奥州街道21次 No.13 氏家駅-(約30km)-大田原
2015年 6月 1日(月)08:00 晴
光明寺本堂 光明寺不動堂 不動明王
氏家駅から107号線を東へ進む。すぐの氏家駅東入口交差点手前右手に、西導寺がある。氏家駅東入口交差点を左折して旧奥州街道を北へ進むと、すぐ右手に光明寺がある。不動堂の屋根に見える宝暦9年(1759年)鋳造の不動明王は、背後の岩山にある。奥州道中分間延絵図にも描かれている。
薬王寺本堂 薬王寺薬師堂 瀧澤家板塀
瀧澤家長屋門 八幡宮鳥居 石仏石塔群

すぐの上町交差点を直進するのが会津西街道で、旧奥州街道は右折して48号線を進む。5分足らずの左手に、応永31年(1424年)創建の薬王寺がある。本堂は文政8年(1825年)に改築されたもの。すぐの櫻野中交差点を越えると、板塀を巡らし長屋門の屋敷構えの瀧澤家がある。瀧澤家は明治になって紡績等の事業で財をなした旧家。明治25年(1892年)氏家で陸軍大演習が行われた際、明治天皇の休息所になっている。すぐ左手に櫻野の鎮守である八幡宮の鳥居 / すぐ左手に十九夜塔など4基の石仏石塔がある。

田園風景 琴平神社 大黒天

桜野交差点で右からの293号線と合流する。田中橋を渡ると個人宅に一里塚があるとのことだったが、左側を歩き見過ごしている。桜野交差点から20分ほどの松山交差点を越えた左手に、琴平神社がある。10分足らずの右手に新旧2基の大黒天がある。左の古い大黒天の土台に明治時代の水準点の記号が刻まれている。

神号碑 馬頭観音 /二十三夜塔 奥州街道道標

大黒天から293号線は右へ大きく曲がるが、旧奥州街道は直進する。 5分足らずの左手に神号碑、傍らに不明の石仏 / 不明の石塔 がある。すぐ左手に馬頭観音と二十三夜塔 / すぐ右手に奥州街道道標 / すぐ右手に「松尾弥五郎博恒之墳墓」石柱 と続く。石柱のところに、階段 / 早乙女坂への標識 / 古戦場案内板 がある。この階段を登るのが旧奥州街道かと迷うところ。奥州街道道標はここにあると、解り易い。天文18年(1549年)早乙女坂に進出した宇都宮軍と喜連川軍が激突したところ。喜連川軍の鮎沢弥五郎実光が放った矢で宇都宮尚綱が戦死すると、宇都宮軍は総崩れになってしまったと云われている。

階段 / 松尾弥五郎博恒之墳墓石柱
奥州街道(古道)入口 旧奥州街道(古道) 石仏石塔群
松尾弥五郎博恒之墳墓石柱から5分ほど坂を登る。坂を下り始めると、すぐ右手に奥州街道(古道)案内板がある。右へ進み、舗装された道に落ち葉が敷き詰められた道や土道を下る。5分ほどすると右手に、「高塩背山の墓入口」案内板がある。高塩背山は若山牧水と親交のあった歌人。すぐ左手に史跡奥州街道(古道)案内板 / 右手に庚申塔などの石仏石塔群(4基) と続く。すぐに車道と合流、右手に「←桜並木 高塩背山の墓→」道標がある。
道標
喜連川城址 / 喜連川スカイタワー
地蔵 供養塔 / 二十三夜塔 愛宕山神社
町並み
不明の石柱 勝善神群

道標から5分足らずで180号と交差する。この十字路辺りから左前方に見える小高い山は喜連川城址で、山頂に喜連川スカイタワーがある。十字路を越えた右手に地蔵 / 左手の愛宕山神社参道に供養塔と二十三夜塔 と続く。すぐに旧奥州街道は右へ大きく曲がり、左手に神号碑「勝善神(そうぜんしん)」群 /すぐ左手に不明の石柱 と続く。

5分足らずで、旧奥州街道は連城橋の袂で114号線に突き当たる。右折すると、すぐ左手に寛延元年(1748年)造立の「右江戸道 下妻道」道標がある。
道標
旧奥州街道は突き当たりを左折して連城橋を渡り、喜連川宿に入る。貞和5年(1349年)室町幕府は関東分国統治のために鎌倉府を設置した。鎌倉公方は、室町幕府初代将軍・足利尊氏の次男・足利基氏を初代とする。享徳4年(1455年)第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。天正11年(1583年)第5代古河公方・足利義氏が死去、断絶する。豊臣秀吉は足利氏が断絶することを惜しみ、足利義氏の娘・氏姫と足利国朝を結婚させて再興させた。足利国朝は古河公方の分家筋にあたる小弓公方・足利義明の孫。下野国喜連川に400貫の所領を与えられた。足利国朝は文禄2年(1593年)文禄の役に従軍して肥前国名護屋に赴く途上、安芸国で病のために死去した。氏姫は足利国朝の弟・喜連川頼氏と再婚して、喜連川義親を産んだ。江戸時代には5000石の喜連川藩となった。徳川家康は名家足利家として10万石の格式の大名として遇し、参勤を免除した。明治に喜連川氏は足利姓に復している。本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:29 だった。昭和56年(1981年)に湧き出した喜連川温泉がある。
龍光寺 街の情報館 喜連川神社
連城橋を渡ると、右手に案内地図がある。すぐの本町交差点を過ぎると、右手に足利尊氏が創建した龍光寺がある。足利国朝や足利頼氏の父・足利頼純が慶長6年(1601年)に死去したとき葬られ、菩提所となり歴代の廟所がある。 宿場通りを進むと、すぐ右手に街の情報館 / 左手に永禄6年(1563年)尾張国津島牛頭天王宮を勧請した喜連川神社の鳥居 と続く。参道を進み、階段を登った奥に社殿がある。
模擬城門 お丸山公園門 双体道祖神 / 地蔵
宿場通りを進むとすぐに「←さくら市役所喜連川支所」標識があり左折すると、模擬城門が見える。陣屋門としては大き過ぎる感があり、お丸山公園登り口にある門の方が陣屋門らしい。お丸山公園門を潜り階段を登りT字路を右へ進むと、すぐ左手に双体道祖神 / 地蔵 がある。
慈光寺 町並み 東漸寺
佐久山方面からの桝形痕跡 専念寺本堂 専念寺阿弥陀堂

「←さくら市役所喜連川支所」標識の反対側に、矢板市川崎反町から移転した慈光寺がある。5分足らずの右手に東漸寺がある。東漸寺から先の曲がりは桝形の痕跡と云われている。東漸寺から5分ほどすると、左手に専念寺 / 阿弥陀堂に弘安6年(1283年)鋳造の阿弥陀如来 がある。

台町交差点手前を右折したところ 金鶏山神社 双体道祖神
すぐの台町追分(台町交差点)辺りが喜連川宿場の外れで、旧奥州街道は台町交差点手前を右折する。すぐの突き当りを左折して、内川沿いに進む。114号線に突き当り、右折して金竜橋を渡る。台町交差点手前を右折してから金竜橋まで5分ほどである。 金竜橋から5分ほどすると、右手に金鶏山神社 / 境内に田町自治公民館 がある。すぐに旧奥州街道は右へ進む。すぐ左手の114号線に挟まれたところに、双体道祖神がある。
双体道祖神からすぐに114号線と合流する。10分足らずで「菖蒲沢公園→」標識のあるT字路手前の右手に、昭和12年(1937年)造立の馬頭観音がある。側面に「日支事変之為軍馬出征」と刻まれている。
馬頭観音
馬頭観音から20分ほどすると、114号線は右からの25号線と合流、25号線を進む。15分ほどの上江川郵便局を過ぎると、下河渡交差点がある。右折して114号を進むと、すぐに左に曲がる手前右手に、天皇御小休之際御膳水碑 / 双体道祖神 がある。
街道寸景 双体道祖神
不明の文字塔 公園 不明の文字塔
10分足らずの右手に「源氏ボタルの里入口」案内板がある。5分ほどすると、右手に不明の文字塔 / 右手の公園入口に「史跡 明治天皇引田原御小休所阯」石柱 がある。公園奥に明治天皇御休輦之處碑 / 不明の文字塔 がある。
街道寸景 庚申塔群 田園
公園から20ほどすると標識があり、大田原市に入る。10分足らずで左からの48号線と直角に交わり、ここからは48号線になる。すぐ右手に「与一の里名木選 高久宅のツツジ群」がある。10分足らずの右手のフェンスに囲まれたところに、庚申塔が3基ある。5分ほどすると、右手の田園に不明の文字塔 / 那須野ケ原の土地改良記念「和郷」碑 がある。
不明の文字塔
10分ほどすると、左手に佐久山と大田原市の案内版がある。5分ほどすると52号線と交差、旧奥州街道は道路標識にない道を直進する。5分足らずの左手に観音堂 / 境内に数多くの石仏石塔 がある。すぐ右手の小高い所に、不明の石塔 / 念仏百年供養塔 / 文化12年(1815年)造立の二十三夜塔 と続く。
観音堂
不明の石塔 念仏百年供養塔 二十三夜塔

すぐに48号線と合流、佐久山宿に入る。文治3年(1187年)那須泰隆が佐久山城を築き、佐久山氏と名乗る。那須与一は那須泰隆の弟とされるが、伝説の人物とも云われている。鎌倉時代に備中国荏原荘に下った那須氏の庶流・備中那須氏が、那須与一を伝承したことによる。永禄6年(1563年)同族の福原氏に滅ぼされ、福原氏は旗本5000石として幕末まで存続した。佐久山宿は天保14年(1843年)の奥州道中宿村大概帳』によると、人口:473人 / 家数:121 / 本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:27 だった。

48号線と合流してから5分ほどすると、右手に大日堂がある。すぐの大田原佐久山郵便局手前左手に、日本初のフランス語学者・村上英俊翁誕生之地碑がある。5分足らずの左手に正淨寺があり、佐久山宿が終わる。
大日堂 正淨寺
5分足らずの箒川(ほうきかわ)を岩井橋で渡る。5分ほどすると、左手に馬頭観音群がある。
馬頭観音群
養福院 祠 / 聖徳太子碑 旧家の門
馬頭観音群から10分足らずの左手に養福院 / 右手に「イトヨ生息地0.6km」標識 と続く。すぐに小川越える左手の川中の島に、祠 / 聖徳太子碑 がある。5分ほどすると、左手に地蔵の祠がある。
地蔵の祠
地蔵の祠 薬王寺 街道寸景
街道寸景 不明の石塔 / 祠
すぐの深川を深川橋で渡り、すぐの親園交差点から10分ほどすると、左に曲がる右手に地蔵の祠 / 左手に薬王寺 と続く。5分ほどすると、左手に不明の石塔 / 奥に廃墟の様な祠 がある。
地蔵 湯殿神社の鳥居 蒲蘆碑堂
すぐ左手に地蔵があり、湯殿神社の鳥居が見える。参道の右手、旧奥州街道に面したところに蒲蘆碑(ほろのひ)堂がある。旧奥州街道に面して「旧奥州道中 親園」石柱がある。文化9年(1812年)那須野に兵士が行進する蜃気楼が現れた。甲州の行脚僧・高津義克が目撃した光景を記した原文を、後に石に刻んだのが蒲盧碑。この地は寛永4年(1627年)奥州道中の整備により開かれた八木沢間の宿(あいのしゅく)。当時は代官・山口鉄五郎の支配下にあり、出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開削し新田を開発するなど、農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。中国の書・中庸に「政治は蒲や盧のようなもの」があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に結び付けたものとしている。
旧奥州道中 親園
町並み 石仏石塔群 八幡神社鳥居

往時は、八木沢から大田原間は松並木だった。太平洋戦争のとき、松根油採取の為にすべて伐採されてしまった。蒲蘆碑堂から5分ほどすると、百村川に架かる筋違橋を渡る。さらに20分ほどの交差点を越えた左手に馬頭観音を中心の石仏石塔群 / すぐ右手に八幡神社の鳥居 と続く。

15分ほどすると、左手に「旧奥州街道 大田原宿 新田木戸跡」石柱がある。
旧奥州街道 大田原宿 新田木戸跡

すぐの神明町交差点を右折すると大田原宿に入る。神明町交差点を左折するのが日光北街道で、奥州諸大名の日光参詣道。大俵氏は、武蔵七党の丹党の一族である安保氏の分流とされる。南北朝時代に下野国那須地方の大俵に移住したことから大俵と名乗り、大俵忠清が初代と云われている。那須氏に仕え、大俵胤清の代に大田原氏に変更したといわれている。天正18年(1590年)小田原征伐のとき大田原晴清は豊臣秀吉に従い、那須氏から認められていた領地を安堵される。慶長7年(1602年)12400石となり、大田原藩を立藩した。領地を移される事無く明治維新に至っている。大田原宿は城下町でもあり、本陣:2 / 脇本陣:1 / 旅籠:43 と賑わった。

忍精寺 愛宕神社 愛宕神社境内社
神明町交差点を右折すると、すぐ右手に忍精寺 / すぐ左手に愛宕神社 / すぐ左手に寛正5年(1793年)に再建された薬師堂 と続く。愛宕神社社殿には、神明町公民館の表札が掛っている。
薬師堂
那須与一像
正法寺 金灯籠

5分ほどすると左手に文治元年(1185年)屋島の合戦で扇子を矢で射抜いたと云う那須与一像 / すぐ左手に正法寺 / すぐの金燈籠交差点を渡る手前左手に金灯籠(かなどうろう) と続く。小公園になっており、「旧奥州道中 大田原宿 上町」石柱がある。文政3年(1820年)造立の金灯籠は、戦時中供出されてしまった。二代目は、同じ頃に造立された旧会津西街道・三斗小屋宿にあった灯籠を修復して移築した。現在の灯籠は三代目で、昭和54年(1979年)に初代を復元したもの。二代目は三斗小屋宿に戻された。台座は往時のもので、西側に「江戸」/ 東側に「白川」と彫られている。ここは塩原道との追分になる。

旧奥州道中 大田原宿
パインズ温泉ホテル大田原に宿泊、温泉で汗を流す。