奥州街道21次 No.15 鍋掛十文字-(約23km)-白坂宿…白坂駅 |
|
2015年 7月27日(木)09:40 晴 |
|
 |
 |
鍋掛交差点から北西へ進む。交差点を渡った左手に延宝7年(1679年)造立の清川地蔵 / 右手に隠れる様に不明の石塔がある。
|
清川地蔵 |
不明の石塔 |
|
 |
 |
 |
八坂神社 |
神号碑「初市神」 |
芭蕉句碑 |
|
鍋掛交差点から5分足らずの左手に八坂神社がある。境内に、神号碑「初市神」 / 文化5年(1808年)鍋掛宿の俳人により造立された「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす」芭蕉句碑 がある。年頭の市が初市で市神が祀られ、縁起物が売り出され交流の場となっていた。 |
|
 |
 |
隣接して明応年間(1492〜1500年)創建の正観寺がある。山門は鍋掛宿本陣の門と云われている。 |
正観寺山門 |
正観寺 |
|
 |
 |
 |
昭明橋 |
那珂川の釣人 |
昭明橋架橋記念碑 |
|
 |
正観寺からすぐに分岐がある。72号線は左へ曲がるが、旧奥州街道は直進する。この辺りは宿場の外れで、枡形になっている。すぐの突き当りを左折、すぐに72号線に突き当たる。右折して、那珂川に架かる昭明橋を渡る。往時は徒歩渡りで、増水すると舟渡しになっていた。江戸後期になると、舟橋や土橋が架けられたと云われている。那珂川に釣人がいる。昭明橋を渡ると、すぐ右手に昭明橋架橋記念碑
/ すぐ左手にも昭明橋架橋記念碑が2基 がある。
|
昭明橋架橋記念碑 |
|
昭明橋からすぐの突き当りを左折すると、越掘宿に入る。越掘宿の成立は、正保3年(1646年)と遅かった。参勤交代で江戸に向かう仙台藩は、那珂川の川留めに遭うと小屋を建て引けるのを待った。これが宿の始まりと云われている。本陣:1
/ 脇本陣:1 / 旅籠:11 だった。宿場は明治の大火で焼失している。 |
|
 |
 |
 |
浄泉寺 |
桝形の地碑 |
石仏石塔群 |
|
突き当りを左折すると、すぐ右手に浄泉寺 / 右手の越掘自治公民館敷地に「此の地 奥州街道越掘宿 桝形の地」碑 / 右手に石仏石塔群 / 右手に防火水路施設記念之碑 と続く。浄泉寺には那珂川の越掘宿側にあった「従此川中東黒羽領」黒羽藩領界石が移築されている。石仏石塔群は、不明の石塔 / 地蔵 / 昭和13年(1938年)造立の征馬之碑
/ 昭和61年(1986年)造立の殉役軍馬之碑 の4基。 |
|
 |
 |
 |
高久靄高フ墓標柱 |
伊勢大神宮遥拝碑 |
石祠2基と石仏石塔3基 |
|
防火水路施設記念之碑から5分ほどの左手の丘に、高久靄高フ墓標柱がある。高久靄(たかくあいがい)は、寛政8年(1796年)杉渡土で生まれた文人画家。天保14年(1843年)江戸で亡くなる。丘の上には高久家先祖代々之墓など複数の墓が見える。すぐ右手の杉渡土公民館敷地に、伊勢大神宮遥拝碑 / 背後に石祠2基と石仏石塔3基 がある。 |
|
 |
 |
杉渡土公民館から右へ大きく曲がる左手に、神号碑 / 丸石道祖神の祠が並んでいる。 |
神号碑 |
丸石道祖神 |
|
 |
 |
丸石道祖神の祠から5分ほどすると、左手に農道新設記念碑 / 左手に馬頭観音が2基 と続く。農道新設記念碑辺りからきつくなったは、5分余りで富士見峠(標高295.5m)の頂上に着く。往時は富士が眺望できたと云われ、茶屋があった。現在は雑木林で鬱蒼としている。峠道を下ると、すぐ右手に倒れて朽ち果てた「寺子一里塚の里」標識がある。 |
馬頭観音 |
朽ち果てた「寺子一里塚の里」標識 |
|
 |
 |
馬頭観音 |
|
 |
復元された寺子一里塚 |
安永4年造立の馬頭観音 |
|
朽ち果てた「寺子一里塚の里」標識から5分余りの寺子交差点手前右手に、寺子一里塚公園がある。公園内には復元された寺子一里塚 / 馬頭観音 / 富士見峠にあった道標を兼ねた安永4年(1775年)造立の馬頭観音 がある。寺子一里塚は白河寄り約50mのところにあったが、学校開設と道路の拡張によって取り壊された。富士見峠にあった道標を兼ねた馬頭観音は、右側面に「湯殿山六十六里 仙台五十里 会津二十四里 那須湯元五里」 / 左側面に「日光山十六里 江戸四十一里
水戸二十二里 八溝山五里」と彫られている。
|
|
 |
 |
 |
会三寺 |
余笹川見晴らし公園 |
余笹川 |
|
寺子一里塚公園から5分足らずの左手に、元亀元年(1570年)創建の会三寺がある。旧奥州街道は会三寺から斜め左に入るが、平成10年(1998年)余笹川の氾濫で旧寺子橋は流失している。往時は橋が流失すると人足渡しとなっていた。余笹川に架かる寺子橋を渡る手前右手に、余笹川見晴らし公園がある。
|
|
 |
 |
石仏石塔群 / 畜産碑 |
歌碑 |
|
余笹川に架かる寺子橋を渡り、すぐの十字路を左折する。すぐに旧寺子橋からの旧奥州街道に突き当り、右折する。すぐに72号線と合流する三角地帯に、石仏石塔群
/ 畜産碑 / 「川と共に繁り行く みのり豊に 心ゆたかに」歌碑 がある。 |
|
 |
72号線と合流してから10分ほどすると、左手に農業構造改善事業記念碑がある。 |
農業構造改善事業記念碑 |
|
 |
 |
不明の祠 |
石仏石塔群 |
|
 |
農業構造改善事業記念碑から10分足らずの右手に不明の祠 / 左手に石仏石塔群 / 左手に何処に続いているか不明の灯篭 と続く。石仏石塔群は馬頭観音5基と二十三夜塔(右端)。
|
灯篭 |
|
 |
灯篭から10分足らずの黒川橋手前に分岐がある。旧奥州街道は右へ進むが。黒川に突き当たり途切れている。往時は橋が流失すると人足渡しとなっていた。72号線を進み、黒川に架かる黒川橋を渡る。72号線は右に曲がり、さらに左に曲がるところ辺りに旧奥州街道が繋がっていた。黒川橋から5分余りの右手に夫婦石がある。戦国時代に敵に追われた男女が、この石の割れ目に身を隠した。追手が近づくと白蛇が現れ石が動いたので、敵が恐れて逃げたと云われている。
|
夫婦石 |
|
 |
 |
夫婦石一里塚(北側) |
夫婦石一里塚(南側) |
|
夫婦石から5分ほどすると、夫婦石一里塚がある。北側の塚は道路拡張で削られている。
|
|
 |
 |
 |
馬頭観音 |
神号碑 |
地蔵 |
|
 |
夫婦石一里塚から5分ほどのY字路を、旧奥州街道は左へ進む。すぐ右手に馬頭観音 / 右手に神号碑 / 右手に地蔵 / 右手に馬頭観音2基 と続く。すぐに72号線に合流すると、
|
馬頭観音 |
|
 |
すぐ右手に圃場整備竣工記念碑があり、すぐに28号線と交差する。すぐの奈良川を渡ると芦野宿に入る。芦野宿は奈良川に沿って設けられている。左手に享保12年(1727年)造立の地蔵がある。この地蔵は左足を前に出していることから坐り地蔵と呼ばれている。芦野宿は城下町として発展、本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:25 だった。
|
地蔵堂 |
|
 |
 |
地蔵堂からすぐに桝形になり、突き当りを左折する。往時の屋号や職種が記された燈籠風の石造物が数多くある。2基撮影したところで、あまりに多いので止める。すぐの突き当りを道なりに右へ進む。南からの道と合流、旧奥州街道は北へ進む。 |
足袋屋 |
本田屋 |
|
 |
 |
反対方向(南)に進むと、すぐ右手に5基の石仏石塔群 / すぐの左手に日本三大聖天(しょうてん)の三光寺 がある。 |
石仏石塔群 |
三光寺 |
|
“三大なんとか”は、複雑になる場合が多い。東京都台東区・本龍院(待乳山聖天)と奈良県生駒市・宝山寺(生駒聖天)は確定で、埼玉県熊谷市・歓喜院(妻沼聖天) / 静岡県小山町・足柄山聖天堂(足柄聖天) / 三重県桑名市・大福田寺(桑名聖天) / 兵庫県豊岡市・東楽寺(豊岡聖天) のいずれかを加えるのが一般的な様である。 |
|
 |
 |
 |
染屋 |
住吉屋 / 奥州道中 芦野宿 石標 |
丁子屋 |
|
 |
 |
 |
芦野郵便局風景印 |
石の美術館 |
石の美術館 不動明王 |
|
旧奥州街道に戻り、北へ進む。すぐ右手に「奥州道中 芦野宿」石標 / すぐ左手に江戸時代初期創業で元旅籠の鰻料理・丁子屋 / すぐ右手に「地蔵尊参道」石柱 / すぐ右手に番所跡に建てられた芦野郵便局 / すぐ左手に本陣跡に建てられた石の美術館 と続く。芦野郵便局の風景印は、遊行柳 / 「田一枚 うえて立ち去る 柳かな」芭蕉句碑 の図柄になっている。 |
|
 |
 |
建中寺 |
地蔵 / 二十三夜塔 / 三界萬霊塔 / 不明の石塔 |
|
石の美術館から5分足らずの右手に建中寺がある。旗本・芦野氏歴代の墓がある。芦野氏は、地頭としてこの地を治めていた。江戸時代は3000石の旗本だったが、那須一族のため1万石以上の待遇を受けて参勤交代も行っていた。 すぐに左へ曲がる手前左手に、享保2年(1717年)造立の地蔵 / 二十三夜塔 / 三界萬霊塔 / 不明の石塔 が並んでいる。ここが芦野宿の北口になり、枡形になっている。
|
|
すぐに奈良川を渡ると、294号線に合流する。
|
|
|
|
[寄り道]遊行柳 |
|
 |
 |
おくの細道遊行柳標識 |
遊行柳 |
|
 |
 |
 |
西行歌碑 |
芭蕉句碑 |
蕪村句碑 |
|
294号線を横断すると、左手に遊行庵(食堂)や無料休憩所がある。北側の小路に「おくの細道遊行柳」標識があり、西へ進む。すぐの十字路を左折すると、右手に遊行柳が見える。遊行柳は昔から種々の紀行文に記載され、西行 / 松尾芭蕉 / 島崎藤村 などが訪れたことでも知られている。「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ
立ちどまりつれ」西行歌碑 / 「田一枚 うえて立ち去る 柳かな」芭蕉句碑 /「柳散 清水涸 石処々」蕪村句碑 がある。
|
|
|
|
 |
 |
 |
不明の文字塔 |
愛宕神社 |
べこ石傍らの不明の石塔 |
|
旧奥州街道に戻り北東へ進むと、すぐ左手に「甦る豊郷」碑 / 不明の文字塔 と続く。斜め左の旧道に入る。不明の文字塔から5分足らずの左手に愛宕神社 / すぐ左手に「べこ石の碑」案内板 と続く。覗き込むと右手に大石がある。嘉永元年(1848年)造立したもので、儒教的道徳が彫られていると云う。牛の形には見えないと思った挙句、傍らにあった不明の石塔のみを撮影していた。 |
|
 |
 |
無縁諸霊…… |
石仏石塔群 |
|
 |
べこ石の碑からすぐのT字路を右折すると、294号線に突き当り左折する。すぐに分岐があり、旧奥州街道は左へ進む。分岐の三角地帯に草に埋もれている文政2年(1819年)造立の「無縁諸霊……」 / すぐ左手に石仏石塔群
/ すぐ左手に神号碑「出羽大神 月山大神 湯殿山大神」 / すぐ左手に峰岸館従軍者之碑 と続く。峰岸館従軍者之碑は、戊辰戦争のときに黒羽藩内の農民が峰岸館で洋式兵隊の訓練を受け各地で戦功を挙げた顕彰碑。 |
出羽大神 月山大神 湯殿山大神 |
|
 |
 |
 |
石仏石塔群 |
馬頭観音
|
光明真言 / 二十三夜塔 |
|
 |
板屋一里塚 |
|
すぐに294号線に合流すると、すぐ左手に光明真言百萬遍供養塔 / 不明の石塔 / 燈籠 / 地蔵 がある。すぐに分岐があり、旧奥州街道は右へ進む。5分ほどすると、右手に馬頭観音4基 / すぐ右手に光明真言と二十三夜塔 / すぐ左手に農民を諭す語句が彫られていると云う諭農の碑 / すぐに板屋一里塚 と続く。板屋一里塚は両塚が残っているが、道路が掘り下げられたために位置が高くなっている。西側の塚に埋もれる様に、不明の石塔 / 大乗妙典供養塔
/ 馬頭観音 がある。
|
|
 |
 |
 |
馬頭観音 |
馬頭観音 |
馬頭観音 / 不明の石塔 |
|
 |
 |
 |
旧奥州街道 |
高徳寺 |
|
板屋の一里塚から5分足らずの右手の丘に、馬頭観音4基 / 右手に馬頭観音2基 / 馬頭観音と不明の石塔 と続く。10分足らずの右手に永禄10年(1567年)創建の高徳寺がある。入口左手にある堂の陰で休憩する。
|
|
 |
 |
高徳寺からすぐの右手に石仏石塔群がある。上段は馬頭観音2基と不明の石塔 / 下段は馬頭観音3基。すぐ右手に馬頭観音5基 / 牛頭観音(右端)がある。 |
石仏石塔群 |
馬頭観音5基 / 牛頭観音 |
|
 |
不明の石塔 / 地蔵 / 地蔵 / 不明の石塔 |
|
 |
 |
石仏石塔群から5分ほどすると、294号線に合流する。すぐ右手の丘に石仏石塔群 / 右手に五輪塔 と続く。 さらに5分ほどすると、右手に石材店の燈籠がある。 |
五輪塔 |
燈籠 |
|
 |
石仏石塔群 |
|
 |
 |
 |
常夜燈 |
興楽寺 |
興楽寺観音堂 |
|
石材店の燈籠から15分足らずの右手に、狛犬 / 石仏石塔群 がある。すぐに分岐があり、旧奥州街道は左へ186号線を進む。すぐ右手に常夜燈がある。すぐの分岐を右へ進むと、すぐ右手に興楽寺 / 境内に那須三十三所観音10番札所の観音堂
がある。 |
|
 |
興楽寺から5分ほどすると、294号線と合流する。すぐ左手に泉田一里塚がある。下野国最北端の一里塚になる。 |
泉田一里塚 |
|
 |
 |
石仏石塔群 |
初花清水碑 |
|
 |
泉田一里塚から5分ほどのところを左折する。すぐに「この先300m初花清水」標識があり右折する。すぐ右手に石仏石塔群 / すぐ右手に初花清水碑 と続く。歌舞伎・箱根権現躄(いざり)仇討は、棚倉藩士・飯沼勝五郎と妻・初花が佐藤剛助(滝口上野)を仇討ちした物語。仇を探している内に足を病んだ飯沼勝五郎は、この地で療養する。初花清水は初花が用いた清水で、飯沼勝五郎が山肌に刻んだのが瓢石(ふくべいし)。すぐの294号線と合流するところの左手に、不明の石塔 / 瓢石碑「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」 / 瓢石 がある。 |
不明の石塔 / 瓢石碑 / 瓢石 |
|
瓢石からすぐに奈良川に架かる戸板橋を渡る。すぐに旧奥州街道は右へ進むが、294号線を進んでいる。
|
|
 |
 |
 |
馬頭観音 |
地蔵 / 地蔵 / 不明の石塔 |
地蔵 / 光明真言三百遍供養塔 |
|
戸板橋を渡ってからから5分ほどすると、右手に豊穣の碑がある。5分足らずで旧奥州街道と合流する。5分ほどすると右手に馬頭観音がある。すぐの分岐を旧奥州街道は左へ進み、すぐに294号線と合流する。すぐ左手に地蔵2基と不明の石塔 / 左手に地蔵と光明真言三百遍供養塔 と続く。
|
|
 |
境の明神 |
|
石仏石塔群から5分ほどすると下野(栃木県)と奥州(福島県)の国境(県境)で、国境の両側に境の明神がある。下野側・境の明神は天喜元年(1053年)創建。明治39年(1906年)の火災で焼失、明治41年(1908年)再建された。奥州側・境の明神は文禄4年(1595年)創建。古来より国境を往来する際には両神社を参拝、道中の安全を祈願したと云われている。松尾芭蕉は元禄2年(1689年)に境の明神に参拝している。「風流の 初やおくの 田植うた」芭蕉。 |
|
 |
 |
奥州側・境の明神からすぐ左手に「衣がえの清水」標識がある。弘法大師が衣を濯いだと云われている。2015年春に旧甲州街道で放水路に落下したことがあり、草深いところには踏み入れていない。
|
衣がえの清水標識 |
草深い道 |
|
 |
 |
 |
不明の石塔 |
山の神神社鳥居 |
廻国供養塔 / 不明の石塔 / 馬頭観音 |
|
 |
 |
 |
大勢至菩 |
不明の石塔 |
酒井元之丞戦死の跡 |
|
 |
「衣がえの清水」標識から5分足らずの右手に不明の石塔がある。さらに5分足らずの左手に山の神神社鳥居 / 左手に石仏石塔 / 大勢至菩薩 / 左手に不明の石塔 / 左手に「戊辰戦役旧大垣藩士 酒井元之丞戦死の跡」と案内板 / 社 と続く。慶応4年(1868年)戊辰戦争の会津若松攻めの前哨戦で、白河城攻防戦が展開された。大垣藩銃隊長・酒井元之丞は、敵の銃弾を胸に受けて戦死する。 |
社 |
|
 |
白坂宿は、芦野宿と白河宿の間が長過ぎる為に設けられた宿場。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:27 だった。「雨が降っても傘いらず」と云われるほど軒を連ねていた。 |
町並み |
|
 |
 |
すぐに右に分岐する道は旗宿道で、松尾芭蕉は旗宿道を通り白河の関跡を訪れている。社から5分足らずの右手に不明の石塔2基 / 左手に応永15年(1408)創建と云われる観音寺 と続く。観音寺には戊辰戦争で戦死した大垣藩士の墓がある。 |
不明の石塔 |
観音寺 |
|
 |
観音寺から10分たらすの右手に、昭和57年(1982年)造立の牛頭観音 / 文久元年(1861年)造立の馬頭観音 がある。
|
牛頭観音 / 馬頭観音 |
|
 |
牛頭観音 / 馬頭観音 から15分ほどのところに交差点がある。既にここから白河宿女坂までは歩いており、交差点を左折する。足取りも軽くなり、15分ほどでJR東北本線・白坂駅に着く。
|
白坂駅 |
|
 |