奥州街道21次 No.16 白坂駅-(約10km)-女石追分
2014年 3月28日(金)09:15 晴
JR東北本線・白坂駅から東へ進む。
白坂駅
八幡神社 十九夜塔 / 十九夜塔 / 不明の石仏 庚申塔
15分ほどすると旧奥州街道(294号線)と交差、左折して北へ進む。すぐ左手に八幡神社がある。狭い境台に、弘化4年(1847年)造立の十九夜塔 / 文久2年(1861年)造立の十九夜塔 / 文政年間(1818年〜1830年)造立の不明の石仏 / 庚申塔 / 金売吉次墓案内板など がある。左折して小路を5分ほど進むと、林の奥に金売吉次(かねうりきちじ)兄弟のものと云われる墓がある。金売吉次は平安時代末期の商人で、平治物語 / 平家物語 / 義経記 / 源平盛衰記 などに登場する伝説の人物。金売吉次は牛若丸(源義経)が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる。行商の途中、強盗に襲われ殺害され葬られたと云われている。曽良は日記で「芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。」と、この墓には触れていない。
[参考]壬生道(日光西街道)・金売吉次の墓

栃木県下都賀郡壬生町上稲葉交差点近くに、金売り吉次の墓がある。源義経が源頼朝と不仲になり奥州平泉に逃げたとき、同行した吉次がここで病死したと云わている。奥の細道に随行した曽良は「壬生ヨリ楡木ニ二リ ミブヨリ半道バカリ行テ 吉次ガ塚右ノ方二十間バカリ畠中ニ有リ」と日記に記している。芭蕉と曽良はこの墓を訪れている。

金売吉次の墓
題目塔「南無阿弥陀仏」 題目塔「南無妙法蓮華経」

旧奥州街道を北へ進むと、すぐ左手に題目塔「南無阿弥陀仏」がある。すぐに一里段バス停がある。この辺りに一里塚があったと云われている。294号線は下り坂となり、左手に題目塔「南無妙法蓮華経」がある。

街道寸景 分岐 馬頭観音

題目塔「南無妙法蓮華経」から15分ほどすると、分岐がある。左手にある池が目印の筈だったが、木々に隠れて見えない。電柱に「西小丸山」地名表示がある。右へ進むとすぐ左手に、明治32年(1899年)造立の先祖代々之供養塔と併記された馬頭観音がある。

奥州街道 27番 白河(しらかわ)宿
福島県白河市
天保14年(1843年)奥州道中宿村大概帳
本陣:1 脇本陣:2 旅籠:35
寛文年間(1661年〜1673年)推定 人口:15000人

古代に白河の関が設けられ、奥羽地方への出入口として要衝の地となっていた。江戸幕府道中奉行の直轄下にあった五街道の奥州街道は、白河までとなっていた。江戸時代には江戸と陸奥国や蝦夷間の物流が増加、白河はその中継地点として賑わった。奥州街道では、下野国宇都宮に次ぐ人口を擁していた。寛永4年(1627年)陸奥国棚倉藩より丹羽長重が10万石余で入封、白河城を改修して城下町を整備した。寛永20年(1643年)第2代藩主・丹羽光重のとき、陸奥国二本松藩に転封となった。以降は奥羽地方の外様大名の抑えとして、親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。天明3年(1783年)藩主になった松平定信は寛政12年(1800年)考証を行い、白河神社のある場所を白河の関跡と論じた。1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け柵木(さくぼく)を廻らせた古代の防禦施設と確認された。文政2年(1823年)武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入封、慶応2年(1866年)棚倉藩へと移封され白河藩領は天領となった。慶応4年(1868年)戊辰の役で奥羽越列藩同盟軍と政府軍との激戦地となり、白河城は落城する。城下も戦火によって焼失した。

会津藩戦死者の墓
戊辰の役古戦場 鎮魂碑
不明の石塔 田辺軍次の墓 長州藩・大垣藩6人之墓
馬頭観音から5分ほどすると294号線と合流、すぐに9号線と交差する。交差点から5分ほどの変則五差路を道なりに右へ進む。奥州街道から白河城下に入る関門で、敵からの防御のため曲げられたところである。この辺りは隣接する稲荷山とともに、慶応4年(1868年)戊辰の役古戦場だったところ。会津藩を主力とする奥羽越列藩同盟軍が守備していた。薩摩藩などの政府軍に立石山方面と桜町方面が破られると、一気に劣勢となり陥落した。変則五差路の北東側に、戊辰の役古戦場案内板 / 会津藩戦死者の墓 / 会津藩主・松平容保の題字の鎮魂碑 / 田辺軍次の墓 などがある。南側に長州藩・大垣藩6人之墓がある。
田辺軍次は稲荷山の裏で戦死した会津藩若年寄・横山主税常忠の近習で、東軍が敗れたのは白坂村の庄屋・小平八郎が西軍の道案内をしたためと信じえいた。会津藩は会津若松城下での戦いに敗北敗北して降伏、会津藩主・松平容保は領地は没収される。明治2年(1869年)松平容保の嫡男・容大が家名存続が許され、陸奥国斗南(となみ)藩を立藩する。明治3年(1870年)田辺軍次は斗南藩から1ヶ月掛けて白坂宿に辿り着き、小平八郎を斬殺し自刃した。小平八郎の養子・直之助は、仇・田辺軍次の墓を白坂観音に造立した。後にこの地に改葬された。
稲荷山山頂 石仏石塔群 稲荷神社
奥州街道を東へ進むと、すぐ左手に稲荷山公園がある。奥州越列藩同盟幟 / 会津藩幟 / 棚倉藩幟 / 二本松藩幟 が、ところどころにある。山頂に西郷頼母歌碑 / 石仏石塔群、東側に稲荷神社がある。
金刀比羅神社 西宮神社 谷津田川

旧奥州街道に戻り東へ進む。すぐのT字路を左折して北へ進むと、すぐ左手に稲荷公園の稲荷神社参道があり、石段の上に鳥居と社殿が見える。5分ほどすると左手に金刀比羅神社 がある。すぐ左手に西宮神社があり、谷津田(やんた)川に架かる南湖橋を渡る。

町並み 月よみの庭

南湖橋から5分ほどすると交差点があり、旧奥州街道は直角に曲がり東へ進む。交差点の北東側に白河石を敷き詰めた「月よみの庭」がある。白河石は、白河火砕流の灰色や灰紫色の凝灰岩のこと。

天神神社 秋葉神社 稲荷神社
交差点を左へ進むと、天神神社がある。境内に、秋葉神社 / 稲荷神社 / 筆塚 / 「夏木立 宮ありさうな ところかな」子規句碑 がある。
筆塚

十字路に戻り、奥州街道を東へ進む。5分ほどすると左手に圓養寺成田不動堂がある。創建は不明だが、享保14年(1729年)に本堂が焼失したと云われている。東北三十六不動の34番札所になっている。

町並み 圓養寺成田不動堂
関川寺参道 関川寺本堂 勝軍地蔵堂

圓養寺成田不動堂からすぐの中町の枡形を右折すると、突き当りに関川(かんせん)寺の参道がある。白河城主・結城宗廣が創建したと云われ、天正9年(1581年)に現在地に移転する。境内には、赤穂四十七士・中村勧助の妻の墓や慶応4年(1868年)戊辰の役の戦いでの奥羽越列藩同盟軍の戦死者供養塔がある。この辺りは白河城の南西の防衛ラインとして、城下町特有の寺町となっているところである。関川寺の背後から谷津田川に沿って寺が集中している。関川寺参道前を右折すると、すぐ左手に勝軍地蔵堂がある。明治初年に廃寺となった西光寺境内にあった地蔵堂で、正徳2年(1712年)造立の銅製勝軍地蔵がある。

本陣跡 萩原朔太郎の妻・美津子の生家 長寿院本堂
長寿院稲荷神社 慶応戊辰殉国者墳墓 道標

枡形まで戻る。北へ、東へと枡形を進む。5分ほどの突き当りを右折、道なりに左折する。すぐ右手に本陣跡 / 左手に詩人・萩原朔太郎の妻・美津子の生家 / 左手に正徳元年(1711年)創建の長寿院 と続く。長寿院には、慶応戊辰殉国者墳墓(政府軍)がある。116墓あったが、薩摩藩の29墓は大正期に小峰城東側の鎮護山に改葬されている。すぐの交差点の南西側に、嘉永2年(1849年)造立の道標(複製)がある。旧奥州街道と御斉所街道(茨城街道)との追分で、西側に「左 せんだい あいづ で八 ゑちご 道」 / 北側に「右 日光 江戸 左 たなくら い八き 水戸 道」と彫られている。

龍蔵寺本堂 龍蔵寺鐘楼 奥州白河いぼなしの鐘

交差点から御斉所街道(茨城街道)を東へ進むと、すぐ右手に白河領主・太田行隆によって万寿3年(1026年)に創建された真照寺が始まりの龍蔵寺がある。江戸時代には、白河・宝積院とともに周辺の真言宗寺院を統率していた。壇林とよばれる修行僧育成のための学問所も創設されていた。元禄4年(1691年)白河藩主・松平忠弘が奇進した鋳造の銅鐘は“奥州白河いぼなしの鐘”と呼ばれている。昭和18年(1943年)に国重要美術品に指定されている。この通りは宿場の面影があり、御斉所街道(茨城街道)は枡形に突き当たる。

町並み
交差点まで戻り、旧奥州街道を北へ進む。すぐの小路を左へ、曲がりくねった道を進むと左手に長寿院がある。旧奥州街道に戻り北へ進むと、すぐにJR東北本線ガードを潜る。
長寿院 JR東北本線ガード
[寄り道]白河城(小峰城)
三重櫓 前御門 石垣 / 堀
2007年10月撮影
東北本線ガードを潜り、すぐに左折して道なりに進む。5分ほどすると、左手にJR東北本線・白河駅 / 右手に城山公園がある。阿武隈川と谷津田川に挟まれた丘陵にある平山城で、下総結城氏の庶流にあたる結城親朝によって暦応3年 / 興国元年(1340年)に築城されたのが始まり。天正18年 (1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により白河結城氏が改易される。寛永4年(1627年)陸奥国棚倉藩より丹羽長重が10万石余で入封、白河城を改修して城下町を整備した。寛永20年(1643年)第2代藩主・丹羽光重のとき、陸奥国二本松藩に転封となった。以降は奥羽地方の外様大名の抑えとして、親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。文政2年(1823年)武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入封、慶応2年(1866年)棚倉藩へと移封され白河藩領は天領となった。慶応4年(1868年)戊辰の役で奥羽越列藩同盟軍と政府軍との激戦地となり、白河城は落城する。城下も戦火によって焼失した。平成3年(1991年)天守に相当する三重櫓が木造復元される。三重櫓入口の案内板には、一度に5名づつの人数制限が書かれている。平成6年(1994年)前御門が木造復元される。公園内には、結城家古文書館と阿部家名品館からなる白河集古苑(有料施設)がある。入り口の手前に大手門跡の礎石が移設されている。総石垣造りの城で、盛岡城や会津若松城とともに東北三名城のひとつに数えられている。
[交通]JR白河駅-(徒歩/約5分)-城山公園
史跡小峰城址
石垣に積まれた土嚢 クレーンで吊り上げられる様に見える三重櫓
平成23年(2011年)東日本大震災により石垣などが崩壊、三重櫓も含めた本丸は立入禁止となっている。
[寄り道]皇徳寺
笹原神社 皇徳寺本堂 羅漢山人墓
小原庄助墓 戊辰戦争戦死者供養碑 菊地央墓

白河駅から18号線を南へ進む。交差点を2つ越えた先の十字路左手に、大工町案内場板がある。ここまで5分も掛らない。大工町案内場板から左折すると、すぐ右手に皇徳寺の参道がある。参道を進むと、境内手前左手に笹原神社がある。大同年間(806年〜810年)現在の寺小路付近に創建された勝道寺が始まりと云われている。江戸時代・丹羽氏の時代に現在地に移転する。小原庄助の墓は境内の奥まったところあるが、ところどころに標識があり迷うことはない。羅漢山人墓の右に、徳利の上にお猪口で蓋をした小原庄助墓がある。会津磐梯山の唄「小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した」で知られている。戒名は「米汁呑了信士」で、米汁は酒のこと。辞世は「朝によし昼になほよし晩によし 飯前飯後その間もよし」と云う。羅漢山人は江戸時代後期の画家・谷文晁(ぶんちょう)の高弟。小原庄助こと会津塗師・久五郎は、羅漢山人のもとで絵付を習いにきて安政5年(1858年)に亡くなったと云われている。戊辰戦争戦死者供養碑 / 戊辰戦争のとき白河口の戦いで22歳の若さで戦死した新選組隊士・菊地央の墓などもある。

津島神社 阿武隈川 題目塔「南無阿弥陀仏」
水難殃死者供養法塔 三社神社 聯芳寺

旧奥州街道に戻り北へ進むと、すぐ右手に津島神社がある。5分ほどの阿武隈川に架かる田町大橋を渡ると、右手に題目塔「南無阿弥陀仏」 / 水難殃死者供養法塔 がある。すぐ左手に三社神社 / 左手に枝垂れ桜で知られる聯芳(れんぽう)寺 と続く。聯芳寺は結城氏3代当主・結城広綱が娘の菩提を弔うために創建したと云われている。境内には、戊辰の役で戦死した福島藩隊長・池田邦知以下13人の福島藩十四人碑がある。

切通し 地蔵2基と石仏石塔群
聯芳寺からすぐに切通しがあり、右手の石段を登ると、祠に地蔵2基と石仏石塔群(5基)がある。さらに旧奥州街道から右手の崖を見上げると、大乗妙典六十六部供養塔 / 不明の石塔など が見える。ここはかつては切り通しでは無く、10m程高い山腹を通っていた。
大乗妙典六十六部供養塔 など
石仏石塔群 追分 仙台藩士戊辰戦没之碑
切通を過ぎ5分ほどすると、左手の藪に10基余の石仏石塔群がある。右から昭和6年(1931年)造立の馬頭観音 / 昭和13年(1938年)造立の馬頭観音 は確認できる。すぐにY字路の女石(おんないし)追分があり、幕府の道中奉行管轄の奥州街道の終点となる。会津街道と奥州街道の分起点で、ここからは先は奥州各藩が管轄する街道となる。左手に明治23年(1890年)造立の仙台藩士戊辰戦没之碑 / 明治2年(1869年)造立の戦死供養碑 がある。戦死供養碑は、白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓。
戦死供養碑
追分から会津街道を北へ進むと、すぐ左手に奥州街道と白河城下案内板 / 奥州街道地図 がある。会津街道はすぐに4号線に突き当り、左折してすぐに右折する。
奥州街道地図 道路標識
石仏石塔群 遊女志げの碑

追分から奥州街道を進むと、すぐの右手に石仏石塔群がある。遊女志げの碑は、戊辰の役のとき、悲劇の死を遂げた“遊女しげ”について記された石碑。殺害した会津藩士を追った旅籠坂田屋下男が、この女石の地で仇を討ったと云う。すぐに4号線と合流する。「止まれ」の標識があり、奥州街道を終了する。
2008年3月23日 日本橋から東海道を歩き始めた江戸五街道(東海道 / 中山道 / 甲州街道 / 日光街道 / 奥州街道)が終わる。