美濃路 No.06 大垣宿本陣跡-(約12km)-美濃路中山道追分
2018年 1月10日(水)07:30 晴れ
JR東海道本線・大垣駅南口から57号線を南へ進む。5分ほどの交差点右手に標識があり右折すると、突き当りに大垣城がある。
東門 復興天守 艮隅(うしとらすみ)櫓
乾櫓 / 天守

復興天守 / 戸田氏鉄騎馬像

西門
美濃国・大垣城は、牛屋城 / 巨鹿(きょろく)城 / 麋(び)城 とも呼ばれていた。 明応9年(1500年)竹腰尚綱が築城、または天文4年(1535年)宮川安定が築城したと云われている。
大垣は美濃と近江を結ぶ重要拠点で、争奪戦が行われている。天文13年(1544年)織田信秀により落城、織田信辰が城主となる。天文18年(1549年)斎藤義龍の家臣・竹越尚光が城主となる。永禄2年(1559年)氏家直元(卜全)が城主となる。永禄10年(1567年)織田信長の美濃攻めのとき、氏家直元は内応する。氏家直昌が継ぎ、天正11年(1583年)池田恒興が城主となる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで戦死すると、池田輝政が継いだ。天正13年(1585年)一柳直末が城主となる。天正18年(1590年)小田原征伐で功を挙げた伊藤盛景が城主となり、伊藤盛正が継いだ。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは伊藤盛宗が西軍に属したため、西軍の根拠地となった。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、東軍に攻囲され落城する。譜代大名・石川康通が城主となり、寛永12年(1635年)戸田氏鉄が10万石で入り11代で明治まで続いた。
明治6年(1873年)の廃城令により廃城となった。天守などは破却を免れ、昭和11年(1936年)に天守などが旧国宝に指定された。昭和20年(1945年)の大垣空襲により焼失した天守は、一柳直末または伊藤祐盛が築いたとも云われている。
天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート構造で外観復元されたもの。57号線からの入口にある東門は、移築された柳口門。西門は昭和60年(1985年)に築かれた模擬門。
中山道・鵜沼宿町屋館の向かいに、旧大垣城鉄門がある。
旧大垣城鉄門
大垣公園の南側に明治2年(1869年)創建の濃飛護国神社がある。
濃飛護国神社
57号線を南に進み、すぐの郭町交差点を越える。次の交差点を右折すると、すぐ左手に大垣郵便局がある。風景印は、五月の花ビラの中枠 / 虹の橋 / 水都タワー / 伊吹山 の図柄になっている。昨年8月に収集したもの。
大垣郵便局風景印
古商家 つちや俵町本店 美濃路標識

すぐ東側に前日に終了した古商家が見えてくる。ここも鍵型になっているところで、南側の道を右折して西へ進む。すぐ右手につちや俵町本店がある。柿羊羹は土産に購入することが多い。すぐに道が広くなり、左手に美濃路標識 / すぐ左手に願宋寺 と続く。

願宋寺

すぐの交差点を左折すると、右手に秋葉神社がある。すぐに水門川に架かる京橋を渡る。橋にあるレリーフは、水門川 / 住吉燈台 / 舟などが描かれている。

秋葉神社 京橋レリーフ
船町道標 船町道標梵字 梵字・子

すぐの十字路を越える手前右手に、「左 江戸道」「右 京みち」と彫られている船町道標がある。文政年間(1818年〜1830年)大垣城下京口御門の南、美濃路沿いに造立された。第二次世界大戦の空襲で被害を受け、修復されて移設保存された。上部には、旅人の道中の安全を願い梵字(種子)が彫られている。梵字は干支・子(ね)で、守り本尊・千手観音を表している。

奥の細道むすびの地 不明の石柱 住吉公園

十字路を越えると、すぐ右手に「飛騨・美濃さくら三十三選の地 奥の細道むすびの地」石柱 / 「かひ うら」と彫られた不明の石柱 がある。住吉公園の小路を進むと、すぐ右手に「露晴ぬ暫く岸に立給へ」如行霧塚がある。如行は岐阜蕉門の最初の門人。野ざらし紀行のとき / 奥の細道を大垣で終えたとき、松尾芭蕉は如行邸に立ち寄っている。

住吉公園小路 如行露塚
住吉燈台 住吉神社

如行露塚からすぐ右手に、明治20年(1887年)再建の住吉燈台 / 天保11年(1840年)創建の住吉神社 がある。住吉燈台は、水門川にある船町港の標識と夜間の目印として元禄年間(1688年〜1704年)に建立された。高さ約8m / 四角の寄棟造り木造で、最上部の四方には油紙障子をはめ込んでいた。往時は船町港から水門川から揖斐川に入り、桑名宿と結んでいた。船町港は、物資の集散 / 人の往来 の中心であった。明治16年(1883年)には大垣〜桑名間に蒸気船が就航したが、鉄道の発達に伴い衰退した。

町並み
不明の句碑 水門川

住吉神社から南へ進むと、すぐ右手に不明の句碑がある。すぐ高橋交差点を右折して水門川を渡ると、車道際に「一ッ目橋」石標がある。

一ツ目橋
史跡 奥の細道むすぶの地 松尾芭蕉の旅立ちを見送る谷木因
谷木因俳句道標 蛤塚 谷木因白桜塚
水門川の対岸には、奥の細道むすびの地案内板 / 「史跡 奥の細道むすぶの地」石柱 / 松尾芭蕉の旅立ちを見送る谷木因像 / 「南 いせ くわなへ十り さいがうみち」谷木因俳句道標 / 蛤塚 / 「惜むひげ剃りたり窓に夏木立」谷木因白桜塚 がある。松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)奥の細道を大垣で終えた。「伊勢にまかりけるを 人の送りければ」「蛤のふたみに別行秋そ」と詠み、船町港から桑名に向かった。谷木因(たに ぼくいん)は大垣の廻船問屋で、北村季吟(きたむら きぎん)の門人。松尾芭蕉とは同門の友人である。野ざらし紀行のとき、木因亭に泊まっている。隠居宅を、白桜下と名付けている。
町並み 常隆寺 大垣船町郵便局

奥の細道むすびの地から、18号線を西に進む。すぐ右手に常隆寺 / すぐ左手に周囲の町並みに合わせた大垣船町郵便局 と続く。風景印は、住吉燈台 / 奥の細道むすびの地 の図柄になっている。昨年8月に収集したもの。

大垣船町郵便局風景印
大泉寺 稲荷神社 愛宕神社

すぐ右手に大泉(だいせん) / すぐ右手に稲荷神社 と続く。すぐの船町交番前交差点を暗い地下道で潜ると、左手に愛宕神社が見える。暗い地下道 / すぐの高所恐怖症には辛い歩道橋は避け、立ち寄っていない。すぐ右手に水神神社がある。

水神神社
すぐに養老鉄道の踏切を渡る。すぐ左手に風景印が設置されている大垣久瀬川郵便局があるが、30分待たなければならない。すぐに山王用水を越え、すぐに左折する。すぐの突き当りに、天文4年(1535年)室町幕府12代将軍・足利義晴の命で若森城城主・宮川安定が創建したと云われる徳円寺がある。
徳円寺
塩田橋
塩田常夜燈
突き当りにある徳円寺から左切すると、5分足らずで前方に杭瀬川に架かる塩田橋が見える。塩田橋を渡った橋詰左手に、明治13年(1880年)造立の塩田常夜燈がある。木製 / 高さ約4.3mの銅板葺 で、造立時は茅葺であった。往時ここには塩田港があり、杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識だった。杭瀬川の水運は物資輸送に重要な役割を果しており、赤坂港と桑名港間の航行が盛んであった。中継港として塩田港は、常に20〜30隻の船が停泊していた。船頭相手の銭湯 / 米屋 / 雑貨屋 などの店が軒を並べて賑わっていた。階段で土手に登り、土手を下る。土手の中段左手に祠が見える。
長源寺 秋葉神社 法栄寺
土手を下り右方向に進むと、すぐの突き当りに長源寺がある。道なりに左へ進むと、隣接して秋葉神社 / 左手に法栄寺 と続く。
古民家 瓊瓊杵神社 常夜燈
すぐに31号線と交差、左手にある静里町交差点で迂回する。すぐの十字路を左折すると、すぐ右手に瓊瓊杵(ににぎ)神社 / すぐ左手に常夜燈 と続く。

5分ほどすると工場に敷地内に入り、美濃路は途絶える。工場の門から出て、31号線を西へ進む。5分ほどのところに中曽根町交差点があり、この辺りに途切れた美濃路が繋がっていた。5分ほどのところに中曽根町西交差点があり、この辺りから美濃路は北西方向に進んでいた。すぐの荒川町東交差点を過ぎ、次を右折して北へ進む。すぐの十字路辺りに途切れた美濃路が繋がっていた。十字路を左折して西に進むと、すぐの変則十字路を越えた右角に社がある。

白鬚神社 美濃路の名残りの様な道 林松院
すぐ左手に白鬚神社がある。すぐに大谷川に突き当たり、道は途絶える。鋭角に左折して31号線で大谷川を渡る。橋を渡ると、31号線右下に途切れた美濃路の名残りの様な道がある。すぐに右折して北へ進むと、すぐ左手に林松院がある。
すぐのT字路を左折すると、すぐ左手に2基の道標が並んでいる。手前の道標は「従是 南宮社 近道」と彫られている。南宮社は直線距離で4kmほど離れている。どの様に進んだら近道なのか、少し気になるところ。奥の道標は「← 大垣 岐阜」「→ 垂井 京都」が並び、下に「道」と彫られている。
南宮社道標 美濃路道標
敬恩寺 慈応寺

5分足らずの右手に社があり、角を右折して北に進む。すぐ左手に敬恩寺 / すぐ左手に木造薬師坐像と木造十一面観音立像の案内板がある慈応寺 と続く。

すぐに21号線下のトンネルを潜る。 すぐに突き当り、美濃路は途絶える。美濃路は直進してすぐに西方向に向きを変えていた。突き当りを左折して西へ進むと、すぐ右手に八幡神社鳥居がある。

八幡神社鳥居

八幡神社鳥居からすぐの突き当りを道なりに左折すると、21号線の長松町東交差点に出る。5分足らずの長松町西交差点から3本目の道を右折して北へ進む。すぐの十字路当たりに途切れた美濃路が繋がっていた。左折して西へ進むと、すぐの突き当りで再びふたたび美濃路は途絶える。すぐに鋭角に右折して綾戸口交差点から延びる道を北西へ進む。すぐ右手辺りに途切れた美濃路地が繋がっていた。すぐ右手に由緒ありそうな門がある。

由緒ありそうな門
すぐ右手に六社神社がある。
六社神社
垂井の松並木 美濃路標識 垂井の松並木

すぐの綾戸北交差点を越えて5分ほどすると、JR東海道本線・大垣街道踏切を渡る。5分ほどすると、最初は疎らな垂井の松並木になる。10分足らずで松並木は終わる。すぐの流交差点を過ぎると、すぐ右手に垂井郵便局がある。風景印は、垂井祭の曳き山車 / 重文の南宮大社楼門 の図柄になっている。

垂井郵便局風景印

すぐに美濃路と中山道の垂井追分がある。三角地地帯の手前に「← 中山道」「→ 美濃道」道標 / 奥に宝永6年(1709年)造立の「是より 右 東海道大垣みち 左 木曾街道たにぐみみち」道標 / がある。 

垂井追分道標 宝永6年造立の垂井追分道標
垂井追分から西へ、すぐに梅谷川に架かる追分橋を渡る。さらに相川橋袂交差点を左折して、相川に架かる相川橋を渡る。渡り終えると、左手に相川の人足渡跡 / 東の見付跡 と続く。相川は昔から暴れ川で、時々氾濫を起こしていた。橋を架けることが難しく、人足渡しであった。東の見付は宿場の東入口で、西の見付までは766mあった。
相川の人足渡跡 東の見付跡

中山道69次 57番 垂井(たるい)宿
所在地:岐阜県不破郡垂井町
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1179人 家数:315 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:27

古くからの主要道で、国府が置れていた。一の宮(南宮大社)の門前町として、美濃地方の中心地であった。江戸時代には美濃路と中山道の追分でますます栄えた。物資の流通が増えたことから、大八車が5街道で初めて使用許可された。参勤交代の大名 / 日光例幣使 / お茶壺 / 善光寺参り / 朝鮮通信使 / 琉球使節などの往来があった。西町 / 中町 / 東町の3町に分かれ、本陣は中町 / 問屋場は3ヶ所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で六斎市が開かれた。

Y字路を左方向に進むと、突き当りにJR東海道本線・垂井駅がある。