美濃路 No.02 名古屋宿伝馬町本町交差点-(約14km)-名鉄本線・奥田駅
2017年12月19日(月)08:00 晴れ

伝馬町本町交差点から西へ進む。5分ほどすると19号線と交差する。北側の日銀前交差点歩道橋で迂回する。5分足らずのところに伝馬橋東交差点がある。

伝馬橋東交差点を左折して南へ進む。すぐに左折して東へ進むと、すぐ左手に貞観元年(859年)創建の泥江縣(ひじえあがた)神社がある。
泥江縣神社
町並み 五条橋北側の堀川 五条橋南側の堀川

伝馬橋東交差点まで戻り西へ進み、堀川に架かる伝馬橋を渡る。すぐに右折して、堀川の西側の道を北へ進む。すぐに68号線(桜通)と交差する。5分ほどすると、五条橋西側に十字路がある。江戸時代初期に清須にあった五条橋が移設されたのが、名前の由来となっている。橋の袂に、古い家並にある屋根神 / 四間道(しけみち)も記載されている案内板 がある。十字路を左折して西へ進むと、すぐの十字路から円頓寺商店街のアーケードになる。この十字路から南への道は、趣きのある四間道(しけみち)になる。

屋根神
[寄り道]四間道(しけみち)

堀川の西側を通る美濃路の1本西側、南は中橋の西側から北は五条橋の西側までの道。慶長15年(1610年)名古屋城築城が始まる。慶長17年(1612年)から元和2年(1616年)までに行われた清洲から名古屋への清洲越し(きよすごし)と呼ばれている移転で、商人が住み着いたのが始まり。元禄13年(1700年)の大火で1600軒余りが焼失する。堀川沿いにある商家の焼失を避けるために、道幅を4間(約7m)に拡張したため四間道(しけみち)と呼ばれる様になった。延焼を防ぐ防火壁の機能を持たせるために、通りの東側に土蔵が建てられた。土蔵造りが並び、古い家並には屋根神も見られる趣きのある街並みになっている。昭和20年(1945年)名古屋大空襲のとき、被害が比較的少なく破壊を免れた。

倉玉稲荷社の幟 花車神明社 倉玉稲荷社
錦橋交差点の1本西側の道から、北の円頓寺商店街のアーケード入口まで10分足らずを歩く。すぐ左手に、倉玉稲荷社の幟が目立つ花車神明社 / 境内に倉玉稲荷社 / 天光竜王弁財天 などがある。
天光竜王弁財天
すぐの十字路を右折すると、すぐ左手の角地に名古屋名駅五郵便局がある。風景印は、国際センタービル / 都市高速道路 の図柄になっている。
名古屋名駅五郵便局風景印
十字路まで戻り北へ進むと、すぐ左手に山門が柵で閉ざされた光明院がある。
古民家 光明院
浅間神社
長屋 土蔵
伝馬町通りを越えると、すぐに68号線(桜通)と交差する。右手にある美濃路の交差点で迂回する。すぐ左手に浅間神社がある。五条橋の袂にあった案内板では、この辺りから四間道(しけみち)となっている。

土蔵があるところの反対側に路地がある。左折してすぐに右折すると、突き当りに宝永7年(1710年)造立の子守地蔵がある。

子守地蔵
四間道(しけみち)に戻り、喜多へ進む。5分足らずで円頓寺商店街のアーケード入口に至る。
名古屋転勤中の平成13年(2001年)に訪れたとき、堀川は濁っており汚い川であった。四家道
(しけみち)の古い家屋はかなり少なくなった様に感じる。特に屋根神があった家屋が減っている。
古商家 円頓寺商店街アーケード
五条橋西側の十字路から北へ進む。すぐに外堀通り(200号線)と交差する。すぐ左手に名古屋景雲橋郵便局がある。風景印は、四間道の土蔵 / 伊藤家住宅 の図柄になっている。
名古屋景雲橋郵便局風景印
すぐの橋下2交差点を左折して西へ、すぐの交差点を右折して北へ進む。すぐ左手に “なごや小学校” あり、北側の道路を挟んだ左手に地蔵の祠がある。
地蔵の祠
5分足らずで菊ノ尾通りの城西1南交差点を越える。ここは横断歩道橋で、すぐ右手にある橋下橋西交差点横断歩道で迂回する。すぐに城西1交差点がある。
[寄り道]名古屋城
城西1交差点を右折して南西へ進むと、すぐに幅広い名古屋城の堀に突き当たる。慶長15年(1610年)名古屋城築城が始まり、慶長17年(1612年)大天守が完成した西国諸大名の助役による天下普請。
名古屋城復興小天守 / 復興大天守
城西1交差点を左折して北西へ進む。すぐ左手に名古屋江川局がある。風景印は、名古屋城 / 美濃路石柱 の図柄になっている。
名古屋江川局風景印
すぐに名古屋高速6号清州線がかぶさる江川線を越える。すぐの押切北交差点を左折すると、すぐ左手に名古屋押切郵便局がある。風景印は、美濃路石柱 / 灯台 / 屋根神がある商家 の図柄になっている。
名古屋押切郵便局風景印
養照寺 榎白山神社 名古屋十名所石柱
押切北交差点まで戻り北西へ進む。すぐ右手に養照寺 / 文明9年(1477年)創建の榎白山神社 と続く。清洲城から桶狭間へ出陣する織田信長は、戦勝祈願したと云われている。日置神社で軍を整え敦盛を舞い、熱田神宮で戦勝祈願している。この付近には、江戸時代に立て場(休憩所)があったところ。白山神社前に、名古屋十名所石柱 / 美濃路案内板 がある。名古屋十名所は大正13年(1924年)新愛知新聞社(現:中日新聞)が選定したもの。
すぐの榎小学校北交差点を右折すると、すぐ右手に名古屋西郵便局がある。風景印は、市庁舎 / 市の花・ユリ / 名古屋城 の図柄になっている。
名古屋西郵便局風景印
八坂神社 清音寺 庄内川の土手
榎小学校北交差点まで戻り北西へ進む。5分ほどすると、右手に八坂神社がある。すぐに環状線(22号線)の八坂交差点を越える。10分ほどすると、右手に清音寺がある。すぐの名鉄本線を潜ると、すぐに突き当たる庄内川の土手下に常夜灯がある。美濃路はここで途絶える。往時は元和8年(1622年)に架けられた枇杷島橋があった。
道なりに左へ進むと、すぐ右手に慶安年間(1648年〜1651年)創建と云われる黒龍神社がある。
黒龍神社
庄内川に架かる名鉄の鉄橋
すぐに昭和31年(1956年)に架けられた枇杷島橋で庄内川を渡る。枇杷島橋の北側に名鉄の鉄橋が架かる。通過電車が川面に映る。枇杷島橋を渡り切ると、すぐに五差路の問屋町交差点から北西方向に進む。北側に承応3年(1654年)創建の橋詰神社が見える。享和2年(1802年)に始まったとされる“西枇杷島まつり”は、橋詰神社 / 六軒神社 / 松原神社 の天王社祭。
橋詰神社
高照寺 六軒神社 問屋記念館
すぐに突き当たる道を道なりに西へ進む。すぐに東海道本線と東海道新幹線を潜ると、すぐ右手に高照寺 / すぐ右手に六軒神社 / すぐ右手に問屋記念館 と続く。問屋記念館は、山田九左衛門家住居を平成4年(1992年)に移築復元したもの。明治初期の建造物であるが、江戸時代の青物問屋様式を伝える建物とされる。敷地に清須市観光案内板がある。
松原神社 町並み 尾張新川郵便局風景印
すぐ右手に寛文8年(1668年)創建の松原神社がある。屋根神がある町並みを進む。松原神社から5分ほどのところに、新川橋東商店街のアーチがある。すぐの文造寺交差点を越えた右手に尾張新川郵便局がある。風景印は、清須市役所 / 新川の流れ / 花 の図柄になっている。
立派な屋根神がある古商家 瑞正寺
宝塔 阿弥陀寺 地蔵堂
立派な屋根神がある古商家がある町並みを進む。尾張新川郵便局がらすぐの右手に、瑞正寺 / 境内に文化10年(1815年)造立の日本一と云われている宝塔がある。瑞正寺の北に尾張藩の刑場があり、処刑された罪人を供養するために造立された。正面に「南無妙法蓮華経」と彫られている。すぐ右手に阿弥陀寺 / 美濃絽に面したところに地蔵堂 がある。
すぐに新川を新川橋で越える。橋詰には高札場があった。5分ほどすると、右手に須佐之男社がある。
須佐之男社
5分足らずのところに須ヶ口交差点がある。右折して北東に進むと、名鉄本線・須ヶ口駅に突き当たる道である。2本目を左折すると、すぐ左手に須ヶ口郵便局がある。風景印は、清須市役所 / 新川の流れ / 旧新川町の花・さつき の図柄になっている。
須ヶ口郵便局風景印
町並み 須ヶ口一里塚跡 古商家
正覚寺 今川塚供養碑 浄休寺
須ヶ口交差点まで戻り、北西へ進む。5分ほどすると名鉄津島線踏切を渡る。すぐの一里塚橋を越えた左手に、須ヶ口一里塚跡がある。すぐの下外町交差点を越えると、すぐ右手に慶長8年(1603年)創建の正覚寺 / 境内に今川塚供養碑 がある。織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ちとった後、清須城の南にある須ヶ口に今川塚を築いて供養したと云われている。寛文元年(1661年)今川塚供養碑が須ヶ口に造立される。個人の敷地にあったが、平成19年(2007年)正覚寺に移された。すぐ左手に浄休寺がある。
すぐの突き当りを左折すると、すぐ左手に清州丸之内郵便局がある。風景印は、清州城 / 五条川に架かる大手橋 / 清州公園の織田信長銅像 の図柄になっている。
清州丸之内郵便局
すぐに127号線に突き当たり、右折して北へ進む。すぐの巡礼橋東交差点の手前左手に、津島神社と秋葉神社の祠がある。
津島神社 / 秋葉神社
すぐに名鉄本線を潜り、すぐのY字路を美濃路は直進する。すぐ左手に久證寺がある。山門から本堂までの途中で、犬に吠えられる。
町並み 久證寺
すぐの長者橋東交差点から5分ほどすると、五条橋の東詰に交差点がある。
[寄り道]清州城
清州城模擬天守 右大臣織田信長公古城跡碑 織田信長を祀る社
交差点を直進してすぐの東海道新幹線と東海道本線を潜ると、右手に平成元年(1989年)に建てられた清州城模擬天守が見える。清州城は応永12年(1405年)尾張 / 遠江 / 越前守護管領・斯波義重によって築城された。弘治元年(1555年)以降に織田信長が大改修を行い、本拠とした。織田信長は清洲城から桶狭間へ出陣するなど、約10年間居城とした。永禄5年(1562年)織田信長と徳川家康との清洲同盟 / 天正10年(1582年)本能寺の変後の清洲会議 が知られている。
慶長15年(1610年)名古屋城築城が始まり、慶長17年(1612年)から元和2年(1616年)までに行われた名古屋へ清洲越し
(きよすごし)と呼ばれる移転が行われた。清須城も名古屋城築城に利用された。名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用、清須櫓とも呼ばれていた。慶長18年(1613年)廃城となった。
清洲古城跡公園の天守があった辺りには、右大臣織田信長公古城跡碑 / 織田信長を祀る社 がある。
津島神社 / 豊受神社 / 秋葉神社 清涼寺山門 清涼寺
交差点を左折して五条橋を渡ると、左手に津島神社 / 豊受神社 / 秋葉神社 の社がある。五条川の土手あったが、平成3年(1991年)に移された。すぐのT字路左手に清涼寺がある。 甚目寺村土田(現:清州町)あった正法庵が始まりと云われている。寛永年間(1624〜1645年)に現在地に移転、万治年間(1658〜1660年)清涼寺に改称している。山門の鐘楼には、正徳2年(1712年)から幕末まで清洲宿内に時を知らせていた鐘があった。鍵型に曲がるところには札の辻で、高札場 / 常夜灯 があった。清須は清洲城の城下町であったが、清洲越し(きよすごし)による名古屋移転で町は寂れた。慶長7年(1602年)美濃路の宿場町になった。
美濃路はT字路を右折して北へ進む。すぐ左手に清州宿本陣門がある。
清州宿本陣門
宿場通りはすぐに東海道新幹線と東海道本線を潜る。線路沿いに左折して、すぐに名古屋環状2号線を潜る。すぐのY字路を右へ北に進む。5分ほどの左手に御嶽神社 / 境内に数多くの石塔 がある。
御嶽神社
古民家 本成寺 光遠寺

御嶽神社角の突き当りを左折する。すぐに右折して北へ進むと、すぐ左手に本成寺 / すぐ右手に光遠寺 と続く。

5分足らずの右手に、地蔵と馬頭観音の祠がある。さらに5分足らずの右手に、鎌倉時代に創建の亀翁寺がある。
地蔵 / 馬頭観音 亀翁寺
5分ほどすると、左手に美濃路公園 / 美濃路案内板 がある。
美濃路公園
長光寺楼門
長光寺本堂 長光寺地蔵堂
すぐ左手に応保元年(1161年)創建の長光寺 / 永正7年(1510年)建立の地蔵堂(重文) がある。門前に移築された四ッ家追分道標には、「左 京都道 大垣道」「右 ぎふ並浅井道」と彫られていた。破損のため補修されており、下部は判読できない。
四ッ家追分道標
古民家

すぐ右手に、社 / すぐ右手に社 と続く。すぐに136号線に突き当たり、左折して西へ進む。すぐのT字路北東側に、四ッ家追分碑がある。旧岐阜街道は四ッ家追分のT字路を北へ進む。一宮宿〜笠松宿〜加納宿(中山道)を経て、尾張藩領の岐阜町にに至る。尾張藩が長良川で獲れた鮎を鮎鮨にして江戸の将軍家へ献上するため継ぎ送った道で、御鮨街道とも呼ばれていた。

四ッ家追分碑
東海道本線大垣街道踏切を通過するEF210牽引の貨物列車
美濃路は西へ直進、すぐに東海道本線大垣街道踏切を渡る。すぐ右手に地蔵の祠がある。
地蔵の祠

地蔵の祠から10分ほどの井之口大坪交差点の先に交差点がある。美濃路は右折して、136号線を北へ進む。交差点を直進して西へ5分ほど進むと、名鉄本線踏切の南側に奥田駅がある。