中原街道 No.02 高輪台駅-(約6km)-洗足池
高輪台駅 袖ケ崎神社 雉子神社 戸越地蔵 平塚の碑 木霊稲荷神社 洗足池

高輪台交差点から1号線(桜田通り)を南西へ進む。すぐ左手に保延元年(1137年)創建の袖ヶ崎神社がある。すぐに左折すると。左手に本立寺がある。慶長2年(1597年)に上目黒村に創建、恵性寺が廃寺となった跡地に移転した。

袖ヶ崎神社 本立寺
1号線(桜田通り)に戻り南西へ進むと、すぐ右手に承応2年(1653年)創建の了真寺がある。
了真寺
すぐに1号線(桜田通り)は登り坂となる。旧中原街道は右手の側道を進み、右折する。Y字路を左折して道なりに進むと、1号線(桜田通り)下の側道に合流する。了真寺から5分も掛らない。すぐ左手に1号線(桜田通り)を潜るトンネルがある。反対側に出ると、すぐ左手に寶塔寺がある。文亀2年(1502年)南品川漁師町に法東寺として創建したのが始まり。寛永年間に寶塔寺と改称した。万冶年間(1658年〜1661年)下大崎村一柳家下屋敷近辺に移転する。目黒川の水害を受けて移転した。江戸時代は雉子神社の別当寺であった。
寶塔寺
三柱神社 / 雉子神社 雉子神社 三柱神社

1号線(桜田通り)下の側道から階段で1号線(桜田通り)に登る。すぐの北東側に、文明年間(1469年〜1487年)創建の雉子(きじ)神社 / 境内に三柱神社 がある。慶長年間(1596年〜1615年)徳川家光が鷹狩りに訪れたとき、白い雉(きじ)が神社へ逃げ込んだ。稀な目出度いこととして「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称した。明治維新に雉子神社と改称する。江戸時代は寶塔寺が別当寺であった。三柱神社は、大国主命 / 倉稲魂命 / 埴山姫命 を祀る。

雉子神社から5分足らずで、JR五反田駅ガード下を潜る。すぐに左折して道なりに進み、目黒川に架かる大崎橋を渡る。1号線(桜田通り)を左折してから5分ほどのところに、大崎広小路交差点がある。南西側の側が広くなっており、分離帯西側の左折レーンは旧中原街道の名残り。
旧中原街道の名残り
すぐに中原口交差点で1号線(桜田通り)と斜めに交差する。歩道橋を渡り、1号線(桜田通り)の西側に移動する。首都高2号線下の横断歩道を渡る。
[寄り道]荏原金刀比羅神社
2号線(中原街道)を直進して南西へ進む。すぐの桐ヶ谷交差点を越えた右手に、荏原(えばら)金刀比羅神社がある。
荏原金刀比羅神社

旧中原街道は首都高2号線下の横断歩道を渡り、すぐに右折する。さらにすぐに左折してホテル沿いの坂を登る。すぐの右手角に享保12年(1727年)造立の子別れ地蔵がある。北西への道は桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親がその亡骸を見送った場所であったと云われている。桐ヶ谷の火葬場は徳川家光の時代に芝三田・長松寺の荼毘所を当地の霊源寺に移したのが始まりと云われている。当初は簡単な造りであり、昼夜火葬が行われていた。明治18年(1885年)霊源寺と分離され、現在は桐ヶ谷斎場になっている。

子別れ地蔵

すぐの左手に旧中原街道供養塔群がある。昭和38年(1963年)の区画整理で北方10mの辻から移転した。左:貞享年間(1684年〜1687年)造立の聖観音(墓碑) / 左奥:元文元年(1736年)造立の馬頭観音 / 中央:江戸時代中期造立と推定される地蔵 / 右:延享3年(1746年)造立の寒念仏地蔵 と並ぶ。

旧中原街道供養塔群
戸越地蔵 江戸時代中期造立と推定される地蔵

宝暦4年造立の庚申塔

庚申塔 江戸時代中期造立と推定される供養塔

旧中原街道供養塔群から5分ほどすると、左手に戸越地蔵がある。江戸時代中期の造立と推定される地蔵 / 宝暦4年(1754年)造立の庚申塔 / 延宝元年(1673年)造立の庚申塔と寛文6年(1666年)造立の庚申塔 / 江戸時代中期の造立と推定される供養塔 がある。

[寄り道]戸越銀座
戸越銀座 戸越八幡神社 戸越八幡神社山車

すぐに2号線(中原街道)に合流する。手前の十字路を左折してすぐの荏原2丁目交差点を越えると、約1.3kmにわたる関東有数の長さの商店街・戸越銀座が始まる。9月第2土曜・日曜は大永6年(1526年)創建の戸越八幡神社例大祭で、ひときわ賑わっている。

2号線(中原街道)を南西へ進む。すぐの平塚橋交差点を越えると、すぐ右手のバーミアン 階段に小さな「←平塚の碑」標識がある。右折してすぐに左折すると、平塚の碑がある。後三年の役(1083年〜1087年)のとき、源義家を助けた新羅三郎源義光が奥州からの帰途に夜盗の為に多くの部下を失った。その霊を弔うために築いたのが平塚。

平塚の碑
庚申塔 札場の跡 木霊稲荷神社
すぐの荏原警察署前交差点を越え5分ほどすると、右手の大樹の下に寛文5年(1665年)造立の庚申塔 / 右手に札場の跡(高札場跡) / 右手に木霊稲荷神社 と続く。
すぐの昭和大病院前交差点から旧中原街道は左方向へ進む。5分足らずのところで、立会川が暗渠化された道を越える。
立会川が暗渠化された道
すぐに旗の台交差点で2号線(中原街道)に合流する。5分足らずで東急大井町線のガードを潜る。
[寄り道]伏見稲荷神社
東急大井町線のガードを潜り、すぐの交差点を左折する。すぐに右折すると左手に、大正15年(1926年)創建の伏見稲荷神社がある。
伏見稲荷神社
洗足池
2号線(中原街道)に戻り、南西へ進む。すぐの南洗足交差点で環状7号線を越える。5分ほどすると、洗足坂上交差点がある。左折して東への道は、品川道と呼ばれる旧道。洗足坂上交差点からすぐの右手に洗足池がある。平安時代末期の文献にも見られる地名は千束であるが、千束の由来は数多くある。弘安5年(1282年)日蓮が池の畔で法衣を架けたのが袈裟掛けの松で、足を洗ったことから洗足池と称される様になったと云われている。
南端に大正12年(1923年)造立の中原街道改修記念碑がある。江戸と相模国を結ぶ中原街道は急坂が多く、大正時代に大掛かりな改修工事が行われたことが記されている。
中原街道改修記念碑
池月橋
千束八幡神社
池月絵馬 千束八幡神社
西側から廻ると、三連太鼓橋の池月橋 / 貞観2年(860年)宇佐八幡から勧請した千束八幡神社 と続く。治承4年(1180年)安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝が宿営、池に映る月のような姿のたくましい野生馬を捕らえたと云われている。後の宇治川の先陣争いで佐々木高綱が騎乗した池月で、梶原景季の磨墨と競うことになる、社殿横に池月を描いた大きな絵馬が奉納されている。
北側の中島に、弁才天がある。
弁才天
南洲西郷先生留魂祠手墨之碑 西郷隆盛留魂祠
西郷隆盛留魂碑 徳富蘇峰詩碑 不明の文字塔
東側に「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」石標があり、奥に西郷隆盛留魂祠 / 西郷隆盛留魂碑 / 徳富蘇峰の詩碑 / 不明の文字塔 がある。西郷隆盛と勝海舟は大政奉還後の江戸城明け渡し交渉により、江戸の町を戦火より救った英傑とされる。西郷隆盛は明治10年(1877年)西南戦役により、鹿児島において自刃する。勝海舟は追慕のため西郷隆盛の漢詩碑を造立、さらに明治16年(1883年)留魂祠を建立した。東京府南葛飾郡の浄光院境内にあったが、大正2年(1913年)荒川放水路開鑿に伴い移転した。徳富蘇峰詩碑は、西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城の偉業を讃えた詩碑。昭和12年(1937年)青木藤作ら9人によって造立された。
隣接して勝海舟・民子夫妻の墓がある。勝海舟は江戸城明け渡し交渉で本門寺に向かう途中、洗足池のほとりで休息した。洗足池に魅了された勝海舟は、明治維新後に池畔に千束軒を設けた。西郷隆盛はここを訪ねて歓談したと云われている。千束軒は戦災で焼失している。勝民子の「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は小鹿の側がいい」との遺言により、青山墓地に葬られた。勝小鹿(ころく)は明治25年(1892年)39歳で亡くなった勝海舟の嫡男。後に勝小鹿の娘婿・勝精(徳川慶喜の十男)の独断で改葬された。
勝海舟・民子夫妻の墓
妙福寺山門 妙福寺本堂 馬頭観音
堂宇 袈裟掛けの松

洗足池の東側、大田区立洗足池図書館北側に妙福寺がある。境内に弘安5年(1282年)日蓮が池の畔で法衣を架けた「袈裟掛けの松」がある。「袈裟掛けの松」を護る護松堂が創始され、御松庵(ごしょうあん)と呼ばれる様になった。現在の「袈裟掛けの松」は3代目で、囲いの中に祠や石碑がある。妙福寺は日本橋馬喰町に創建され、明暦の大火(1657年)により浅草永住町へ移転した。関東大震災で被災、昭和2年(1927年)御松庵と合併、移転した。境内に、堂宇 / 移築された天保11年(1840年)造立の道標を兼ねた馬頭観音がある。

洗足池南端の2号線(中原街道)を挟んだ反対側に、東京急行電鉄目黒線・洗足池駅がある。