奥州街道 番外 奥州三関
奥州三関(さんかん)は、古代の奥州との国境に設けられた関所。白河の関(しらかわのせき) / 鼠ヶ関(ねずがせき) / 勿来関(なこそのせき) が奥州三関と云われている。
白河の関(しらかわのせき)
2015年 8月 2日(日) 晴
JR東北本線・白河駅より関の森公園行きバスに乗車する。平日より土日祭日の方が、往復の利便性が良い。白河駅10:40→関の森公園11:12 / 関の森公園12:15→白河駅12:47 は、約1時間の散策ができる。関の森公園バス停手前の白河関バス停で下車、運賃は片道660円だった。往復とも途中も含め貸切状態であり、このままでは更なる減便になるかも知れない。旗宿の白河市合併の条件にバス路線存続があり、路線廃止はない様である。
当日は白河関まつり開催日であった。白河の関までの無料バスが運行されていないか期待したが、白河の関は全く関係していない白河関まつりであった。白河関で地元の方2組と雑談したが、“白河関まつり”自体を知らなかった。逆に、ここ白河関で何かやるのかを尋ねられる。
2015年3月白河駅に立ち寄ったときは、バスの便がない時間帯だった。WEBにはタクシーで3000円余の記載が複数あったので聞いて見ると。4500円と告げられ断念している。流石に片道4500円は高い。
白河関跡 史跡 白河関跡
白河の関入口に、史跡 白河関跡碑 / 関地案内石標 / 式内 白河神社石標 などがある。
白河の関は京都〜近江国〜美濃国〜信濃国〜上野国〜下野国を経て多賀城に至る東山道の要衝に設けられた関門で、蝦夷
(えみし)の南下や物資の往来を取り締まる機能を果たしていた。 古代日本の律令国家が編纂した六国史(りっこくし)に、養老2年(718年)に初めて記載されている。平安時代(794年〜1185年)中期には閉鎖されたと云われている。
関地案内
白河の関の場所は諸説伝えられていたが、寛政12年(1800年)白河藩主・松平定信が白河神社のある場所を白河の関跡と断定して古関蹟(こかんせき)碑を造立した。
奥州街道(294号線)の東側を通る東山道(現:県道伊王野白河線 / 76号線)沿いにあり、旗宿の南側に位置している。奥州街道・白坂から約7kmほどのところにある。
昭和34年(1959年)〜昭和38年(1963年)に実施された発掘調査では、竪穴住居跡 / 掘立柱建物跡 / 空掘 / 土塁 / 柵木
(さくぼく) などの古代の防禦施を示す遺構が発見された。昭和41年(1966年)白河関跡として国の史跡に指定された。
古関蹟
 
白河神社参道 / 鳥居                       幌掛の楓
白河神社参道を進むと、鳥居の手前右手に古関蹟 / 幌掛の楓 がある。幌掛の楓は源義家が安倍貞任攻め(前九年の役)で白河関を通過するとき、この楓に幌をかけて休息したと云われている。
参道を進み階段を登ると、成務天皇5年(135年)創建と云われる白河神社がある。延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載されている式内社で、古来より戦勝を祈願する武人が多く参拝している。
白河神社拝殿
白河神社拝殿左手に、白河の関に題材をとる平安時代の和歌三首が彫られている古歌碑がある。「便りあらばいかで都につけやらむ今日白川の関はこえぬと」平兼盛 / 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」能因 / 「 秋風に草木の露をはらわせて君がこゆれば関守もなし」梶原影季。源頼朝は文治5年(1189年)奥州平定のため平泉に向かう途中、戦勝を祈願している。梶原景季の歌は、この時に源頼朝に命じられて詠んだもの。 白河関は古来より歌枕として数多く詠まれた場所で、能因 / 西行 / 芭蕉 などが訪れている。
古歌碑
 
空堀跡                          土塁跡
白河神社拝殿右手方向に、空堀跡 / 土塁跡 がある。
 
旗立の櫻                         従二位の杉
古関蹟 / 幌掛の楓 から右へ進むと、旗立の櫻 / 従二位の杉 がある。旗立の櫻は治承4年(1180年)源義経が平泉から平家追討に向かう途中、戦勝祈願をした際に源氏の旗をこの桜の木に立てかけたと云われている。旗宿の地名は、この事に由来すると云われている。従二位の杉は鎌倉時代初期 の歌人で新古今和歌集選者の従二位・藤原家隆が、自ら植えたと云われている。幹回りが約6mある樹齢800年の老杉。
従二位の杉から道なりに白河神社拝殿方向へ進むと、奥の細道白川の関碑や「光台に 見しい み志かは 見さりしを 聞きてぞ 見つる 白河の関」西山證空歌碑がある。
奥の細道白川の関碑
勿来関(なこそのせき)
2015年12月10日(木) 晴

JR常磐線・勿来駅の改札口は東の海側になる。南側にある跨線橋で反対側に渡る。勿来駅前郵便局前の道を南へ道なりに進む。5分ほどの十字路南東側に、不明の石塔 / 勿来の関標識 / 風船爆弾基地案内板 がある。風船爆弾は、太平洋戦争のときにアメリカ本土を攻撃するために気球に爆弾を搭載した兵器。千葉県一ノ宮 / 茨城県大津 / 福島県勿来 に基地があった。

不明の石塔 案内板の風船爆弾図解

十字路を過ぎると、坂が段々きつくなる。十字路あった勿来の関標識に「勿来の関 まで あと1.7km ゆっくり歩いて あと35分」に納得する。十字路から5分足らずのところに、国民宿舎・勿来の関荘への分岐がある。平成27年(2015年)3月に休館となり、道は閉鎖されている。さらに5分足らずの左手に筆塚がある。

筆塚
勿来関碑 模擬関門 奥州勿来関址碑

筆塚からすぐの分岐を直進すると、すぐ左手に勿来関碑 / 模擬関門 / 奥州勿来関址碑 / 源義家像 がある。勿来関は、奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたと云われている。現在は太平洋沿いに陸前浜街道(6号線)が奥州へ続いているが、古くは岩城相馬街道 / 東海道 / 奥州東通り などと呼ばれた古道があった。この古道の国境に勿来の関があったが、確定していない。

源義家像
勿来関址碑
詩歌の道 関東の宮

模擬関門を潜ると、左右に歌碑 / 句碑 / 詩碑 などが10数基が並ぶ詩歌の道と名付けられた坂道となる。右手に傾いた勿来関址碑 / 関東と奥州の国境の守り神と云われている関東の宮 がある。すぐの頂上は見晴らし台になっている。

源義家像から車道をさらに南へ進むと、すぐ左手に源義家が弓を掛けたと云われる「弓掛の松」がある。対の鞍を掛けたと云われる「鞍掛けの松」は、平成9年(1997年)に枯れている。すぐ左手に不明の石塔がある。弓掛の松の画像は、2枚を張り合せたもの。
弓掛の松 不明の石塔
勿来八景碑
勿来関跡標識 体験学習館

不明の石塔から5分足らずの左手に、文学歴史館(有料施設) / すぐ右手に勿来八景碑と体験学習館 と続く。駐車場方向へ進むと、左手に勿来関跡標識がある。

鼠ヶ関(ねずがせき)
2016年4月6日(水) 晴

JR羽越本線・鼠ヶ関駅から線路沿いに南へ進むと、5分足らずの右手に古代鼠ヶ関址碑 / 案内板 がある。昭和43年(1968年)に発掘調査が行われ、存在が確認されたところ。新潟県と山形県の県境付近にある。鼠ヶ関は奈良時代に設けられた蝦夷防備のための前線基地で、平安時代(794年〜1185年)中期から末期の頃に閉鎖されたと云われている。元和8年(1622年)以後に羽州浜街道に設けられた近世念珠関(ねずがせき)址と比較すると、扱いが淋しい。

古代鼠ヶ関址碑

古代鼠ヶ関址碑から道なりに港方向に進むと、すぐのT字路手前左手に新潟県と山形県の県境碑がある。漁村の集落にある県境は、南側が新潟県村上市 / 北側が山形県鶴岡市 になる。鼠ヶ関は平成17年(2005年)の合併で。鶴岡市になっている。ご丁寧に、記念スタンプが設置されている。

県境碑 記念スタンプ
源義経上陸の地碑
弁天島 鼠ヶ関郵便局

T字路を右折して北へ進むと、すぐ左手に鼠ヶ関マリーナ / 道を挟んだ右手に「源義経上陸の地」碑 がある。源義経は源頼朝の追討を逃れ京から奥州平泉に向かう途中、 能登半島から佐渡を経て鼠ヶ関に上陸したと云われている。弁天島は鼠ヶ関海岸にある島で、昔は干潮時のみ陸続きになっていたが、現在は陸続きになっている。海に突き出した弁天島には灯台が設置されている。鼠ヶ関港は、江戸時代には北前船が寄港する港でもあった。

念珠の松
JR羽越本線・鼠ヶ関駅から線路沿いに北へ道なりに進む。すぐの「念珠の松」標識を左折すると、すぐ右手に念珠の松庭園(有料施設 / 維持協力金100円)がある。庄内に酒井忠勝が入封した元和8年(1622年)頃、村上屋旅館・佐藤茂右エ門が盆栽の松を庭に地植えした黒松。村上屋旅館は、昭和35年(1960年)に廃業している。
史蹟念珠関址碑 念珠関址
「念珠の松」標識まで戻り、北へ道なりに進む。10分ほどの鶴岡市鼠ヶ関交差点の北東側の7号線沿いに「史蹟念珠関址」碑がある。庄内に酒井忠勝が入封した元和8年(1622年)以後に羽州浜街道に設けられ、明治5年(1872年)に廃止された関所址。古代鼠ヶ関址に対し、近世念珠関(ねずがせき)址と呼ばれている。