位)が生まれる。以降、藤原宣孝が藤原為時の次女の元に通うことがほとんどなくなったと云われている。
藤原宣孝は派手好きでお洒落、 見栄えの良かったと云われている。藤原宣孝は文才に長けた妻がいると、箔を付けたかったのではないかと云われている。
藤原宣孝は長保3年(1001年)に病没、藤原為時の次女が嫁いでから3年後のことである。このときの藤原為時の次女の年齢は、誕生年が天禄元年(970年)の場合は31歳 / 天延元年(973年)の場合は28歳 / 天元元年(978年)の場合は23歳 となる。
JR山陰本線・二条駅から東側を通る37号線を北に進む。すぐの御池通り交差点からは、111号線になり、JR二条駅から5分足らずの右手に朱雀門(すざくもん)跡 石柱がある。朱雀門は、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。平安京は現在の御所より西2kmほどのところにあった、
朱雀門跡 石柱
平成10年(1998年)に復原された平城京朱雀門
朱雀門跡 石柱から111号を北に20分ほど進むと、千本中立売交差点がある。右折して中立売通(なかだちうりどおり  / なかだちゅうりどおり)を東に進む。
中立売通の名称は、沿道に店舗を構えない立ち売りが多かったことに由来している。平安京の頃は正親町小路
(おおぎまちこうじ)と呼ばれていた。中立売通は天皇の住む禁裏と豊臣秀吉の住む聚楽第を一直線に結ぶ道であり、天正16年(1588年)と天正20年(1592年)の後陽成天皇の聚楽第行幸は中立売通を通って行われた。
この辺りは、平安時代の一条院跡 / 南北朝時代の名和長年戦死の地 / 安土桃山時代の聚楽第跡 / 江戸時代の大名の藩邸跡 などになる。京都は1200年の歴史があるので、同じ場所でいろいろな出来事が起こっている。
唐津小笠原藩邸跡 石柱 平安宮大蔵省跡 石柱
千本中立売交差点から10分ほどのところにある聚楽第址 石柱まで、様々な石柱がある。
唐津小笠原藩邸跡 石柱は江戸時代 / 平安宮大蔵省跡 石柱は平安時代 / 此付近 聚楽第址 石柱は安土桃山時代 になる。
大蔵省
(おおくらしょう)は令制八省の1つで、出納 / 収納 / 度量衡(どりょうこう) などを職務としていた。
此付近 聚楽第址 石柱は、聚楽第西濠跡である。
此付近 聚楽第址 石柱
聚楽第址 石柱(正面) 聚楽第址 石柱(側面)
千本中立売交差点から10分ほどの左手に、聚楽第址 石柱がある。側面に「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と彫られている。
名和児童公園
聚楽第址 石柱から北に進むと、すぐ右手に名和児童公園がある。この地には、平安時代中期に平安京の北東に隣接して里内裏の一条院があった。東西2町あり、西側1町が御所 / 東側1町には財政や物資を調達する別納(べつのう)があった。もともとは藤原師輔から伊尹と為光の兄弟に引き継がれた屋敷があり、時を経て東三条院(藤原詮子)に献上された。長保元年(999年)内裏焼失後は、東三条院の子・一条天皇の里内裏となった。この別納が中宮彰子の直廬(じきろ / 宿泊所)に使用された。文化人が集まる華やかな場所だったと云われている。
藤原為時の次女は寛弘2年(1006年)頃に藤原道長に召し出されて、一条天皇中宮の彰子(藤原道長の長女 / 後の上東門院)の女房(家庭教師)として仕える。
寛弘8年(1012年)頃まで奉仕したと云われている。当時の慣習から、藤式部と呼ばれていたと云われている。宮中の女房は、氏と父や兄弟の官職名を組み合わせて呼ばれていた。
藤原為時の次女が召し出されたのは 文才に長けていたことは勿論であるが、後家となった後に藤原道長と愛人関係だったとも云われている。
藤原為時の次女が宮廷出仕を始めた寛弘2年(1006年)は、藤原道長が40歳 / 藤式部は36歳から28歳 である。藤原道長は正妻の鷹司殿(源雅信娘)を始めとして、高松殿(源高明娘) / 源簾子(源扶義娘) / 源重光娘 / 儼子(藤原為光娘) / 藤原?子 などの女がいた。