中原街道 No.03 洗足池-(約11km)-のちめ不動前交差点東山田駅
洗足池 桜坂 東光院 西明寺 小杉神社 泉澤寺 大戸神社 鎌田堂 のちめ不動堂 のちめ不動前交差点 東山田駅
洗足池
洗足池から2号線(中原街道)を西へ進む。10分ほどの呑川に架かる石川橋を渡る手前右手に、安永3年(1774年)造立の石橋供養塔がある。正面に題目「南無妙法蓮華経」が彫られている。
石橋供養塔
5分ほどすると、左手に東急池上線・雪が谷大塚駅がある。さらに5分足らずの田園調布警察前交差点手前を右折して北へ進むと、突き当りに稲荷神社がある。稲荷神社社殿は、鵜木大塚古墳の上にある。
稲荷神社 稲荷神社社殿
桜坂標柱(さくら坂上交差点側) 左側の側道 右側の側道
さくら坂交差点からの桜坂 桜坂標柱(さくら坂交差点側)

2号線(中原街道)に戻り、南西へ進む。五差路の田園調布警察前交差点から、旧中原街道は2号線南側の道を進む。5分足らずのところに、さくら坂上交差点がある。古くは沼部の大坂と呼ばれ、荷車を上げるのに難儀するほどの急坂だった。大正12年(1923年)に改修工事が行なわれ、切通しの坂となった。昭和5年(1930年)に切通しの両側に桜が植えられて、桜坂と改称された。坂の途中に切り通しを跨ぐ形で、上部両脇の側道を結ぶ歩行者用橋梁が架けられている。さくら坂交差点側から見ると、急坂と切通しの坂の違いが解る。さくら坂上交差点からさくら坂交差点まで、5分ほどである。さくら坂交差点側にも、桜坂標柱がある。

さくら坂交差点からすぐの右手に、文禄年間(1592年〜1596年)に創建されたと云われる東光院がある。
東光院
すぐに東急多摩川線の踏切を渡る、左手に沼部駅が見える。多摩堤通りを道なりに進む。すぐに多摩川の土手沿いの道となり、左手の階段で土手に登る。昭和10年(1935年)に丸子橋が架けられるまでは、渡船により多摩川を越えていた。
土手からの河川敷と対岸
土手道 / 丸子橋
中原街道標柱 原家 旧原家母屋跡地碑
土手道を丸子橋方向に5分ほど進み、丸子橋を渡る。すぐに左折して土手道から下ると、児童交通公園入口交差点がある。右折して旧中原街道を西へ進む。すぐの丸子橋交差点で丸子橋からの2号線と斜めに交差する。ここからは45号線となり、すぐに東急東横線のガードを潜る。5分足らずの右手に中原街道標柱がある。すぐ右手に原家 / 道路際に旧原家母屋跡地碑 がある。旧原家母屋は川崎市立日本民家園に移築保存されている。
原家からすぐ右手に、旧名主・安藤家長屋門がある。安藤家は後北条氏の家臣だった家柄で、江戸時代はこの辺りの名主の代表格であった。長屋門は代官から賜ったもの。
安藤家長屋門
安藤家長屋門からすぐに、陣屋町バス停 / 小杉陣屋町交差点 など歴史を感じさせる名称が続く。すぐ右手に明治3年(1872年)創業の石橋醤油店と続く。
石橋醤油店
石橋醤油店から5分足らずのところに、枡形道がある。案内板では「カギの道」となっている。右斜め方向に進むのが西明寺の参道で、参道入口左手に「徳川将軍小杉御殿跡」石標がある。西明寺の西側に隣接して小杉御殿があった。慶長13年(1608年)に造営された徳川将軍家の宿泊施設。江戸時代初期には東海道は整備されておらず、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要な街道となっていた。徳川家康も江戸と駿府との往還に用いたと云う。徳川将軍の鷹狩などで街道を通行する際に利用されたが、万治3年(1660年)に廃止された。
徳川将軍小杉御殿跡
参道を進むと、突き当りに鎌倉時代中期に創建されたと云われる西明寺がある。
西明寺
枡形道まで戻り南へ、すぐに右折して西へ進む。すぐ右手に道標を兼ねた供養塔がある。台座に「東江戸 西中原」と彫られている。供養塔の側面に彫られている「小杉駅」は宿駅のこと。すぐ左手に道標を兼ねた庚申塔の祠がある。油屋の屋号を持つ商家の角にあったので、「油屋の庚申様」と呼ばれていた。台座に「東江戸道 西大山道 南大師道」と彫られている。
供養塔 庚申塔の祠
庚申塔の祠からすぐ右手に小杉神社 / 境内に杉天満宮 がある。
小杉神社 杉天満宮
小杉神社からすぐに府中街道と交差する杉十字路交差点を越え、すぐに二ヶ領用水に架かる神地(ごうじ)橋を渡る。神地橋を渡った右手に、延徳3年(1491年)創建の泉澤(せんたく)寺がある。武蔵国多摩郡烏山(東京都世田谷区)に吉良氏の菩提寺として創建、天文18年(1549年)焼失後に世田谷城主・吉良頼康が移転させた。移転後、吉良氏は税を免除して居住を促した。また門前市を開き繁栄を図り、夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び知られていたと云う。
泉澤寺
泉澤寺から地蔵までの歩道には、色々なブロックが埋め込まれている。
泉澤寺から5分ほどの右手に地蔵の祠がある。
地蔵の祠
地蔵の祠からすぐに南武線武蔵中原駅のガードを潜る。すぐ右手に大戸神社がある。世田谷吉良氏の家臣・内藤豊前の舎弟内藤内匠之助が永正年間(1504年〜1521年)に戸隠明神を創建したのが始まりと云われている。境内にある大戸神社末社に、庚申塔が複数ある。
大戸神社 大戸神社末社
大戸神社から10分ほどすると、江川に架かっていた巌川橋跡に巌川橋橋名板がある。
巌川橋跡

巌川橋跡から5分足らずのところに、千年(ちとせ)交差点がある。右折して北西へ進む。5分足らずの千年神社前交差点手前左手に、千年神社の鳥居がある。古くより岩川村にあった天王社 / 御嶽社 / 伊勢宮 が、昭和30年(1955年)に合社して千年神社と称した。

千年神社
千年交差点まで戻る。45号線は西南西へ、旧中原街道は西へ坂を登る。45号線は切り通しの様に削られ、なだらかになっている。5分ほどすると45号線に合流する。合流から5分ほどの右手に能満寺参道石柱がある。
左:45号線 / 直進:旧中原街道 能満寺参道石柱

能満寺参道石柱から5分ほどの野川交差点を越え、すぐに矢上川に架かる野川橋を渡る。10分ほどすると、右手の小路に御嶽山神社の鳥居が見える。右折して鳥居から石段を登ると社殿がある。

御嶽山神社
鎌田堂石標 鎌田堂 鎌田堂由来
旧中原街道まで戻り、南西へ進む。すぐの久末交差点を越え、第3京浜道路を潜る。久末交差点から10分足らずの左手に鎌田堂がある。寛永年間(1624年〜1645年)念仏道場が開かれ、安政年間(1854年〜1860年)の頃まで繁栄したと云われている。背後に鎌田正清の館があったことから、蒲田堂と呼ばれた。造立された千手観音は盗難に遭い、寛文13年(1673年)に造立された地蔵がある。 前の坂は道場坂と呼ばれていたが、現在は道中坂となっている。鎌田正清は源頼朝の父・源義朝に仕えた武将。平治元年(1159年)合戦に敗れ、源義朝とともに東国へ落ちる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)長田忠致の屋敷に立ち寄るが、裏切られ源義朝とともに謀殺される。
石仏石塔群
六地蔵
町並み のちめ不動堂
鎌田堂からすぐの道中坂下交差点から、旧中原街道は右に進む。すぐに45号線に合流する。さらにすぐの向坂交差点から、旧中原街道は右に進む。すぐ右手に、のちめ不動堂がある。鎌田堂から10分足らずの距離である。
のちめ不動堂からすぐに、のちめ不動前交差点がある。左折して102号線を南東へ道なりに進む。45号線と交差してすぐの右手に、横浜市営地下鉄・東山田駅がある。