堤第→大津湊
長徳2年(996年)藤原為時は越前守に任官、家族で越前国へ赴く。
京都駅からサンダーバードに乗車、東海道本線〜湖西線〜北陸本線を経由して武生駅まで1時間15分ほどで行けた。
2024年3月16日の北陸新幹線延伸により、敦賀駅で“ハピラインふくい”に乗り換えることになった。
越前国府跡に近い武生駅と新幹線・越前たけふ駅は、約3km離れている。
京都駅0番ホームのサンダーバード
三条大橋付近の鴨川
堤第を出立、東約1kmのところを流れる鴨川を渡った。長徳2年(996年)往時の鴨川は浅く、歩いて渡ることができたと云われている。
鴨川沿いの川端通を3kmほど南下すると、三条大橋がある。三条大橋が最初に架けられたのは室町時代と云われ、長徳2年(996年)往時は未だ三条大橋はなかった。 三条大橋東詰は、江戸時代に整備された旧東海道の終点になる。
三条大橋東詰から旧東海道を東に進む。長徳2年(996年)から続く古刹は山科まで存在しない。
諸羽神社鳥居 十禅寺石柱
山科に入ると、左手に延喜式内社の諸羽神社鳥居 / すぐ左手に十禅寺石柱 と続く。左折すると奥に十禅寺 / 仁明天皇の第四皇子・人康(さねやす)親王(貞観14年 / 872年〜天長8年 / 831年)の墓がある。人康親王は、琵琶の名手であったと云われている。四宮の地名は、第四皇子であった親王からと付いたと云われている。
徳林寺六角堂
旧東海道を東へ進むと、すぐ左手に徳林寺六角堂がある。六角堂には、仁寿2年(852年)造立の山科地蔵がある。京都六地蔵の一つで、後白河天皇が京都を守るため町の入口六ヶ所に配置したもの。
常夜燈 三井寺観音道道標
旧東海道を東へ進むと、すぐ左手に常夜燈 / 文政5年(1822年)造立の道標 がある。正面に「三井寺観音道」 / 左側面に「小関越」と彫られている。
江戸時代に小関
(おぜき)越えと呼ばれた間道で、畿内から北陸へ通じる古代北陸道と云われている。
ここ(横木1丁目)から小関峠を越えて大津宿札の辻(現:京町1丁目交差点)で旧東海道に合流する。約5kmの道程である。
往時も常夜燈や道標があったと思われる。
古代逢坂山関を大関と呼んだのに対して、小関と呼ばれていた。京都から三井寺への最短ルートだったことから、参詣道ともなっていた。
小関(おぜき)越えの詳細画像はこちら
三井寺観音道道標から北へ進む。すぐに京阪京津線の藤尾道踏切を越える。10分ほどすると右手に祠があり、すぐに旧道はJR東海道本線によって途絶える。
道なりに線路沿いを進むと、右方向に逢坂山トンネルが見える。すぐの突き当りに徳丸稲荷大明神がある。
突き当りを左折して北へ進む。左手にあるコンビニ辺りで旧道が復活する。すぐの分岐に寂光寺の案内板があり、右方向に進む。寂光寺入口から街道を進むと、右手の境内に藤尾磨崖仏が納められている堂がある。阿弥陀如来像は延応2年(1240年)作であるが、観音 / 勢至 / 地蔵 の菩薩像は後に追刻したと考えられている。
普門寺横の道
寂光寺入口から5分ほどの西大津バイパス高架橋を潜り、すぐのY字路を右方向に進む。ここが小関峠の登り口で、地蔵の祠 / 小関峠0.9km標識 がある。三角地帯の奥に、貞観15年(832年)創建の普門寺がある。Y字路を右方向に進むが、こちら側からは境内に入れない。
峠道
旧道は本格的な登りとなる。頂上付近で車道に合流すると、すぐ右手の喜堂(よろこびどう)に小関峠地蔵がある。地蔵は道路拡張工事のとき、草むらから見つけられたと云われている。
小関峠を大津へ下る。大津側の小関越旧道は道幅が広がり舗装されている。15分ほどすると、左手に墓地 / 右手に民家 が続く道になる。5分ほどすると小関町の中心となり、右手に生首のミイラがある等正寺 / 道を挟んだ左手に新光寺がある。
すぐ右手に小関天満宮鳥居 / すぐ右手に等正寺道標と小関越道標 が続く。等正寺道標は正面に「蓮如上人御舊跡 等正寺」 / 左右の側面に「かたゝげんべゑのくび」 と彫られている。小関越道標は正面に「右 小関越三条五条いまくま 京道」 / 左側面に「左り三井寺 是より半丁」 / 右側面に「右三井寺」 と彫られている。左折して北へ進むと、すぐ左手に三井寺がある。
三井寺金堂
三井の晩鐘
三井寺三重塔 三井寺観音堂の北側石段
三井寺観音堂
園城寺(おんじょうじ)は大友与多王(よたのおおきみ)によって創建が発願され、朱鳥元年(686年)許可された。大友与多王は、壬申の乱において敗北・自害した大友皇子(弘文天皇)の皇子。通称の三井寺(みいでら)は、境内に涌く霊泉が、天智天皇 / 天武天皇 / 持統天皇 の産湯として使われたことに由来する。“御井(みい)の寺”と呼ばれ、転じて三井寺となったと云われている。境内には、金堂を始めとする国宝 / 三重塔や梵鐘を始めとする重文が数多くある。梵鐘は、除夜の鐘でも登場する“三井の晩鐘(ばんしょう)”で知られている。金堂の後方左手にある霊鐘堂に、奈良時代作と云われる“弁慶の引き摺り鐘”(重文)が納められている。三上山の百足を討ち取った俵藤太が寄進したと云われている。弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げ様としたのが由来。「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので谷底へ投げ捨てる。鐘にある傷痕や破目は、その時のものと云われている。この鐘は三井寺に変事があるとき、前兆として不可思議な現象が生じたなど逸話は尽きない。三井寺は平安時代以降、皇室 / 貴族 / 武家などの信仰を集めた。10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化、比叡山の宗徒によって焼き討ちされることが度々あった。豊臣秀吉によって寺領を没収されて、廃寺同然となったこともある。苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、“不死鳥の寺”と称されている。西国三十三観音14番札所(観音堂) / 西国四十九薬師48番札所(水観寺) / 江州三十三観音4番札所 / 近江西国三十三観音5番札所 になっている。
大津湊
等正寺道標 / 小関越道標からすぐの突き当りを右折、すぐに左折する。すぐ右手に元和6年(1620年)創建の宋清寺 / すぐ右手に青龍寺 と続く。5分足らずの右手に長寿寺があり、すぐの京町1丁目は大津宿札の辻で旧東海道に合流する。
直進が旧東海道で、左折して北に進むと10分ほどで琵琶湖湖畔に着く。