中原街道 No.07 寒川駅…岡田西交差点-(約9km)-平塚柳町の辻…平塚駅 |
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岡田西交差点 |
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車地蔵 |
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梶原景時館址 |
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一之宮不動堂 |
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田村渡し場跡 |
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十王堂跡 |
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妙楽寺 |
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田村駒返橋跡 |
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真土神社 |
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円宗院 |
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中原御殿跡 |
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諏訪神社 |
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平塚 |
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要法寺 |
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平塚柳町の辻 |
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JR相模線・寒川駅から北へ、寒川駅北口交差点を左折して西へ進む。岡田西交差点で旧中原街道と交差する。
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岡田西交差点を左折して、旧中原街道を南へ進む。すぐのJR相模線の踏切を越え、すぐの交差点を右折する。すぐ左折して南西へ進む。JR相模線の踏切を越えてから、5分ほどのところの左手に慶長2年(1597年)造立の車地蔵がある。
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車地蔵 |
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梶原景時館址 |
梶原景時館址石柱 |
天満宮 |
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車地蔵から5分ほどすると、47号線に突き当たる。47号線の南側は梶原景時館址で、梶原景時館址石柱 / 天満宮 がある。梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、大庭氏とは同族。梶原景時は治承4年(1180年)源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救ったことで知られている。源頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府成立の後に一之宮を所領として館を構えた。頼朝の死後は御家人らにうとまれ、鎌倉を追放される。正治2年(1200年)再起を期し上洛するため一之宮を出立するが、途中で北条方の攻撃を受け清水で討ち死にした。
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[寄り道]伝梶原七士の墓 |
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梶原景時館跡から東へ進む。すぐ右手の一の宮西自治会館に、地蔵 / 地蔵 / 丸石道祖神 がある。
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地蔵 / 地蔵 / 丸石道祖神 |
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濱降祭駐興記 |
箙の梅案内板 |
伝梶原七士の墓 |
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一の宮西自治会館からすぐの右手に、濱降祭駐興記 / 「梶原伝七の墓」標識がある。浜降祭は神奈川県無形民族文化財に指定されている。寒川神社の神事として行われていた。茅ヶ崎・鶴嶺八幡宮でも同様の祭りを行っていたため、合わせて茅ヶ崎海岸浜降祭となった。右折して突き当りを右折すると、左手に箙(えびら)の梅案内板 / 伝梶原七士の墓 がある。箙の梅は寿永3年(1184年)源平生田の森合戦で、梶原景時長男・梶原景季が梅の枝を箙に差して戦った故事。神戸の生田神社に遺跡があり、能や浄瑠璃の題材となった。伝梶原七士の墓は、梶原景時の家臣たちの墓と云われている五輪塔などがある。
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八幡大神 |
明神社 |
石祠 / 双体道祖神 / 庚申塔 |
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濱降祭駐興記から5分ほどの左手に、元禄10年(1697年)創建の八幡大神がある。 すぐ左手に明神社がある。社殿左手に石祠 / 双体道祖神 / 庚申塔 が並んでいる。隣接して天平宝字元年(757年)創建と云われる景観寺がある。本堂は天和3年(1683年)に再建されたもの。
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景観寺 |
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梶原景時館址から47号線を西に進む。すぐの一之宮小学校辺りに一之宮宿場があったと云う。5分ほどの笠谷入口バス停先のY字路を47号線は右へ進む。Y字路を右へ進むと田村の渡し経由する旧中原街道 / 左へ進むと四之宮の渡しを経由する旧中原街道 の道筋になる。
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Y字路標識 / 笠谷入口バス停 |
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大山道道標 |
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一之宮不動堂 |
不明の石塔 |
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Y字路を右へ進むと、5分足らずの右手に一之宮不動堂 / 天明6年(1786年)造立の「右大山道 左江戸道」大山道道標 / 不明の石塔 がある。一之宮不動堂や道標は、江戸の商人が寄進したもの。この辺りは中原街道と大山街道の重複区間であるが、大山詣でが盛んだったことを物語っている。案内板には、津久井往還
/ 矢倉沢往還 / 中原街道 / 東海道 を横切って藤沢から大山に至る大山街道が図解されている。
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神川橋からの相模川下流方向 |
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田村の渡し標識 |
大山街道標識 |
田村渡し場跡 |
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一之宮不動堂からすぐに突き当り、右折して堤防沿いの47号線を北へ進む。10分ほどの神川橋東側交差点を左折して、47号線を西へ進む。すぐに相模川に架かる神川橋を渡る。神川橋の南側、やや下流に田村の渡しがあった。神川橋の欄干に、田村の渡し / 大山街道 の標識が埋め込まれている。神川橋を渡ると平塚市に入り、すぐに左折して土手道を進む。すぐ右手に田村渡し場跡がある。坂上田村麻呂が陸奥に向かう途中立ち寄ったことに由来している。田村渡しは中原街道と大山街道の渡しを兼ねていた。
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八坂神社 |
十王堂跡 |
大山道道標 / 不明の文字塔 |
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47号線に戻り西へ進むと、すぐ右手の土手下に八坂神社がある。5分足らずの田村の辻と呼ばれた旧田村十字路交差点右手に、十王堂跡 / 宝暦9年(1759年)造立の大山道道標と不明の文字塔
がある。天文6年(1537年)小田原北条氏が河越上杉氏を攻撃するとき、相模川で合戦があり多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が弔い十王堂を建立した。大山道道標の正面に「右 大山みち」と彫られている。側面にそれぞれ「左 ふじさわ 江のしま かまくらみち」「左 大いそみち」彫られているらしい。田村の辻は平塚から厚木への八王子道が、中原街道
/ 大山街道 と交差するところ。田村の辻を右折した辺りに田村宿があった。大山 / 箱根 / 富士山 を眺望できる景勝地として賑わったと云われている。
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貞性寺 |
妙楽寺山門 |
妙楽寺 |
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田村の辻を左折すると、すぐ右手に貞性寺 / すぐ右手に足利尊氏の四男・足利基氏が創建した妙楽寺 と続く。
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祠 / 田村駒返橋跡碑 |
不明の石塔 |
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妙楽寺からすぐ右手の田村駒返し橋跡に、祠 / 田村駒返橋跡碑 / 田村駒返橋跡碑に隠れる様に不明の石塔 がある。祠には道祖神と不明の石仏石塔が2基ある。徳川家康が鷹狩りに来たとき大雨で道が悪く、田村の人たちは畳を出して運行の便宜を図った。家康は田村の人たちの苦労をおもんばかり、ここから馬を返したと云う。この辺りは妙楽寺の門前であり、また田村宿の問屋場があって賑わっていたと云う。
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田村駒返し橋跡から5分足らずのところにY字路がある。Y字路の三角地帯に、田村一里塚跡碑 / 祠に地蔵と不明の石塔石仏2基 / 鹿見堂橋バス停
がある。田村一里塚跡碑には「南中原道 北奥州道」と彫られている。北奥州道とは江戸に向かう道で、古代東海道の道筋名を残したと思われる。この辺りは中原街道と八王子道の重複区間であるが、田村一里塚は八王子道に設けられたと云う。徳川家康が雨宿りした時に鹿を見かけたことに由来する鹿見堂は無く、バス停にその名を留める。
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田村一里塚跡碑 / 祠 |
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田村一里塚跡から、右へ進む。すぐに129号に合流、南へ進む。田村の辻から129号に合流するまでは、旧中原街道の名残り。5分足らずの神奈川トヨタが南西側にある交差点を右折する。2本目の十字路を左折して南へ進む。すぐのY字路を右へ、すぐに129号線の四之宮林町交差点から西に延びる道と斜めに交差する。旧中原街道は直進して南西へ進むが、右折して西へ進むとすぐ右手に諏訪神社がある。
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諏訪神社 |
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旧中原街道に戻り、南西へ進む。すぐに突き当たる手前左手に嘉永3年(1850年)造立の道標を兼ねた庚申塔がある。判読できないが「旧江戸中原御殿街道
用田 田村 真土」と彫られているとのこと。Y字路を右へ進んだところからここまでは。旧中原街道の名残り。 |
道標を兼ねた庚申塔 |
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相模川の渡し場:四之宮の渡し |
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相模川の渡し場は、田村の渡しだけでなく四之宮の渡しがあった。地元の人だけでなく、徳川家康も利用したと云われている。昭和30年(1955年)頃まで使用された。笠谷入口バス停先のY字路を左へ、四之宮の渡しを経由する旧中原街道を進む。 |
Y字路標識 / 笠谷入口バス停 |
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廃線跡の遊歩道 |
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西寒川駅跡地 |
旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡 |
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Y字路を左へ進むと、すぐ右手に八角広場がある。廃線になった寒川支線の西寒川駅跡地で、相模線本線からの分岐点からのほぼ全てが遊歩道として整備されている。旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡碑がある。 |
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寒川第二排水樋管南側からの相模川 |
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八角広場から道なりに南へ進むと、すぐに首都圏連絡自動車道を潜る。5分ほどの旭ファイバー寮前バス停の先から、相模川の堤防に平行する様に道を進む。堤防と道の間は工場の駐車場となっている。5分ほどすると、湘南銀河大橋の袂にある田畑スポーツ公園に出る。四之宮の渡し跡の説明板が途中にあるらしいが、見付けられなかった。田畑スポーツ公園から、戻る様に土手道を北へ進む。前鳥(さきとり)神社の対岸が寒川第二排水樋管の辺りになるので、さらに5分ほど土手道を北へ戻る。何も得るものがないまま、寒川第二排水樋管から対岸を撮影する。
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南側の鳥居 |
前鳥神社拝殿 |
旧中原街道側の鳥居 |
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田畑スポーツ公園から相模川に架かる湘南銀河大橋を渡る。湘南銀河大橋西側交差点手前の交差点を右折して北へ進むと、相模国四之宮・前鳥神社がある。前鳥神社の北側にある道を東に進み堤防まで出るが、何もなく引き返す。
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前鳥神社拝殿手前を左へ、鳥居を出て西へ延びる旧中原街道を進む。すぐ右手に地蔵がある。 |
地蔵 |
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地蔵から5分ほどすると、129号線の四之宮西町交差点を越える。すぐに田村の渡しからの旧中原街道が北西側から合流する。合流する右手に、嘉永3年(1850年)造立の道標を兼ねた庚申塔がある。判読できないが「旧江戸中原御殿街道
用田 田村 真土」と彫られているとのこと。 |
道標を兼ねた庚申塔 |
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古道中原街道石標 |
真土神社参道 |
真土神社 |
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道標を兼ねた庚申塔から突き当りを右折する。東からの道は、四之宮の渡しから続く旧中原街道。すぐの十字路を左折して南へ進む。すぐ右手に大真土東公園があり、すぐの十字路を右折して西へ進む。2本目の十字路左手に古道中原街道石標 / すぐ左手に真土神社参道 がある。真土神社は、真土地域内にあった7社が合併した。参道を進みすぐに右折すると、真土神社沿いの南角に道祖神がある。
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道祖神 |
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二股道 |
古道中原街道石標 |
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真土神社参道入口から西へ進むと、すぐの二股道手前左手に古道中原街道石標 / 読み取れない案内板 があり、二股道は左へ道なりに進む。
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二股道を左へ道なりに進むと、すぐに広い道に合流する。真土神社手前にあった古道中原街道石標辺りからここまでは、旧中原街道の名残り。すぐの十字路を直進して南へ進む。すぐの交差点を右折して西へ進む。すぐに分岐があり、道なりに左へ進む。すぐに斜めに合流、西へ進む。606号線を越えると、すぐ左手に平塚東中原郵便局がある。二股道を左へ道なりに進んでから平塚東中原郵便局まで、15分ほど掛っている。平塚東中原郵便局から5分足らずの右手に、お助け地蔵の幟がある円宗院がある。道が解りにくく、助けて欲しい。
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円宗院 |
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円宗院からすぐの交差点を左折して南へ進む。さらに十字路と交差点を越えた先のT字路を右折する。61号線を越えると、右手に中原上宿遺跡がある。61号線を建設する際、この辺りで弥生〜奈良時代の集落跡が発掘された。円宗院から中原上宿遺跡まで10分ほど掛る。
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中原上宿遺跡 |
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中原上宿遺跡からすぐの中原上宿交差点を左折して南へ進む。右手に平塚御殿局 がある。左手に交番があるT字路交差点手前右手に中原宿高札場跡がある。このT字路が中原街道と御殿からの大手道が交差する地点で、ここを中心に宿場が形成されていた。中原上宿遺跡から中原宿高札場跡まで5分ほど掛る。
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中原宿高札場跡 |
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中原宿高札場跡から右折して西へ進む。すぐの突き当りにある中原小学校は中原御殿跡。相州中原御殿之碑 / 案内板 がある。中原御殿は文禄5年(1596年)徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられた。東西140m、南北100mで約7100坪の広大な敷地を持っていた。周囲に約10u幅の堀を廻らしていたと云われている。中原御殿は明暦3年(1657年)に取り払いとなる。中原街道はこの御殿に由来するが、街道そのものはすでに後北条氏の時代には整備されていた。
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相州中原御殿之碑 |
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江戸時代前期の中原街道は、中原御殿までになると云う。江戸時代後期の中原街道は、南へ進み平塚宿に出る。さらに旧東海道を西へ進んだところにある化粧坂一里塚跡が終点だった。
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舟地蔵 / 石祠 |
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善徳寺 |
善徳寺山門 |
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突き当りを左へ、中原小学校沿いに南西へ進む。旧中原街道は、約300mのところを左折する。左折できる道が数本あり、解りづらい。左折せずに西へ進む。すぐ右手に舟地蔵と石祠 / すぐ右手に善徳寺 と続く。茅葺きの山門は、中原御殿の裏門である冠木門(かぶきもん)を移築したと云われている。
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二股道 |
道祖神 |
諏訪神社 |
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平塚水天宮 |
諏訪部神社 |
お茶婆さんの祠 |
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道を戻り、舟地蔵の東側にあるT字路を南へ進む。10分足らずのところに二股道がある。左へ進むとすぐ右手に道祖神 / すぐ右手に諏訪神社 と続く。諏訪神社境内に、平塚水天宮
/ 諏訪部神社 / 咳の神様・お茶婆さんの祠 がある。
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鏡山お初の墓 |
義女松田多津顕彰碑 |
七面大明神御堂建立供養塔 |
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諏訪神社から10分足らずで、1号線と斜めに交差する。分離帯で遮られ、右折して春日神社北側交差点から迂回する。分離帯で遮られた道を南へ進むと、すぐ左手に要法寺会館 / 右手の要法寺墓地に鏡山お初の墓と昭和10年(1935年)造立の義女松田多津顕彰碑 / 左手に七面大明神御堂建立供養塔 と続く。鏡山お初は、女忠臣蔵で名高い歌舞伎「加賀見山旧錦絵」の登場人物。本名は松田たつ。平塚宿の松田久兵衛の娘で、荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷に奉公に上がっていた。奉公先の主人が屈辱を受けて自害する。主を死に追いやった年寄を訪ね、主の自害した小脇差で仇を討った烈女。
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要法寺会館敷地に隣接した南側の公園に、平塚がある。傍らの松は三代目とされる。桓武平氏の祖と云われる高望王の妹・真砂子が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病で亡くなった。土地の人は高貴な姫の死を悼み、里外れの松の大木の根元に葬り塚を築いて弔った。いつしか塚は風化して平たくなったことから、平塚と呼ばれる様になったと云われている。平氏の姫の墓(塚)から、平塚になったとも云われている。
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平塚 |
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十字路を右折して西へ進むと、すぐ右手に春日神社がある。平塚山黒部宮と称していた建久2年(1191年)に、馬入川(相模川)の橋供養祈願所と定められていた。 |
春日神社 |
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要法寺山門 |
要法寺 |
浄行菩薩 |
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十字路まで戻り、東へ進む。すぐ左手に要法寺がある。山門左手にある寛保元年(1741年)造立の七面大明神は、日蓮宗の守護神。日蓮は弘安5年(1282年)病気療養のために身延山から常陸の国向かう途中、平塚の鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の次男・北条泰知の屋敷内に宿泊している。説法を聴いて帰依した北条泰知は、館を寄進して要法寺を創建した。平塚も屋敷内にあった。境内にある寛延年間(1748年〜1750年)造立の浄行菩薩は、体の悪いところを洗うと取り除くことができると云われている。
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要法寺山門から南へ進む。すぐに平塚柳町の辻で旧東海道と交差する。右手に平塚問屋場跡がある。
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平塚問屋場跡 |
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