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伯耆国・江美えび城(江尾城)
■城の種別
山城
■築城者
蜂塚安房守
■築城年
文明16年(1484年))
■主な遺構
石垣 / 土塁
■主な再建造物
模擬櫓(江府町歴史民俗資料館)
江美城西の丸
日野往来 江美神社鳥居 江美神社社殿
JR伯備線・江尾駅より東に進む。すぐに日野往来に突き当り、右折する。すぐのT字路を左折して道なりに坂を登るとT字路がある。T字路を直進すると、すぐ左手に江美神社がある。
T字路を右折して南に進む。すぐのY字路を左に坂を登ると、八幡丸に昭和54年(1979年)築の江美城模擬櫓(江府町歴史民俗資料館 / 閉館)がある。
[交通]JR伯備線・江尾駅-(徒歩15分)-江美城模擬櫓
八幡丸石垣 模擬櫓
江美城は日野川の東側、舌状に伸びた台地の先端に築かれている。南側の台地に兎丸 / 北の船谷川の北側台地に銀杏段丸 などの城郭群が築かれ、かなりの規模の城であった。
模擬櫓から東に進むと、分岐がある。直進して道なりに畑の横を通ると、坂道になる。登り切る手前で夏草に阻まれる。
曲輪に続く坂道
土留された階段 江美城本丸 江尾の街並み眺望

分岐を左に、土留された階段を登る。土留された階段は砂地のためか下りに足を取られる。登り切り左方向に進むと本丸 / 右方向に進むと西の丸 がある。本丸は畑になっており耕作されている方がおり、遠くから中心部に残る石垣らしい段を見るに留まる。

文明16年(1484年)伯耆国日野郡の国人・蜂塚安房守が築城、二代・三河守 / 三代・丹波守 / 四代・右衛門尉 と続いた。蜂塚安房守が築城したのは江美城の北側にある銀杏段丸と呼ばれるところで、江美城は吉川氏時代の天正19年(1591年)頃の築城とも云われている。
大永4年(1524年)尼子氏の伯耆国侵攻に伴って、蜂塚氏は尼子氏の支配下に入った。江美城のある地は伯耆国・米子と美作国を結ぶ水陸交通上の要地であり、長く尼子氏と毛利氏による争奪戦の舞台となった。永禄5年(1562年)尼子氏に属していた蜂塚氏は毛利氏に従うが、永禄6年(1563年)毛利氏に降っていた本城常光が謀殺されると再び尼子氏に属した。永禄7年(1564年)毛利方の杉原盛重により落城、蜂塚氏は滅亡する。
江美城は毛利氏の支配下となり、伯耆国を与えられた吉川広家の下で近世城郭へと改造された。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで中村一氏は東軍に属すが、合戦前に病死する。家督を継いだ嫡男・中村一忠は戦功によって、伯耆国17万5000石を与えられた。江美城には城番に矢野正倫を置いた。慶長14年(1609年)中村一忠は急死、跡継ぎがいなかったため改易された。元和元年(1615年)一国一城令が出されるまで、城は存続していたと云われている。

江美城がある江府(こうふ)町は鳥取県日野郡にある町で、昭和28年(1953年)江尾(えび)町 / 神奈川村 / 米沢村が合併して成立した。日野川に沿う江尾は江美(えび)城の城下町で、江戸時代は日野往来の宿場町であった。日野往来は、溝口宿(鳥取県伯耆町溝口)から、野組(鳥取県日南町新屋)までの約52kmを結ぶ街道。
日野往来 宿場通り

日野往来を南に進むと、5分ほどの右手に江尾郵便局がある。風景印は、大山 / 上之段公園にある鐘(シンボルスウィングベル) / 町の花・アヤメ / 奥大山 チロルの里 標識 の図柄になっている。

江尾郵便局風景印
因幡国・鳥取とっとり城(久松城 / 久松山城
■城の種別
山城(戦国時代) / 平山城(近世城郭)
■築城者
山名誠通
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
石垣 / 天守台 / 堀 / 井戸
■主な再建造物
中仕切門
山上の丸
内堀 鳥取城跡碑 仁風閣
JR山陰本線・鳥取駅から53号線を北西へ進む。20分ほどすると鳥取県庁に突き当たり、左折する。すぐの鳥取東町郵便局角を右折すると、鳥取城の内堀が見えて来る。鳥取城は、久松山(標高263m)山頂の戦国時代の山城(山上さんじょうの丸)と山麓麓の近世城郭の平山城(山下さんげの丸)からなっている。山上の丸にはかつて天守があったが、天守台が残るだけになっている。山下の丸は久松(きゅうしょう)公園となっている。大手橋辺りは鳥取城復元整備に伴い、平成26年(2014年)〜平成30年(2020年)通行が出来なくなっていた。内堀を西側の宝珠橋で渡ると、すぐ右手に明治40年(1907年)築の仁風閣じんぷうかく(重文)がある。仁風閣は65歳以上は観覧料無料で喜んだのも束の間、本日月曜日は休館日であった。
[交通]JR山陰本線・鳥取駅-(徒歩25分)-鳥取城内堀
天文年間(1532年〜1555年)因幡国守護・山名誠通が築城したと云われている。天文17年(1548年)山名誠通は山名祐豊の奇襲により討ち死にする。元亀年間(1570年〜1573年)頃には、因幡山名氏の家臣・武田高信が城主となっている。武田高信は山名豊国と対立、安芸毛利氏と誼を通じる様になる。天正元年(1573年)山名豊国の攻撃を受けて城を明け渡すが、まもなく謀殺された。同年に吉川元春に攻められ山名豊国は降伏、毛利豊元が城主となる。天正2年(1574年)尼子氏残党に攻められて降伏する。天正3年(1575年)毛利氏の勢力が鳥取に及ぶようになり、山名豊国が城主に返り咲く。天正8年(1580年)羽柴秀吉に攻められ、山名豊国は降伏して臣従した。ふたたび毛利氏に攻められ、山名豊国は再度降伏する。家臣団は山名豊国を追放、毛利氏より新たな城主を迎え入れる事を決定する。天正9年(1581年)3月、吉川経家が城主として入城した。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉が鳥取城攻めを開始する。羽柴秀吉は鳥取城の包囲陣を完成させ、兵糧攻めを実施した。米を高値で買い占めさせ、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000人以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。吉川経家が入城する前に兵糧の多くが売られ、城には20日分の兵糧しか用意されていなかった。この作戦により瞬く間に兵糧は尽き、飢餓に陥った。城内の家畜や植物は食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう飢餓地獄となった。吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。開城後、空腹の余り勢いに任せて米を喰らった兵士が次々と胃痙攣で死亡した。生き残った約半数の兵が死亡したと云われている。
吉川経家銅像

浅井氏旧臣で、羽柴秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入る。宮部継潤は天正13年(1585年)の九州征伐で功績を挙げ、因幡・但馬の内5万石を与えられ、鳥取城主となった。宮部継潤の嫡男・宮部長房は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与し、鳥取5万石の所領は没収された。関ヶ原の戦いの功により近江甲賀郡水口から池田長吉が6万石で入り、近世城郭に改修された。元和3年(1617年)池田光政が因幡・伯耆32万5000石で入府、鳥取城も相応しい規模に拡張された。寛永9年(1632年)池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となる。明治維新を迎えた。鳥取城は存城とされたが、明治9年(1876年)鳥取県が島根県に編入されると廃城となる。

中仕切門 三階櫓石垣 二の丸跡
仁風閣からすぐに、昭和50年(1975年)に復元された中仕切門がある。二の丸へ進むと、三階櫓跡がある。三階櫓跡は享保5年(1720年)の石黒火事で焼失した。
三階櫓跡
山下の丸には、櫓などがあった石垣が数多く残っている。特に目立つのが天球丸跡で、巻石垣が珍しい。池田長吉の姉・天球院は若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だったが、山崎家を去った後に居住していたところ。享保5年(1720年)の石黒火事で焼失した。
天球丸跡
箕浦家武家門は2000石の上級家臣・箕浦家にあった表門で、鳥取城の堀端に建っていた。昭和11年(1936年)鳥取県庁の南東側に移築される。
箕浦家武家門
伯耆国・米子よなご城(久米城 / 湊山金城)
■城の種別
平山城
■築城者
山名宗之
■築城年
応仁年間〜文明2年(1467年〜1470年)
■主な遺構
石垣 / 天守台
本丸石垣
JR山陰本線・米子駅から米子駅前交差点を左折して南西へ、すぐのビッグショップ前交差点を右折して北西へ進む。10分ほどの9号線との久米町交差点を越え、すぐのT字路を左折する。すぐ右手に米子城二の丸桝形虎口がある。応仁年間(1467年〜1468年)〜文明2年(1470年)頃に、飯山(いいのやま)に築城したのが始まりと云われている。大永4年(1524年)尼子氏の支配となる。永禄5年(1562年)頃に毛利氏に攻略され、再び山名氏の支配となる。永禄12年(1569年)尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛は、米子城主・山名之玄と結ぶ。毛利元就の次男・吉川元春に攻められ落城、山名之玄は自害する。天正19年(1591年)吉川元春の三男・吉川広家が湊山(みなとやま)にあらたに築城を始めるが、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで岩国へ転封となる。関ケ原の戦いで東軍に加わった中村一氏は、論功により嫡子・中村一忠が慶長6年(1601年)伯耆国17万5000石を領して米子藩主となる。慶長7年(1602年)頃、米子城は完成したと云われている。慶長14年(1609年)中村一忠が急死、家系断絶のため改易される。慶長15年(1610年)加藤貞泰が6万石で藩主となるが、元和3年(1617年)伊予大洲藩に移封となる。米子藩は廃藩となる。鳥取藩・池田光政の所領となり、米子城には城代が置かれた。寛永9年(1632年)池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となる。家老・荒尾成利が城代として、明治2年(1869年)まで荒尾氏が駐在する。明治4年(1871年)石垣を残して取り壊され、湊山公園となっている。
[交通]JR山陰本線・米子駅-(徒歩15分)-米子城二の丸桝形虎口
二の丸桝形虎口の米子城跡 二の丸桝形虎口 二の丸桝形から二の丸への石段
二の丸桝形から石段を登ると、二の丸跡に旧小原家長屋門がある。小原家は米子城代・荒尾氏の家臣で、屋敷は西町にあった。長屋門は昭和28年(1953年)に米子市に寄贈され、現地に移築保存された。以後、昭和59年(1984年)まで米子市立山陰歴史館として利用されていた。長屋門から左へ道なりに 進むと、御殿御用井戸がある。
旧小原家長屋門

御殿御用井戸

本丸跡 天守台 湊山山頂眺望
御殿御用井戸からは登り坂となる。天守台には中村一忠による四重五階の天守が建てられていた。
出雲国・月山富田(がっさんとだ)城(月山城)
■城の種別
山城
■築城者
佐々木義清
■築城年
文治元年(1185年)
■主な遺構
石垣 / 土塁
■主な再建造物
主屋 / 侍所
花ノ壇と月山
安来節どじょうすくいの銅像がある安来駅前より、バスで広瀬町へ向かう。飯梨川右岸に月山がある。月山(標高197m)を中心に周辺の尾根や台地などを活用して造られた山城で、尼子氏の居城として知られている。保元・平治頃に平景清が築城したとも云われている。尼子経久は出雲に基盤を造り、嫡孫晴久のとき山陰・山陽八ヶ国の大名となる。尼子氏時代には土塁・萱葺きの城で、石垣は毛利氏 / 堀尾氏時代になってからと云われている。永禄5年(1562年)〜永禄8年(1565年)毛利の攻撃により落城する。富田橋を渡り赤門から階段を登ると、巌倉寺がある。ところどころに石垣があるなだらかな坂を能楽平から大頭成と進む。月山正面の中腹には山中御殿跡があり、菅谷口・御子守口・塩谷口が通じている。山中御殿は毛利氏時代であり、尼子氏の館は飯梨川の畔にあった。七曲りは山頂へ続く急な山道で、途中に堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音や山吹井戸がある。三の丸から二の丸へ続くが、二の丸と本丸との間には深い堀切がある。七曲りを山中御殿跡にもどり、主屋と侍所が復元された花ノ壇〜奥書院跡〜太鼓壇〜尼子神社のある千畳平〜尼子興久の墓〜安来市立歴史資料館(有料施設)と巡る。尼子清貞・経久親子の墓がある洞光寺や富田八幡宮に立ち寄る。
[交通]JR山陰本線・安来駅-(広瀬町行きバス/約30分)-広瀬病院前-(徒歩/約10分)-赤門-(徒歩/約30分)-山頂-(徒歩/約30分)-歴史民族資料館
安来市立歴史資料館 入館券
出雲国・松江城(千鳥城)
■城の種別
平山城
■築城者
堀尾忠氏
■築城年
慶長12年(1607年)
■主な遺構
天守(国宝) / 石垣 / 堀
■主な再建造物
南櫓 / 中櫓 / 太鼓櫓 / 本丸一の門
天守
JR山陰本線・松江駅から485号線を北へ進む。大橋川と剣先川をくにびき大橋で渡る。総合体育館のある交差点を左折して西に進むと、松江城山公園がある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾吉晴が、月山富田城に入城する。月山富田城は周囲を山々に囲まれた山城のため、佐々木胤清によって鎌倉時代に築かれたと云われる末次城址に築城した。天守は、平成27年(2015年)に国宝となった。
[交通]JR山陰本線・松江駅-(徒歩/約25分)-松江城山公園