水戸街道ぶらり旅 No.08 土浦中央2丁目交差点-(約15.5km)-国府3丁目交差点
2017年 3月 3日(金)09:10 晴
土浦駅 中央二丁目交差点 月読神社 善応寺 松並木道 中貫宿本陣 稲吉宿本陣 観音寺 千代田一里塚 日天宮 丁子屋 常陸国総社 常陸府中藩陣屋門 国府三丁目交差点 石岡駅
JR常磐線・土浦駅から西へ、125号線を北西方向へ進む。10分ほどのところに、前回終了した中央2丁目交差点がある。
JR常磐線・土浦駅スタンプ
大塚本陣跡 千手院観音堂 古民家

中央2丁目交差点を右折、旧水戸街道を東へ進む。すぐ右手の土浦商工会議所に大塚本陣跡標柱がある。すぐに突き当り、左折して北へ進む。すぐ右手の路地奥の千手院観音堂に、室町時代作の千手観音立像がある。5分ほどの突き当りを道なりに西へ進むと、すぐ左手に月読神社がある。

月読神社
北門跡 旧水戸街道標柱 古民家

すぐに土浦宿最後の枡形があり、突き当りを右折して北へ進む。左に曲がるところの右手に、松平信吉が城主であったときに設けられた北門跡がある。旧水戸街道の北口を守る重要なところであった。すぐに新川橋を渡る手前左手に、旧水戸街道標柱がある。新川橋を渡ると、“つくばりんりんロード”と交差する。昭和62年(1987年)に廃線となった筑波鉄道の線路跡を利用したサイクリングロードで、左手に新土浦駅跡がある。

新土浦駅跡
古民家 古民家 善応寺山門
善応寺観音堂 善応寺本堂 照井の井戸

“つくばりんりんロード”からすぐの交差点辺りから、間の宿・真鍋宿に入っている様である。さらに5分足らずの交差点を右折すると、すぐ左手に南北朝時代創建の善応寺がある。山門を潜り階段を登ると、正面に文化11年(1814年)に再建された観音堂がある。山門の左手を進むと、街道一の名泉・照井の井戸がある。寛文10年(1670年)に土浦藩主・土屋数直が木樋を城内まで通して飲み水にしていたと云う。

交差点まで戻り、旧水戸街道を北へ進む。真鍋坂には、往時の雰囲気が残る。
古民家 古民家
疎らになっている松並木道
松並木道 水戸道街道松並木標柱
板谷の一里塚 道標

真鍋坂を登ると、すぐに125号線に合流する。すぐの土浦第一高等学校前交差点右手の土浦第一高等学校に、明治37年(1904年)に竣工の旧土浦中学校本館(重文)がある。3月30日迄、耐震補強工事中で校内には入れない。10分ほどすると、旧水戸街道は右方向へ進む。若松町交差点を越えると、すぐに松並木道となる。往時の水戸街道は松並木が多かったが、現在はここだけとなっている。途中に水戸道街道松並木案内板があり、ところどころ疎らになっている松並木道を進む。松並木道に入ってから5分ほどの左手に、水戸道街道松並木標柱 / 江戸から20里目の板谷の一里塚 と続く。一里塚から10分足らずのところに、水戸道街道松並木案内板がある。松並木道は終わり、すぐ左手に傾いた昭和4年(1929年)造立の道標がある。「土浦経 東京 約七六粁 石岡経 水戸  約四四粁」、左側面に「電燈建設記念」と彫られている。

道標からすぐに64号線に合流する。すぐのY字路を左へ進み、6号線を越える。すぐの突き当たりのT字路を右へ進むと、中貫宿に入る。
水戸街道 13番 中貫(なかぬき)宿
所在地:茨城県土浦市中貫

次の宿場である稲吉宿への下りの継ぎ立てだけを行っていた。上りは稲吉宿が中貫宿を通り過ぎて、土浦宿で行っていた。南北に約500mの範囲であった。本陣は大名が休憩のみを行う小休本陣で、建物が残っている。

鹿島八坂神社 町並み 安穏寺
本陣門 本陣主屋

T字路からすぐ右手に延喜元年(901年)創建と云われる鹿島八坂神社 / すぐ左手に文治元年(1185年)創建と云われる安穏(あんのん)寺 / すぐ右手に大名が休憩のみを行う小休本陣の中貫宿本陣がある。元治元年(1864年)水戸藩の尊皇攘夷激派・天狗党の焼打ちされるが、すぐに再建されたもの。現在も民家として使われているため、内部の見学はできない。

本陣から5分足らずの宿場の終わり辺りに、旧水戸街道標柱 / 明治38年(1905年)造立の馬頭観音 がある。
旧水戸街道標柱 馬頭観音
馬頭観音から5分ほどすると、6号に合流する。すぐ左手の清水公民館の敷地に巌嶋神社がある。往時は神社裏手に清水が湧き、地名の由来になった。
巌嶋神社

清水公民館から20分ほどの左手の祠に石祠がある。すぐ左手に江戸日本橋から21里(約82km)の下稲吉の一里塚があるが、かなり削り取られている書き込みがあった。注意深く探したが、解らなかった。すぐに旧水戸街道は、左へ進む。三角地帯に「稲吉宿本陣」「木村家住宅」の標識がある。

分岐にある標識
のどかな田園地帯を通り、分岐から5分ほどの交差点から稲吉宿に入る。
のどかな田園地帯
水戸街道 14番 稲吉(いなよし)宿
所在地:茨城県かすみがうら市下稲吉

旅人の往来が多くなった万治年間(1658年〜1661年)に設けられた宿場で、本陣:1 / 脇本陣:1 / 問屋:1 / 旅籠:17 と中規模の宿場だった。本陣と旅籠の建物が残り、往時の面影が残る。茨城県かすみがうら市下稲吉は、茨城県新治郡千代田町下稲吉だったところ。昭和29年(1954年)志筑村 / 新治村 / 七会村 が合併、千代田村となる。平成4年(1992年)町制施行により千代田町となる。平成17年(2005年)千代田町と霞ヶ浦町と合併、かすみがうら市となる。街道には、千代田村や千代田町のマンホールが残っている。

千代田町マンホール
旧旅籠・皆川屋
稲吉宿本陣 成就院

交差点を越えたすぐ右手に稲吉宿本陣 / 右手に江戸時代末期築の旧旅籠・皆川屋の木村家住宅 / 右手に成就院 と続く。稲吉宿本陣は現在も民家として使われているため、内部の見学はできない。本陣の旧水戸街道を挟んだ反対側に、脇本陣があった。

成就院から5分足らずの左手に、香取神社の鳥居がある。長い杉並木の参道の奥に社殿が見える。

香取神社
香取神社の鳥居から10分ほどの交差点手前右手に、馬頭観音が2基ある。
馬頭観音
街道寸景 長屋塀 長屋門
古民家 観音寺本堂 観音寺不動堂

馬頭観音から10分ほどすると上土田の集落に入る。長屋塀や長屋門があり、落ち着いたたたずまいである。5分ほどすると、左手に観音寺 / 境内の不動堂に鎌倉時代の作と云われる不動明王像 がある。

長屋塀 不明の廃寺
観音寺角の交差点を越えたすぐ右手に、不明の廃寺 / 堂の前に石仏石塔 がある。
千代田一里塚 歩道橋からの千代田一里塚
不明の廃寺から10分足らずで6号線に合流する。すぐ左手にある側道を下り、すぐに右折してトンネルを潜る。道なりに進むと、6号線の歩道に出る。千代田石岡インターチェンジ内を歩いているが、車道に間違って出てしまう様な錯覚に捉えられる。すぐ左手に千代田一里塚標識があり、階段を登って千代田一里塚に行ける。近すぎて、全体が解らない。千代田一里塚標識まで戻り、北東へ進む。6号線へ流入する道路を歩道橋で越える。歩道橋から千代田一里塚が一望できる。
馬頭観音 自動車屋前 恋瀬橋ロードパーク

歩道橋から道なりに進み、10分足らずの“かすみがうら市西野寺歩道橋”から旧水戸街道は左へ進む。5分足らずの左手に馬頭観音がある。馬頭観音から10分ほどすると、右手の6号線との間に恋瀬橋ロードパークがある。旧恋瀬橋の撤去に伴う跡地利用として、ドライバーの簡易休憩施設 / トイレ がある。

恋瀬橋レリーフ
恋瀬川 恋瀬橋からの筑波山
恋瀬橋ロードパークからすぐに恋瀬川に突き当たり、右手にある恋瀬橋を渡る。恋瀬橋親柱にレリーフが埋め込まれている。恋瀬橋から北西方向に筑波山、 西側の男体山(標高871m)と東側の僅かに高い女体山(標高877m)が並んで見える。

恋瀬橋を渡り、すぐの国府7丁目交差点から左へ355号線を進む。すぐに旧水戸街道は左へ、北に進む。すぐの左手に日天宮(にってんぐう) / 境内に稲荷神社と御嵩神社 がある。太陽 / 月 / 星 は人々の信仰の対象になっていた。府中には日天宮 / 月天宮(がってんぐう) / 星の宮 が創建され、府中三光宮と呼ばれていた。月天宮は、6号線の貝地交差点の南方向にある。星の宮は国分寺の北側にあったと云われているが、現存しない。常陸国総社宮境内に星宮神社があるが、府中三光宮の星の宮かは判らない。

日天宮
日天宮からすぐの突き当りを右折する。すぐに355号線に突き当たり、左折して北へ進む。
水戸街道 15番 府中(ふちゅう)宿
所在地:茨城県石岡市

常陸国・国府が置かれたところであったことから、府中と呼ばれていた。常陸府中藩の城下町でもあり、水戸街道は府中陣屋の東側を通っていた。宿場町の北端は岩間街道との追分で、南北に約1kmの範囲であった。往時の建物は、昭和4年(1929年)の大火でほとんど焼失している。江戸時代末期に建てられた染物屋・丁子(ちょうし)屋以外は残っていない。マンホール は、常陸國總社宮例大祭の幌獅子の図柄となっている。

石岡市マンホール
不明の社 国府公園
清涼寺 金刀比羅神社 丁子屋

355号線に突き当たり左折、すぐの守木町交差点を越える。すぐ左手の霊安寺駐車場奥に不明の社 / 左手に国府公園 / 左手に元徳2年(1330年)創建の清涼寺 / 守横新道西交差点の左手に文政10年(1827年)創建の金刀比羅神社 / 左手に昭和4年(1929年)の大火で焼失を免れた丁子屋 と続く。江戸時代末期に建てられ た染物屋・丁子屋は、まち蔵藍という観光施設になっている。

[寄り道]常陸国総社宮
丁子屋からすぐの中町国府3丁目交差点を左折して、西へ道なりに進む。途中に立派な酒屋の建物がある。
酒屋
常陸国総社宮鳥居 常陸国総社拝殿 常陸国総社随神門
絵馬 星宮神社 常陸国総社宮鳥居

中町国府3丁目交差点から5分ほどの右手に、常陸国総社宮の鳥居がある。暗い参道を進み階段を登ると、昭和60年(1985年)再建の拝殿前に出る。本殿は天和3年(1683年)に再建されたもの。古代、国司は赴任国内全ての神社をに参拝する慣わしがあった。これを効率良くするため、各国の国府近くに総社が設けられた。常陸総社宮は、天平年間(729年〜749年)聖武天皇の勅命により創建されたと云われている。境内に星宮神社があるが、府中三光宮の星の宮かは判らない。随神門を潜り、正面からの参道を進む。鳥居を潜り左折して北へ道なりに進むと、5分ほどで石岡市民族資料館前に出られる。

中町国府3丁目交差点から、旧水戸街道を北へ進む。次の交差点右手にあるヴィオレ辺りに、水戸藩専用の府中宿本陣があった。
府中宿本陣跡
[寄り道]常陸府中藩陣屋門
照光寺
石岡小学校の大木 常陸府中藩陣屋門

本陣跡前のT字路を左折して、土橋通りを西へ進む。すぐすぐ右手に応安7年(1374年)創建の照光寺がある。常陸府中藩主・松平家墓所がある。幕末の天狗党の乱の折には田丸稲之右衛門一派の宿舎となる。江戸時代に照光寺学寮と称して寺子屋教育を行っていた。明治6年(1873年)石岡小学校創設の際には,校舎として使用された。
すぐの突き当りの石岡民族資料館前に、文政11年(1828年)建立の陣屋門がある。石岡民族資料館西側の石岡小学校を中心とする辺りは、古代には常陸国の国衙
(こくが)があったところである。正平年間(1346年〜1369年)には、大掾詮国によって府中城が築かれたが、天正18年(1590年)佐竹義宣によって落城する。大掾清幹が自刃、廃城となる。
慶長7年(1602年)出羽国の豪族であった六郷政乗は関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げ、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。元和9年(1623年)出羽本荘藩へ移封となる。皆川広照が入封するが正保2年(1645年)皆川成郷が死去、嗣子が無かったため断絶し改易となる。しばらく府中藩は廃藩となっていた。元禄13年(1700年)常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆は、常陸府中藩を立藩する。府中松平家は江戸定府だったため、陣屋が置かれていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で石岡藩と改称するまで、常陸府中藩と名乗っていた。
陣屋門は、往時には土橋通り正面にあった。明治維新後は石岡小学校校門として用いられ、昭和44年(1969年)に石岡小学校敷地内に移された。さらに平成26年(2014年)に現在地に移築された。

石岡小学校前から北へ進むと、すぐ左手に青屋神社がある。常陸国司は都から着任すると,鹿島神社に参拝するのが習わしとなっていた。高浜からの舟が荒天で出航不能の時は,高浜の渚に青屋(仮屋)を作り鹿島神社を遥拝し参拝に代えていた。これが青屋祭の起こりと云われている。明治中期に祠が建立され、青屋神社が創建された。青屋神社から北へ進むと、国分尼寺跡に行ける。標識もところどころにあり、道に迷うことはない

青屋神社
往時の建物は、昭和4年(1929年)の大火でほとんど焼失している。旧水戸街道沿いや町中には、大火後に建てられた昭和レトロといった感じの商家建築が多く残っている。画像は、旧水戸街道・守木町交差点〜国府3丁目交差点にあった建物。
本陣跡前から旧水戸街道を北へ進む。すぐの国府3丁目交差点を右折して東へ進むと、5分ほどの突き当りにJR常磐線・石岡駅がある。
JR常磐線・石岡駅スタンプ
[寄り道]石岡郵便局

JR常磐線・石岡駅から線路沿いに北西へ進むと、すぐ左手に石岡郵便局がある。風景印は、都々一坊扇歌堂 / 史蹟・常陸国分寺碑 / 名産の栗 のデザインになっている。初代・都々一坊扇歌は文化元年(1804年)常陸太田市磯部に生まれ、江戸末期に都々逸節を広めた芸人。幕政の批判や洒脱な風刺を三味線にのせて唄った。嘉永5年(1852年)府中で没したことから、昭和8年(1933年)国分寺境内に都々一坊扇歌堂が建立された。

石岡郵便局風景印