長崎街道

長崎街道は江戸時代に整備された脇街道で、豊前国・小倉常盤橋を起点として肥前国・長崎奉行所西役所に至る。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。往時は、6〜7日の行程であった。江戸時代に鎖国政策が取られていたとき、外国との交易を行っていた長崎に通じる街道として重視された。筑前国 / 筑後国 / 肥前国 / 肥後国 / 薩摩国 の大名の参勤交代、長崎奉行や西国筋郡代が利用していた。さらにはオランダ人 / 中国人 の江戸参府、交易品の運搬にも用いられた。小倉と長崎を最短距離で結ぶため道程は険しかった。冷水峠 /三国峠 / 俵坂峠 / 日見峠 などの難所があった。宝永2年(1705年)以降の通過する宿場は、小倉常盤橋(起点)−黒崎宿―.木屋瀬(こやのせ)宿―飯塚宿―.内野宿―.山家(やまえ)宿―.原田(はるだ)宿―.田代宿―.轟木(とどろき)宿―.中原(なかばる)宿―.神埼宿―境原(さかいばる)宿―佐賀城下―.牛津宿―.小田宿―北方宿―.塚崎(柄崎)宿―.嬉野宿―彼杵(そのぎ)宿―松原宿―大村宿―.永昌(えいしょう)宿―矢上宿―.日見宿―長崎奉行所西役所跡(終点 / 現:県庁)があった。江戸時代初期の塩田道は、小田宿と嬉野宿の間に鳴瀬宿と.塩田宿があった。塩田道が本道であったときは、塩田川の度重なる氾濫により通行が不可能となった。宝永2年(1705年)六角川支流の武雄川沿いに北上、武雄温泉として賑わっていた塚崎を経由して嬉野へと至る塚崎道が開かれた。

No.03 黒崎宿
No.04 木屋瀬宿
No.06   内野宿
No.12   佐賀城下