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美濃国・鷺山さぎやま
■城の種別
山城
■築城者
佐竹秀義
■築城年
文治年間(1185年〜1190年)
■主な遺構
土塁 / 堀
鷺山山頂(主郭)
JR東海道本線・岐阜駅から157号線を北東に進む。5分足らずで名鉄・岐阜駅前を通過、北に進路が変わる。長良橋通りは途中から256号線になり、本町3丁目交差点から東に進路が変わる。途中で2019年に歩いた岐阜街道(御鮨街道 / 鮎鮨街道)と交差する。5分ほどすると北に進路を変える。進路を変える手前左手に宝徳2年(1450年)創建の常在寺がある。斎藤道三以後3代の斎藤家菩提寺。
常在寺

JR東海道本線・岐阜駅から40分ほどで、長良川に架かる長良橋を渡る。渡り切って5分足らずの長良丘1丁目交差点を左折して163号線を西に道なりに進む。15分ほどの北消防署バス停の手前のT字路を北に進むと、十字路の南東側に道三塚がある。

道三塚入口 道三塚 
“美濃の蝮”と呼ばれた斎藤道三は、弘治2年(1556年)嫡男・斎藤義龍と長良川を隔てて戦ったが敗れて戦死した。最初、斎藤道三の遺体は祟福寺の西南に埋葬された。塚は長良川の洪水の度に流され、天保8年(1837年)常在寺・日椿上人が現在の地に移して供養碑を造立した。現在、周辺は住宅地となっている。
[交通]JR東海道本線・岐阜駅-(徒歩70分)-道三塚
163号線まで戻り北西に道なりに進む。15分ほどすると鷺山玉川町バス停があり、次の緑が丘バス停手前左手に不動産店がある。ここのT字路を北に住宅街を進むと、5分足らずで北野神社の参道に突き当たる。左折して境内を進むと、突き当りの階段上に社殿がある。鷺山城は社殿の左手方向から登り、15分ほどで山頂に着く。
[交通]道三塚-(徒歩20分)-北野神社
北野神社 / 背後は鷺山
北野神社社殿 大きな丸石 斎藤道三公慰霊之碑

賽銭のために階段の上り下りは嫌だと思ったら、階段下の手摺に小さな賽銭箱が設置されていた。階段下の左手にある大きな丸石は鷺山の南斜面の土砂の掘削で出土したもので、鷺山城の礎石ではないかと云われている。左へ進むと、斎藤道三公慰霊之碑 / 鷺山城主館址石柱 がある。

鷺山城主館址石柱
登り始めると、左手に3段の広場がある。昭和39年(1964年)東海道新幹線や名神高速道路の建設のため、鷺山の土砂が掘削された。ここが掘削された跡の様で、ベンチが置かれた公園になっている。3段目の広場に、不明の巨石が2ヶ並んでいる。
不明の巨石
山頂手前にある東屋からは、金華山(岐阜城)が望める。標高68mの山頂にある狭い主郭に、鷺山城跡石柱 / 案内板 がある。
金華山(岐阜城)眺望 鷺山城跡石柱
鷺山城は、鎌倉時代の文治年間(1185年〜1190年)に佐竹秀義が築城したとされる。佐竹秀義は常陸・佐竹家第3代当主で、承久の乱(1221年)の戦功で源頼朝より美濃にも所領を与えられた。佐竹秀義の子・北酒出季義が美濃佐竹氏の祖となる。北酒出季義の子孫は佐竹氏を名乗り、在地領主となった長男系と京都に出た次男系に分かれる。南北朝時代になると、南朝方についた長男系は没落した。北朝側で戦った次男系・佐竹義尚は室町幕府3代将軍・足利義満の弓術指南役を務めるなど、子孫は幕府の奉公衆に名を連ねた。
南北朝時代の興国3年 / 康永元年(1342年)土岐頼康が美濃国守護となり、正平8年 / 文和2年(1353年)本拠地を長森城から川手城(革手城)に移した。この時、鷺山城は支城になったと云われている。明応5年(1497年)麓に福光御構(蝉土手城館)が築かれ、土岐政房は川手城から美濃守護所を移した。
土岐政房は嫡男・頼武ではなく、次男・頼芸を跡継ぎに推したため跡目争いが起きた。永正16年(1519年)土岐政房が死去すると、朝倉氏の加勢を得た土岐頼武が勝利して守護に就任して福光御構に入った。大永5年(1525年)土岐頼芸は鷺山城を占拠するが、土岐頼武が奪い返している。斎藤氏庶流・長井長弘と家臣・松波庄五郎が頭角を現すと、享禄3年(1530年)土岐頼武を越前に追放して土岐頼芸を守護とした。後ろ盾であった斎藤長弘 / 長井新左衛門尉 らが相次いで死去したため、長井新左衛門尉の子・長井規秀を重用して勢力保持を図った。その後、長井規秀が斎藤家の名跡を継いで斎藤利政を名乗った。
天文21年(1552年)頃に土岐頼芸は追放され美濃土岐氏は没落、斎藤利政は美濃国を完全に平定した。天文23年(1554年)斎藤利政は家督を嫡男・斎藤義龍へ譲り、常在寺で道三と号して鷺山城を改修し隠居城とした。麓の居館に長良川の水を引き入れた庭園が造られたと云われている。
天文4年(1535年)斎藤利政(斎藤道三)と小見の方の間に生まれた濃姫(帰蝶 / 胡蝶 / 鷺山殿)は、天文18年(1549年)鷺山城から尾張国・古渡城の織田信長に嫁いだ。天文15年(1546年)美濃国守護・土岐頼純に嫁いだが殺害され、再婚だったとも云われている。斎藤道三以後3代の菩提寺・常在寺に父・斎藤道三の肖像を寄進したと寺伝にあるのを最後に、濃姫は歴史の記録から完全に姿を消した。このために濃姫は没年も不明であり、菩提寺も戒名も特定されていない。
弘治2年(1556年)斎藤道三は、嫡男・斎藤義龍と長良川を隔てて戦ったが敗れて戦死した。この戦いの後に鷺山城は廃城となった。
美濃国・篠脇城(郡上城)
■城の種別
山城
■築城者
東氏村
■築城年
鎌倉時代末期(1310年頃)
■主な遺構
土塁 / 堀 / 庭園
東氏館跡庭園
長良川鉄道・徳永駅の北側を通る61号線を東に進む。すぐの徳永交差点を直進して318号線を進む。30分ほどすると、左手に古今伝授の里大和町文化財展示館 / 右手に東氏館跡庭園 がある。
鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男・胤頼
(たねより)が下総国東荘住み、東(とう)氏を称する。孫・東胤行は承久の乱の戦功により、美濃国山田荘(現:岐阜県郡上市)の地頭となる。篠脇城は鎌倉時代末期(1310年頃)に東氏村によって築城され、標高約523mの篠脇山山頂 / 北側の麓に東氏館と庭園 があった。未だ雪が残り、篠脇山には登っていない。
東氏館跡と庭園は、昭和54年(1979年)圃場整備工事中に発見された。往時の石組みを持つ地泉庭園は、昭和62年(1987年)に国の名勝に指定された。
東氏は8代・約230年間に渡って居城とした。天正14年(1541年)赤谷山城を築城して移転、篠脇城は廃城となった。永禄2年(1559年)東常慶は一族と云われる遠藤盛数に攻められ滅亡した。
[交通]長良川鉄道・徳永駅-(徒歩約35分)-東氏館跡庭園
室町時代中期から戦国時代初期の武将・東常縁は、古今伝授を受けた歌人として知られている。関東滞在中に所領の美濃郡上は、守護・土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。これを嘆いた東常縁の歌に感動した斎藤妙椿は、所領を返還したと云われている。文明3年(1471年)〜文明5年(1473年)宗祇に古今伝授を行っている。明治33年(1900年)造立の「常縁・宗祇連歌の碑」は、伝授が完了した喜びを詠み交わしたものと云われている。
常縁・宗祇連歌の碑
美濃国・郡上八幡城(積翠城)
■城の種別
山城
■築城者
遠藤盛数
■築城年
永禄2年(1559年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
郡上八幡旧庁舎記念館から吉田川に架かる新橋を渡り、左折して直ぐ右折する。安養寺の手前を右折して坂を登ると、山内一豊と妻千代の像がある。左右どちらからでも天守に行ける。千代は築城者・遠藤盛数の娘である。承久3年(1221年)の承久の乱で勝利を治めた鎌倉幕府は、山田荘(大和町)の地頭に東胤行(とうのたねゆき)を任命した。藤原定家の孫娘と結婚した胤行は、歌道の奥義を代々伝えることとなる。連歌の宗匠・飯尾宗祇(いいおそうぎ)は文明年間(1470年頃)に古今和歌集を極めた歌人・東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けるために、郡上を訪れこの泉のほとりに住んだ。伝授は3年にわたって行われ、常縁の居城篠脇(しのわき)城へ通った。古今伝授が終り宗祇が都へ帰るとき、常縁はこの泉のほとりまで宗祇を送ってきて歌を詠み交わしたことから、宗祇水の名が付いたと云われている。東氏は永禄2年(1559年)支族遠藤盛数に滅ぼされる。そのころ八幡山に砦が築かれたのが、郡上八幡城の始まりと云われる。遠藤〜稲葉〜井上〜金森〜青山氏の居城となり、4万石の城下町として栄えた。宝暦5年(1755年)大規模な農民一揆・宝暦騒動が起り、12代城主金森頼錦はお家断絶に追い込まれる。宝暦9年(1759年)丹後宮津から青山幸道が転封となる。東京都港区青山の地名は、郡上藩江戸屋敷があったなごりである。天守が築かれたことはないが、昭和8年(1933年)大垣城を模した模擬天守がある。
[交通]長良川鉄道・郡上八幡駅-(徒歩/約40分)-郡上八幡城天守
美濃国・落合五郎兼行城
■城の種別
平山城
■築城年
治承年間(1177年〜1180年)
落合五郎兼行之城跡
19号線に架かる“おがらん橋”の北側、旧中山道に面している。19号線の拡幅によって、史跡の主要部は削り取られている。遺構はなく、“おがらん四社”(落合五郎兼行神社 / 愛宕神社 / 山神神社 / 天神社)境内に落合五郎兼行之城跡碑がある。落合五郎兼行(かねゆき)は、平安時代末期の武将。巴御前の兄または弟で、木曽義仲四天王の一人。信濃国との境に、美濃口の抑えとして館を構えていたと云われている。
美濃国・苗木城(霞ケ城 / 赤壁城)
■城の種別
山城
■築城者
遠山直廉
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 井戸
■主な再建造物
天守柱組
本丸
苗木遠山史料館 大矢倉跡

千石井戸

JR中央本線・中津川駅からバスに乗車、苗木バス停で下車する。西へ5分ほど進むと苗木交差点があり、左折して257号線を南東へ進む。10分ほどすると。苗木遠山史料館への標識があり左折する。10分ほどすると、右手に苗木遠山史料館がある。駐車場奥から左へ道なりに登ると、15分ほどで本丸に着く。鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏が始まり。天正10年(1582年)本能寺の変後、森長可に城を落とされる。城代として河尻秀長が入る。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、遠山友政は苗木1万石の領主になっていた河尻秀長を攻め落城させる。遠山友政が苗木藩初代となり、幕末まで遠山氏十二代の居城となる。本丸 / 二の丸 / 三の丸などの石垣や大矢倉跡 / 風吹門跡 / 綿倉門などの門跡、堀が残っている。巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴。菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。赤壁城の由来がいろいろ伝えられている。苗木藩が経済的に弱体だったため、漆喰を塗る費用が捻出できなかったと云われている。
[交通]JR中央本線・中津川駅-(バス/約20分)-苗木バス停-(徒歩/約25分)-苗木遠山史料館-(徒歩/約15分)-本丸

美濃国・岩村城(霧ヶ城)
■城の種別
山城
■築城者
加藤景朝
■築城年
鎌倉中期 / 承久3年(1221年)以降
■主な遺構
藩校・知新館正門(移築)/ 土岐門(移築) / 不明門(移築)
石垣 / 井戸
■主な再建造物
太鼓櫓 / 表御門 / 平重門
本丸石垣

明知鉄道・岩村駅から東に、すぐの突き当りを右折して南に進む。道なりに進むと418号線に突き当たり左折する。すぐのT字路を左折して北へ進む。すぐの十字路を右折して南東に進む。5分足らずのT字路を左折して北に進む。5分足らずで道は直角に曲がり、右手に太鼓櫓 / すぐに登城口がある。岩村城本丸は城山の標高721mにあり、高取城 / 備中松山城 とともに日本三大山城になっている。霧が多く発生するため、霧ヶ城とも呼ばれる。山上の石垣がほぼ完全に残っている。
[交通]明知鉄道・岩村駅-(徒歩60分)-岩村城本丸

石垣 本丸石垣 本丸石垣
鎌倉時代初期に加藤景朝が地頭として遠山荘に赴任、遠山氏を称した。織田氏・徳川氏と武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期に、城山が整備されたと云われている。元亀2年(1571年)遠山景任が病没すると、織田信長は5男・坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。後見役は織田信長の叔母・おつやの方で、幼少の坊丸に代わって女城主として差配を振るった。元亀3年(1572年)武田信玄は遠江の徳川家康を攻撃するために出陣、再び秋山虎繁に岩村城の攻略を命じた。岩村城は武田方に包囲され、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏する。天正3年(1575年)長篠の戦いの後、織田信忠に攻められ落城する。秋山虎繁夫妻は長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。河尻秀隆が城主となり城の改造を行い、現在の城郭に近いものとなった。天正10年(1582年)河尻秀隆は甲斐国に移り、団忠正の居城となるが3ヶ月後の本能寺の変で戦死する。岩村城は森長可が接収、城代となった家老・各務元正は現在に残る城郭が完成させた。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いのとき、明知遠山氏・遠山利景が攻めるが各務元正により退けられる。慶長4年(1599年)森忠政が信濃国松代に移ると、田丸直昌が入城する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで田丸直昌は西軍に味方、改易されると松平(大給)家乗が入城した。慶長6年(1601年)松平家乗は岩村城の北西山麓に城主居館を造営する。正保元年(1644年)松平乗寿は上野国館林藩に移封、三河国伊保藩より丹羽氏信が入封する。元禄15年(1702年)丹羽氏音はお家騒動により越後国高柳藩に移封、信濃小諸城より松平(大給)乗紀が入封した。松平乗紀は藩校・文武所(後:知新館)を設けた。以後、明治維新まで松平(大給)が居城した。

明治6年(1873年)廃城令により、建物は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、明治14年(1881年)焼失した。太鼓櫓は明治14年(1881年)に消失、平成2年(1990年)木造復元された。藩校・知新館正門が藩主邸跡に移築現存する。土岐門が城下の徳祥寺山門 / 不明門が城下の妙法寺山門 として移築現存する。岩村町の八幡神社本殿は、岩村城の八幡曲輪から移築されたものである。

太鼓櫓
美濃国・明智城(長山城 / 明智長山城)
■城の種別
山城
■築城者
土岐明智二郎頼兼
■築城年
康永元年(1342年)
■主な遺構
曲輪 / 土塁
■主な再建造物
大手門
復元大手門
本丸跡 城址碑 展望デッキ眺望
名鉄広見線・明智駅の西側にある踏切から、南へ進み21号線を越える。踏切から15分ほどのところに天龍寺の標識があり右折する。道なりに進むと右手に太元神社 / 左手に寛永2年(1625年)創建の天龍寺 / 突き当り手前右手に東栄寺 / 突き当りに明智城大手口 と続く。明智城は恵那市明智町城山と可児市瀬田長山にあり、どちらが明智光秀出生の城なのか裏付ける資料はない。美濃国緒旧記では、明智城は可児郡明智庄長山城であることが記されている。土岐明智二郎頼兼は、土岐美濃守光衡により五代の嫡流・土岐明智民部大輔頼清の二男。弘治2年(1556年)稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受け、落城する。明智城代・明智光安と弟光久は自刃、明智光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが、真偽は解っていない。城は再興されることもなく廃城となる。本丸跡の先端に展望デッキがある。
[交通]名鉄広見線・明智駅-(徒歩20分)-大手口-(徒歩10分)-本丸
太元神社 天龍寺 東栄寺
天龍寺には、明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所がある。東栄寺は瀬田最古の寺で、太元神社の神護寺であったと云われている。広見東まちづくり協議会制作の案内板には、東栄寺が明智一族の菩提寺であったが昭和に天龍寺に譲ったと記されている。
美濃国・美江寺(みえじ)
■城の種別
平城
■築城者
和田八郎
■築城年
応仁・文明年間(1467年〜1486年)
石垣のモニュメント
樽見鉄道・美江寺駅から南へ、すぐの旧中山道を西へ進む。美江寺一里塚跡手前の交差点を左折すると、右手にある中小学校敷地一帯が城跡。中小学校沿いに角を右折して進むと、右手の校庭西隅に石垣のモニュメントと松の木が見える。美濃国守護・土岐氏家臣・和田八郎が居館を構えたのが始まりと云われる。土岐頼芸は天文5年(1536年)勅許により正式に守護の座に就いた。天文10年(1541年)重臣の斎藤道三との仲が険悪となり、次第に対立する様になる。天文11年(1542年)和田高行は土岐頼芸と共に斎藤道三と戦い、美江寺城は落城する。その後廃城となる。江戸時代の美江寺は中山道の宿場町として栄え、城跡を囲うように北西隅で鉤の手に中山道が折れている。
[交通]樽見鉄道・美江寺駅-(徒歩5分)-中小学校
美濃国・猿啄さるばみ城(猿飛城 / 勝山城)
■城の種別
山城
■築城者
西村豊前守善政
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
二層櫓風展望台
JR高山本線・坂祝(さかほぎ)駅から南へ進む。5分ほどの21号線取組交差点から木曽川の土手に登る。木曽川沿いの道を西へ5分ほど進むと、勝山交差点辺りから標高265mの城山山頂にある平成9年(1997年)築の二層櫓風展望台が見える。尾張国と美濃国の境にあたり、木曽川が流れ中山道が通る重要な地点であった。嘉吉元年(1441年)西村豊前守善政が祖母の法要で猿啄城を留守にした時、田原左衛門尉頼吉が突然攻め入り城を略奪した。天文16年(1547年)多治見修理が城を略奪した。永禄8年(1565年)織田信長が美濃攻略を開始、丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し落城。川尻鎮吉が猿啄城主となり、勝山城と改称したと云われている。天正2年(1575年)川尻鎮吉は岩村城に移り、廃城となる。
美濃国・岐阜城(井之口城 / 稲葉山城 / 金華山城)
■城の種別
山城
■築城者
二階堂行政
■築城年
建仁元年(1201年)
■主な再建造物
模擬天守 / 門
模擬天守天守
永禄7年(1564年)または永禄10年(1567年)〜天正4年(1576年)に、織田信長が居城したことで知られる。明治43年(1910年)模擬天守が再建されるが、昭和18年(1943年)失火のため焼失する。昭和31年(1956年)模擬天守が再建される。
[交通]JR岐阜駅-(バス/約15分)-岐阜公園・歴史博物館前-(徒歩/約5分)-岐阜公園-(ロープウェー/約5分)-山頂駅-(徒歩/約10分)-岐阜城天守
美濃国・加納城
■城の種別
平城
■築城者
徳川家康
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
石垣 / 堀跡
石垣
JR岐阜駅から187号線を南へ、加納栄町4交差点を左折して東へ進む。加納大手町交差点を右折して南へ進むと、突き当りに加納城がある。文安2年(1445年)斎藤利永によって沓井城が築城されたのが始まり。天文7年(1538年)には廃城となっている。慶長6年(1601年)岐阜城が廃城となり、天下普請として加納城が築城される。加納藩に移封された奥平信昌は天正3年(1575年)長篠の戦いのとき、武田勝頼軍を相手に三河国・長篠城を守り抜いた武将。後に徳川家康の娘・亀姫と結婚している。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと云われている。大手門は旧中山道に面し、加納宿は中山道53番目の宿場。明治5年(1872年)廃城令により建物は破却、城門などは売却された。
[交通]JR東海道本線・岐阜駅-(徒歩20分)- 加納城跡
加納城の西10分ほどのところに、三河にあった奥平家の菩提寺・増瑞寺を移した盛徳寺がある。奥平信昌・亀姫の墓があり、山門前には岐阜市による案内看板がある。しかし境内に入ることはできない。またJR岐阜駅の南東方向に慶長19年(1614年)創建の光国寺があり、ここにも亀姫の墓がある。ここも境内に入ることはできない。亀姫の墓は、右手の鉄柵の隙間から見ることができる。
大手門跡
盛徳寺 光国寺 亀姫の墓
美濃国・墨俣城
■城の種別
平城
■主な再建造物
模擬天守
(墨俣一夜城歴史資料館)
模擬天守
尾張から美濃へ侵攻する重要拠点であることから、度々合戦になっていたと云われている。信長公記には永禄4年(1561年)洲俣要害の攻防があり攻略、改修して在陣したことが記されている。永禄9年(1566年)織田信長の稲葉山城攻略の際、木下藤吉郎が一夜にして城を築いた逸話がある。信憑性に乏しく、江戸時代の創作であるとも云われている。天正12年(1584年)池田恒興の家臣・伊木忠次が改修、天正14年(1586年)木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の氾濫で木曽川の流路が変わり、墨俣城は戦略上の重要性を失ったと云われている。平成3年(1991年)大垣城の天守を模して建てられた墨俣一夜城歴史資料館がある。
[交通]名鉄岐阜駅-(バス)-墨俣バス停-(徒歩/約10分)-墨俣城 JR大垣駅-(バス)-墨俣バス停-(徒歩/約10分)-墨俣城
美濃国・大垣城(牛屋城 / 巨鹿きょろく城 / 麋城)
■城の種別
平城
■築城者
竹腰尚綱
■築城年
明応9年(1500年)
■主な遺構
柳口門 / 石垣 / 曲輪
■主な再建造物
天守 / 西門 / 艮隅櫓 / 乾櫓
復興天守
JR東海道本線・大垣駅南口から57号線を南へ進む。5分ほどの交差点右手に標識があり右折すると、突き当りに大垣城がある。
東門(移築された柳口門) 東門 / 艮隅櫓 艮隅櫓
復興天守 / 戸田氏鉄騎馬像 乾櫓 / 天守 西門
明応9年(1500年)竹腰尚綱が築城、または天文4年(1535年)宮川安定が築城したと云われている。
大垣は美濃と近江を結ぶ重要拠点で、争奪戦が行われている。天文13年(1544年)織田信秀により落城、織田信辰が城主となる。天文18年(1549年)斎藤義龍の家臣・竹越尚光が城主となる。永禄2年(1559年)氏家直元(卜全)が城主となる。永禄10年(1567年)織田信長の美濃攻めのとき、氏家直元は内応する。氏家直昌が継ぎ、天正11年(1583年)池田恒興が城主となる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで戦死すると、池田輝政が継いだ。天正13年(1585年)一柳直末が城主となる。天正18年(1590年)小田原征伐で功を挙げた伊藤盛景が城主となり、伊藤盛正が継いだ。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは伊藤盛宗が西軍に属したため、西軍の根拠地となった。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、東軍に攻囲され落城する。譜代大名・石川康通が城主となり、寛永12年(1635年)戸田氏鉄が10万石で入り11代で明治まで続いた。
明治6年(1873年)の廃城令により廃城となった。天守などは破却を免れ、昭和11年(1936年)に天守などが旧国宝に指定された。昭和20年(1945年)の大垣空襲により焼失した天守は、一柳直末または伊藤祐盛が築いたとも云われている。
天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート構造で外観復元されたもの。57号線からの入口にある東門は、移築された柳口門。西門は昭和60年(1985年)に築かれた模擬門。

[交通]JR東海道本線・大垣駅-(徒歩/10分)-大垣城
中山道鵜沼宿町屋館の向かいに、旧大垣城鉄門がある。
旧大垣城鉄門
大垣公園の南側に明治2年(1869年)創建の濃飛護国神社がある。
濃飛護国神社