奥州街道21次 No.14 大田原-(約12km)-鍋掛交差点-(約5km)-黒磯駅
2015年 6月 2日(火)06:00 晴
金燈籠交差点から旧奥州街道を北東へ進む。旧奥州街道は次の交差点を左折して、ビジネスホテル手前を右折する。桝形を通り道なりに進むと、461号線に合流する。金燈籠交差点から10分ほどになる。すぐ左手に太田原神社がある。天文12年(1543年)大田原城築城のとき、城郭内に祠を建立したのが始まりと云われている。明治の初めに温泉神社から大田原神社に改称した。明治37年(1904年)に現在地に移転する。
太田原神社
大田原城本丸跡 大田原龍城公園石柱 龍体山大田原城案内板
旧奥州街道(461号線)を挟んだ反対側に、大田原城跡がある。太田原神社からは461号線横断架橋で行ける。大田原城は、天文12年(1543年)大田原資清によって築城された平山城。明治維新まで大田原氏が居城した。龍城 / 龍体城 / 前室城 の別名がある。戊辰戦争のとき、大田原城は会津攻めの重要拠点とされた。慶応4年(1868年)旧幕府軍による攻撃を受け、三の丸が炎上した。明治6年(1873年)廃城令により廃城となる。現在は龍城公園(城山公園)になっており、土塁 / 堀 が残る。
461号線横断架橋下からすぐに、蛇尾(さび)川に架かる蛇尾橋を渡る。当初は橋渡しで、橋が流失した時は人足による徒歩渡しだった。天保3年(1832年)からは舟渡しになった。渡り詰の河原交差点は奥州街道と黒羽街道とのの追分だったところで、黒羽街道(461号線)は直進 / 奥州街道は左折して72号線を進む。
蛇尾川
河原交差点から20分ほどすると、左手に中田原の一里塚がある。
中田原一里塚
中田原の一里塚から10分ほどの市野沢小入口交差点右手の三角地帯に、「記念物(史蹟)道標」標柱 / 案内板 がある。奥州街道から棚倉街道が分岐する追分に、元禄7年(1649年)に造立された棚倉道標。正面に「南無阿弥陀仏」 / 左側面に「之より左 奥殊道」 / 右面側に「之より右 たなくら」と刻まれていると云う。3基の石塔があるが、どれか解らない。紫衣事件で寛永6年(1629年)に沢庵宗彰は奥州上山、玉室宗珀は棚倉へ流罪となった。流刑の地まで護送途中の沢庵宗彰と玉室宗珀は、この追分で決別した。左手に「コウヤマキ0.8km 一里塚0.9km」道標がある。
棚倉道標
棚倉道標から10分ほどの市野沢交差点を越えた左手に、与一の里おおたわら名木・高野槙(こうやまき)がある。5分足らず左手に地蔵がある。この辺りは首切り山と呼ばれ、往時はここに板東茶屋があったと云われている。
高野槙 地蔵

地蔵から10分足らずの右手に、「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」弘法大師の碑がある。平安時代に弘法大師がこの地を訪れた時の句であるが、実際には江戸時代に詠まれたものと記されている。すぐの相の川を高野橋で渡り5分ほどすると、左手に麻疹(はしか)地蔵堂がある。

麻疹地蔵堂
永代常夜燈 / 石塔群 永代常夜燈 旧奥州道中 練貫

麻疹地蔵堂から5分足らずの練貫交差点を越える。さらに10分足らずの左手に、宝暦6年(1756年)造立の道標を兼ねた永代常夜燈 /十九夜塔 など5基の古い石塔と「旧奥州道中 練貫」石柱 がある。永代常夜燈には「右奥州海道 左原方那須湯道」と彫られている。左手奥に神社の鳥居 がある。

神社鳥居
街道寸景 馬頭観音

永代常夜燈 / 石塔群から10分足らずの左手に、明治天皇御駐輦紀念碑がある。20分ほどすると、左手に馬頭観音がある。 5分ほどの左手広場奥に社がある。

社から15分足らずの左手に、不動堂 / 堂内に明暦2年(1656年)造立の不動明王 がある。すぐ左手に樋沢(ひざわ)神社 / 社殿左手に葛籠石(つづらいし)がある。後三年の役(1083年〜1087年)で陸奥平定に向かう源義家が、戦勝祈願に馬で一気に駆け上がった勢いで蹄跡が刻まれたと云われている。
不動堂
樋沢神社鳥居 樋沢神社社殿 葛籠石
鍋掛神社 / 鍋掛一里塚 鍋掛一里塚
樋沢神社から5分ほどの左手に、鍋掛神社 / 鍋掛一里塚 がある。往時は鍋掛愛宕峠だったところで、現在は72号線から高い所に位置している。石段を登ると、右手に鍋掛一里塚がある。往時はここより約11m東側にあったが、平成6年(1994年)道路拡張工事により移された。東側の塚は昭和40年代に赤土採取のため消失した。鳥居から奥に進むと、鍋掛神社がある。寛文5年(1665年)以前に勧請した愛宕神社に昭和30年(1955年)温泉神社が合祀され、鍋掛神社となった。
鍋掛神社
愛宕峠を下ると、5分足らずの鍋掛交差点を越えると鍋掛宿に入る。鍋掛宿は難所・那珂川対岸の越掘宿との合宿。川留めになると賑わったと云われている。鍋掛の地名は、川留めにより旅人が溢れ宿場住民が総出で鍋を出し炊き出しを行ったことに由来している。本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:23 だった。正保3年(1646年)以降は幕府天領になっている。
白坂駅まで行く予定であったが、鍋掛交差点を左折して34号線を北西へ進む。約5kmほどのJR東北本線・黒磯駅まで歩く。