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伊豆国・山中城
■城の種別
山城
■築城者
北条氏康
■築城年
永禄年間(1558年〜1570年)
■遺構
曲輪 / 堀 / 土塁
三の丸・二の丸虎口間
2009年に旧東海道・元箱根-(約22km)-三島駅を歩いている。このときは時間の関係で、街道から近い駒形神社辺りしか行っていない。駒形神社は山中城の本丸に、守護神として創建された。徒歩では、三島駅から3時間ほど掛かる。2021年は、三島駅からバスで往復する。
[交通]JR東海道貧賤・三島駅-(バス30分)-山中城バス停
東海バス みしまるきっぷ

永禄年間(1558年 〜1570年)小田原北条氏3代・北条氏康により築城される。本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、湯坂城 / 鷹ノ巣城 / 宮城野城 / 韮山城 / 進士城 / 塔之峰城 / 浜居場城 / 新庄城 / 足柄城 とともに箱根十城と呼ばれる。城は旧東海道を取り込む様に築城されている。
天正18年(1590年)小田原征伐で、豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃する。山中城の守備は、城主・松田康長 / 松田康長の弟・松田康郷 / 武蔵笹下城主・間宮康俊 / 上野箕輪城主・多米長定 の4000人だったと云われている。抗戦するも戦力差は甚だしく、僅か半日で落城する。松田康長 / 松田康郷 / 間宮康俊 / 多米長定 を始め城兵の多くが討死した。豊臣秀次軍も一柳直末が討死するなど、多くの戦死者を出した。小田原北条氏滅亡より廃城となる。

三の丸堀 架橋 / 二の丸虎口 西の丸
西の丸畝堀 障子堀 溜池跡
北の丸 北の丸・本丸間の架橋 本丸跡
天守櫓跡 駒形諏訪神社 駒形諏訪神社鳥居
天正18年(1590年)小田原北条氏滅亡より廃城となったため、小田原北条氏独特の城郭の構造を残している。堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛り土して芝を張って保護している。このため、畝堀や障子堀の構造が解り易くなっている。令和元年(2019年)10月の台風19号の影響で崩落しているところ / 通行止めになっているところ があった。保護していた盛り土が流れ出したが、遺構自体には被害はないとのこと。台風から1年3ヶ月ほど経つが、重機が入りずらく復旧は大変な様である。
山中の町並みを三島方向に進むと、右手に宋閑寺がある。山中城三の丸跡だったところで、元和6年(1620年)間宮康俊の娘・お久の方によって創建された。お久の方は天正18年(1590年)小田原征伐後に徳川家康の側室となり、娘・松姫を産んだ。 山中城主・松田康長 / 松田康郷 / 副将・間宮康俊 /上野箕輪城主・多米長定 / 豊臣秀次軍・一柳直末 の墓がある。
宋閑寺

伊豆国・下田城(鵜島うしま城)

■城の種別
海城
■築城者
小田原北条氏
■築城年
天正16年(1588年)
■主な遺構
空掘 / 土塁 / 郭
天守台跡
往路乗車の伊豆急2100系 下田柿崎郵便局風景印 下田市マンホール

伊豆急下田駅から南に進み、すぐの135号線を左折して南西に進む。20分ほどの柿崎交差点を右方向に進む。すぐ右手に下田柿崎郵便局がある。風景印は、安政元年(1854年)黒船に乗船して密航を企てた吉田松陰銅像 / 黒船 / 米国領事館跡・玉泉寺 の図柄になっている。下田市マンホールは、黒船の図柄になっている。

柿崎神社 なまこ壁民家 玉泉寺山門
玉泉寺本堂 記念英文碑 米国大統領来訪記念碑

下田柿崎郵便局からすぐ左手に柿崎神社 / すぐ左手に玉泉寺(ぎょくせんじ) と続く。本堂は嘉永元年(1848年)の建立。嘉永7年(1854年)日米和親条約の締結により下田が開港される。安政3年(1856年)タウンゼント・ハリス総領事が着任、日本最初の米国総領事館が開設され安政6年(1859年)迄まで使用された。境内にハリス記念館 / 昭和2年(1927年)造立の米国総領事タウンゼント・ハリス記念英文碑 / 昭和54年(1979年)第39代アメリカ合衆国大統領・ジミー・カーター来訪記念碑 がある。

港橋からの下田港 下田郵便局風景印

柿崎交差点から135号線を西に往路を戻る。10分ほどのY字路を左に進み、すぐに稲生沢川に架かる港橋を渡る。橋詰の十字路の次にあるT字路を左折して南に進む。すぐの突き当りを右折、すぐに左折して南に進む。5分足らずの右手に、下田郵便局がある。風景印は、黒船 / 下田港 の図柄になっている。

下田郵便局から南に進む。5分ほどすると平滑川がある。橋の手前を左折して平滑川沿いに東に進む。すぐに平滑川がL字に北に変わる左手に、1829年製の30ポンドカロネード砲がある。スコットランドのカロン社で作られた近距離用の前装式砲。1776年に開発され、1860年代頃まで使われた。

なまこ壁商家 30ポンドカロネード砲
すぐに平滑川を渡ると、突き当りのなまこ壁民家脇に下田城標識がある。
なまこ壁民家

天正16年(1588年)小田原北条氏によって築城された。室町時代に築城され、小田原北条氏が改修したとも云われている。往時は鵜島と呼ばれる島で、北条水軍の拠点であった。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、脇坂安治 / 長曽我部元親 の水軍に攻められ落城する。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封になると、戸田忠次は五千石で下田城主となる。慶長6年(1601年)戸田忠次の長男・戸田尊次は三河国田原に移封となり、下田は幕府直轄の天領となる。江戸時代 初期に廃城になった。

下岡蓮杖碑 下岡蓮杖像 [参考]下岡蓮杖墓

下田城標識から5分足らずの右手に、下岡蓮杖(しもおか れんじょう)碑 / 下岡蓮杖像 がある。下岡蓮杖は、 文政6年(1823年)伊豆下田の回船判問屋・桜田家の三男として生まれる。安政3年(1856年)下田で、オランダ人通訳のヒュースケンから写真術を学ぶ。新撰組局長・近藤勇の写真は、下岡蓮杖が撮影したと云われている。上野彦馬とともに日本における商業写真の開祖と云われている。蓮根の杖をいつも愛用していた事から、蓮杖と号する。大正3年(1914年)に92歳で亡くなり、ソメイヨシノ発祥の地と云われる染井霊園に下岡蓮杖の墓がある。

すぐの開国広場に、昭和28年(1953年)下田開港百年を記念して造立された開国記念碑 / 昭和54年(1979年)第39代アメリカ合衆国大統領・ジミー・カーターの下田来訪記念碑 / がある。
開国記念碑 下田来訪記念碑
下田港眺望 東屋
鵜島城址碑
天守台跡 天守台跡

開国広場からすぐ右手に、東屋 / 手前に「東宮殿下御行所啓跡」石柱と「三笠宮殿下御手植石柱」 がある。すぐ左手に鵜島城址碑 / 小高いところが天守台と云われる郭跡 がある。

下田城跡石柱 下田港 ペリー上陸の碑
下田港側に下ると、海沿いの117号線に下田城跡石柱がある。117号線を西に進むと、すぐ右手に日本最初の開港地案内板 / ペリー上陸の碑 がある。
明治42年築の骨董店&喫茶 大正3年築のギャラリー&喫茶 お休み処

117号線を西に進み、すぐに平滑川を渡り左折する。左手に1829年製の30ポンドカロネード砲があり、突き当りを左折して平滑川沿いの道を進む。ペリー提督が了仙寺で日米下田条約締結の為に行進した道と云われ、ペリーロードの名がある。下田公園辺りから了仙寺までは、古い橋が架かり平滑川沿いに趣きある建物が続く。

すぐに標識があり左折して南に進むと、長楽寺がある。嘉永7年(1854年)日露和親条約の調印 / 安政2年(1855年)日米和親条約批准書の交換 が行われたところ。境内高台の梵鐘は、下田港の船舶に時を知らせていた。戦時供出され、現在の鐘楼と梵鐘は、昭和51年(1976年)の再建。
長楽寺本堂 長楽寺鐘楼
平滑川沿い南側の小路 了仙寺山門 了仙寺本堂
平滑川沿い南側の小路を進むと、すぐ左手に寛文12年(1635年)創建の了仙寺がある。日米和親条約の付属条約である日米下田条約が締結されたところ。参道から境内にかけて数多くのアメリカジャスミンが植樹されており、ジャスミン寺の別名がある。
了仙寺から北に進むと、すぐ左手に欠乏所址がある。日米和親条約に基づいて下田が開港された後、入港してくる外国船に薪 / 水 / 食料 などを提供していたところ。欠乏品が売買されることで、事実上の貿易が始まった。
欠乏所址
本覚寺 カノン砲 下田八幡神社神門
欠乏所址から北に進むと、すぐ左手に本覚寺 / すぐ左手の下田市民文化会館前に1837年製カノン砲 / すぐ左手に正応年間(1288年〜1292年)には既にあったと云われる古社・下田八幡神社 と続く。
下田八幡神社拝殿
下田八幡神社から/すぐ左手に安土桃山時代創建の宝福寺 / 境内の唐人お吉記念館(有料施設)にお吉の墓 がある。嘉永7年(1854年)日米和親交渉のとき、日本全権の本陣となり下田奉行所が置かれた。山内容堂に勝海舟が謁見した部屋が、当時のまま残されている。山内容堂が勝海舟にお酒を勧めたときに使われた朱の大杯(実物) / 当日のことを記した勝海舟の日記 などが展示されている。
宝福寺本堂 山内容堂・勝海舟謁見の寺
お吉は、天保12年(1841年)愛知県知多郡内海(うつみ)に舟大工・市兵衛の次女として生まれる。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸者となった。アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは慣れない暮らしから体調を崩してしまい、世話をする看護婦の斡旋を地元の役人に依頼したと云われている。お吉は17歳のとき奉公することになった。3ヶ月後にお吉は解雇され、再び芸者となった。お吉はその後流浪の果てに下田に戻り、髪結業や小料理屋・安直楼を開業するがいづれも廃業している。当時は外国人に対する偏見が厳しく、お吉は世間から蔑まれることになった。明治24年(1891年)豪雨の夜、稲生沢川に身を投げて自らの命を絶つ。宝福寺15代・竹岡大乗住職は、引き取り手のない遺体を手厚く葬った。
ハリスは敬虔な聖公会信徒だったこともあり、「唐人お吉」の名称は誤った風説かも知れない。まして死後も蔑まれている様で、心が痛む。
宝福寺山門 宝福寺本堂 伊勢大神宮
宝福寺から北に進むと、すぐ左手に観応元年(1350年)創建の海善寺 / すぐ左手に伊勢大神宮 と続く。海善寺は文久3年(1863年)14代将軍・徳川家茂が翔鶴丸で上洛の途中、西風に阻まれて宿泊したと云われている。
伊勢大神宮の道を挟んだ反対側に、「新田御陣屋跡」石柱がある。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封になると、戸田忠次は五千石で下田領主となる。慶長6年(1601年)戸田忠次長男・戸田尊次は三河国田原に移封となり、下田は幕府直轄の天領地となり下田町奉行が置かれた。元禄4年(1691年)三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて地方事務を扱った。陣屋詰の手代は常勤となり代々片岡氏が世襲、新田御陣屋と呼んだ。なお下田街道は、三嶋大社を起点として天城を越えて下田に至る。終点は、二丁目の駿河銀行下田支店跡地辺り / 新田御陣屋跡地辺り の説がある。
新田御陣屋跡石柱
復路乗車の伊豆急8000系 留置線のJR251系 乗車券

伊勢大神宮から北に進み、すぐの中島橋交差点を左折すると、すぐ右手に伊豆急下田駅がある。

伊豆国・堀越公方館跡 / 北条館跡 / 韮山城 / 韮山代官屋敷
伊豆箱根鉄道・韮山駅から北へ、すぐの133号線を左折して西へ進む。すぐ左手に隣光院 / 正長元年(1428年)創建と云われている八坂神社 と続く。
隣光院 八坂神社
八坂神社交差点を左折して136号線(下田街道)を南へ進む。5分ほどすると、右手に正応2年(1289年)北条正宗によって創建された成福寺がある。
成福寺
すぐのJA伊豆の国北条支店のあるT字路交差点を右折すると、左手に案内板がある。すぐの十字路を左折すると、すぐ右手に光照寺がある。北条時政が源頼朝のために建てた宿館があったところと云われている。願成就院が隆盛の頃には、浄土庭園だったところとも云われている。
光照寺
政子産湯の井戸石標 政子産湯の井戸
十字路まで戻り西へ進む。すぐのT字路南東側に、東急グループ・五島慶太(ごとう けいた)造立の「政子産湯の井戸」石標がある。T字路南西側に「北条政子産湯の井戸」 /「史跡・北条氏邸跡(円成寺跡)」 標識がある。左折するとすぐの突き当りに、北条政子産湯の井戸がある。北条氏邸跡の東側に位置している。近隣の人々の間に、この井戸に安産を願うという信仰もあった。現在も湧き出ているが、飲料はできない。
伝・堀越御所跡
T字路まで戻り西へ進むと、すぐ右手に伝・堀越御所跡がある。室町幕府8代将軍・足利義政は対立する古河公方・足利成氏に対抗、長禄2年(1458年)足利政知を鎌倉公方とした。鎌倉に入ることが出来ずに、伊豆堀越に留まることになった。初めは国清寺を陣所としたが、長禄4年(1460年)に焼き討ちされた。伝・堀越御所跡はその後に造営されたところで、延徳5年(1491年)に伊勢宗瑞(そうずい)に攻め滅ぼされるまで続いた。伊勢宗瑞の通称は伊勢新九郎、 俗に北条早雲で知られている。北条を名乗ったのは、伊勢宗瑞の後を継いだ息子の氏綱からである。
[参考]
古河公方の分家筋にあたる足利義明は、本家と覇権を争う様になった。下総国。千葉郡小弓城(現:千葉市中央区と緑区の辺り)が本拠地だったため、小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた。古河公方家と小弓公方家は、小田原北条氏や千葉氏との戦によって衰退していた。名門家系であったことから、豊臣秀吉に再興を許された。小弓公方家の足利国朝に対して古河公方家跡取の足利氏姫を娶ることを奨め、下野国喜連川で400貫の所領を与えた。江戸時代には5000石の喜連川藩となった。徳川家康は名家足利家として10万石の格式の大名として遇し、参勤を免除した。明治に喜連川氏は足利姓に復している。
北条氏邸跡
伝・堀越御所跡からすぐに、狩野川沿いの道に突き当たる。左折すると、すぐ左手に北条氏邸跡(円成寺跡)がある。調査中のため立ち入ることはできない。平安時代〜鎌倉時代の北条氏居館跡である。元弘3年 / 正慶2年(1333年)東勝寺合戦で鎌倉幕府は滅亡、北条一族や家臣らとともに自刃した。鎌倉幕府14代執権・北条高時の母・覚海円成は、一族の菩提を弔うため館跡に円成寺を創建した。堀越御所造営のとき円成寺は接収され、寺域は縮小されその後に廃寺となった。
北条氏邸跡
願成就院山門 願成就院大御堂 願成就院本堂
北条時政の墓 守山八幡宮拝殿 守山八幡宮本殿
136号線(下田街道)まで戻り、南へ進む。すぐの交差点を越えると、願成就院の標識があり右折する。すぐ左手に文治5年(1189年)創建の願成就院 / すぐの突き当りに大化3年(647年)創建の守山八幡宮 がある。願成就院は北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権・北条時政によって創建され、北条時政の墓がある。大御堂にある運慶作の仏像5躯は国宝。大御堂の左手にある茅葺の本堂は、寛政元年(1789年)の建立。守山八幡宮は、治承4年(1180年)源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵したところ。長い階段を登ると、寛永9年(1632年)久能城主・榊原照久によって建立された本殿がある。
136号線(下田街道)まで戻り、南へ進む。すぐ右手に、鎌倉時代に武田信光が創建した信光寺がある。武田信光から15代目が武田信玄になる。
信光寺
伊豆の国市(旧韮山町)マンホール
韮山反射炉 韮山反射炉 / 江川英龍銅像
信光寺から15分ほどの反射炉入口交差点を左折して、東へ進む。10分ほどのT字路に標識があり右折すると、すぐの突き当りに韮山反射炉がある。ユネスコの世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に含まれている。 欧米諸国の開国要請に対抗して江戸を守るために、品川沖に台場が造られた。据える大砲を鋳造するため、安政4年(1857年)に完成した金属溶解炉。元治元年(1864年)使用中止されるまで、大小の大砲数百門を鋳造した。建設を建議した韮山代官・江川英龍の銅像がある。伊豆の国市(旧韮山町)マンホールは、富士山 / 韮山反射炉 / 特産の苺 の図柄になっている。
伊豆国・韮山城
■城の種別
平山城
■築城者
外山豊前守
■築城年
文明年間(1469年〜1486年)
■主な遺構
水堀 / 土塁
韮山城本丸
熊野神社 本丸跡から煙硝曲輪方向 城池親水公園
T字路まで戻り、136号線を北へ進む。20分ほどすると、韮山城跡 / 城地親水公園 / 江川邸 の標識があり、右折する。標識に従って進むと、熊野神社を経由して本丸跡に行ける。文明年間(1469年〜1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が築城したのが始まりと云われている。延徳5年(1491年)堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(そうずい)によって本拠地として本格的に改修された。伊勢宗瑞の通称は伊勢新九郎、 俗に北条早雲で知られている。北条を名乗ったのは、伊勢宗瑞の後を継いだ息子の氏綱からである。韮山高校と城池の間の南北に長い丘に築かれて、館は韮山高校にあったと云われている。伊勢宗瑞はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進めた。相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。以降も 小田原城を本拠として関東を支配する北条氏の重要拠点だった。天正18年(1590年)小田原征伐では、豊臣秀次に攻撃される。北条氏康の四男・北条氏規が籠城、約百日間も持ち堪えて開城した。関東に入った徳川家康の家臣・内藤信成が居城とするが、慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。
韮山代官所表門 韮山代官所主屋 韮山代官所書院
韮山反射炉から韮山城に向かう途中から江川邸の標識が多く、誘導される様に立ち寄る。江戸時代東国の幕府直轄領を支配するために韮山代官所が設置された。慶長元年(1596年)江川英長が伊豆代官職に任命されたのが始まりとされる。韮山代官所は、支配地域は伊豆国 / 駿河国 / 相模国 / 武蔵国に及び、幕末には甲斐国も管轄していた。伊豆諸島を管轄下に置いたこともある。江川邸(有料施設)は韮山代官屋敷で、主屋 / 書院 / 仏間 / 蔵 / 元禄9年(1659年)建立の表門 / 塀 / 神社 が、重文になっている。
韮山代官屋敷だけのことで、重文になっているとしか思えない。1600年頃に建てられたと云われる主屋は、茅葺きが銅板葺きになっている。書院の屋根は茅葺きであるが、昭和初期の玄関の様に改造されている。滑稽なのは茅葺き屋根には似合わない波打ちガラス窓である。書院には近づけず、主屋の廊下から見るだけになる。この程度で500円も高い。
地方には重文でないが、本陣跡などこれ以上の建物が数多く存在する。 願成就院にあった寛政元年(1789年)の建立の茅葺の本堂の方が、格調高く思える。
江川邸東側の道を北へ進む。5分ほどの交差点を左折して道なりに西へ進む。10分ほどすると、右手に韮山郵便局がある。風景印は、韮山反射炉 / 富士山 / 特産の苺 / 温泉 の図柄になっている。5分ほどすると伊豆箱根鉄道の線路んを渡り 左折すると伊豆箱根鉄道・韮山駅がある。
韮山郵便局風景印