奥州街道27次 No.12 東武宇都宮駅-(約19km)-JR東北本線・氏家駅
2014年 3月20日(木)09:00 晴

東武宇都宮駅西側の10号線を北へ、すぐの池上町交差点を左折する。すぐのT字路交差点が、旧日光街道と旧奥州街道の追分だったところ。 旧日光街道はT字路交差点から清住町通りを北へ進む。T字路交差点から引き返し、119号線を東へ進む。5分ほどの本町交差点を越えると、すぐに釜川に架かる都橋(みやこばし)を渡る。釜川は宇都宮市野沢町の弁天沼を源流とする一級河川で、宇都宮の中心部を流れ田川に流入している。釜川沿いにはタイルが敷かれ“かまがわプロムナード”と命名されている。

都橋
都橋からすぐに旧奥州街道は右折して南へ進む。アーケードとなっているオリオン通りに突き当り、左折して東へ進む。すぐにバンパ通りと交差する。
オリオン通りアーケード
[寄り道]宇都宮二荒山(ふたあらやま / ふたらやま)神社
宇都宮二荒山神社鳥居 宇都宮二荒山神社神門 宇都宮二荒山神社社殿
交差点を左折して、バンパ通りを北へ進む。すぐの馬場通り1丁目交差点で大通りに突き当たり、大通り沿いに宇都宮二荒山神社の鳥居がある。仁徳天皇41年創建と云われる宇都宮二荒山神社は、古くは宇都宮大明神とも呼ばれた式内社。創建時は大通りを隔てた南側にあったが、承和5年(838年)に現在地に移転する。正式名称は“二荒山神社”であるが、日光の二荒山神社との区別のためにそれぞれ地名を冠している。日光二荒山神社 / 宇都宮二荒山神社 ともに延喜式神名帳に記載されており、それぞれ下野国一宮を称している。宇都宮の町は宇都宮二荒山神社の門前町として発展してきた。戊辰戦争により焼失した社殿は、明治10年(1877年)に再建されたもの。宇都宮二荒山神社の社家から武家となり、平安時代末期から改易される慶長2年(1597年)まで約500年続いた宇都宮氏が知られる。
[寄り道]宇都宮城
オリオン通りとの交差点まで戻り、バンパ通りを南へ進む。すぐ右手に琴平神社がある。
琴平神社
西側正面入口 富士見櫓 清明台櫓
バンパ通りをさらに南へ進むと、10分ほどのところに宇都宮城址公園がある。平安時代末期に藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと云われるが、藤原秀郷築城説もある。平安時代末期から改易される慶長2年(1597年)まで、約500年続いた宇都宮氏の居城。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏の攻撃で、占拠されたこともあった。天正18年(1590年)に行われた奥州仕置(おうしゅうしおき)では、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名が宇都宮城に参城した。慶長2年(1597年)宇都宮氏の改易後は、慶長3年(1598年)蒲生秀行 / 慶長6年(1601年)奥平家昌 / 元和5年(1619年)徳川家康の懐刀と言われた本多正純が入封する。徳川将軍の日光東照宮参拝の際に、将軍の宿泊施設として利用された。宇都宮城釣天井事件は、徳川2代将軍・徳川秀忠の暗殺を図ったとされる事件である。釣天井の仕掛けは存在しなかったとされている。本田正純以降は譜代大名がこまめに入れ替わり、戸田氏で幕末を迎える。慶応4年(1868年)戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して焼失した。東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯した。天守は築かれず、清明台櫓が代わりとなっていた。土塁に清明台櫓と富士見櫓が再建される。
おしどり塚  大町神輿館
オリオン通りとの交差点まで戻り、旧奥州街道を東へ進む。35号線に突き当り、左折してすぐに右折して大町通りを東へ進む。すぐ右手のおしどり塚公園に、おしどり塚 / 勤皇の志士・児島強介の碑 / 大町神輿館 がある。おしどり塚は“おしどり夫婦”の語源になった旧跡地として知られている。鎌倉時代に無住法師により書かれた仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」に記されている伝承。沙石集は弘安2年(1279年)に起筆、弘安6年(1283年)に成立している。その後も絶えず加筆された。公園から南東方向へ進むと、三峰神社がある。
三峰神社
居酒屋前の七福神 大通りの町並み

宝蔵寺鐘楼門

宝蔵院本堂 宝蔵院不動堂 宝蔵院常夜燈
旧奥州街道の大町通りを東へ進むと、上河原通りと交差する。左折して北西へ進むと、すぐに大通りと交差する。旧奥州街道は直進する。右折して大通りを東へ進むと、左手の居酒屋前に七福神 / すぐ左手に天安元年(857年)創建の宝蔵院がある。本堂は平成16年(2004年)に再建されたもの。鐘楼門に“およりの鐘”と呼ばれる梵鐘がある。表面に宇都宮氏の三つ巴の紋があり、もともとは宇都宮氏第8代・宇都宮貞綱が菩提寺の東勝寺に寄進したもの。東勝寺廃寺の折に宇都宮二荒山神社に納められ、昭和期の都市計画により宝蔵寺に移されたと云われている。宇都宮に時を告げる鐘として、夕暮れ時に鳴らされた。“おより”の謂われは、“おやすみ”の敬語から名付けられたと云われている。境台にある不動堂は、北関東三十六不動19番札所。
交差点まで戻り、上河原通りを北東へ進む。田川に架かる幸橋の手前左手に、文永年間(1264年〜1274年)妙正尼(宇都宮景綱の姉)によって創建された妙正寺がある。
妙正寺
清厳寺山門 清厳寺地蔵 清厳寺中門
清厳寺本堂 清厳寺呑龍堂 清厳寺鐘楼
妙正寺山門前から西へ進むと、すぐ右手に建保3年(1215年)宇都宮氏5代・宇都宮頼綱によって創建された念仏堂が始まりの清厳寺がある。山門を潜ると、右手の収納庫に日本最古の鉄塔婆(重文)がある。元和元年(1312年)宇都宮氏8代・宇都宮貞綱が母の13回忌のとき、菩提を弔うために鋳造したもの。中門の手前左手に、平成7年に再建された地蔵がある。正徳4年(1714年)に造立されたが、昭和19年戦時供出された。中門右手の鐘楼に、戦時供出を免れた寛延4年(1751年)鋳造の銅鐘がある。本堂右手に呑龍堂がある。
三峰山神社 川涼み風景レリーフ 旧篠原家住宅
旧奥州街道に戻り北東へ進むと、すぐ左手に三峰山神社がある。すぐに田川に架かる幸橋を渡る。欄干(らんかん)のところどころにレリーフが埋め込まれている。すぐの交差点を左折して、125号線を北東へ進む。交差点の北東側に、旧篠原家住宅(重文)がある。篠原家は江戸時代から第2次世界大戦まで、醤油醸造業や肥料商を営んでいた。現在残る旧篠原家住宅は、明治28年(1895年)に建てられたもの。
旧篠原家住宅からすぐの今泉交差点を越え、5分ほどすると右手に八坂神社がある。康平6年(1063年)宇都宮城主・藤原宗園(宇都宮氏の祖)が、宇都宮城の丑寅の方角に当たるここに鬼門除の鎮護として神明社を創建した。明治43年(1910年)博労町の八坂神社と合祀、八坂神社と改称した。
八坂神社

八坂神社からすぐの今泉交番前交差点を越えると、すぐに東北新幹線の高架下を潜る。10分ほどすると、左手に宝蓮院がある。

長屋門 宝蓮院
宇都宮化成バス停付近 前原バス停付近 上海道町バス停付近
宝蓮院から20分ほどすると、短い並木区間がある。ここから稚児ヶ坂を登ったところまで、まばらに並木区間がある。
宝蓮院から60分ほどの稚ヶ坂バス停を過ぎると、すぐに並木道となり稚児ヶ坂(ちがさか)と呼ばれる短い坂道を登る。稚ヶ坂坂上バス停から10分ほどすると、左手に「ここから 白澤宿内」標識がある。
稚児ヶ坂手前 「ここから 白澤宿内」標識
奥州街道 18番 白沢(しらさわ)宿
栃木県宇都宮市白沢町白沢宿
天保14年(1843年)奥州道中宿村大概帳
人口:369 家数:71 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:13
江戸から30里余に位置する。鬼怒川の鮎と白沢の牛蒡(ごぼう)は、白沢宿の名物として知られていた。稚児ヶ坂の中程に茶屋があり、四季を問わず牛蒡汁を出していたと云われている。案内板では、白沢宿交差点の手前当たりから九郷半橋までが宿場となっている。
河内地域自治センターバス停 勝善神 白沢地蔵堂
「ここから 白澤宿内」標識から5分ほどの歩道橋のある交差点を直進する。5分ほどすると。左手に神号碑「勝善(そうぜん)神」がある。勝善神は神道系の牛馬守護神、仏教系では馬頭観音になる。すぐ右手に白沢地蔵堂がある。建久7年(1196年)奥羽総奉行として奥州に下向した伊沢家景が、旅中に病死した実子を葬ったのが始まり。白澤宿七福神(壽老人)になっている。
馬頭観音 / 石段 白髭神社
境内から奥州街道眺望
白沢地蔵堂からすぐ左手に、昭和6年(1931年)造立の馬頭観音 / 石段前に“やげん坂”案内板がある。漢方の薬種を砕く舟形の器具・薬研に、坂の形が似ていることが由来となっている。石段を登り坂を登ると、右手に白髭神社がある。境台の裏側で、境内から奥州街道側を見下ろすと、鳥居が小さく見える。白澤宿七福神(大黒天)になっている。
町並み 明星院 T字路交差点
徑力稲荷神社 馬頭観音 / 道祖紳 白澤宿標識
旧奥州街道に戻り、東へ進む。すぐの白沢宿交差点を左折すると、沿道には鬼怒川から取水された水が流れている用水路がある。ところどころに水車がある。沿道の民家には、当時の屋号が掲げられている。中程の左手に、本陣の表示がある。白沢宿交差点から5分ほどの左手に、白髭神社鳥居 / 左手に明星院 と続く。明星院は白沢宿七福神(布袋)になっている。すぐに突き当りに酒屋のあるT字路交差点を右折すると、すぐ右手に徑力稲荷神社がある。すぐに九郷半川に架かる九郷半橋を渡ると、左手に馬頭観音 / 道祖紳らしい自然石 が並んでいる。馬頭観音は昭和20年代の造立だが、一桁の数字が読み取れない。道路沿いの左手に「ここは江戸日本橋から三十里 白澤宿」標識、左手に河内郵便局がある。
案内板の地図から抜粋 西鬼怒川の渡し跡 西鬼怒川
白澤の一里塚址 白澤宿七福神(福禄寿) 皇紀2600年開田之碑
九郷半橋からすぐのT字路を直進して北東へ進む。5分ほどすると、西鬼怒川を西鬼怒川橋で渡る。西鬼怒川は元和6年(1620年)に開削された疏水。西鬼怒川橋手前右手に「江戸時代の鬼怒川の渡し→100m」標識、川沿いに南西へ進むと「←江戸時代の鬼怒川の渡し」標識がある。旧奥州街道は少し手前にある交差点から、弧を描く様に渡しに通じていた。西鬼怒川橋を渡ると、すぐ左手に白沢河原バス停がある。西鬼怒川を渡しで越えた旧奥州街道は、この辺りに通じていた。白澤の一里塚址 / 白澤宿七福神(福禄寿) / 皇紀2600年開田之碑 がある。白澤の一里塚は鬼怒川の河原にあったが、度々の水害で破壊され痕跡が残っていない。
標識 分岐 鬼怒川の渡し跡
白澤の一里塚址から5分ほどの新川を渡ると、左手に「ここから 白澤宿内」標識がある。5分足らずで鬼怒川の土手に突き当り、左へ進む。道なりに5分ほど進み、土手に登るとすぐに分岐がある。地元の方が通りがかり、「朽果てた標識がある」と教えていただいた。分岐を右へ下る。5分ほどすると道が左に曲がる右手に、鬼怒川の渡し跡がある。

鬼怒川の渡し跡からは迂回路になる。道なりに林へ入り、すぐに土手道に登る。5分ほどすると、土手道の左下方向に不明の石塔と築堤記念碑が見える。すぐに125号線と交差、右折して鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡る。橋の途中に氏家町境界看板があり、河内町から氏家町に入る。

不明の石塔 / 築堤記念碑 鬼怒川
船玉神社 浮島地蔵堂
旧奥州街道は鬼怒川の渡しで対岸の阿久津大橋南側に渡り、船玉神社に通じていた。阿久津大橋を渡り、すぐの十字路を左折する。すぐに右折してさらに左折すると、すぐ左手に船玉神社がある。阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、慶長から明治中頃期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。奥州の糧穀や物産は阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られていた。水上の安全と河岸の繁栄を願って、船魂を祀ったのが船玉神社。 境内は舟の形を模して造られたと云われ、舳の位置に社殿がある。船玉神社から北へ進むと、すぐ左手に浮島地蔵堂がある。鬼怒川を流れてきた地蔵を漁師が拾い上げたと云われている。台座に元文4年(1739年)と「女人等現当二世安楽所」の銘があり、古くから子授け / 安産 / 子育て にご利益があるとされる。
浮島地蔵堂から北へ進むと、すぐに125号線と合流する。
[寄り道]与作稲荷神社
塩釜地蔵 与作稲荷神社
阿久津大橋から125号線を東へ進む。5分ほどの上阿久津交差点から125号線は北へ進む。上阿久津交差点を直進して小路を進むと、すぐにY字路がある。左へ進むと、左手に塩釜地蔵 / 与作稲荷神社 と続く。正式な参道はY字路を右へ進み、すぐに左折すると鳥居がある。与作稲荷神社は勝山城地の一隅にあったと云われている。洪水により流され、三本杉の根本に留まっていた。嘉永3年(1850年)に移された。社殿は明治8年(1875年)に再建されたもの。数多くの鳥居が奉納され、門前には稲荷町ができて参詣者の飲食遊興の場となったと云われている。
上阿久津交差点から125号線を北へ進む。すぐ左手に、浮島地蔵堂 / 船玉神社 への標識がある。左折すると、浮島地蔵堂の南側で旧奥州街道に突き当る。125号線に戻り北へ進むと、すぐに旧奥州街道が合流する。
高尾神社 高尾神社境台社 稲荷神社
旧奥州街道が125号線と合流すると、すぐに歩道橋がある。歩道橋手前を右折すると、左手に高尾神社 / 右手前方に稲荷神社 がある。高尾神社は阿久津の産土神であった古社で、雷神 / 龍神 / 水神 などを支配すると云われる高尾神を祀る。10月19日の大祭には強く発酵させた甘酒と生の川魚を供え、それをいただく古式の神事が伝承されている。延宝6年(1678年)建立の社殿は、明治39年(1906年)に焼失している。現在の社殿は明治42年(1909年)に再建されたもの。境内の東側に、天満宮など境台社が並んでいる。鳥居は享保12年(1726年)建立されたもの。
将軍地蔵堂 不明の堂 石仏群
125号線に戻り北へ進む。5分ほどすると、右手に将軍地蔵堂がある。境内に物置の様になっている不明の堂 / 石仏群 がある。源義家の奥州攻めのとき、宗円法師がここで戦勝祈願したと云われている。勝山城を守護する寺院として、堂原に将軍山地蔵院満願寺が創建される。満願寺は戦国時代に焼失、江戸時代に再建されて堂原地蔵堂となる。奥州街道の道中安全にご利益があるとされた。
将軍地蔵から5分ほどすると、左手に勝山城跡の標識がある。本丸方向へ進むと、左手に昌玖寺やさくら市ミュ−ジアムがある。昌玖寺本堂らしき建物は見当たらない。氏家氏の祈願寺とされている。境内の愛染明王堂にある愛染明王は、鎌倉時代末期〜南北朝時代造立のもの。
昌玖寺愛染明王堂
本丸空堀 本丸空堀に架かる木橋 本丸跡
本丸土塁 「勝山城址周辺の鬼怒川」標柱 民家広場

勝山城(氏家城)は建久2年(1191年)宇都宮一族の氏家公頼が築城した丘城。南北朝時代に入ると氏家氏は没落、宇都宮氏一族の芳賀高清が飛山城から移り住む。芳賀氏によって強固な城構えが完成する。中世下野における宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であった。戦国時代には那須氏との激戦地となったが、落城することは無かった。本丸跡から西へ進むと、「勝山城址周辺の鬼怒川」標柱がある。西側に鬼怒川が流れ、絶壁になっていた。石垣 / 土塁 / 空堀 が残る。本丸空堀に架かる木橋が復元されている。慶長2年(1597年)宇都宮氏が豊臣秀吉により改易され、廃城となった。旧奥州街道から本丸方向へ進んだ右手の民家広場に、旧森家長屋門と2階建て瓦葺の旧手塚家が移築されている。

旧奥州街道踏切
お伊勢の森 街道寸景

旧奥州街道は勝山城跡の標識からへ、商業施設に挟まれた道を進む。5分ほどすると交通量の多い4号線を横断する。5分ほどすると、左手にお伊勢の森がある。伊勢神宮を勧請した神社があり、当時は広大な森であったことから“お伊勢の森”と呼ばれるようになった。神号碑「天照皇大神宮」と灯籠がある。5分ほどすると、旧奥州街道踏切を渡る。

馬頭観音 奥州街道道標 地蔵

旧奥州街道踏切から5分ほどすると、181号線に突き当る。手前右手に、天保9年(1838年)造立の馬頭観音 / 奥州街道道標 / 地蔵 / 道標 が並んでいる。奥州街道道標には「右江戸道 左水戸 かさま 下だて 下づま」と彫られているらしいが、判読できない。

道標
奥州街道 19番 氏家(うじいえ)宿
栃木県さくら市氏家
天保14年(1843年)奥州道中宿村大概帳
人口:879 家数:235 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:35

江戸時代、氏家宿南の鬼怒川東岸に阿久津河岸があった。阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、慶長から明治中頃期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。奥州の糧穀や物産は阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られていた。会津西道 / 会津北道 / 原方道 / 水戸道が通じ、交通の要衝地となった。このため氏家宿の旅籠も活況を呈したと云われている。太平洋沿岸村落から水戸道を通り、四季折々に海魚が大量に運び込まれていた。

西導寺本堂 西導寺観音堂 西導寺弥勒堂
T字路を左折して、181号線を北西へ進む。追分から5分ほどすると、氏家交差点がある。さらに5分ほどの氏家駅東入口交差点手前を左折すると、突き当りに建久2年(1191年)氏家氏の始祖・氏家公頼が創建した西導寺がある。 氏家家の菩提寺。本堂は天明4年(1784年)に再建されたもの。境内に、観音堂 / 延宝元年(1673年)建立が始まりのの弥勒堂 がある。
氏家駅東入口交差点を左折して107号線を西へ進む。西導寺は107号線側からも境内に入れる。すぐの突き当りにJR東北本線・氏家駅がある。