東海道53次 小関越え 山科駅…横木1丁目-(約5km)-大津・京町1丁目
来迎寺 地蔵の祠 地蔵の祠
諸羽神社鳥居 円光寺 十禅寺石柱
JR東海道本線 / 湖西線・山科駅から南に進み、すぐの京阪京津線の踏切を越える。すぐの山科駅前交差点を左折して、旧東海道を東に進む。すぐ左手に来迎寺 / すぐ右手に地蔵の祠 / すぐ左手に地蔵の祠 / すぐ左手に延喜式内社の諸羽神社鳥居 / すぐ左手に円光寺 / すぐ左手に十禅寺石柱 と続く。左折すると奥に十禅寺 / 仁明天皇の第四皇子・人康(さねやす)親王の墓がある。人康親王は、琵琶の名手であったと云われている。四宮の地名は、第四皇子であった親王からと付いたと云われている。
地蔵の祠
徳林寺六角堂 古民家
地蔵の祠 地蔵の祠 善福寺石柱

旧東海道に戻り東へ進むと、すぐ左手に徳林寺六角堂がある。六角堂には、仁寿2年(852年)造立の山科地蔵がある。京都六地蔵の一つで、後白河天皇が京都を守るため町の入口六ヶ所に配置したもの。反対側に地蔵の祠がある。すぐの旧三条四ノ宮交差点を越えると、すぐ右手に地蔵の祠 / すぐ左手に地蔵の祠 / すぐ左手に善福寺石柱 と続く。

善福寺石柱からすぐ左手に、常夜燈 / 文政5年(1822年)造立の道標 がある。正面に「三井寺観音道」 / 左側面に「小関越」と彫られている。

常夜燈 三井寺観音道道標
大津宿〜山科間の旧東海道には、間道があった。大津宿札の辻(現:京町1丁目交差点)から西に進み、小関(おぜき)峠を越えて横木1丁目で旧東海道に突き当たる約5kmの道程である。小関越えは、畿内から北陸へ通づる古道だった北陸道の一部だと云われている。古代逢坂山関を大関と呼んだのに対して、小関と呼ばれていた。京都から三井寺への最短ルートだったことから、参詣道ともなっていた。
町並み JR東海道本線
三井寺観音道道標から北へ進む。すぐに京阪京津線の藤尾道踏切を越える。10分ほどすると右手に祠があり、すぐに旧道はJR東海道本線によって途絶える。
道なりに線路沿いを進むと、右方向に逢坂山トンネルが見える。すぐの突き当りに徳丸稲荷大明神がある。
逢坂山トンネル 徳丸稲荷大明神

突き当りを左折して北へ進む。左手にあるコンビニ辺りで旧道が復活する。すぐの分岐に寂光寺の案内板があり、右方向に進む。寂光寺入口から街道を進むと、右手の境内に藤尾磨崖仏が納められている堂がある。阿弥陀如来像は延応2年(1240年)作であるが、観音 / 勢至 / 地蔵 の菩薩像は後に追刻したと考えられている。拝観には予約が必要。

寂光寺入口 藤尾磨崖仏が納められている堂

寂光寺入口から5分ほどの西大津バイパス高架橋を潜り、すぐのY字路を右方向に進む。ここが小関峠の登り口で、地蔵の祠 / 小関峠0.9km標識 がある。三角地帯の奥に、貞観15年(832年)創建の普門寺がある。Y字路を右方向に進むが、こちら側からは境内にはいれない。

地蔵の祠 普門寺横の街道
車道との合流点
峠道 喜堂
旧道は本格的な登りとなる。痛めた足と暑さで、休みながら0.9kmを進んでいる。峠道の旧道は、頂上付近で車道に合流する。すぐ右手の喜堂(よろこびどう)に小関峠地蔵がある。地蔵は道路拡張工事のとき、草むらから見つけられたと云われている。
小関峠を大津へ下る。大津側の小関越旧道は道幅が広がり舗装されている。15分ほどすると、左手に墓地 / 右手に民家 が続く道になる。5分ほどすると小関町の中心となり、右手に生首のミイラがある等正寺 / 道を挟んだ左手に新光寺がある。
等正寺 新光寺

すぐ右手に小関天満宮鳥居 / すぐ右手に等正寺道標と小関越道標 が続く。等正寺道標は正面に「蓮如上人御舊跡 等正寺」 / 左右の側面に「かたゝげんべゑのくび」 と彫られている。小関越道標は正面に「右 小関越三条五条いまくま 京道」 / 左側面に「左り三井寺 是より半丁」 / 右側面に「右三井寺」 と彫られている。左折して北へ進むと、すぐ左手に三井寺がある。

小関天満宮鳥居 等正寺道標 / 小関越道標
[寄り道]三井寺
三井の晩鐘
金堂 三重塔

弁慶の引き摺り鐘

三井寺観音堂の北側石段 三井寺観音堂
園城寺(おんじょうじ)は大友与多王(よたのおおきみ)によって創建が発願され、朱鳥元年(686年)許可された。大友与多王は、壬申の乱において敗北・自害した大友皇子(弘文天皇)の皇子。通称の三井寺(みいでら)は、境内に涌く霊泉が、天智天皇 / 天武天皇 / 持統天皇 の産湯として使われたことに由来する。“御井(みい)の寺”と呼ばれ、転じて三井寺となったと云われている。境内には、金堂を始めとする国宝 / 三重塔や梵鐘を始めとする重文が数多くある。梵鐘は、除夜の鐘でも登場する“三井の晩鐘(ばんしょう)”で知られている。金堂の後方左手にある霊鐘堂に、奈良時代作と云われる“弁慶の引き摺り鐘”(重文)が納められている。三上山の百足を討ち取った俵藤太が寄進したと云われている。弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げ様としたのが由来。「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので谷底へ投げ捨てる。鐘にある傷痕や破目は、その時のものと云われている。この鐘は三井寺に変事があるとき、前兆として不可思議な現象が生じたなど逸話は尽きない。三井寺は平安時代以降、皇室 / 貴族 / 武家などの信仰を集めた。10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化、比叡山の宗徒によって焼き討ちされることが度々あった。豊臣秀吉によって寺領を没収されて、廃寺同然となったこともある。苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、“不死鳥の寺”と称されている。西国三十三観音14番札所(観音堂) / 西国四十九薬師48番札所(水観寺) / 江州三十三観音4番札所 / 近江西国三十三観音5番札所 になっている。
宋清寺 青龍寺 長寿寺
等正寺道標 / 小関越道標からすぐの突き当りを右折、すぐに左折する。すぐ右手に元和6年(1620年)創建の宋清寺 / すぐ右手に青龍寺 と続く。5分足らずの右手に長寿寺があり、すぐの京町1丁目は大津宿札の辻で旧東海道に合流する。