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安芸国・吉田郡山城
■城の種別
山城
■築城者
毛利時親
■築城年
建武3年(1336年)
■主な遺構
石垣 / 土塁
本丸跡土塁
JR芸備線・吉田口駅から戸島川沿いに三次(みよし)方面に進む。江の川と合流する手前を左折すると、54号線への短絡となる。山を大きく迂回すると吉田の町並みが見えてくる。江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北、郡山(標高約400m)の南東尾根に城が築かれた。大永3年(1523年)毛利元就が家督を継ぎ、郡山全山を要塞化した。山頂に本丸・二の丸・三の丸が置かれ、四方に広がる尾根・支尾根に大小約130余の郭が造られた。天文9年(1540年)尼子の攻撃を撃退する。天正19年(1591年)毛利輝元は、広島城に本拠を移す。慶長5年(1600年)関が原の戦い後は防長へ転封され、郡山城は廃城となる。元和の一国一城令や島原の乱以降、堀や石垣を利用できないように徹底的に破却された。歴史民族資料館(有料施設)〜毛利降元の墓〜洞春寺跡〜毛利元就の墓〜毛利氏歴代の墓〜御蔵屋敷跡〜三の丸〜二の丸〜本丸〜二の丸〜三の丸〜厩の壇〜釜屋の壇〜羽子の丸〜姫丸の壇〜釣井の壇〜御蔵屋敷跡〜勢溜の壇〜尾崎丸跡〜展望台〜清神社〜歴史民族資料館と巡る。
[交通]三次駅-(JR芸備線/約25分)-吉田口駅-(徒歩/約90分)-歴史資料館-(上記ルート徒歩/約45分)-本丸
安芸国・猿掛城(多治比城)
■城の種別
山城
■築城者
庄 家長
■主な遺構
土塁
本丸跡
郡山城の西約4km、多治比(たじひ)川沿いの小さな谷に突き出した猿掛山にある。登山口は毛利弘元の菩提寺・教善寺の横にある。約20分で行ける本丸は、三方が切り立った崖のようになっている。急峻な道の連続である。訪れる人も少ない様子で、枯葉が積もり滑り易かった。西には谷部を挟んだ丘に出丸が、尾根続きに物見櫓が設けられていた。毛利弘元は安芸に影響力を強める大内氏の庇護を受けながら、勢力を拡大して行く。尼子氏と大内氏の二大勢力の狭間で、明応9年(1500年)33歳のときに幼少の長男・興元に家督を譲り隠居し郡山城から移り住む。大永3年(1523年)毛利元就は興元の長子・幸松丸(元就の甥)夭折のあとを受けて、毛利家の家督を継承する。郡山城に入城するまで4歳から27歳までをこの城で過ごした。慶長5年(1600年)関が原の戦い後に猿掛城は廃城となる。
[交通]JR芸備線・三次駅-(バス/約45分)-吉田営業所-(バス津々羅行き/約25分)-多治比局前-(徒歩/約20分)-本丸
安芸国・広島城(鯉城 / 在間城 / 当麻城)

■城の種別
平城
■築城者
毛利輝元
■築城年
天正17年(1589年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
大天守 / 平櫓 / 多聞櫓 / 太鼓櫓 / 表御門

復興大天守
表御門 平櫓 旧天守礎石
JR広島駅から南西へ、駅前大橋南詰交差点を右折して城南通りを北西へ進む。広島城南交差点の右手に広島城がある。内堀に囲まれた本丸 / 二の丸 / 三の丸の一部が現存する。慶長3年(1598年)築の大天守は、昭和20年(1945年)第二次世界大戦末期の原子爆弾によって倒壊する。昭和33年(1958年)天守が復興される。日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたことがある。原子爆弾投下の際、破壊目標地点となった。城内に広島護国神社がある。
[交通]JR山陽本線・広島駅-(徒歩/約20分)-広島城
広島護国神社
安芸国・草津城

■城の種別
山城

草津城址
広島電鉄宮島線・草津南駅の北側、草津沼田道路が高架橋になる手前東側に草津城への階段がある。道が入り組んでおり、解りづらい。草津城が築城された時代は、はっきりしていない。草津の港は戦津(いくさつ)と呼ばれ、古代から水軍 / 水運の拠点となっていた。戦国時代にはさらに重要性が増した。厳島神社神主家 / 安芸国守護・武田氏 / 大内氏 / 陶氏 による争奪戦が行われ、天文23年(1554年)毛利氏の支配下になった。毛利氏は水軍の将である児玉氏を草津城代に配置する。城の南に位置する草津湊は毛利水軍の基地となり、草津の町も繁栄した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長に移封となる。広島城主になった福島正則は草津城下の山陽道に関所を設け、草津城を壊したと云われている。山陽本線や広島電鉄宮島線の開通に伴い、城跡は三分割されている。
草津城への階段
安芸国・桜尾城
■城の種別
海城
■築城者
藤原親実
■築城年
承久3年(1221年)
桜尾城址
土塁 洞雲寺本堂 陶晴賢の墓

広島電鉄宮島線・広電廿日市駅の東、直線距離で約500mに位置する。道が入り組んでおり。解りづらい。宮島の対岸にあり、築城当時は三方を海に囲まれた海城であった。埋め立てや造成が進み、桂公園として整備され遺構は壊滅している。承久3年(1221年)承久の乱後、厳島神主となった藤原親実が桜尾城を築いた。天文10年(1541年)大内義隆に攻撃され落城する。天文24年(1555年)厳島の戦いのときは毛利元就の支配下にあり、桂元澄が城主となっている。厳島の戦いでは後方支援を担い、戦いの後に自害した陶晴賢の首実検はこの城で行われた。陶晴賢の墓は、JR山陽本線・廿日市駅北の洞雲寺にある。桂元澄の居城として続くが、元澄の死後は毛利元就の四男・穂井田元清に与えられる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、安芸国に移封された福島正則の支配地となった。この時に桜尾城は廃城になった。

安芸国・宮尾城(宮ノ尾城 / 要害山城)

■城の種別
平山城
■築城者
毛利元就
■築城年
弘治元年(1555年)
■主な遺構
石垣 / 堀切

本丸跡
宮島桟橋から南へ進むと、曲がり角の左手に階段がある。標高30mの要害山山頂に本丸跡がある。毛利元就が、陶晴賢をおびき寄せるために築いた城。当時は北部の山麓まで海が迫り、三方が海に面していた。厳島に上陸した陶晴賢軍は、宮尾城を攻撃する。落とせない間に毛利元就軍が夜半の嵐の中二手に別れて上陸、奇襲を仕掛け、陶晴賢軍を壊滅させた。厳島の戦いは、桶狭間や河越と並ぶ戦国三大奇襲戦と云われている。
安芸国・亀居城(小方城)
■城の種別
平山城
■築城者
福島正則
■築城年
慶長13年(1608年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 天守台 / 井戸
石垣
天守台 眺望

JR玖波駅より東へ、玖波交差点を右折して2号線を南西へ進む。15分ほどすると、交差点の右手に亀井公園への標識がある。右折するとすぐにJR山陽本線の踏切を越え、突き当りを左折する。5分ほどすると、左手に亀井公園への標識がある。左折して10分ほど坂を登ると、亀居公園がある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、福島正則が安芸国に移封された。長門国・周防国36万石に減封された毛利氏への押さえとして築城された。築城当時は海に面して港を備え、山陽道を城内に取り込む構造となっていた。慶長8年(1603年)から5年の歳月を掛けて築城された。広島城の支城としては、巨大な堅城だった。その為に徳川家康の疑念を招き、福島氏の没落の一因となったと云われている。豊臣氏と徳川氏の緊張が高まると、豊臣恩顧の福島正則への圧力が強くなる。徳川氏の意向に従い、完成より3年後の慶長16年(1611年)に廃城となる。城地はそのまま荒れるに任されていた。近年修復が進み、亀居公園として整備され桜の名所となっている。
[交通]JR山陽本線・玖波駅-(徒歩/約40分)-亀井公園

周坊国・岩国城(横山城)
■城の種別
山城
■築城者
吉川広家
■築城年
慶長6年(1601年)
■主な遺構
隠居所長屋 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
天守
復興天守
バス停から錦帯橋を渡る。居館跡の吉香公園からロープウェイを利用すると、約5分で着く。左の紅葉谷方向に行くと、城へ通じる道がある。吉川家墓地〜永山寺〜洞泉寺を通り、舗装されているがきつい坂道を登る。眼下には錦帯橋や錦川が一望できる。帰路に吉香公園〜目加田家住宅〜錦雲閣〜吉香神社〜岩国徴古館〜吉川資料館と巡る。吉川氏に毛利元就の次男・元春が養子に入る。慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦後に、広家が月山富田城から移封される。慶長6年(1601年)から横山山に城、山麓に土居を築き始め慶長13年(1608年)に完成する。元和元年(1615年)の一国一城令で、吉川氏は毛利家中として城は破却される。土居は吉川氏13代の居館として、明治まで260年間存続する。日本橋・眼鏡橋とともに日本三名橋である錦帯橋は、三代目・広嘉が延宝元年(1673年)に架けた全長193mの五連木造アーチ橋。昭和37年(1962年)に復興された天守は、景観を考え本丸南側に建てられている。本来の天守台が本丸北側に残っている。本丸・二の丸・北の丸・水の手の郭があリ、随所に石垣が残っている。
[交通]JR山陽本線・岩国駅-(バス15分)-錦帯橋-(徒歩/約45分)-天守
周坊国・大内氏館
■城の種別
城館
■築城者
大内弘世
■築城年
室町時代(1336年〜1573年)中頃
■主な再建造物
西門 / 土塁 / 庭園
西門

JR上山口駅より線路沿いに南西へ進む。交差点を右折して北西へ進むと、204号線(山陰道)と交差する。左折して204号線(山陰道)を南西へ進む。堅小路交差点を右折して北西へ進むと、右手に龍福寺への標識がある。右折すると大内館跡がある。すぐ北側に築山館跡がある。大内氏館は周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館、築山館は迎賓館的に使用されたと云われている。最盛期には東西160m / 南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも云われている。当初は溝と塀で囲まれている程度だったが、空堀と土塁によりある程度の防御力を備えた城館になった。大内氏の繁栄とともに“西の京都”山口として栄えたが、大内義隆の代に入り衰退する。天文20年(1551年)陶隆房(後の晴賢)が謀反、大内義隆は自害に追い込まれる。豊後・大友義鑑の次男・晴英(後の義長)が当主として迎えられ、大内氏館に入る。弘治元年(1555年)厳島の戦いで陶晴賢が自害、弘治2年(1556年)毛利元就が侵攻する。大内義長は山口を放棄して逃亡、長福院(現 功山寺)で自害する。大内氏館もその役目を終えることとなった。弘治3年(1557年)大内氏館跡に、毛利隆元(毛利元就嫡男)が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を創建する。西門は配置や大きさから、内門の一つと云われている。礎石が検出されなかったことから、門柱の両端を石で押さえて固定する様式の門だったと推定されている。庭園は3ヶ所確認されている。南東側に大きな池を持った池泉庭園、北東側に小規模な枯山水庭園がある。枯山水庭園は大内義隆時代に造られたと云われている。
[交通]JR上山口駅-(徒歩/約15分)-龍福寺

空堀跡と復元土塁(西側) 空堀跡と復元土塁(北側) 枯山水庭園
大内氏館跡に龍福寺がある。参道を南へ進むと、西側に宝現霊社がある。大内教弘が築山館に創建、大内氏歴代の神霊を祀る。社殿は江戸時代中頃築。
龍福寺本堂 宝現霊社
築山館跡に八坂神社や築山神社がある。八坂神社は600年余前、大内弘世が上堅小路に創建。永正年間築の本殿は重文。
土塁(北西側) 八坂神社社殿
周坊国・山口城(山口屋形 / 山口政庁)
■城の種別
平城城
■築城者
毛利敬親
■築城年
元治元年(1864年)
■主な遺構
表門(薬医門) / 水堀
表門と土橋

JR山口駅から北西に道なりに進むと、山口県庁がある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防国・長門国36万石に減封される。萩城が居城(藩庁)であったが、大内義長が築城した高嶺(こうのみね)城跡の山麓に元治元年(1864年)に移転する。高嶺城跡を詰城として、水堀を巡らし腰巻型の石垣を築いた。御殿は萩城から解体移築している。第一次長州征討後、城の一部を破却させられ萩城へ移転する。慶応2年(1866年)に再び山口城へ藩庁を移転する。廃藩置県により。明治4年(1871年)山口県庁が置かれた。明治6年(1873年)廃城となる。
[交通]JR山口駅-(徒歩/約20分)-山口県庁

洞春寺山門 洞春寺本堂 観音堂
山口県庁の北側に洞春寺がある。古くは応永11年(1404年)に創建された国清寺。毛利氏が防長に移ってからは、毛利隆元(毛利元就の嫡男)の菩提寺となる。後に毛利元就の菩提寺となり、洞春寺と改称される。本堂は江戸時代に再建されたもの。山門(重文)は、国清寺創建当時のものと云われている。観音堂(重文)は、永享2年(1430年)に創建された観音寺の本堂。観音寺は後に勝音寺、江戸時代に大通院と改称する。幕末には衰退、本堂だけが辛うじて残る。荒廃が甚だしくなり、大正4年(1915年)洞春寺に移築される。
洞春寺の北に香山公園がある。室町時代に大内義弘によって創建された香積寺があったが、慶長9年(1604年)萩に移転する。元禄3年(1690年)、跡地に文明3年(1471年)創建の瑠璃光寺が移転してくる。創建時は安養寺、明応元年(1492年)瑠璃光寺と改称する。五重塔(国宝)は、嘉吉2年(1442年)頃に完成したもの。大内文化の最高傑作と云われている。
瑠璃光寺本堂 五重塔
周防国・勝栄寺
■城の種別
平城(城郭寺院)
■築城者
陶弘政
■築城年
南北朝時代(1336年〜1392年)の1350年頃
■主な遺構
土塁
土塁
山門 本堂 教訓状発祥の地碑
JR山陽本線・新南陽駅北口から線路沿いに西へ進むと、右手に勝栄寺がある。南北朝時代(1336年〜1392年)の正平5年(1350年) / 観応元年(1350年)頃に、大内弘世の重臣・陶弘政によって創建された陶氏の菩提寺。山陽道や瀬戸内海の要港・富田津に位置していたため、合戦時には防御の砦になることもあった。周囲に土塁や堀を廻らせた、城郭的な施設であったと云われている。環濠は埋め立てられているが、土塁の一部が残る。江戸時代の「防長寺社由来」絵図に、土塁と濠が描かれている。毛利元就は弘治元年(1555年)厳島で陶軍を壊滅させ、陶晴賢は自刃する。長門国・周防国の各地で残党の蜂起が相次いだため、弘治3年(1558年)富田に進駐して勝栄寺に本陣を置き鎮圧した。在陣中に、長男・毛利隆元 / 次男・吉川元春 / 三男・小早川隆景 に宛てた教訓状(三矢の訓)を認めたと云われている。教訓状(重文)は、防府市・毛利博物館が所蔵している。
[交通]新南陽駅-(徒歩/約5分)-勝栄寺