中原街道 No.01 虎ノ門交差点-(約7km)-高輪台駅
虎ノ門交差点 金刀比羅宮 西久保八幡神社 伏見三寶稲荷神社 三田春日神社 亀塚稲荷神社 済海寺 亀塚公園 幽霊坂 保安寺 廣岳院 承教寺 高輪消防署二本榎出張所 高野山東京別院 高輪台駅

中原街道は、江戸城の南端にあった虎ノ門を起点としている。江戸城虎ノ門は明治6年(1874年)に撤去されている。虎ノ門交差点から1号線(桜田通り)を南西へ進むと、すぐ右手に金刀比羅宮がある。万治3年(1660年)讃岐丸亀藩・京極高和が芝三田・江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請、延宝7年(1679年)江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に移転した。

金刀比羅宮
[寄り道]栄閑院〜天徳寺〜愛宕神社
5分ほどすると歩道橋があり、すぐに左折する。すぐの突き当りの左手に、寛永年間(1624年〜1645年)天徳寺の塔頭として創建された栄閑院がある。猿回しに扮した盗賊が逃げ込んで来たが、住職に改心させられ諸国行脚に旅たった。残された猿は寺の人気者になり、猿寺とも呼ばれる様になった。解体新書を訳した杉田玄白の墓がある。
栄閑院 猿塚
興昭院 光岳院 天徳寺

突き当りを右折すると、すぐの左手に興昭院 / 右手に光岳院 と続く。すぐの突き当りを左折すると、すぐ右手に天徳寺がある。興昭院は慶長16年(1611年)天徳寺の塔頭として創建された智相院が始まり。昭和3年(1928年)随養院と合併して興昭院と改称した。光岳院も天徳寺の塔頭として創建された。天徳寺は天文2年(1533年)紅葉山に創建された天地庵が始まりで、慶長16年(1611年)移転した。

愛宕神社丹塗の門 愛宕神社社殿 弁財天社
  天徳寺から直進して東へ進む。すぐのトンネル手前左手の石段を登ると、慶長8年(1603年)創建の愛宕神社がある。出世の石段は301号線側にある。寛永11年(1634年)徳川家光が増上寺参詣帰路に通りかかったとき、愛宕山の梅は満開だった。徳川家光は騎馬にて梅を取りに行くことを命じる。四国丸亀藩・曲垣平九郎盛澄は急勾配な86段を駆け上り、日本一の馬術の名人として名を馳せた故事に由来する。万延元年(1860年)大老・井伊直弼を討ち果たした桜田門外の変の集合場所となったり、江戸開城の際に勝海舟と西郷隆盛が会談を行った歴史の舞台になっている。境内に皇紀2601年(昭和16年/1941年)造立の櫻田烈士愛宕山遺蹟碑がある。 
 櫻田烈士愛宕山遺蹟碑
301号線側からの出世の石段
出世の石段記念撮影場所 出世の石段
1号線(桜田通り)の歩道橋まで戻り、1号線(桜田通り)を南西へ進む。5分ほどの神谷町交差点を越えた左手に光明寺がある。1号線(桜田通り)を南西へ進む。すぐに左折すると、突き当りに専光寺がある。
光明寺 専光寺
西久保八幡神社 霊友会館釈迦殿

1号線(桜田通り)を5分ほど進むと、左手に寛弘年間(1004年〜1012年)霞ヶ関に創建された西久保八幡神社がある。太田道灌の江戸城築城に際して移転した。1号線(桜田通り)に戻り南西へ進む。すぐ右方向に分岐する道が中原街道で、1号線(桜田通り)に対し“くの字”になっている。左に曲がる右手に霊友会館釈迦殿 / 突き当りは階段になった雁木坂 がある。

[寄り道]幸稲荷神社
幸稲荷神社 扁額
すぐに1号線(桜田通り)と飯倉交差点で合流する。飯倉交差点を左折して東へ進む。すぐの交差点を左折して道なりに進むと、右手に光宝寺 / 右手に応永元年(1394年)創建の幸稲荷神社 と続く。光宝寺は芝丸山の麓に創建、明治初年に移転した。幸稲荷神社の扁額には、幸神社と瘡護神社の社号がある。幸稲荷神社は始めは岸之稲荷と称していた。氏子や信者に幸事が続出したため、幸稲荷神社と呼ばれる様になった。瘡護神社は病気の際に土の団子を供え、平癒したら米の団子を供える風習があった。瘡護神社の方が参拝者が多かったと云われている。寛永年間(1624年〜1645年)に府内古社十三社に定められている。
真浄寺 一乗寺 熊野神社
飯倉交差点まで戻り1号線(桜田通り)を南へ進むと、すぐ右手に熊野神社がある。熊野神社手前の小路を右折すると、坂の途中右手に真浄寺 / 突き当りを右折すると右手に慶安元年(1648年)創建と云われる一乗寺 がある。
瑠璃光寺 心光教院 お竹大日堂

1号線(桜田通り)に戻り南東へ進む。熊野神社からすぐの歩道橋で、1号線(桜田通り)の反対側に渡る。すぐに左折すると正面に東京タワーが見える。すぐ左手に慶長19年(1614年)創建の瑠璃光寺 / 宝暦11年(1761年)三縁山内から当地へ移転した心光教院 と続く。心光教院境内に、お竹大日堂がある。 寛永年間(1624年〜1645年)江戸大伝馬町の名主・佐久間勘解由家の下女・お竹は、荘内(山形県)生まれる。朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは洗い流しの飯が溜ったものを食料としたと云う。信仰厚く大往生を遂げたことを聞いた徳川綱吉の生母・桂昌院は、金襴の布に包まれた立派な箱にお竹が当時使った流し板を納めて心光院に寄進した。

東京タワー 伏見三寶稲荷神社

1号線(桜田通り)の歩道橋まで戻り、南東へ進む。5分ほどの赤羽橋交差点の東側が、芝公園の南端になる。東京タワーは、芝公園のびのび広場より撮影したもの。赤羽橋交差点を越えると、赤羽橋南交差点の手前左手に伏見三寶稲荷神社がある。

[寄り道]元神明宮
元神明宮拝殿 天白稲荷神社 天白稲荷神社右手の稲荷神社
赤羽橋南交差点を右折して西へ進む。すぐの中之橋交差点を右折して南へ進むと、すぐ左手に寛弘2年(1005年)創建の元神明宮がある。港区芝大門にある芝大神宮が神明宮として創建されたところで、元神明宮と称している。拝殿はコンクリート造りの建物の2階にある。境内に、多くの稲荷神社がある。
平河稲荷神社 白滝稲荷神社
志ほあみ地蔵 龍源寺
元神明宮かから南へ神明坂を登ると、交差点手前右手に志ほあみ地蔵がある。交差点を右折すると、龍源寺の山門がある。元和7年(1621年)八丁堀に創建、寛文5年(1665年)移転した。

交差点の南西側に、オーストラリア大使館 / 南東側に三井倶楽部がある。交差点を東へ進むと、1号線(桜田通り)の三田1丁目交差点に突き当たる。

赤羽橋南交差点から1号線(桜田通り)を南へ進む。10分ほどすると、右手に天徳2年(958年)創建の三田春日神社がある。武蔵国国司・藤原正房が大和国・奈良春日大社を勧請、目黒区三田に創建した。天文年間(1533年〜1555年)に移転した。

三田春日神社
春日神社からすぐの三田2丁目交差点で、1号線(桜田通り)は直角に西へ進路を変える。中原街道は直進して301号線を進む。三田2丁目交差点-(1号線)-三田4丁目交差点-(1号線)-魚籃坂下交差点 / 三田2丁目交差点-(中原街道)-伊皿子交差点 / 伊皿子交差点-(魚籃坂)-魚籃坂下交差点 に囲まれたところは、寺院が数多く存在する。寛永12年(1635年)江戸城拡張に伴い、八丁堀より数多くの寺院が移転させられた。
[寄り道]三田2丁目交差点-(1号線)-三田4丁目交差点-(1号線)-魚籃坂下交差点
大松寺 西蔵院 長延寺
宝生院 願海寺 願海寺
慈眼寺 慈眼寺 林泉寺
忍願寺 長松寺 史跡 荻生徂徠墓 石標

三田2丁目交差点を右折して、1号線(桜田通り)を道なりに進む。すぐ左手に大松寺 / 左手に西蔵院 / 左手に長延寺 / 左手に宝生院 / 左手に願海寺 / 左手に慈眼寺 / 左手に林泉寺 / 幽霊坂 / 左手に忍願寺 / 左手に長松寺 / 魚籃坂下交差点 と続く。大松寺は慶長16年(1611年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)移転した。西蔵院は享徳元年(1452年)数寄屋橋に創建される。慶長16年(1611年)八丁堀に移転、さらに寛永12年(1635年)移転した。長延寺はかつては数寄屋町付近にあった。八丁堀への移転を経て、さらに寛永12年(1635年)移転した。宝生院は慶長16年(1611年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)移転した。願海寺は慶長16年(1611年)の創建、山門から本殿までは若干距離がある。慈眼寺は八丁堀より寛永12年(1635年)移転した。古めかしい山門に対し、建物は近代的になっている。林泉寺は永禄年間(1558年〜1570年)京都伏見に創建される。徳川家康が関東移封後に神田付近へ移転、さらに移転した。忍願寺は元和年間(1615年〜1624年)八丁堀に創建、三田寺町を経て移転した。長松寺には、享保13年(1728年)に没した江戸時代中期の儒学者 / 文献学者・荻生徂徠(おぎゅう そらい)の墓がある。

亀塚稲荷神社 亀塚稲荷神社板碑群 済海寺
最初のフランス公使宿館跡碑 大増寺 石祠済海寺

中原街道は、三田2丁目交差点直進して301号線を進む。すぐの三田3丁目交差点を右折、すぐに左折して聖坂を登る。5分足らずの右手に亀塚稲荷神社がある。太田道灌が物見台を設置する際に、亀を祀った祠を神社として創建したと云われている。社殿手前右手に、文永3年(1266年)造立の板碑 / 正和2年(1313年)造立の板碑 / 延文6年(1361年)造立の板碑 / 造立年不明の板碑2基 がある。文永3年(1266年)造立の板碑は、港区に現存する板碑の中では最古のもの。左手に元和7年(1621年)創建の済海寺がある。越後長岡藩・牧野家 / 伊予松山藩・松平家 の江戸における菩提寺。安政6年(1859年)にはフランス総領事館が置かれた。2年後に公使館となり、明治3年(1870年)まで続いた。最初のフランス公使宿館跡碑がある。旧中原街道を挟んだ反対側の坂を下ると、すぐの突き当たりに慶長年間(1596年〜1615年)創建の大増寺がある。寛永12年(1635年)江戸八丁堀から移転した。山門手前右手に石祠がある。

亀塚公園外壁 縄文住居のモニュメント 貝塚
済海寺に隣接して亀塚公園がある。縄文時代の住居跡や貝塚が発掘されている。縄文住居のモニュメントがある。江戸時代は上野沼田藩・土岐家下屋敷で、明治維新後は皇族・華頂宮家が日本橋浜町の元高島藩邸跡から移る。大正13年(1924年)華頂宮家の断絶後は一時期内大臣邸となった。昭和8年(1933年)建物は壊され、昭和20年(1945年)の空襲により庭園は破壊される。公園として整備され、昭和27年(1952年)港区立亀塚公園として開園する。外壁は華頂宮邸時代のもの。
亀塚 亀塚碑
済海寺と亀塚公園のある辺りは、竹芝寺の跡地と云われている。竹芝伝説は平安時代中頃の回想録・更級日記に記されている、皇女と武蔵国の武士との恋愛物語。竹芝庄の主・竹芝は、皇居の火焚衛士を任じられ京へ上る。1年の任期を勤め上げるが、人手不足から帰国を許されなかった。竹芝が望郷の念で独り言を言いながら仕事をしていると、皇女(天皇の姫)がこれを聞きつけた。皇女は竹芝を近くに召して郷里の様子を尋ねた。心を動かされた皇女は、ぜひそこへ連れて行けと望んだと云う。竹芝は望郷の念もあり、皇女とひそかに東国に下った。やがて京から追手の使者が来るが、皇女は帝に竹芝の罪の許しを請うた。帝は2人の仲むつましい様子から罪を与えることを諦め、竹芝を郡の司に任じた。皇女が亡くなると竹芝は屋敷を寺に作り替え、竹芝寺とした。亀塚公園にある円墳状の盛り土は亀塚と云われ、皇女の墓所と云われている。文明年間(1469寝〜1487年)には、太田道灌の物見台があったと云われている。頂上に寛延3年(1750年)沼田藩主・土岐頼煕が造立した亀塚碑があり、竹芝伝説などの由来が彫られている。
亀塚公園からすぐ右手に寶相寺がある。会津藩主・保科正之が江戸での菩提寺に定めた寺。慶長16年(1611年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)移転した。保科正之は第2代将軍・徳川秀忠の四男。
寶相寺
寶相寺からすぐの右手に、幽霊坂がある。中原街道から1号線(桜田通り)へは下り坂で、勾配は途中からきつくなる。左右に寺院が並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗く寂しい場所であったと云われている。江戸の昔から呼ばれていた坂であるが、「有礼坂」とも記されている。
幽霊坂
[寄り道]幽霊坂
正覚院 福島正利の墓 福島正則の供養塔
幽霊坂を1号線(桜田通り)方面に下ると、すぐ左手に正覚院石柱がある。左折するとすぐ右手に、戦国大名・福島正則の末子・正利が創建した正覚院がある。寛永元年(1624年)赤羽に創建、後に移転した。境内に福島正利の墓と福島正則の供養塔がある。福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将で、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られている。豊臣秀吉晩年には清洲24万石の大名、関ヶ原後に安芸国広島藩49万石になっている。.元和9年(1619年)広島城の無断改修を理由に領地を没収、信濃国川中島藩4万5千石に減封される。寛永元年(1624年)福島正則が死去したとき、幕府に無断で火葬したため福島氏は改易される。寛永2年(1625年)幕府は福島正則の功績を考え、福島正利に3000石を与えて旗本とした。福島正利は寛永14年(1637年)に死去するが、嗣子は無く断絶した。天和元年(1681年)正利の甥、福島正長の長男・正勝が2000石の旗本として取り立てられ福島氏は再興された。
玉鳳寺 化粧延命地蔵 仙翁寺
常林寺 明王院 明福寺

幽霊坂まで戻り坂を下ると、すぐ左手に慶長4年(1599年)八丁堀に創建された玉鳳寺がある。寛永12年(1635年)江戸八丁堀から移転した。山門左手の地蔵堂に、化粧延命地蔵(おしろい地蔵)がある。八丁堀の地蔵橋畔に放置されていたものを、格翁宗逸和尚が修復した。地蔵が泥に塗れているので白粉を塗って祀ったところ、和尚の顔面の痣が消えたと云われている。病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願する様になったと云われている。玉鳳寺の反対側に仙翁(せんしょう)寺がある。仙翁寺は慶長4年(1599年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)移転した。仙翁寺の角を右折して北東に進む。この道は1号線(桜田通り)と中原街道・聖坂の間にある道で、すぐ右手に常林寺 / 左手に明王院 / 右手に明福寺 と続く。常林寺は慶長4年(1599年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)当地に移転した。明王院は、寛永12年(1635年)に八丁堀から当地へ移転した。明福寺は、元和元年(1615年)櫻田附近に創建される。麻布への移転を経て、天明元年(1781年)移転した。

幽霊坂まで戻り坂を下る。すぐに左折すると、すぐ左手に南台寺がある。慶長4年(1599年)八丁堀に創建、その後移転した。幽霊坂まで戻り坂を下ると、すぐに1号線(桜田通り)に突き当たり幽霊坂が終わる。

南台寺
幽霊坂 常教寺 荘厳寺
幽霊坂を中原街道の聖坂まで戻り、南西へ進む。すぐ右手に常教寺 / 右手に寛永14年(1637年)創建の荘厳寺 と続く。常教寺は天正17年(1589年)大森に創建される。三田2丁目へ移転、さらに明治初期に移転した。
正山寺 烏枢沙摩明王堂 薬王寺

すぐの交差点から細い道を直進すると、すぐ右手に正山寺 / 右手に薬王寺 と続く。この道は魚籃坂に突き当たる道で、古道の様な感じがする。正山寺は、慶長15年(1610年)芝西久保に創建された。芝金杉濱町へ移転、さらに移転した。入り口脇に烏枢沙摩(うすさま)明王堂がある。薬王寺は元和7年(1621年)麻布狸穴に創建された。今井鮫ヶ橋芝金杉に移転、さらに寛文元年(1661年)に移転した。

交差点まで戻り、中原街道を南西へ進む。すぐに伊皿子交差点で、魚籃坂(415号線)と交差する。なお魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」である。
[寄り道]伊皿子交差点-(魚籃坂)-魚籃坂下交差点
魚籃寺 魚籃寺 徳玄寺
宝徳寺 大信寺 清久寺
伊皿子交差点を右折して魚籃坂(415号線)を下る。すぐ右手に赤門が目立つの魚籃寺 / 右手に徳玄寺 / 右手に宝徳寺 / 右手に大信寺 と続く。宝徳寺と大信寺の間にある小路を右折すると、すぐ右手に清久寺がある。魚籃寺は元和3年(1617年)大分県中津市・圓應寺境内に魚籃院として創建されたのが始まりで、寛永7年(1630年)に移転した。三十三体観音の魚籃観音は、魚を入れた籠を手に提げている。徳玄寺は、寛永元年(1624年)桜田に創建される。飯倉狸穴へ移転、さらに移転した。宝徳寺は、大同2年(807年)伊豆國戸田村に創建される。貞永3年(1234年)江戸桜田に移転、さらに元和6年(1620年)移転した。大信寺は慶長16年(1611年)八丁堀に創建され、したといいます。寛永12年(1635年)移転した。清久寺は文禄元年(1592年)八丁堀に創建、寛永12年(1635年)移転した。大信寺からすぐの魚籃坂下交差点で1号線(桜田通り)と交差する。
等覚寺 川端玉章翁の碑 正源寺
伊皿子交差点まで戻り、中原街道を南西へ進む。すぐ右手に正保2年(1645年)創建の等覚寺 / 左手に川端玉章翁の碑 と続く。左折して坂を道なりに下ると、右手に正源寺がある。正源寺は慶長8年(1603年)木挽町に創建された。芝金杉へ移転、さらに移転した。川端玉章(かわばた ぎょくしょう)は天保13年(1842年)〜大正2年(1913年)の日本画家で、正源寺に墓がある。墨田七福神の三圍(みめぐり)神社にある顕名(あきな)霊社の彫刻下絵は、川端玉章によるもの。
[寄り道]泉岳寺
小路 中門 山門
正源寺手前を右折して小路を道なりに5分ほど進むと、泉岳寺の中門と山門の間に出る。慶長17年(1612年)桜田に創建される。寛永18年(1641年)の大火により、外桜田から移転した。山門は天保3年(1882年) / 本堂は昭和28年(1953年) に再建されたもの。
本堂 赤穂義士墓所
保安寺参道 保安寺 大石良雄等自刃ノ跡石柱
肥後熊本藩細川家下屋敷跡 證誠寺 高輪虎屋
中原街道まで戻り南西へ進む。すぐ左手にある階段を下ると、慶長12年(1607年)八丁堀に創建された保安寺がある。中原街道まで戻り南西へ進むと、すぐ右手に「大石良雄等自刃ノ跡」石柱がある。右折すると、突き当りの肥後熊本藩細川家下屋敷跡に「赤穂義士史蹟」と「大石良雄外十六人忠烈の跡」案内板がある。中原街道まで戻り南西へ進むと、すぐ右手に承久3年(1221年)霞ヶ関に創建された證誠寺がある。西久保へ移転、さらに承応2年(1653年)移転した。證誠寺の先に昭和24年(1949年)創業の和菓子屋・高輪虎屋があったが、閉店している。
丸山神社 通力稲荷神社 廣岳院
證誠寺からすぐの交差点を越えてすぐに右折すると、右手に丸山神社 / 突き当たりに文禄年間(1592年〜1595)芝西久保に創建された廣岳院がある。承応2年(1653年)に移転した。丸山神社は廣岳院創建のとき、境内に創建された。丸山神社境内にある通力稲荷神社は、弘化2年(1845年)青山の大火後に別殿とされた。
狛犬 二本榎の碑 妙福寺
承教寺仁王門 承教寺楼 承教寺本堂
中原街道を南西へ進むと、すぐ左手に承教寺がある。山門前に変わった狛犬 / 昭和42年(1967年)造立の二本榎の碑 がある。二本榎の碑は、黄梅院境内に夫婦の榎を植えた由来碑。山門を潜ると、すぐ右手に妙福寺 / 突き当りに承教寺仁王門 がある。承教寺は正安元年(1299年)芝西久保に創建され、承応2年(1653年)に移転した。山門 / 仁王門 / 鐘楼 は創建時のものと云われている。本堂は天明元年(1781年)に再建されたもの。
松光寺 松光院の墓 黄梅院
清林寺 円真寺 高輪消防署二本榎出張所

中原街道を南へ進むと、すぐ右手に永禄年間(1558年〜1570年)創建の松光寺がある。山形上山(かみのやま)藩・松平家の菩提寺。元禄元年(1688年)松平信之の室・松光院殿に因み、松光寺と改称する。松平信之は初代上山藩主・信通の父で、播磨国明石藩主 / 大和国郡山藩主で老中も務めた。すぐ右手に慶長年間(1596年〜1615年)創建の黄梅院がある。中原街道を挟んだ反対側を左折すると、すぐ右手に清林寺がある。中原街道を南へ進むと、すぐ右手に西久保に創建され移転してきた円真寺 / 高輪警察署前交差点手前左手に高輪消防署二本榎出張所 と続く。昭和8年(1933年)築の高輪消防署二本榎出張所の火の見櫓からは、東京市全体が見渡せたと云われている。

高輪警察署前交差点を左折して坂を下る。途中にある小路を右折すると、慶長14年(1609年)創建の東禅寺がある。安政6年(1859年)に英国公使館が置かれた。
東禅寺
高輪警察署前交差点まで戻り、中原街道を南へ進む。すぐ左手に高野山東京別院がある。慶長年間(1596年〜1615年)に浅草・日輪寺境内に創建された。明暦元年(1655年)に移転、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺となった。昭和2年(1927年)高野山東京別院に改称する。
高野山東京別院
高野山東京別院から5分足らずの左手に光福寺がある。相福寺として創建、明治13年(1880年)芝源光寺を合併して光福寺と改称した。
光福寺

中原街道はすぐの高輪3丁目交差点を右折する。すぐに高輪台交差点で1号線と合流、南西へ進む。都営浅草線・高輪台駅がある。