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駿河国・駿府城(府中城 / 静岡城)

■城の種別
平城
■築城者
今川範政
■築城年
応永11年(1404年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
二の丸巽櫓 / 東御門(高羅門と櫓門) / 坤櫓

二の丸巽櫓 / 東御門

JR東海道本線・静岡駅から362号線を北西に進む。七間町交差点を右折すると、駿府城外堀に突き当たる。外堀を越えると、左手に静岡県庁 / 1Fに静岡県庁内郵便局 がある。風景印は、茶壺の外枠 / 駿府城巽櫓 / 富士山 の図柄になっている。
[交通]JR東海道本線・静岡駅-(徒歩15分)-駿府城公園

静岡県庁内郵便局風景印
応永11年(1404年)駿河国守護・今川範政が築いた館が始まりと云われている。天文5年(1536年)今川義元が今川館の主となるが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで戦死する。永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻により、今川氏真の今川館は焼失する。今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田勝頼は天正10年(1582年)織田・徳川勢力により滅亡、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。天正13年(1585年)徳川家康により駿府城は近世城郭として改修された。天守は天正17年(1589年)に築かれたと云われている。天正18年(1590年)豊臣政権による小田原征伐後、徳川家康は関東移封となる。駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する。慶長6年(1601年)徳川家康の異母弟・内藤信成が駿府藩4万石の領主となる。

慶長11年(1605年)徳川家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、慶長12年(1607年)大御所として駿府城に隠居した。しかし政治的影響力を持ち続けたため大御所と呼ばれ、このとき駿府城は天下普請によって大修築された。慶長14年(1609年)徳川家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活した。慶長19年(1614年)徳川家康は二条城に移り、元和2年(1616年)駿府城で死去する。
駿府城跡付近には、“大御所家康公 駿府城入城 四百年祭”と刻まれた静岡市消火栓 マンホールがある。富士山 / 徳川家康の甲冑 / 安倍川 の図柄になっている。

静岡市消火栓マンホール

元和5年(1619年)徳川頼宣は紀州藩に移封となり、寛永元年(1624年) 徳川秀忠の次男・徳川忠長が駿府藩に入封する。 寛永8年(1631年)徳川忠長は徳川家光に改易と蟄居を命じられ、寛永9年(1632年)高崎城で自刃する。以後、明治維新まで幕府直轄地となり駿府城代が置かれた。慶応4年(1868年)江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠、養嗣子・田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となる。明治4年(1871年)廃藩置県以降、城内の建物が破却される。明治29年(1896年) 歩兵第34連隊の駐屯地となり、本丸堀(内堀)は埋められ城郭施設はすべて取り壊される。

外堀(西側) 中堀(東側) 内堀
三重の堀に囲まれ、外堀は1/3は埋め立てられている。中堀は部分的に過去の地震によって崩落したままになっている。内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され再現されている。外堀と中堀の間にある三の丸跡に官庁や学校などの公共施設がある。中堀の内側にある二の丸跡 / 本丸跡 は駿府城公園となっている。
二の丸巽櫓 東御門の高羅門 東御門の櫓門
昭和64年(1989年)二の丸南東の巽(たつみ)櫓 / 平成8年(1996年)東御門(高羅門と櫓門) / 平成26年(2014年)二の丸南西角に坤(ひつじさる)櫓 が復元された。
二の丸坤櫓 二の丸坤櫓(二の丸内側)
二の丸橋 二の丸御門跡 内堀 / 東御門 / 二の丸巽櫓
鷹狩り姿の徳川家康像 天守台発掘調査 天守台付近からの富士山
天守台付近に鷹狩り姿の徳川家康像がある。平成28年(2016年)より天守台の発掘調査が行なわれている。駿府城天守は天正17年(1589年) / 慶長13年(1608年) / 慶長15年(1610年) と3度築かれたと云われている。
駿河国・蒲原城
■城の種別
山城
■築城者
藤姓蒲原氏
■築城年
平安時代末期〜南北朝時代
■遺構
土塁 / 堀切 / 曲輪
蒲原城址駐車場からの城山
JR東海道本線・新蒲原駅から西に進み。すぐに右折してJR東海道本線を潜り左折する。396号線を西へ進み、善福寺入口交差点を右折して北に進む。すぐに旧東海道と交差、交差点の北西側に旧東海道関係 / 蒲原城跡 の標識がある。
交差点左折して12年振りに旧東海道を西に進むと、すぐ左手に明治42年(1909年)築の“手づくりガラスと総欅の家”/ すぐ右手に蒲原郵便局 と続く。風景印は、富士山 / 水力発電所 / アルミ工場 / ミカン / サクラエビ の図柄になっている。
手づくりガラスと総欅の家 蒲原郵便局風景印

交差点まで戻り北に進む。坂道を登ると、すぐに東名高速道路を潜る。道なりに坂を登ると、左手に蒲原城址駐車場 / 右手に善福寺公園 がある。
[交通]JR新蒲原駅-(徒歩30分)-蒲原城址駐車場

蒲原城址駐車場 善福寺公園
蒲原城址駐車場に案内看板があり、鋭角に左方向に進む。草道を進み坂を登ると、左手に傾いた城山八幡宮の石標がある。
草道 城山八幡宮石標
夏草で覆われた本曲輪 蒲原城址碑 城山八幡宮
薄暗い土道から土留された階段を登ると、標高138mの山頂に本曲輪 / 蒲原城址碑 / 城山八幡宮 / 北条氏信供養碑 / がある。木々が生い茂り、南方向の駿河湾を見下ろす眺望は良くない。蒲原城址駐車場にある案内板によると、本曲輪に向かう途中で右方向に進むと善福寺曲輪がある。それらしき道を進むが夏草が生い茂り、足元がおぼつかなく諦める。
北条氏信供養碑
蒲原〜由比〜興津にかけては、高い山地が駿河湾に突き出す地形になっている。平野部分が狭く東海道随一の難所とされる。蒲原城はこの東口にあり、平安時代末期〜南北朝時代に駿河国蒲原庄を領していた藤姓蒲原氏によって築城されたと云われている。藤姓蒲原氏は駿河今川氏初代・今川範国によって滅ぼされ、今川範国の三男・氏兼が蒲原氏を名乗ったと云われている。
天文6年(1537年)〜天文14年(1545年)河東の乱のときには、今川義元の家臣で遠江国引馬城主・飯尾乗連が守備している。甲相駿三国同盟期(1554年〜1567年)は、駿河の諸将が城番となっている。
三国同盟が崩壊すると、永禄11年(1568年)武田信玄は徳川家康と結んで駿河に侵攻する。駿府は陥落して今川氏真は遠江国・掛川城へと落ち延びる。このとき武田信玄は蒲原城を落とさずに駿府に侵攻したため、今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条幻庵の次男・北条氏信が蒲原城に入城した。
武田信玄は駿河から撤退、永禄12年(1569年)遠江国・掛川城の今川氏真を降伏させた徳川家康が駿府に入った。永禄12年(1569年)武田信玄は再び駿河へ侵攻、北条氏信 / 北条氏信の弟・北条長順 は戦死して蒲原城は落城する。武田信玄は城の改修を行い、小田原北条氏に対する防衛拠点とした。天正10年(1582年)織田・徳川連合軍に攻められ落城、廃城となったと云われている。
今川氏 / 武田氏 / 小田原北条氏 により改修を行なわれ、東西 / 南北 にそれぞれ550mのほどの城域となった。本曲輪の北東側に善福寺曲輪 / 南西側に二の曲輪と三の曲輪 があった。他のも多くの小曲輪を周囲に設置していたが、東名高速道路の建設により破壊された曲輪もある。
駿河国・吉川きっかわ
■城の種別

■築城者
入江経義(吉川経義)
■築城年
寿永2年(1183年)
吉川氏墳墓
寿永2年(1183年)藤原南家の支流・入江経義が駿河国吉川荘(現:静岡市清水区)の地頭となり、館を構えて吉川氏を称した。正治元年(1199年)吉川友兼が梶原景時追討で功を挙げ、播磨国福井荘(現:姫路市)を領する。承久3年(1221年)吉川経光が承久の乱で功を挙げ、安芸国大朝本荘(現:広島県北広島町)の地頭となった。正和2年(1313年)吉川経光は、本拠を駿河国吉河荘から安芸国大朝本荘へと変えた。元応元年(1319年)吉川経光は、嫡男・経高に安芸国大朝本荘(宗家) / 次男・経盛に播磨国福井荘(播磨吉川氏) / 三男・経茂に石見国津淵荘(石見吉川氏) / 五男・経時に駿河国吉川荘(駿河吉川氏) を配している。
吉川館は、能島八幡宮の南を流れる巴川から南の小糸製作所の間にあったと云われている。また東海道新幹線高架の南にある吉川東公園辺りとも云われている。東 / 西 / 南 に堀が設けられていたと云われ、吉川氏は約160年間この地を本拠地としていた。
吉川八幡神社鳥居 吉川八幡神社社殿 奉納鳥居

静岡鉄道・狐ヶ崎駅から南に進み、すぐに左折する。すぐの突き当りを左折して北に進み、歩行者専用の跨線橋で静岡鉄道 / JR東海道本線を越える。左方向に下り道なりに進むと、すぐ左手に吉川八幡神社がある。吉川八幡神社は吉川氏の氏神で吉川館の乾(北西)の方向に創建されたが、後に現在地に移された。
静岡鉄道・狐ヶ崎駅の南側を旧東海道が通り、周防国・岩国藩主が参勤交代のとき参詣した。吉川八幡神社の修繕 / 建て替え 等の費用は、ほとんど周防国・岩国藩が寄進したことが古文書に記されている。寛政元年(1789年)岩国藩七代藩主・吉川経倫が奉納した鳥居が保存されている。吉川一族の由来について刻まれている。
明治22年(1889年)東海道本線の建設に伴い線路が境内を貫通、境内の2/3が削られる。昭和20年(1945年)第二次世界大戦における米軍の焼夷弾攻撃で社殿は消失、昭和22年(1947年)住民の寄付により社殿が再建される。

吉川八幡神社から直線距離で北400mほどの新幹線高架下近くに吉川東公園がある。吉川館があったとも云われているところである。新幹線が通過しても、防音壁のため屋根しか見えない。
吉川東公園
吉川東公園から新幹線高架を潜り国道1号線を越えると、小糸製作所がある。吉川東公園から直線距離で北700mほどの巴川を渡ったところに能島八幡宮がある。吉川館は、能島八幡宮の南を流れる巴川から南の小糸製作所の間にあったと云われている。
能島八幡宮鳥居 能島八幡宮社殿
能島八幡宮から直線距離で南西200mほどのところに、清水吉川郵便局がある。風景印は、富士山 / 吉川八幡神社 / 吉川氏発祥旧跡碑 の図柄になっている。
清水吉川郵便局風景印
吉川氏発祥旧跡碑
吉川氏墳墓 吾妻鏡碑

清水吉川郵便局から西に進むと、すぐ右手に吉川氏墳墓がある。寿永2年(1183年)吉川経義が館を構えてから750年の昭和18年(1943年)に、吉川経義 / 吉川友兼 / 吉川朝経 / 吉川経光 の四代の墳墓を改葬したものである。吉川氏発祥旧跡碑 / 吾妻鏡碑 がある。

駿河国・沼津城(観潮城)
■城の種別
平山城
■築城者
水野忠友
■築城年
安永6年(1777年)
沼津城本丸址碑
JR東海道本線・沼津駅から52号線を南へ、大手町交差点の南東側に本丸跡の中央公園がある。
[交通]JR東海道本線・沼津駅-(徒歩10分)-中央公園

永禄12年(1569年)甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻、駿河・伊豆国境付近が緊張した際に北条氏により砦が築かれたのが始まり。天正7年(1579年)武田勝頼が跡地に三枚橋(さんまいばし)城を築城する。天正18年(1590年)津軽為信は、小田原征伐で東下する途上の豊臣秀吉にこの城で謁見し所領を安堵される。慶長6年(1601年)大久保治右衛門忠佐が城主となる。慶長18年(1613年)死去後に大久保家は断絶、慶長19年(1614年)廃城となる。中央公園の沼津城本丸址周囲の石は、付近で工事の際に発見された三枚橋城の石垣に使われていたもの。安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に入り、三枚橋城跡地に築城。水野家8代の5万石の城下町として幕末を迎える。明治6年(1873年)の廃城令前に破却された。城郭は失われ、本丸跡の中央公園に沼津城本丸址碑がある。沼津市岡宮・光長寺辻之坊山門は、城門を移築したものと云われている。

駿河国・興国寺城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城年
文明年間(1469年 〜1487年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
本丸跡
JR東海道本線・原駅から北へ、原駅入口交差点を右折して旧東海道を東へ進む。原交番東交差点を左折して北へ進む。しばらくすると、突き当りに興国寺城跡がある。興国寺を鳥谷に移転させ、その跡に築城したことに由来すると云われている。
[交通]JR東海道本線・原駅-(徒歩30分)- 興国寺城跡
本丸跡に安政4年(1857年)創建の穂見神社、背後に天守台がある。
穂見神社 穂見神社背後の天守台
石脇城に在城していた伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、今川氏の家督争いの活躍により長享元年(1487年)興国寺城を与えられる。延徳5年(1491年)堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆国の領主となり韮山城に移る。この後駿東郡の地は、今川氏 / 武田氏 / 北条氏 が奪い合うことになる。天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、徳川家康が竹谷松平玄蕃允清宗を配する。天正18年(1590年)家康の関東入封後は、中村一氏が在城する。関ヶ原の戦い後は天野康景が1万石で入封するが、改易となり慶長12年(1607年)廃城となる。
駿河国・丸子まりこ
■城の種別
山城
■築城者
斎藤安元
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
■主な遺構
曲輪 / 土塁 / 堀
本丸後
旧東海道・丸子宿の丁子屋から北西へ進む。Y字路を左へ、1号線を歩道橋で越える。右手に吐月峰入口バス停(静岡方面)がある。1号線を西へ進み、すぐの駿府匠宿入口交差点を右折する。すぐ左手の津島神社に丸子城案内板がある。5分ほどすると丸子城入口標識があり、左折して険しい山道を登る。15分ほどすると、丸子稲荷神社奥宮と丸子城案内板がある。土橋跡〜大手曲輪跡〜北曲輪跡〜二の曲輪跡〜堀切〜枡形虎口跡〜一の曲輪跡〜本丸跡 と進む。本丸跡から急坂を下ると、誓願寺に至る。5分ほどの1号線に、二軒家バス停(静岡方面)がある。歴史的に北城と南城に分けられ、北城は応永年間(1394年〜1427年)に駿河国守護・今川家の家臣・斎藤安元によって築城された。宇津谷城 / 鞠子城 の別名がある。南城は、今川氏親が文明年間(1469年〜1488年)の終わり頃に城域を拡大した。三角(みかど)城 / 赤目ヶ谷砦の 別名がある。南城本丸から北城主郭間の西側斜面には、南北に長大な空堀が設けられている。今川義忠が文明8年(1476年)に戦死、家督争いが起きる。その際、龍王丸(後の今川氏親)は丸子城で暮らしていた。永禄11年(1568年)武田信玄が駿河に侵攻、丸子城を掌握する。天正9年(1581年)高天神城落城前に、放棄される。以降は徳川家康に属したが、天正18年(1590年)の関東移封に伴い廃城となった。
[交通]吐月峰入口バス停-(徒歩25分)-丸子稲荷神社奥宮-(徒歩15分)-本丸跡-(徒歩20分)-誓願寺-(徒歩5分)-二軒家バス停
津島神社 丸子稲荷神社奥宮 誓願寺
誓願寺は、建久年間(1190年〜1199年)源頼朝の創建。天文年間(1532年〜1555年)戦火により類焼したが、永禄11年(1568年)武田信玄により再建された。大阪冬の陣の発端となった事件を家康公に弁明した豊臣家の家臣、片桐且元の墓がある。
駿河国・田中城(亀甲城 / 亀井城 / 徳之一色城)
■城の種別
平城
■築城者
今川氏
■築城年
天文6年(1537年)
■主な遺構
本丸櫓 / 石垣 / 堀
不浄門が旭傳院に移築され現存する。
本丸櫓
JR西焼津駅より北へ、突き当りの交差点を右折する。豊田交差点を左折して、224号線を北西へ進む。東名高速道路を潜り、瀬戸川を渡る。十字路の右手に旭傳院の標識があり、右折すると旭傳院がある。224号線に戻り、北西へ進む。六間川の手前を右折すると、突き当りに田中城下屋敷がある。224号線に戻り道なりに進むと、西益津小学校校門前に田中城本丸跡標柱がある。道なりに進むと、大手交差点で1号線と交差する。右折するとすぐ右手に、元亀年間(1570年〜1573年)創建の田中神社がある。田中城本丸に鎮座、明治23年(1890年)移転する。大手交差点を直進すると、旧東海道と交差する。円形輪郭式縄張の城で、三重に堀が巡らされている。二の丸と三の丸に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田流城郭の特徴を示している。武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要になった城。徳川家康の死因とも云われている鯛の天ぷらを食した場所がこの田中城である。本丸・二の丸跡に西益津小学校 / 三の丸跡に西益津中学校があり、周囲も宅地化されいる。二の丸・三の丸の堀の一部 / 三の丸平島口付近に土塁 / 虎口の石垣が残る。田中城下屋敷に、本丸櫓や米倉などが移築されている。本丸櫓は明治4年(1871年)旗本に払い下げられ、移築して住居として利用されてきた。昭和60年(1985年)寄贈され、田中城下屋敷に移築される。旭伝院に不浄門が移築され現存するが、城内屋敷の門とも云われている。
[交通]JR西焼津駅-(徒歩/25分)-田中城下屋敷
田中城本丸跡標柱 旭伝院山門 田中神社