壬生道(日光西街道)ぶらり旅 No02 壬生駅-(約17km)-鹿沼駅
2017年 4月13日
壬生駅から北西へ、すぐの壬生駅入口交差点を右折して壬生道を北へ進む。すぐ右手に脇本陣門があり、奥に蔵 / 主家 が見える。
脇本陣門 蔵 / 主家
脇本陣門からすぐに、右方向のT字路と左方向のT字路からなる壬生町役場入口交差点がある。
町役場入口交差点右方向のT字路辺り
雄琴神社参道 雄琴神社銅製鳥居 雄琴神社随神門
右方向のT字路を右折する。5分ほどすると、左手に寛治5年(1091年)創建の藤森神社が始まりの雄琴(おこと)神社がある。文明元年(1469年)壬生胤業が近江国・雄琴神社を勧請、合祀して改称する。銅製鳥居は、安永7年(1778年)壬生の豪商・加藤作太夫が寄進したもの。随神門 / 拝殿 は江戸時代の建立、本殿は貞享3年(1686年)の建立。
雄琴神社拝殿
壬生城復元門
壬生領傍示杭 壬生城 堀 / 土塁

壬生町役場入口交差点まで戻り、左方向のT字路を左折して西へ進む。5分ほどすると右手に壬生城址公園がある。文明年間(1469年〜1486年)壬生胤業の子・壬生綱重によって築かれたと云われている。壬生氏は京都の公家・小槻氏の壬生胤業を祖とすると云われているが、宇都宮氏庶流の末裔など諸説がある。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、壬生義雄は北条氏に味方して小田原城に立て籠もった。壬生義雄は落城直後で病死、嫡子なく壬生氏は断絶となり所領は没収された。徳川家康が関東に入封すると結城秀康が城主となる。以降、慶長7年(1602年)日根野吉明 / 寛永12年(1635年)阿部忠秋 / 寛永16年(1639年)三浦正次 / 元禄5年(1692年)松平(大河内)輝貞 / 元禄8年(1695年)加藤明英 と目まぐるしく入れ替わった。正徳2年(1712年)鳥居忠英が入封、以後8代続いて明治に至る。
天守 / 櫓 はなく、簡素な城であった。本丸に御殿があり、江戸初期には将軍の日光社参の宿舎となった。廃藩後は城の建物は取り壊され、堀や土塁の多くも破壊された。本丸は城址公園として整備され、資料館 / 図書館 などがある。土塁 / 堀 の一部が残り、二の丸門が復元されている。
掘が遮断された橋に見立てた道を進むと、左手に2基の傍示抗が保存されている。左側は、正面と右側面に「従是南 壬生領」 / 左側面に「下野国 都賀郡 家中村」 と彫られている。右側は、正面と右側面に「従是北 壬生領」と彫られている。

精忠神社神門 精忠神社拝殿 畳塚

奥にある図書館の手前を左に進むと、精忠神社 / 本殿の裏に畳塚 がある。鳥居元忠は徳川家康が今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、あらゆる合戦に参戦している。関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる伏見城の戦いでは、1800人の兵で宇喜多秀家率いる4万と云われる大軍に攻撃される。13日間持ち堪えて落城、鳥居元忠は戦死する。徳川家康は鳥居元忠の「血染めの畳」を江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに鳥居元忠の精忠を偲ばせたと云われている。明治維新の江戸城開城のとき、「血染めの畳」は持ち出されて埋められたと云われている。
鳥居元忠の武功により、鳥居家は24万石の譜代大名となった。孫・忠恒の代で無嗣断絶となり、山形24万石を没収改易となる。幕府は鳥居元忠の功績を鑑み、忠恒の異母弟・忠春を高遠藩3万200石で大名に認められた。寛文2年(1662年)忠春は侍医・松谷寿覚により斬りつけられ、それが原因で客死した。忠春の跡を継いだ子・忠則は、元禄2年(1689年)閉門中に急死した。自害とも云われている。所領は没収され改易となる。ふたたび幕府は鳥居元忠の功績を鑑み、忠則の子・忠英に能登下村藩1万石が与えられた。元禄8年(1695年)近江水口に1万石加増の上で移封される。正徳2年(1712年)さらに1万石を加増され、下野壬生3万石に移封された。

精忠神社神門手前の左右に、2基の傍示抗がある。左側は、正面に「従是南」 / 左側面に「下野国都賀」 と彫られている。右側は、正面に「従是北」と彫られている。
傍示抗
長屋門 興光寺

壬生町役場入口交差点まで戻り、壬生道を北へ進む。すぐ左手に門の両側が店舗となっている長屋門 / すぐ左手に興光寺 / すぐ左手に脇本陣跡と問屋場跡 と続く。興光寺は応永年間(1394〜1428年)福和田に創建されたと云われている。慶安4年(1651年)徳川家光の遺骸を日光へ移送するとき、仮通夜が行われる事となり移転する。

脇本陣跡 / 問屋場跡
壬生道はすぐの大師町交差点を左折して西へ進む。すぐ右手に愛宕神社がある。
古民家 愛宕神社
愛宕神社からすぐに看板があり左折すると、寛正3年(1462年)壬生胤業が創建した常楽寺がある。壬生氏滅亡後、正徳2年(1712年)鳥居忠英が入封してからは鳥居家の菩提寺となる。鳥居氏歴代藩主の墓がある。山門前の車止めは、象になっている。
常楽寺山門 常楽寺本堂
壬生寺山門
壬生寺本堂 壬生寺大師堂
壬生寺地蔵堂 円仁産湯の井戸 樹齢350年の銀杏
壬生道に戻り西へ進むと、すぐ右手に壬生寺がある。本堂は上野寛永寺内の学問所(旧勧学寮)を移築したもの。貞享3年(1686年)建立の大師堂 / 地蔵堂 / 樹齢350年の銀杏 がある。慈覚大師円仁は延暦13年(794年)ここで生まれたと云われている。円仁産湯の井戸と云われる井戸があり、1200年以上湧き出ていることになる。画像は井戸らしく見える様に、側面から撮影したもの。
壬生寺に隣接して、西側に八幡神社がある。
八幡神社
街道の菜の花 杉並木
八幡神社からすぐの本丸1丁目交差点を越えると、道は北西に曲がる。菜の花が咲く街道を進む。ところどころに杉並木が残る。

本丸1丁目交差点から20分ほどすると、北関東自動車道を潜る。5分足らずの上稲葉交差点を越えた右手の畑に、金売り吉次(かねうりきちじ)の墓がある。金売吉次は平安時代末期の商人で、平治物語 / 平家物語 / 義経記 / 源平盛衰記 などに登場する伝説の人物。源義経が源頼朝と不仲になり奥州平泉に逃げたとき、同行した吉次がここで病死したと云わている。奥の細道に随行した曽良は「壬生ヨリ楡木ニ二リ ミブヨリ半道バカリ行テ 吉次ガ塚右ノ方二十間バカリ畠中ニ有リ」と日記に記している。芭蕉と曽良はこの墓を訪れている。

金売り吉次の墓

奥州街道・白坂宿の八幡神社にも、金売吉次兄弟のものと云われる墓がある。金売吉次は牛若丸(源義経)が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる。行商の途中、強盗に襲われ殺害され葬られたと云われている。曽良は日記で「芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。」と、この墓には触れていない。

稲葉の一里塚 西塚 稲葉の一里塚 東塚 不動尊入口石標

金売り吉次の墓からすぐ左手に稲葉の一里塚がある。日本橋から24番目 / 壬生道(日光西街道)に入って4番目 で、往時は塚に松が植えられていたと云う。東塚は僅かに痕跡があるのみとなっている。すぐ右手に、稲葉不動尊入口石標がある。すぐの歩道橋を潜ると、左手に社、傍らに釡が置かれている。

社 / 釡
圓宗寺石柱 梅林天満宮 栃木稲葉郵便局風景印

社から5分ほどすると、左手に圓宗寺石柱 / すぐ左手に梅林天満宮 / すぐ左手に栃木稲葉郵便局と続く。風景印は、親抱きの松碑 / 杉並木 / 平安時代の和歌に歌われた小倉川 の図柄になっている。下野新聞に掲載された、親抱きの松の記事コピーをいただく。

七ツ石の里案内板 馬力神 不明の石塔

栃木稲葉郵便局から10分ほどすると、右手に七ツ石の里案内板がある。さらに10分ほどすると、左手に馬力神 / 上部が欠けた不明の石塔 がある。

馬力神から5分ほどの北赤塚十字路交差点を越えると、すぐ右手に馬力神 / すぐ左手に鳥居が傾いた金刀比羅宮 と続く。

馬力神 金刀比羅宮

金刀比羅宮から20分ほどすると、左手に判官塚がある。源義経の冠が埋められたので、冠塚(かぶりづか)とか判官塚と呼ばれていると云う。壬生道を挟んだ反対側に、磐裂根裂(いわさくねさく)神社がある。

判官塚 裂根裂神社
磐裂根裂神社からすぐに赤塚一里塚がある。西塚に石仏石塔群がある。江戸日本橋より数えて二十五里目。
赤塚一里塚 西塚 赤塚一里塚 東塚
石仏石塔群

赤塚一里塚西塚から車道の両側が高くなり、杉並木になる。左側が旧道の痕跡らしく、歩道になっている。すぐ左手に愛宕神社がある。

旧道の痕跡 愛宕神社
杉並木 杉並木 磯山神社

愛宕神社を過ぎるとすぐに杉並木は途絶えるが、5分ほどするとふたたび杉並木になる。愛宕神社から10分ほどの南押原小学校角に標識があり左切する。すぐの十字路を越えた左手に永延2年(988年)の創建と云われる磯山神社がある。本殿は寛文2年(1662年)の建立。

壬生道に戻り北へ進むと、杉並木が途絶える。10分足らずで東北自動車道を潜り、さらに10分ほどのところに追分交差点がある。中山道の倉賀野宿からの日光例幣使(れいへいし)街道と合流する。日光東照宮に金幣を奉納するために朝廷から派遣された使者(例幣使)が通った街道で、帰路は日光街道から東海道を利用していた。追分交差点の三角地帯に追分道標がある。「左 江戸道 右 中山道」と彫られているらしいが、判読はできない。ここから楡木宿に入る。
追分道標
壬生道(日光西街道) 楡木宿
所在地:栃木県鹿沼市

宿の北西の方に住む百姓・秀蔵の家の後ろに楡の大木があったことによると云われている。南で壬生道と例幣使街道が合流するところにあり、宿場として発達した。当初はは壬生領で、元禄以後は奈佐原宿とともに幕末まで天領であった。往時の面影はない。
天保14年(1842年)
家数:128軒 / 人数:511人 / 本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:15軒

道路標識 街道寸景 成就院

追分交差点を過ぎると、道路標識は日光例幣使街道の国道293号線と壬生道(日光西街道)の国道352号線が併記されている。往時は壬生道(日光西街道)になる。追分交差点から10分足らずの右手に成就院がある。県指定天然記念物の推定樹齢100年枝垂赤西手(しだれあかしで)がある。現在の木は二代目で、初代は国の天然記念物だった。

切り株 石仏石塔群

成就院から5分ほどすると、左手に屋根がある切り株 / すぐ右手に石仏石塔群 と続く。

石仏石塔群からすぐに楡木町北バス停がある。5分足らずのところに奈佐原集落センター入口バス停がある。楡木宿から700mで奈佐原宿と云われ、既に奈佐原宿に入っている様である。

壬生道(日光西街道) 奈佐原宿
所在地:栃木県鹿沼市
宿場の東を流れる黒川には河岸があり、竹や材木を江戸に送ったと云われている。
石仏石塔群から15分ほどすると、右手に奈佐原文楽収蔵庫がある。栃木県に唯一現存する3人遣い人形が収めてある。
奈佐原文楽収蔵庫
奈佐原文楽収蔵庫からすぐ左手に標識があり、左折して小路を進む。すぐに右折すると宝永2年(1705年)創建と云われる奈佐原神社がある。左側の境内社・愛宕神社の鳥居は文政8年(1825年)の建立。
奈佐原神社 愛宕神社
光明寺石柱 光明寺山門 光明寺本堂

壬生道に戻り北へ進む。5分ほどすると塩山町南バス停があり、既に奈佐原宿を抜けている様である。塩山町南バス停から10分ほどの右手に、寛正年間(1460年〜1466年)創建の光明寺がある。山門前に、不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)石柱がある。葷酒(くんしゅ)は、酒とニラなどの臭いにおいのする食べ物のこと

光明寺から10分ほどの右手に、「道」と彫られた不明の石柱がある。5分ほどすると、右手に大同4年(809年)創建の押原神社石標がある。地図を見ると、押原神社から西へ進むと約500mで壬生道に出る。ただし壬生道の未歩行区間が生じることになる。約2kmの往復はきついため通過する。平将門の乱の際に、平定盛や藤原秀郷が戦勝を祈願したと云う。
不明の石柱 押原神社石標
押原神社石標から20分ほどの新鹿沼駅前交差点から壬生道は二手に分かれている。左方向は江戸時代の初めに鹿沼宿を設けるときに造成された内町通り(293号線 / 352号線)、右方向は昔からの田町通りである。分岐点は鳥居跡(とりいど)と呼ばれているところで、ニ荒山神社がある。奈良時代に勝道上人が日光開山後に榎を植えたと云われている。鎌倉時代に源頼朝が日光山の遠鳥居(旧一ノ鳥居)を建立したところで、鳥居跡の地名の由来になっている。
ニ荒山神社
新鹿沼駅前交差点を左折すると、すぐの突き当りに東武鉄道日光線・新鹿沼駅がある。