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石見国・山吹城(要害山城)
■城の種別
山城
■築城者
大内弘家
■築城年
延慶年間(1308年〜1311年)
■主な遺構
石垣 / 堀
城門が西本寺に移築され現存する。
西本寺山門(城門
延慶2年(1309年)頃に発見された石見銀山(いわみぎんざん)防衛の拠点して、標高414mの要害山上に築城される。尼子氏と大内氏、大内氏滅亡後は毛利氏と争奪戦が繰り広げられる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、石見銀山は天領となる。大久保長安が山吹城に入り、改修する。翌年に大森代官所が置かれ、山吹城は廃城となる。
[交通]山吹城登山口バス停-(徒歩/約60分)-本丸
大森代官所跡(石見銀山資料館)
石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代初期に本格的な採掘が行われた日本最大の銀山で、大田(おおだ)市大森町を中心に仁摩町や温泉津町と範囲は広い。銀山のある石見国は山口の大内氏 / 出雲の尼子氏 / 広島の毛利氏が勢力を争い、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後は幕府直轄領となった。大森に奉行所が置かれたが、産出量の減少により後に代官所に格下げされた。大田駅からのバスは大森までとなるため、仁万(にま)駅より龍源寺に向う。銀を掘るための坑道を間歩(まぶ)と言い、龍源寺間歩(有料施設)の一部が公開されている。ノミで掘った跡が当時のまま残る。大森方面に佐昆売山神社〜福神山間歩〜新切間歩〜清水寺〜安養寺〜極楽寺〜豊栄神社〜西本寺と約2.5kmを巡る。大森地区は約1kmの平行した2本の道筋となる。羅漢寺〜井戸神社〜城上神社〜大森代官所跡(石見銀山資料館)〜勝源寺〜熊谷家〜青山家〜西性寺〜観世音寺〜妙蓮寺〜栄泉寺と巡る。大森の町並みは武家と町家が混在して建ち並び、往時の姿を残している。電線を埋め込む工事が進行中であった。
[交通]仁万駅-(バス/約25分)-龍源寺バス停-(徒歩/約60分)-大森代官所跡バス停-(バス/約15分)-仁万駅
長門国・萩城(指月しづき城)

■城の種別
平山城
■築城者
毛利輝元
■築城年
慶長9年(1604年)
■主な遺構
長屋(重文) / 石垣 / 堀

石垣

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、8ヶ国から周防・長門2ヶ国に削られる。新たに居城を萩指月山麓に築城する。文久3年(1863年)藩庁を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地であった。
[交通]JR山陰本線・萩駅-(バス)-萩城跡・指月公園入口

長門国・津和野つわの城(三本松城)
■城の種別
山城
■築城者
吉見頼行
■築城年
永仁3年(1295年)
■主な遺構
馬場先櫓 / 石垣 / 空堀
嘉楽園に物見櫓が移築され現存する。
史跡 津和野城址碑
JR山口線・津和野駅より、山口線に平行する道を南へ進む。道なりに山口線ガードを潜り、すぐのY字路を右へ進む。道なりに進むと、昭和46年(1971年)に完成した観光リフト標識があり右折する。坂道を登ると、左手に観光リフト乗り場がある。
弘安5年(1282年)源頼朝の弟・源範頼を祖とする吉見頼行は、西石見地方の地頭に任じられる。永仁3年(1295年)津和野盆地南西部の霊亀山(標高367m)に築城を開始、正中元年(1324年)吉見頼直のときに完成した。戦国時代までは三本松城と呼ばれていた。
吉見正頼は大内氏の家臣で、大内義隆の姉を妻としていた。天文20年(1551年)大内義隆が陶隆房の謀反により自害させられ、天文23年(1554年)に挙兵する。安芸国・毛利元就に決起を促して籠城するが、息子を人質として講和する。天文24年(1555年)厳島の戦いで毛利元就は陶隆房に勝利、弘治3年(1557年)には防長に侵攻する。吉見正頼は山口に侵攻して、以降は毛利氏の家臣となる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元は防長2ヶ国に減封され、吉見氏も萩に移住した。
坂崎直盛が3万石で移封、す石垣や三重天守を備えた近世城郭となった。元和2年(1616年)千姫事件で自害、坂崎氏は改易となる。
亀井秀綱は尼子経久の家老で、安芸方面の責任者であった。永禄9年(1566年)尼子義久のとき、最盛期には11ヶ国を領していた居城の月山冨田城は毛利元就によって陥落する。亀井茲矩は尼子氏家臣・湯永綱の長男として生まれ、尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となった。亀井秀綱の次女を娶り、亀井氏の名跡を継いだ。尼子残党は尼子氏再興を目指すが、毛利氏との戦いでは苦戦を強いられる。織田信長が中国地方を侵攻する様になると、尼子残党は織田氏家臣・羽柴秀吉の傘下に入り転戦する。天正9年(1581年)鳥取城攻略で戦功を挙げ、因幡国鹿野城主に任じられ1万3500石を領した。亀井茲矩の次男・政矩が和3年(1617年)4万3000石で移封され、明治維新まで亀井氏の居城となった。山麓に藩庁や居館設けられて城下町が整備された。天守は貞享3年(1686年)落雷により焼失するが、再建されなかった。明治4年(1871年)廃城となる。
5分余りのリフトを降りて本丸方向へ進む。10分足らずのところに、史跡 津和野城址碑と案内板がある。ここからは急な上りになる。東門跡からは土砂崩れのため、工事用の階段が組まれていた。いたるところにロープが張られて、通行止めになっている。
東門跡
二の丸石垣 西櫓門跡 天守台跡
西櫓門跡から二の丸の天守台跡に登る。三層の天守があったが貞亨3年(1686年)の雷火で焼失し、再建されなかった。天守台から馬立跡や台所跡が見える。
本丸石垣 三十間台跡 青野山 / 津和野の町並み
天守台から本丸の三十間台跡に登ると、青野山(906m) / 津和野の町並み が眺望できる。大雨による土砂崩れや山口線の不通により、3度目にして初登城できた。偶然にもSLやまぐち号が通過するが、下り勾配のため煙はほとんど出ていなかった
SLやまぐち号
藩校養老館 掘割 町並み
津和野城から殿町通りを経由して、津和野駅に向う。右手に安政2年(1855年)築の藩校養老館がある。殿町通りに沿って流れる水路は、鯉が増えたためか以前訪れたときより汚れていた。
津和野駅に着くと、SLやまぐち号が停車している。南側の鉄橋で待ち構え撮影する。SLの位置はもう少し進んだところが、山に掛らないベストショットだったが、川からの風で煙が汚く拡散してしまった。
津和野駅 SLやまぐち号
新旧の津和野駅スタンプ。
長門国・櫛崎くしざき城(串崎城 / 雄山かつやま)
■城の種別
平山城
■築城者
内藤隆春
■築城年
戦国時代
■主な遺構
石垣
松崎口跡石垣
櫛崎城趾碑 松崎口跡東側石垣 居館(政庁)跡
豊功神社 豊功神社からの眺望
JR山陽本線・長府駅より東へ、すぐの長府駅駅前交差点を右折して2号線を南へ進む。20分ほどの印内交差点を直進、9号線を進む。15分ほどの交差点を左折すると、右手の居館(政庁)跡に、豊浦高校がある。すぐ右手の松崎口跡に、石垣 / 櫛崎城趾碑 がある。坂を登り標識を左折すると、忌宮(いみのみや)神社境内にあった豊功社を大正6年(1917年)に移転した豊功神社がある。豊功神社からの眺望は素晴らしい。天慶3年(940年)藤原純友の家臣・稲村景家がこの地に拠ったとも云われているが、戦国時代には大内氏の重臣・内藤隆春が領有していた。串崎の名は、鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことからの “首崎” が転化したものだと云われている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、毛利氏は長門・周防36万石に減封された。慶長4年(1599年)独立大名となっていた毛利秀元は、毛利輝元より分知されて長府藩主となる。居城として改修して雄山城と改称する。元和元年(1615年)の一国一城令により、櫛崎城は改修からわずか13年で廃城となる。現豊浦高校に居館(政庁)を構え、幕末に勝山御殿に移るまでの約250年間、長府藩歴代藩主の居館(政庁)であった。城域は豊功神社から関見台公園まであったと云われている。関見台公園に復元した石垣 / 天守台 がある。松崎口 / 浜之坂口 / 三軒屋口 に櫓があった。櫛崎城は関門海峡に面した周防灘に突き出た半島の高台に築かれたで、幕末には海峡に入って来る外国船に対する砲台が櫛崎城跡に置かれた。真鍮砲3門と木砲4門が配備されていたが、元治元年(1864年)四国艦隊下関砲撃事件の戦利品として持ち去られた。
[交通]JR山陽本線・長府駅-(徒歩/約45分)-櫛崎城趾碑
長府は古代には長門国国府 / 江戸時代には長府藩の城下町として、見所は多い。また町並みも綺麗で解り易い配慮がされている。
長府藩侍屋敷長屋は、長府藩家老・西家分家の本門に附属していたもの。現在地より500m程南の侍町にあったものを、移築している。構造の重厚さや仲間部屋格子窓の造りなど、上級藩士の住居の趣を残していると云う。江戸後期の建築物と推測されている。
長府藩侍屋敷長屋
野々村家は代々毛利家の家臣で、馬廻格の家柄。薬医門で屋根は桟瓦葺、扉は両開き式ではなく半分が下見壁で引込戸になっている。これは天保14年(1843年)の御家中家作之定に従った建て方と云う。長府に残されている薬医門や棟門の中では規模が大きく、上級藩士の屋敷としての趣が見られると云う。昭和63年(1988年)南の浜町より現在地に移設保存されている。
旧野々村家表門
練塀が続く古江小路に、菅家長屋門がある。菅家は、毛利秀元が京都から招いた侍医兼侍講職を務めた家柄。
古江小路 菅家長屋門
長府毛利家14代・毛利元敏が、明治36年(1903年)に完成させた邸宅。
長府毛利邸
極楽寺が始まり。毛利元就の四男・穂井田元清が元就の法号「日頼洞春」に因み「日頼寺」と改称して菩提寺とした。明治2年(1869年)に廃寺となるが、明治4年(1871年)再興して常楽寺と改称する。明治22年(1889年)再び日頼寺に改称する。境内地の北の小高い丘には、第14代仲哀天皇御殯斂地(ごひんれんち)がある。九州遠征時に急死した際、神功皇后が仲哀天皇の遺体を仮埋葬した塚。この地は宮内庁の管轄となっている。
日頼寺
亀ノ甲にあった潮音寺が始まり。元和年間(1615年〜1624年)現在地に移して再建、毛利秀元が母・乃美大方の菩提寺とする。法名に因んで妙寿寺と改称する。承応元年(1652年)2代藩主・毛利光広が穂田元清の霊位を功山寺から移し、その法名「洞霊寺笑山常快」から笑山寺と改称する。毛利秀元は毛利元就の四男・穂井田元清の長男。長府毛利家の菩提寺。大正3年(1914年)荒廃していた笑山寺が修復される。
笑山寺
嘉暦2年(1327年)北条時仲によって創建されたと云われる長福寺が始まり。正慶2年(1335年)後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど栄えた。室町時代には大内氏の庇護を得て、文明8年(1476年)大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)大内氏最後の当主・大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。慶長7年(1602年)毛利秀元が笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)秀元の没後、功山寺に改称される。長府毛利家の菩提寺。中国三十三観音霊場第十九番札所 / 山陽花の寺二十四か寺第九番 になっている。
功山寺本堂
功山寺境内にある元応2年(1320年)建立の仏殿(国宝)は、鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもの。仏殿建立は、長福寺創建年より古い。
仏殿
綾羅木にあった利済寺が始まり。長府藩3代・毛利綱元が、元禄11年(1689年)現在地に移し、覚苑寺と改称した。古代の貨幣・和同開珎を鋳造した跡地にある。長府毛利家菩提寺。江戸地代に描かれた絵図によると、かつては七堂伽藍を有していた。明治に入ると寺禄を失い、廃仏毀釈の影響もあり諸堂は取り壊された。現存する創建当初からの建造物は鐘楼のみとなっている。本堂は明治8年(1875年)廃寺となっていた醍醐寺本堂 を移築したもの。
覚苑寺本堂
庫裏は明治6年(1873年)勝山御殿の玄関部分を移築したもの。
覚苑寺庫裏
天平13年(741年)聖武天皇の命により、諸国に国分寺 / 国分尼寺が建立される。長門国分寺跡からは、礎石や瓦などが出土している。長門国の政治を執り行った国府は、忌宮神社辺り近にあったと云われている。
長門国国分寺跡
忌宮(いみのみや)神社は古事記や日本書記にも記されている式内社、長門国二宮とされる。仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。足利尊氏は戦勝祈願に訪れている。源平合戦最後の決戦である壇ノ浦の戦いで、源義経率いる源氏軍が拠点とした。飛地境内に瀬戸内海にある満珠(まんじゅ)島・干珠(かんじゅ)島は、原生林が満珠樹林・干珠樹林として国指定の天然記念物となっている。
忌宮神社
旅順要塞を陥落させたことで知られる乃木希典(のぎまれすけ)は、嘉永2年(1849年)長府藩士・馬廻役の三男として長府藩上屋敷で生まれる。長兄 / 次兄 は既に夭折していたため、世嗣となる。大正元年(1912年)明治天皇大葬が行われた日に、妻・静子とともに自刃する。大正3年(1914年)郷里の長府に乃木記念会が結成される。乃木希典が幼少時代を過ごした旧家を復元、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。大正8年(1920年)乃木記念館に隣設して乃木神社が創建される。
乃木神社