グスクには城の字が充当されているが、全てが城ではない。信仰の聖地としての御嶽(うたき) /周辺を石垣で囲った集落 / 地域の有力者の居城 なども含まれる。グスクは12世紀から15世紀に造られ、県内には300以上存在すると云われている。城壁は本土の城とは異なり、琉球石灰岩を地形に沿って曲線を描くように積まれている。名護(なご)城など、土塁のグスクも存在する。
琉球開闢の女神(のろ)である阿摩美久
(あまみきよ / あまみく)を始め琉球の神々は、神社ではなく御嶽(うたき)という聖地で祀られている。御嶽は鬱蒼とした森 / 岩窟 など、自然の中に存在する。神女が儀式を通して神々を招き、五穀豊壌 / 子孫繁栄 / 国の安寧 を祈った。御嶽は全て男子禁制であり、国王であっても御門口(うじょーぐち)より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったと云われている。
バス停から見える勝蓮城跡 / 標識や案内板がある浦添城跡や首里界隈 を除き、標識が少なく観光客には不親切である。
今帰仁
(なきじんぐすく)跡 / 座喜味(ざきみぐすく)跡 / .勝連(かつれんぐすく)跡 / 中城(なかぐすく)跡 / 首里城(しゅりじょう)跡 / .園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門 / 玉陵(たまうどぅん) / 識名(しきな)園 / 斎場御嶽(せいふぁうたき) は、平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。グスクの建造物は第二次世界大戦ですべて全壊している。首里城跡の建造物群は戦後に再建されたものであり、世界遺産には含まれない。

今帰仁(なきじんぐすく
2019年5月11日(土)宿泊ホテルから近いおもろ町1丁目バス停07:03発 やんばる急行バスに乗車する。琉大入口バス停〜池武当バス停は、高速道路のバス停になる。今帰仁城跡入口バス停にはほぼ定刻の09:10に到着する。このバスは今帰仁城跡入口⇔古宇利島シャトルバスに連絡しており、徒歩約20分の登り坂を今帰仁城跡まで運んでくれる。帰路はシャトルバスが通る道の東側を北へ下る。今帰仁城跡入口バス停からの登り口 / 今帰仁城跡からの下り口 には標識などはない。シャトルバスの運転手さんが降車の際、下り口を皆さんに案内していた。
 
 
 

今帰仁城(有料施設)は、琉球王国統一以前の12世紀〜13世紀頃の築城。現存する城跡では年代が古く、敷地は県内最大規模である。万里の長城を思わせる長い城壁が特徴になっている。琉球王国成立以前の14世紀に存在した北山の国王・北山王の居城であった。中国歴:永楽14年(1416年)に北山王国は尚巴志(しょうはし)に滅ぼされ、以後は北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻後、中国歴:康熙4年(1665年)に廃止されている。城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせると云う。現在も石垣などの遺構の整備が進むが、城の中心部へと向かう階段は戦後に造られたもの。
平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。

中城(なかぐすく)
今帰仁城跡から今帰仁城跡入口⇔古宇利島シャトルバスを利用して古宇利島に行く計画であったが、小雨が降り続く天気のため中城跡に変更する。
シャトルバスが通る道の東側を北へ下る。今帰仁城跡入口バス停11:03発 やんばる急行バスに乗車、高速道路の中城バス停で下車する。ほぼ定刻の12:48に到着する。護佐丸バスに乗り換えると20分ほどで添石バス停に行けるが、1時間半ほど待たなければならない。
高速道路の中城バス停から階段で29号線に下る。高速道路に平行する29号線を北に進む。10分足らずで高速道路を潜り、すぐの2本目の道を右折して南東に進み高速道路を潜る。ここからはアップダウンが続く。道なりに進み、突き当りを右折する。高速道路を潜ってから20分ほどのところから一気に下ると、329号線の中城公園入口交差点から北に延びる146号線に突き当たる。左折して146号線を北へ延々と道なりに登る。15分ほどすると左手に駐車場があり左折すると、中城跡(有料施設)に入る。途中で146号線の車道に向いた「中城城跡まで0.7km」標識が初めて出現する。
 
 
 
 
中国歴:宣徳5年(1430年)尚巴志は中城の地領を護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)に与え、築城を命じたと云われている。貿易港であった屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵にあり、六つの城郭からなる。第二次世界大戦の被害が少なかったため、石積みが良好に残っている。野面積み / 布積み / あいかた積み などの工法が見られ、城壁の増築により現在みられる規模になったと云われている。県内には300以上存在すると云われている城で、築城技術が高く評価されている。西に東シナ海 / 東に太平洋の中城湾 が見渡せる。
中国歴:天順2年(1458年)護佐丸は、阿麻和利を総大将とする琉球王国軍に攻められ自害する。以降の中城城は、中城王子の居城→1609年の薩摩藩による琉球侵攻後は番所→明治12年(1879年)廃藩置県後は中城村役場 として利用された。中城村役場の建物は、第二次世界大戦で焼失した。
平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。
帰路は146号線を329号線の中城公園入口交差点方向に南に下る。添石バス停は、中城公園入口交差点の北東側200mほど離れたところにある。添石バス停15:47発 30系統 泡瀬東線 那覇バスターミナル行に乗車、約1時間で到着する。

護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)は、15世紀の琉球王国の按司。伊波城の伊波按司の分家で、山田城を居城としていた。中国歴:永楽14年(1416年)尚巴志(しょうはし)の北山征伐に参戦、護佐丸は20歳代にして第2軍800人の大将に抜擢されたと云われている。尚巴志の本軍は海路 / 護佐丸は陸路 を進み、今帰仁城を攻略して北山王国を滅ぼした。尚巴志は護佐丸を北山守護職に任じた。尚巴志は護佐丸の叔母にあたる伊波按司の娘を妃として、姻戚関係を強めた。また尚巴志は山田城から南西に4km離れた、良港を備えた座喜味城の築城を命じた。北山を監視する戦略上の要所でもあった。赤土の軟弱な台地であったが、護佐丸は石積みの工夫によって強度と曲線美を備えた城壁を築いて築城家としての声価を高めた。山田城の石材も利用したと云われている。
中国歴:永楽20年(1422年)第2代国王となった尚巴志は、護佐丸を座喜味城に移した。護佐丸は座喜味城に18年間居城、中国や東南アジアとの海外交易で琉球王国を経済的に支えた。中国歴:宣徳5年(1430年)尚巴志は中城の地領を護佐丸に与え、築城を命じたと云われている。護佐丸は与勝半島を望む中城城の築城にかかり、中国歴:正統5年(1440年)尚忠
(しょうちゅう)が第3代琉球国王となると、王命で同年に座喜味城から完成した中城城に居城を移した。中国歴:景泰5年(1454年)王位継承権をめぐる“志魯・布里の乱”が起き、護佐丸の娘を正室としていた尚泰久(しょうたいきゅう)が第6代国王となる。尚泰久は長女・百度踏揚を勝連城の阿麻和利に降嫁させ、護佐丸 / 阿麻和利 の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に王権の復興を図った。中国歴:天順2年(1458年)護佐丸・阿麻和利の乱が勃発した。尚泰久は阿麻和利を総大将に任じ中城城を包囲、護佐丸は反撃せず妻子とともに自害したと云われている。琉球王国の功臣でありながら、晩年に謀反を疑われたと云われている。護佐丸が実際に反逆者であったとする説 / 有力按司の排除を意図した謀略説 などもある。

座喜味城(ざきみぐすく)
座喜味城跡には、那覇バスターミナルから29番線 牧志経由読谷バスターミナル行 に乗車、座喜味バス停で下車して徒歩15分になる。ただし便数は極端に少ない。
那覇バスターミナルから06:32発 29番線牧志経由読谷バスターミナル行 に乗車、高志保入口バス停には定刻07:38を少し遅く到着する。高志保入口バス停から6号線を南に進み、すぐの交差点を左折して12号線を南東に進む。すぐ右手に読谷(よみたん)郵便局がある。風景印は帰路に収集、座喜味城跡 / 糸車 / 読谷山花織 の図柄になっている。
すぐの5分ほどのT字路を鋭角に左折して、北東に道なりに進む。10分足らずで、座喜味城跡の北西側に出る。アップダウンのない道で歩き易い。
座喜味城跡は、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されている。しかし観光客には不親切である。座喜味バス停に行く便数は極端に少なく、高志保入口バス停利用の方が便利である。ただし高志保入口バス停付近 / 南側の交差点付近 / 左折するT字路付近 には、座喜味城跡まで標識などは皆無である。
読谷郵便局から5分ほどのT字路で通学路の誘導されている方が3人おり、1人の方に地図を見せて確認する。もっと先と言われ、坂を下り5分ほどするとコンビニがある。明らかに間違いで、T字路まで坂を登り引き返す。他の方に伺うと、この道だと言われる。ただし座喜味城跡に行くには、下ってから坂を登ると言われる。たぶん座喜味バス停あたりから歩くことになり、大回りになる。地元の方は地理に疎い。
 
 
座喜味城は、按司・護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)が1416年〜1422年に築城したと云われている。段違いの4つの郭で構成されており、沖縄最古のアーチ型石造門がある。高台から西側を望むと、残波岬 / 晴れた日には慶良間諸島 が眺めると云う。第二次世界大戦のとき日本軍の砲台 / 戦後には米軍のレーダー基地 が置かれたため、城壁の一部が破壊されたが後に修復される。少しの草むらもハブを連想させ、草むらには踏み入れていない。平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。
勝連城(かつれんぐすく)
座喜味城跡から勝連城跡に向かう。高志保入口バス停09:19発 62中部線 砂辺駐機場行 に乗車する。コザバス停には09:56到着予定だが、乗り換えは至難の業である。遅延によりコザバス停には10:05に到着、接続する10:03発 52与勝線 屋慶名バスターミナル行 には間に合わない。もっとも定刻であっても、7分では乗車できていない。コザバス停は十字路の交差点に複数あり、案内板もないため乗り換えに時間が掛かる。沖縄バスマップにも詳細はなく、各バス停の時刻表を見ないと行き先や経由地が解らない。バス停にいる方に伺っても、利用している路線しか解っていない。道路を清掃されている方に伺うと、普段は車を利用しているので解らないと言われる。方向的にはと教えていただいたバス停は、最後に残った未確認のバス停であった。また観光客から聞かれることが多いと言われる。下車してから 52与勝線 屋慶名バスターミナル行 バス停に辿り着くまで、20分掛かっている。コザバス停定刻10:30発も遅れ、勝連城跡バス停には定刻10:49より10分以上遅延する。
 
 
         

勝連城跡バス停に到着すると、右手に勝連城跡が見える。勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク) / 中間の内 / 北城(ニシグシク) で構成されている。山を利用して造られている天険の要害であり、城跡入口から急勾配が続く。北城は石垣で仕切られた一の郭から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。城壁は道路工事の石材などして持ち去られていたが、復元工事により往時の姿になりつつある。
勝連城は、12世紀〜13世紀頃には築城が始まっていた説 / 14世紀初頭に初代・勝連按司が築城した説  がある。10代目城主・阿麻和利は、クーデターを起こし9代目城主・茂知附按司を殺害させている。海外貿易などを推し進め琉球の統一を目論んだが、1458年に琉球王府によって滅ぼされ勝連城は廃城になる。浦添 / 首里 / 那覇 の浦添文化に対して、勝連文化と言えるものがあったのではないかと云われている。
平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。登録された城では、最も築城年代が古いとされている。
勝連城前バス停11:47発 52番与勝線 那覇バスターミナル行に乗車する。那覇バスターミナルには定刻13:24より遅れて到着する。

浦添城(うらぞえぐすく)

那覇バスターミナルから 55番 牧港線 宜野湾営業所行 に乗車、約30分の仲間バス停で下車する。北側右手に標識があり、T字路を右折して東に道なりに進む。10分ほどすると、浦添公園がある。標識 / 案内板 があり、迷うことはない。
帰路は仲間バス停から153号線を南に進む。60分ほどの儀保交差点を左折すると、ゆいレール儀保駅がある。

 
浦添城は、標高約130mの小高い琉球石灰岩の丘陵にある。東シナ海や遠く読谷(よみたん)まで見渡すことができると云う。北は急崖をなしているが、南は緩斜面となっている。
王宮が首里城に移される以前の中山
(ちゅうざん)王の居城だったところ。1187年〜1406年、舜天(しゅんてん)王統 / 英祖(えいそ)王統 / 察度(さっと)王統 10代の居城だったと云われている。14世紀頃の浦添城は、高麗系瓦ぶきの正殿を中心に堀や石積み城壁で囲まれていたと云われている。
王都が首里に移された後、浦添家の居館となっていた。1609年の薩摩軍の琉球侵攻で焼き討ちされ廃城となった。第二次世界大戦の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊された。
 
北側の崖下中腹に琉球王国の陵墓、浦添ようどれがある。“ようどれ”は琉球語で“夕凪”のことで、“死者の世界”になる。加工した岩盤と石積みで出来たトンネル状の通路の暗しん御門(くらしんうじょう)があったが、第二次世界大戦で岩盤は崩れてしまった。薄暗くひんやりとしていたため、通路を通って“あの世”に行くような雰囲気があったと云われている。
天然の岩からなる左側が東室(尚寧王陵) / 右側が西室(英祖王陵) と云われている。中国歴:咸淳年間(1265年〜1274年)に英祖王が造営、尚巴志王 / 尚寧王 が改修したと云われている。
 

弁ケ嶽(べんがだけ)

ゆいレール・首里駅から29号線を北東に進む。すぐの汀良(てら)交差点を越えた左手に、首里汀良郵便局がある。風景印は、首里汀良町の獅子舞 / 弁ヶ嶽 の図柄になっている。
ゆいレール・首里駅 首里汀良郵便局風景印
沖縄神社 大嶽石門
汀良交差点まで戻り、左折して南に進む。標識などはない最初の交差点を左折して道なりに進む。汀良交差点から10分ほどのところに弁ヶ嶽公園がある。沖縄本島では高い峰のひとつで、首里城の東約1kmに位置している。峰全体が御神体になっており、弁之御嶽(ビンヌウタキ)とも呼ばれている。登り切る手前右手(南側)の階段を登ると沖縄神社 / 登り切った左手(北側)に大嶽(ウフタキ)石門 がある。少しの草むらもハブを連想させ、沖縄神社以外は踏み入れていない。
沖縄神社は大正14年(1925年)首里城に創建するが沖縄戦で破壊され、昭和35年(1960年)弁ヶ嶽公園に再建された。大嶽は、琉球開闢の女神(のろ)である阿摩美久(アマミキヨ / アマミク)が天から降り立ったとされる久高島の遥拝所と云われている。大嶽石門は中国歴:正徳14年(1519年)園比屋武御嶽石門
(そのひゃんうたきいしもん)とともに築かれたと云われる。昭和13年(1938年)旧国宝に指定されるが、第二次世界大戦で破壊されコンクリート造りに建て替えられた。
円覚寺(えんかくじ) / 円鑑池(えんかんち)
汀良交差点まで戻り、左折して29号線を南西に進む。すぐの鳥堀交差点を越え、道なりに進む。5分ほどすると、左手に首里当蔵(とうのくら)郵便局がある。風景印は、円覚寺方生橋のシーサー(重文) / 首里城正殿 の図柄になっている。
首里当蔵郵便局から29号線を西に進み、すぐの当蔵交差点を左折して49号線を南に進む。すぐ左手に昭和43年(1968年)に再建された円覚寺総門 / 右手に円鑑池がある。円覚寺は尚氏の菩提寺として、中国歴:弘治7年(1494年)尚真王が鎌倉の円覚寺を模して創建された。三門 /仏殿 / 方丈などは昭和8年(1933年)旧国宝に指定されたが、第二次世界大戦で放生橋(ほうじょうばし)を残して全て焼失した。
円鑑池は中国歴:弘治15年(1502年)に掘られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が溜まる様になっている。ここから溢れた水は隣の龍潭(りゅうたん)に流れている。弁財天堂に天女橋が架かり、石の欄干には蓮の彫刻等が施されている。円鑑池でバリケンと言う鳥を数羽見かける。南米原産の野生のカモを家畜化したもので、食用として定着することなく野生化した。タイワンアヒル / フランス鴨 とも呼ばれている。
円鑑池の西岸に重修天女橋碑記がある。中国歴:乾隆9年(1744年)天女橋を改修した記念に造立された石碑が倒壊したため、中国歴:嘉慶3年(1798年)新たに建てられたものである。乾9年の碑文に続き嘉慶3年の碑文が追加されている。第二次世界大戦で破壊され、拓本・写真等をもとに復元したもの。
園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門 / 守礼門(しゅれいもん)
園比屋武御嶽石門 守礼門
円鑑池の西岸から南に道なりに進むと、49号線にある守礼門の東側に出る。すぐ右手に園比屋武御嶽石門 / 守礼門 と続く。石門背後の森が園比屋武御嶽(うたき)で、国王が外出する時に道中の無事を祈願した。聖地を巡礼する行事や国家の最高神女(のろ)である聞得大君(きこえおおぎみ / チフィジン)の即位式も最初にここを参拝したと云われている。園比屋武御嶽石門は中国歴:正徳14年(1519年)尚真王ときに築かれ、木の扉以外は琉球石灰岩が使われている。昭和8年(1933年)旧国宝に指定されたが、第二次世界大戦によって荒廃して指定解除される。石門の残骸を利用して修復され、昭和47年(1972年)重文となる。平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。
守礼門は牌楼型の門で、日本城郭の大手門にあたる。第二次世界大戦で焼失、昭和33年(1958年)首里城の建築物として初めて再建された。昭和47年(1972年)歓会門などが再建されるまでは唯一のもので、沖縄の象徴的建造物になっていた。あまり流通していない2000年発行の弐千円券の表面に使用されている。
玉陵(たまうどぅん)
守礼門から49号線を西に進み、すぐの首里城前交差点を直進する。すぐ左手に玉陵入口がある。
中国歴:弘治14年(1501年)尚真王が、父・尚円王のために造ったと云われる陵墓。第二次世界大戦で、東室 / 西室 が破壊されるなど被害を受けた。ほとんどが第二次世界大戦後に復元されたものである。玉陵5棟(墓室3棟 / 石牆2棟)は国宝になっている。平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。
龍潭(りゅうたん)
首里城前交差点まで戻り、左折して49号線を北に進む。すぐの池端交差点を右折して29号線を東に進むと、すぐ右手に龍潭がある。中国歴:宣徳2年(1427年)に龍頭の形に掘られた人工の池で、円鑑池から溢れた水が注ぎ込んでいる。
首里城(しゅりじょう)
龍潭〜池端交差点〜首里城前交差点〜守礼門と戻り、首里城城郭内に進む。首里城は琉球王国の居城で、沖縄県内最大規模の城であった。13世紀末から14世紀にかけて築城されたと云われている。琉球王国が統一した中国歴:宣徳4年(1429年)から明治12年(1879年)の廃藩置県まで、政治の中心だったところ。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった。第二次世界大戦のとき日本軍は首里城の下に大規模な地下壕を掘り、陸軍第32軍総司令部を置いた。戦艦ミシシッピの砲撃や日米両軍の激しい戦闘で、首里城は破壊された。戦後の琉球大学建設により、さらに遺構が撤去あるいは埋められた。往時のものは、僅かな城壁や建物の基礎などになる。正殿は大正14年(1925年)に旧国宝に指定されていた。平成4年(1992年)復元された。現在の首里城は、正徳5年(1715年)〜昭和20年(1945年)の姿を基にしている。 平成12年(2000年)琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録された。首里城跡の建造物群は戦後に再建されたものであり、世界遺産には含まれない。
首里城の城郭内へ入る第一の正門歓会門(かんかいもん)〜斜めになっている石段を登ると瑞泉門(ずいせんもん)〜漏刻門(ろうこくもん)〜広福門〜有料施設となる奉神門を潜ると正殿がある。
歓会門 瑞泉門
漏刻門 広福門 奉神門
正殿
淑順門 城壁 左掖門
久慶門
正殿〜左掖門(さえきもん)〜久慶門と下ると、歓会門に至る。
金城町(きんじょうちょう)石畳道
 
 
 
園比屋武御嶽石門まで戻り、守礼門との間にある真珠道(まだまみち)を南に進む。真珠道は首里城から那覇港の南側に位置する垣花(かきのはな)の屋良座森(やらざむいぐ)城に至る総延長10kmの官道である。すぐの十字路を直進、島添坂を下る。薄暗いところに、ハブに注意の看板がある。5分足らずの金城町大通りを越え、約300mの金城町石畳道を下る。1522年頃に造られたと云われる石畳道で、敷石は大小の琉球石灰岩を組み合わせている。急な勾配のところでは石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段になっている。沿道の石垣も琉球石灰岩が使われており、風情あふれる道になっている。雨で濡れていると滑り易くて危険とのこと。またところどころにハブ注意の看板がある。階段状になっているところの隙間に潜んでいるとのこと。すぐに首里金城町村屋(休憩所)があり、車道と合流する。5分足らずで金城橋北側の交差点に至り、金城町石畳道が終わる。
久々に膝が笑い、帰路は金城橋北側の交差点から東に道なりに進む。5分ほどのバス停手前を左折して北に進む。曲がりくねった急坂を登ると、崎山公園を経て首里城の裏門にあたる継世門に辿り着く。山を越えた道筋で、往路を戻った方が楽だった様である。
斎場御嶽(せいふぁーうたき)
5月12日(日)那覇バスターミナル07:22発 東陽バス38系統 志喜屋線 志喜屋行 に乗車する。斎場御嶽入口バス停には定刻08:15を少し過ぎて到着する。バス停から331号線沿いに進み横断歩道を渡り、続いて331号線を横断歩道で渡る。331号線を西に進むとすぐ右手に知念郵便局があり、すぐのT字路を右折して北へ進むと斎場御嶽(有料施設)がある。バス停から斎場御嶽までは10分ほど掛かる。ただし右折するところには、標識などはない。331号線を500mほど直進してしまい、T字路から引き返す。今度は左折することになる手前には、斎場御嶽への道路標識がある。
琉球開闢の女神(のろ)である阿摩美久(あまみきよ / あまみく)を始め琉球の神々は、神社ではなく御嶽(うたき)という聖地で祀られている。御嶽は鬱蒼とした森 / 岩窟 など、自然の中に存在する。神女が儀式を通して神々を招き、五穀豊壌 / 子孫繁栄 / 国の安寧 を祈った。御嶽の中で最も格が高いと云われるのが斎場御嶽で、斎場は最高位を意味していると云われている。琉球開闢七御嶽の一つと云われ、国家の最高神女(のろ)である聞得大君(きこえおおぎみ)が管理した。最高神官の就任式など、大事な儀式が行われたと云われている。
琉球の御嶽は全て男子禁制であり、国王であっても御門口(うじょーぐち)より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったと云われている。斎場御嶽では庶民は御門口を越えて入ることはできなかった。
斎場御嶽に入場する。途中に分岐があり直進すると、すぐ左手に貢物を添えて祈願をした寄満(ゆいんち)跡がある。「拝所につき、一般の方は上がらないでください」だけの案内は、有料施設としてはお粗末である。
分岐まで戻り奥に進むと、三庫理
(さんぐぅい)がある。かつては三方を岩壁に囲まれた空間だったが、岩壁の一角が崩れて現在の形になった。3つの拝所がある。
知念(ちねんぐすく)
斎場御嶽入口バス停から知念バス停までの便は10:43発となり、1時間ほど待ち時間がある。南城市地域物産館の案内所で尋ねると、歩くのは無理と言われる。
斎場御嶽入口バス停より10:43発 東陽バス38系統 志喜屋線 志喜屋行 に乗車する。知念バス停には10:47に到着するが、発車 / 到着 とも少し遅れる。バスの窓から、県営知念団地前バス停〜知念バス停間で右方向に入れる道を探す。那覇バスターミナル行の知念バス停横に道があるが、案内などはない。南側に“コミュニティセンター150m”の標識があった331号線を西に進むが北に行く道はなく、次の久美山バス停から引き返す。

知念バス停横の道を北へ進む。急な登り坂で、途中から標識が出始める。バス停から5分足らずの左手に、知念のシーサー(南城市文化財)がある。部落入口に、北北東を向いて置かれている。魔除けや火災防止のために安置された云われている。

知念のシーサーから10分足らずのところから下ると、知念城跡がある。知念バス停から15分ほどの距離である。
知念城は代々の知念按司の居城であったと云われている。1761年〜1903年の間、知念番所(間切の役所)が置かれていた。12世紀末から13世紀頃に築かれたと云われる古城
(こーぐすく)と呼ばれる野面積みの郭と、15世紀後半に築かれたと云われる新城(みーぐすく)と呼ばれる切石積みの郭が東西に連なり連郭式の構造となっている。新城には友利御嶽(ともりうたき)があり、聖地巡礼の拝所のひとつになっていた。小規模なグスクであるが、整備されるとさらに雰囲気は良くなると感じた。少しの草むらもハブを連想させ、内には踏み入れていない。
 
帰路は知念バス停11:23→那覇バスターミナル12:23で戻る予定が、迷ったことで5分差で乗車できなかった。次は知念バス停13:06→那覇バスターミナル14:06になるが、知念バス停辺りには喫茶店などは皆無である。1時間半余りあるため歩くと、歩道もある歩き易い道で爺の足でも30分であった。
知念岬
斎場御嶽入口バス停のすぐ南の交差点を左折して東に進むと、知念岬がある。斎場御嶽入口バス停の南側に斎場御嶽500m / 知念岬300m の標識があるが、知念岬には5分以上掛かる。琉球開闢の女神である阿摩美久が天から降り立ったとされる久高島が望める素晴らしい景色である。

斎場御嶽 / 知念岬 / 知念城 のある地域は旧知念村で、平成18年(2006年)玉城村 / 佐敷町 / 大里村 と合併して南城市となった。
知念村のマンホールは、空 / 太陽 / 海 / 水平線上に久高島 / 村花のテッポウユリ の図柄になっている。

知念村マンホール
具志川城(ぐしかわぐすく)
那覇バスターミナルから糸満バスターミナル行に乗車、糸満ロータリーバス停で循環バスに乗り換える。喜屋武(きゃん)バス停で下車、約20分南に進むと具志川城跡に至る。
バスの遅延 / 前日13日のコザバス停のこと から、確実な糸満バスターミナルで乗り換えることにする。
2019年5月14日(火)那覇バスターミナル07:08発に乗車する。15分ほどすると那覇バスターミナルの歩道側にある旭橋バス停に到着する。道理で那覇バスターミナルからの乗客は少ない、糸満バスターミナルには定刻08:00を少し過ぎて到着する。
糸満バスターミナルはバス営業所と車庫しかなく、西側はコンクリート岸壁 / 南側は自動車学校と殺風景なところである。もちろん喫茶店などもない。09:00発の循環バスまで暇つぶしをしていると、琉球バス交通の方に“いときゃん”バスが運行されていることを教えていただく。早速電話で往復を予約、糸満バスターミナルから具志川城跡バス停まで乗車する。
前日に那覇バスターミナル待合室で、喜屋武岬 / 具志川城跡 がオーロラビジョンで案内されていた。喜屋武バス停で下車して約20分歩く案内は、不親切極まりない。帰路は喜屋武バス停から糸満バスターミナルまでのバスが、5時間待ちになる。具志川城跡〜喜屋武バス停〜小波蔵バス停と歩く覚悟であった。観光客を馬鹿にしている。
帰路も“いときゃん”バスのおかげで、午前中に那覇バスターミナルに戻ることができた。もちろん手前の旭橋バス停で下車している。
沖縄本島最南端の糸満市喜屋武の海岸断崖に立地、三方を海に囲まれている。“いときゃん”バス・具志川城跡バス停で下車すると、入口がある。すぐに二の曲輪跡があり、ヒーフチミー(火吹き穴)と呼ばれる穴があり海岸へ通じている。広場を挟んで海に半島状に突き出す一の曲輪(主郭)があり、建造物の跡が確認されている。規模は小さいが、風光明媚な魅力あるグスクである。
 
 
久米島の具志川城城主・真金声(まかねごえ / まかねくい)按司(あじ / あんじ)が真仁古樽(まにくたる)按司に攻められて、本島のこの地に逃れ同名の具志川城を築いたと云われている。12世紀〜15世紀に使用されていた。周辺には、佐慶グスク / 上里グスク / 山城グスク / 束辺名グスク / 当間グスク / 喜屋武グスク が点在する。