美濃路 No.01 熱田伝馬町追分-(約8km)-名古屋宿伝馬町本町交差点
2017年12月18日(月)13:00 晴れ
美濃路(みのじ)は江戸時代に、東海道・熱田宿(宮宿)と中山道・垂井宿とを結んだ14里24町(57.5㎞)の脇往還(脇街道)である。近江路 / 起街道 / 墨俣街道 とも呼ばれていた。古代には、東海道から尾張国・国府(現:稲沢市)を経由して東山道・不破関に至る経路であったと云われている。
織田信長が元服した古渡城 / 清州城 など、織田信長の天下布武への道でもあった。関ヶ原の戦いでは、東軍の先鋒である福島正則が起(現:愛知県一宮市)から美濃へ進軍した。戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、吉例街道とも呼ばれた。
江戸時代の東海道は熱田宿(宮宿)と桑名宿は七里の渡しであったが、水難事故が起こり易い難所とされていた。このため遠回りであるが、美濃路と中山道を利用することも多かった。将軍上洛時 / 朝鮮通信使 / 琉球王使 / お茶壺道中 などが通行した。
宿場は、宮宿(愛知県名古屋市熱田区) / 名古屋宿(愛知県名古屋市中区) / 清須宿(愛知県清須市) / 稲葉宿(愛知県稲沢市) / 萩原宿(愛知県一宮市) / 起宿(愛知県一宮市) / 墨俣宿(岐阜県大垣市) / 大垣宿(岐阜県大垣市) / 垂井宿(岐阜県垂井町) があった。
JR東海道本線・熱田駅から熱田駅前交差点を右折して大津通(226号線)を北へ進むと、すぐ左手に名古屋熱田駅前郵便局がある。風景印は、宮の渡し常夜灯の図柄になっている。
名古屋熱田駅前郵便局風景印
熱田神宮拝殿 熱田神宮信長塀 熱田神宮五平餅塀
熱田駅前交差点まで戻り、大津通(226号線)を南へ進む。熱田駅前交差点南西側から、広大な景行天皇43年(113年)創建と云われる熱田神宮境内となる。三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、壇ノ浦の戦いで遺失したとも云われている。永禄3年(1560年)桶狭間の戦い前に、織田信長が戦勝祈願を行っている。勝利した御礼として築いたとされる塀(信長塀)の一部が現存する。
きよめ餅本店 きよめ餅
円通寺本堂 円通寺秋葉三尺坊 熱田郵便局風景印
熱田駅前交差点から5分ほどすると、左手に名鉄・神宮前駅 / すぐの神宮東門交差点左手にきよめ餅本店 がある。きよめ餅は、名古屋転勤3年間のときの好物。すぐの秋葉交差点を過ぎると、すぐ右手に円通寺 / すぐ左手に熱田郵便局 と続く。円通寺は熱田の神宮寺として創建される。秋葉三尺坊があり、火防災除の寺にもなっている。熱田郵便局の風景印は、熱田神宮 / 木橋 の図柄になっている。
225号線で分断された東海道 追分道標 ほうろく地蔵
熱田郵便局からすぐの伝馬町交差点を越える。すぐに旧東海道と交差、右折して北西に進む。画像は225号線で分断された旧東海道を南東方向から撮影したもの。反対側のアーチにも、旧東海道の文字が見える。すぐに突き当たるT字路は、旧東海道と美濃路の追分。T字路手前右手に、寛政年間(1789年~1801年)造立の追分道標道標がある。左折して南南西に進むのが旧東海道で、宮の渡し(七里の渡し場)に至る。美濃路は右折して北北東方向に進む。T字路の突き当りに、“ほうろく地蔵”がある。三河国重原村の野原に、地蔵が捨て石のような状態で置かれていた。焙烙(土鍋)を売る者が荷物のバランスを取るため使用、熱田までやって来た。焙烙を売り尽くしたので、この地蔵も熱田の海辺の葦の草むらに捨てていったと云われている。また突き当たり辺りには、大化3年(647年)創建の鎭座上知麻我(かみちかま)神社があった。東海道 / 美濃路 / 佐屋街道 の旅人は、道中の安全を祈願していた。昭和24年(1949年)熱田神宮境内に移転する。
美濃路はすぐに1号線に突き当たる。左手にある熱田神宮南交差点の歩道橋で迂回するのが近いが、少し離れた右方向にある伝馬町交差点で迂回する。高所恐怖症にとって、長い歩道橋は極力避けたいところ。
伝馬町交差点から1号線を北西へ進む。すぐの2本目の道を右折すると、すぐ右手に海国寺がある。1号線まで戻り北西へ進むと、すぐ右手に熱田神宮摂社・松姤神社(まつごのかみやしろ)がある。
海国寺 松姤神社
松?神社からすぐの熱田神宮南交差点手前を右折して、美濃路を北西へ進む。すぐ左手に蔵福寺がある。名古屋七福神(恵比寿)になっている。江戸時代の時の鐘が保存されている。すぐに熱田神宮境内に突き当たり、美濃路は左へ進む。熱田神宮境内を進むと、左手に上知我麻神社がある。
蔵福寺多賀殿 上知我麻神社
熱田神宮境内に突き当たり左折する。すぐに伏見通(19号線 / 22号線)に突き当たり、右折して北へ進む。熱田神宮南交差点のすぐ北に位置する。1号線を横断するときに避けた熱田神宮南交差点の歩道橋を渡るのも癪で、すぐ北側にある歩道橋で伏見通(19号線 / 22号線)を越える。熱田神宮南交差点まで戻ると、北西側に西福寺がある。
西福寺
岡部又兵右衛門家跡 笠亭仙果出生地 松屋院
西福寺から伏見通(19号線 / 22号線)を北へ進むと、すぐ左手に岡部又兵右衛門家跡(岡部屋敷跡) / 笠亭仙果出生地 / 文禄元年(1592年)創建の松屋院 と続く。岡部又兵右衛門は尾張の大工で、熱田神宮の宮大工の棟梁。岡部家は室町幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄と云われている。安土城築城では大工棟梁として、5重7階の天守造営を子の岡部以俊(岡部又兵衛)と共に指揮した。笠亭仙果(りゅうてい せんか)は、江戸時代の戯作者・狂歌師。
伏見通(19号線 / 22号線)10車線(片側5車線)道路の歩道橋

松屋院のすぐ北側に、先程渡った歩道橋がある。伏見通(19号線 / 22号線)は熱田神宮南交差点から三の丸1交差点に至る通りであるが、熱田神宮南交差点から日銀前交差点までは、10車線(片側5車線)の非常に広い道路になっている。横断歩道が少なく、これまた少ない歩道橋を利用せざるを得ないところがある。名古屋の歩道橋は、長く幅が狭いところが多い。名古屋は車に優しく、歩行者に厳しいところである。高所恐怖症の人間にとって、いじめに過ぎない。分離帯にフェンスなどの障害物がなければ、強硬突破したくなる。中心部に近くなると歩道橋は少なくなり、横断歩道が多くなる。

歩道橋からすぐ左手に、6世紀初頭に築造されたと考えられている前方後円墳の白鳥御陵石柱がある。西方にある白鳥御陵に隣接して、白鳥公園がある。画像は、名古屋転勤3年間のときに訪れたときのもの。
白鳥御陵石柱 白鳥公園
源頼朝出生地 福重寺 金刀比羅神社
すぐ左手に右大将頼朝公誕生舊地碑 / すぐ左手に応永元年(1394年)創建の福重寺 / 隣接して金刀比羅神社 と続く。源義朝の正室・由良御前は熱田大宮司・藤原季範の娘で、久安3年(1147年)別邸で源義朝の三男・源頼朝を生んだと云われている。享禄2年(1529年)別邸跡に、誓願寺が創建される。山門前に、右大将頼朝公誕生舊地碑がある。山門に葵の御紋があるのは、誓願寺開祖である善光上人(日秀妙光)尼が人質時代の竹千代(徳川家康)の教育係だったことと云われている。
金刀比羅神社からすぐの旗屋町交差点を越えた左手に、慶長元年(1596年)創建の全隆寺がある。神宮西交差点の東にJR東海道本線・熱田駅がある。すぐ左手に名古屋熱田神宮西郵便局がある。風景印は、熱田神宮本殿の図柄になっている。
全隆寺 名古屋熱田神宮西郵便局風景印
寿琳寺 青大悲寺山門 青大悲寺堂宇

名古屋熱田神宮西郵便局から、すぐ左手に熱田神宮公園 / すぐ左手に山門が柵で閉ざされている寿琳寺 / すぐ左手に享和2年(1802年)開宗の如来教本山・青大悲寺(せいだいひじ) と続く。熱田神宮公園には、東海地方最大の前方後円墳である断夫山古墳がある。青大悲寺には、宝暦年間に女性教祖の説法を速記で記した名古屋弁の経典がある。伏見通(19号線 / 22号線)美濃路に面して、鉄地蔵堂がある。

鉄地蔵堂
青大悲寺から5分ほどすると、左手に宝歴元年(1751年)創建の通照院(念佛道場)がある。本堂前は幼稚園になっている。
通照院山門 通照院本堂
通照院から10分ほどすると、歩道に背を向けた熱田神宮第1神門址石柱がある。道路側が正面であるが、車の往来で撮影はできなかった。10車線(片側5車線)道路の反対側からしか撮影できない。歩道橋然り、車に優しく歩行者に厳しい名古屋である。
熱田神宮第1神門址石柱
熱田神宮第1神門址石柱から5分ほどすると、交差点の南西側に文政4年(1821年)造立の佐屋(さや)街道道標がある。「東 右 なこや 木曽 海道」「右 宮海道 左 なこや道」「南 左 さや海道 津しま道」と彫られている。佐屋街道は、江戸時代に東海道熱田宿(宮宿)と桑名宿を、佐屋宿の陸路を経て佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた。寛永11年(1634年)将軍家光の上洛の時、尾張藩初代藩主・徳川義直が開いた道と云われている。
佐屋街道道標
佐屋街道道標からすぐに、JR東海道本線 / JR中央本線 / 名鉄本線 の線路を陸橋で越える。すぐ左手に名古屋正木局がある。風景印は、闇之森八幡社の図柄になっている。闇之森八幡社は東海寺の西方にある。
名古屋正木局風景印
妙住寺 東海寺 伯昌寺
名古屋正木局からすぐ左手に貞享年間(1684年~1688年)創建妙住寺 / すぐ左手に東海寺 / 伯昌寺 と続く。
東本願寺名古屋別院山門 東本願寺名古屋別院本堂 古渡城址碑

伯昌寺からすぐに、名古屋高速都心環状線下の古渡町交差点がある。右折して山王通を東へ進むと、すぐ左手に元禄3年(1690年)創建の東本願寺名古屋別院がある。天文3年(1534年)織田信長の父・織田信秀が東南方に備えるために築城した平城。天文15年(1546年)織田信長は古渡城で13歳のとき元服した。天文17年(1548年)美濃に侵攻した織田信秀が留守のとき、清洲の守護代・織田信友に攻められるが落城はしなかった。同年に織田信秀は末森城を築いて拠点としたため、古渡城はわずか14年で廃城となった。山門を潜った左手に、古渡城址碑がある。
尾張藩2代藩主・徳川光友が古渡城跡地約1万坪を寄進、元禄3年(1690年)東本願寺名古屋別院が創建された。

古渡町交差点まで戻り、伏見通(19号線 / 22号線)を北へ進む。すぐに10車線(片側5車線)道路から逃れる様に、右方向の門前町通を進む。すぐの橘町交差点を左折すると、すぐ左手に名古屋橘局がある。風景印は、下茶屋公園の図柄になっている。
名古屋橘局風景印
古商家 妙善寺七面宮 古商家
橘町交差点まで戻り、門前町通を北東に進む。すぐ左手に元禄6年(1693年)建立の妙善寺七面宮がある。
七寺 善光寺 善光寺大師堂
妙善寺から10分足らずの大須交差点から北側の若宮大通本町交差点までは、美濃路(門前町通)西側に多くの寺社がある。大須交差点を左折して大須通を西へ進むと、すぐ右手に天平7年(735年)現:稲沢市七ッ寺町に創建された七寺がある。天正19年(1591年)清須に移転、さらに慶長16年(1611年)現地に移転した。七寺から大須通を西へ進み、すぐに右折する。すぐ左手に永正年間(1504年~1521年)三河国加茂郡に創建された月舟院が始まりの善光寺がある。明治30年(1897年)現在に移転、善光寺と改称した。1階に大師堂 / 2階に本堂 がある。
大須交差点まで戻り、美濃路を北へ進む。すぐ右手に大須郵便局がある。風景印は、大須観音の図柄になっている。
名古屋大須郵便局風景印
すぐ左手に、目立つ仁王門通商店街アーケードがある。
仁王門通商店街アーケード
柳下水  富士浅間神社

すぐの万松寺通本町交差点を左折、大須観音通を西に進む。すぐ右手に、亀尾清水 / 蒲焼町の扇風呂の井 とともに尾張名古屋三名水の柳下水(りゅうかすい)がある。明治の廃仏毀釈により廃寺となった清寿院の中門前にあった。将軍家上洛の際には飲用水として用いられたと云われている。すぐの十字路を左折すると、すぐ右手に明応4年(1495年)創建の富士浅間神社がある。清寿院の鎮守で、清寿院は廃寺となったが富士浅間神社は残った。

十字路まで戻り大須観音通を西に進むと、大須観音がある。元亨4年(1324年)後醍醐天皇が大須郷(現:岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建する。元弘3年(1333年)に別当寺として創建された真福寺が始まり。慶長17年(1612年)現在地に移転する。
大須観音仁王門 大須観音
万松寺 不動堂 不動堂の提灯(10数年前の画像)
万松寺通本町交差点まで戻り、万松寺通を東へ進む。5分足らずの十字路を左折して新天地通を北に進むと、すぐ左手に天文9年(1540年)織田信秀が創建した万松(ばんしょう)寺がある。創建当時は中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領であった。織田信秀の葬儀のとき、織田信長が位牌に抹香を投げつけたのは移転前である。徳川家康は6歳で人質として今川義元に送られる途中、護送役の田原城主・戸田宗光は織田信秀に売り飛ばした。人質交換で駿府に送られる9歳まで、万松寺で過ごしたと云われている。慶長15年(1610年)名古屋城築城に伴い、現在地に移転した。昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で大須も焦土と化した。
大須は名古屋転勤3年間によく訪れたところである。当時は左手に古びた不動堂 / 中央の階段を下ると織田信秀の墓 / 右手に本堂 があった。当時の画像はを探したが、賑やかな不動堂の提灯しかなかった。10数年振りの万松寺はビルになり、驚くほど変わっていた。
[参考]桜天神社 / 名古屋東照宮
桜天神社は織田信秀が那古野城に創建したのが始まりと云われている。天文7年(1537年)移転した場所に、天文9年(1540年)織田信秀により万松寺が創建された。慶長15年(1610年)名古屋城築城にあたって万松寺が大須に移転したが、そのまま残された。
桜天神社
尾張藩初代藩主・徳川義直の正室・春姫(高原院)は万松寺に葬られ、慶安4年(1651年)霊廟が建立された。霊廟は大正3年(1914年)に健中寺に移築された。昭和20年(1945年)の空襲により東照宮は焼失したため、移築され東照宮本殿となっている。
名古屋東照宮
陽秀院 紙張地蔵 大光院明王殿
万松寺通本町交差点まで戻り、美濃路を北へ進む。すぐの赤門通本町交差点を左折して、赤門明王通を西へ進む。すぐ左手に寛永年間(1624年~1645年)初期創建の陽秀院がある。境内の紙張地蔵は、体の悪いところに紙を貼って水をかけると御利益があると云われている。すぐに変則十字路があり、北西側に慶長8年(1603年)尾張国清須に創建された清善寺が始まりの大光院がある。慶長12年(1607年)大光院に改称する。慶長15年(1610年)の清洲越しで現地に移転する。文化5年(1808年)明王殿が建立された。

変則十字路を左折して南に進むと、すぐ右手に那古野山(なごのやま)がある。 大須古墳群と呼ばれる古墳のひとつがあったところで、6世紀頃に造られた前方後円墳。江戸時代に清寿院の後園が造営された。清寿院の廃寺後、明治12年(1879年)愛知県初の公園・浪越公園となった。明治43年(1910年)鶴舞公園が開園したことにより廃止されるが、大正3年(1914年)大幅に縮小されて那古野山公園となる。

那古野山公園
変則十字路まで戻り、赤門明王通を西へ進む。すぐのT字路を左折すると、すぐ右手に元亨4年(1324年)後醍醐天皇が大須郷(現:岐阜県羽島市桑原町大須)に創建した北野神社がある。大須観音は北野神社の別当寺とし創建された真福寺が始まり。
北野神社

赤門通本町交差点まで戻り、美濃路を北へ進む。すぐ左手に鎌倉時代に葉栗郡極楽寺村に創建された極楽寺がある。天文元年(1532年)木曽川洪水により流失、慶長9年(1604年)清洲に再建された。慶長15年(1610年)現地に移転した。

極楽寺
すぐの若宮大通本町交差点を左折する。すぐに左折すると、すぐ左手に阿弥陀寺がある。
阿弥陀寺
若宮大通本町交差点まで戻り東に進むと、すぐ右手に名古屋中局がある。風景印は、テレビ塔 / 大須観音 / 鯱鉾 の図柄になっている。
名古屋中局風景印

若宮大通本町交差点まで戻り、北へ進む。若宮大通本町交差点からは本町通となる。すぐの白川通本町交差点を左折すると、すぐ右手の名古屋商工会議所ビルに名古屋商工会議所内郵便局がある。風景印は、名古屋市科学館のプラネタリウムドームの図柄になっている。

名古屋商工会議所内郵便局風景印

白川通本町交差点まで戻り、本町通を北へ進む。すぐの入江町通本町交差点手前右手に、旧鉄砲町案内板がある。入江町通本町交差点を越えてすぐの広小路本町交差点を右折する。すぐの広小路七間町交差点を右折すると、すぐ左手に名古屋栄郵便局がある。風景印は、鯱鉾 / テレビ塔 の図柄になっている。

旧鉄砲町案内板 名古屋栄郵便局風景印

広小路本町交差点まで戻り、本町通を北へ進む。すぐ左手に名古屋錦郵便局がある。風景印は、鯱鉾 / 噴水 / テレビ塔 の図柄になっている。すぐの交差点を右折すると、すぐ左手に聞安寺がある。

名古屋錦郵便局風景印 聞安寺

交差点まで戻り、本町通を北へ進む。美濃路はすぐの伝馬町本町交差点を左折して西へ進む。

伝馬町通本町交差点を直進すると、すぐに桜通と交差する。左折すると、すぐ左手に桜天神社がある。織田信秀が那古野城に創建したのが始まりと云われている。天文7年(1537年)移転した場所に、天文9年(1540年)織田信秀により万松寺が創建された。慶長15年(1610年)名古屋城築城にあたって万松寺が大須に移転したが、そのまま残された。

桜天神社
桜天神社参道入口に、時分鐘のレプリカがある。寛文元年(1661年)尾張徳川家2代藩主・徳川光友の命で鐘楼を建立、昼夜12時に城下に時を告げる鐘を鳴らした。最初の鐘は宝暦13年(1763年)に焼失、翌年に造り直されたが明治6年(1873年)に廃止された。
時分鐘レプリカ