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羽後国・久保田城(矢留城 / 葛根城)
■城の種別
平山城
■築城者
佐竹義宣
■築城年
慶長9年(1604年)
■主な遺構
土塁 / 堀 / 御物頭御番所
■主な再建造物
本丸表門 / 本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)
本丸表門
冬景色は2010年12月 / 以外は2022年 9月 の画像
秋田駅トピコ郵便局風景印 蓮で覆われた大手門の堀 穴門の堀

JR秋田駅に隣接して、秋田駅トピコ郵便局がある。風景印は、秋田竿燈まつり / JR秋田駅 / 秋田新幹線こまち の図柄になっている。JR秋田駅西口より26号線西へ進みすぐの久保田町交差点を過ぎると、右手に大手門の堀が見えてくる。すぐの千秋公園入口交差点を右折して穴門の堀を左に見て北に進むと千秋公園に入る。
[交通]JR秋田駅-(徒歩10分)-千秋公園入口交差点

安東氏(秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が矢留ノ城を築城したのが始まりと云われている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)常陸国54万石から出羽国秋田郡20万石に減転封になる。 佐竹氏は源義光の孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着、佐竹氏を称したのに始まる。
出羽国湊5万石・秋田実季の居城であった湊城に入城するが、平城で防衛に不向きで54万石規模の家臣団を抱えて手狭であった。慶長9年(1604年)窪田城を本城として湊城を破却した。
久保田城跡石柱
雄物川の支流である旭川の左岸にある神明山に築かれた。僅かにある石垣も土塁を盛られ、ほとんどが土塁であった。天守はなかったが、8基の櫓があった。
窪田城から久保田城の改称時期は寛永10年(1633年)〜正保2年(1645年)頃と云われている。
黒門跡 二の丸跡 本丸跡への石段

明治13年(1880年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失、市街再建の過程で堀の多くは埋め立てられた。久保田城本丸 / 二の丸 は千秋公園となっている。平成元年(1989年)本丸新兵具隅櫓(御隅櫓) / 平成13年(2001年) 本丸表門 が復元されている。

帯曲輪門跡 御隅櫓
本丸跡に常陸国・佐竹義昌が石清水八幡宮を太田城内に勧請したのが始まりの八幡秋田神社 / 久保田藩(秋田藩)最後(12代)の藩主・佐竹義堯(よしたか)銅像 がある。
八幡秋田神社 佐竹義堯銅像

久保田町交差点から南に進み、中央通りとの交差点の次を左折すると、すぐ左手に秋田駅前郵便局がある。風景印は、秋田竿燈まつり / 大平山 / 蕗のとう 図柄になっている。

秋田駅前郵便局風景印
羽後国・秋田城
■城の種別
古代城柵
■築城者
大和朝廷
■築城年
天平5年(733年)
■主な遺構
政庁跡 / 外郭 / トイレ建物跡
■主な再建造物
政庁東門 / 外郭東門 / 築地塀
政庁東門 / 築地塀

秋田駅前バスプールから将軍野線 / 寺内経由土崎線 に乗車、秋田城跡歴史資料館前バス停で降車する。 バス停は政庁跡を分断する道路にあり、西側の秋田城跡歴史資料館建物側に停車する。
[交通]秋田駅前バスプール-(約20分)-秋田城跡歴史資料館前

画像は、秋田駅行バス停から撮影した連絡橋。左手:政庁西門跡 / 秋田城跡歴史資料館 側、右手は政庁跡 / 政庁東門側になる。

連絡橋

秋田城の築城は天平5年(733年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことに遡り、天平宝字4年(760年)頃に秋田城に改称されたと云われている。
秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置している。律令国家による統治の拠点 / 津軽・渡島の蝦夷との交流 / 渤海
(ぼっかい)国との外交の拠点 として重要な位置にあった。渤海国は698年〜926年)に、現:中国東北部朝鮮半島北部〜現:ロシアの沿海地方にかけて存在した国家。

政庁西門跡 / 連絡橋 政庁 政庁跡模型
政庁東門 場内東西大路 外郭東門
外郭東門築地塀 秋田県護国神社神門 秋田県護国神社社殿
秋田城は秋田平野の西部、雄物川河口近くの標高40mほどの丘陵にある。構造は築地塀などで囲われた外郭と、政庁を囲う内郭との構造になっている。外郭の東西南北に城門が配置されていた。政庁の配置は、正殿の南面に広場を設け左右に脇殿が配置されていた。
西側に平成28年(2016年)開館の秋田城跡歴史資料館ー政庁西門跡ー政庁跡を分断する道ー政庁跡ー政庁東門ー場内東西大路ー道路で分断ー外郭東門の配置になっており、政庁跡北側に明治2年(1869年)創建の秋田県護国神社がある。
平成10年(1998年)に外郭東門および附設の築地塀(延長45m)が復元、政庁東門から外郭東門に至る幅12mの東大路が版築の層を重ねる手法で復元された。
延暦21年(802年)朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利する。延暦23年(804年)秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたと云われている。秋田城は出羽北部の軍事 / 行政 の拠点として存続した。
天長7年(830年)出羽大地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた。この時の被害報告から城に附属して四天王寺 / 四王堂 といった宗教施設が存在したことが解っている。
元慶2年(878年)夷俘(いふ)の反乱で秋田城が占拠され、城が焼かれた。軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では警備が手薄になっていたと云われている。出羽権守として派遣された藤原保則は鎮圧にあたり、元慶3年(879年)夷俘の反乱は終結して鎮圧軍は解散した。
天慶2年(939年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと云われている。
出羽国・亀ヶ崎城(東禅寺城 / 酒田城)
■城の種別
平城
■築城者
大宝寺(武藤)氏
■築城年
文明10年(1478年)
■主な遺構
土塁
三の丸南側にあった搦手門が、円通寺に移築現存している。
酒田東高と八幡神社の間にある土塁
JR羽越本線・酒田駅前の交差点から、41号線を南西に進む。すぐの十字路を右折すると、すぐ左手に酒田駅前郵便局がある。風景印は、本間美術館本館 / 庭園・鶴舞園 の図柄になっている。
酒田駅前郵便局風景印

十字路まで戻り、41号線を南西に進む。すぐの御成町交差点を左折して南に進む。5分ほどの一番町交差点手前左手に、酒田相生町郵便局がある。風景印は、市立資料館 / 防災の塔・はばたき / 市花・トビシマカンゾウ の図柄になっている。

酒田相生町郵便局風景印

一番町交差点から5分ほどの交差点を左折する。すぐの突き当り手前を右折、すぐに道なりに左に折れる。すぐの突き当りを右折して南西に進み、新井田川を渡る。突き当たりに酒田東高 / 左折すると八幡神社 がある。酒田東高と八幡神社の間に土塁が残っている。突き当りを右折して道なりに進むと、校門前に案内板がある。
[交通]JR羽越本線・酒田駅-(徒歩15分)-酒田東高

八幡神社

尾浦城の大宝寺(武藤)義氏は、支族である砂越城の砂越氏に対抗するために文明10年(1478年)東禅寺城を築城する。城主に任じられた前森蔵人は、東禅寺義長を名乗った。天正11年(1583年)東禅寺義長は山形城主・最上義光と結んで、尾浦城の武藤義氏を攻めて自害させた。家督を継いだ弟・武藤義興は最上氏への対抗策として、越後国の本庄繁長と結びつきを強める。天正15年(1587年)武藤義興は東禅寺義長によって尾浦城を攻められ自刃する。養子の武藤義勝は、実父・本庄繁長のもとへ逃れる。天正16年(1588年)上杉軍の支援を受けた本庄繁長は、武藤義勝を擁して庄内へ侵攻する。東禅寺義長は十五里ヶ原の戦いで敗れて討死する。武藤義勝は尾浦城に戻るが、天正19年(1591年)太閤検地に抵抗する一揆扇動の嫌疑で改易となる。東禅寺城には本庄繁長が入り、後に川村彦左衛門→甘粕景継→志田義秀と城代が置かれた。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦のとき、最上義光は志田義秀が立て籠もる東禅寺城を落城させる。関ヶ原合戦の後、庄内地方は最上氏の領地となる。志村光安が3万石で東禅寺城主となり、慶長8年(1603年)東禅寺城は亀ヶ崎城に改称された。
元和8年(1622年)3代藩主・最上義俊は改易となり、酒井忠勝が庄内藩13万8000石で入封、鶴ヶ岡城を居城とした。亀ヶ崎城は支城として存続、松平久恒が城代となった。以後も江戸時代を通じて城代が置かれ、明治元年(1868年)廃城となった。
酒田東高校の敷地が本丸跡と二の丸跡で、取り囲む様に三の丸が配されていた。酒田東高校の校門脇に案内板がある。二の丸跡と亀ヶ城八幡神社との間に北東から南西に伸びる土塁が残っている。

出羽国・塩越城(八十島城)

■城の種別
平城
■築城者
池田茂政
■築城年
貞治4年 / 正平20年(1365年)
■主な遺構
土塁
塩越城土塁
JR羽越本線・象潟駅から西に進む。すぐの象潟駅前交差点を右折して7号線を北へ進むと、5分足らずところに交差点がある。すぐの五差路を北西方向に、川沿いに進む。すぐの突き当りを左折して西に進むと、すぐ右手に文治2年(1187年)創建の熊野神社鳥居 / すぐ左手に塩越城案内板 がある。
[交通]JR羽越本線・象潟駅-(徒歩約10分)-塩越城跡
熊野神社鳥居 塩越城案内板
貞治4年 / 正平20年(1365年)築城以降、池田氏が代々この地を領する。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの後、最上義光の領地となるが引き続き池田氏が在城する。最上氏改易の後、元和9年(1623年)仁賀保挙誠が常陸国武田より1万石で入封、塩越城に入る。寛永元年(1624年)仁賀保挙誠が没すると、遺領は3人の子に分与され長男・仁賀保良俊が7千石で家督を継ぐ。寛政8年(1631年)仁賀保良俊が嫡子なく没すると改易となり、塩越城は廃城となった。城の遺構はほぼ壊滅しているが、本丸と見られる楕円形の高台が畑として残り周囲に土塁跡が残る。この南の高台にある畑が本丸跡とされる。
熊野神社は神明の森と呼ばれる小高い丘にあり、松尾芭蕉や菅江真澄らが訪れている。往時は鳥海山と九十九島が一望出来たと云われている。松尾芭蕉が奥の細道で訪れたときは熊野神社の祭りの日で、宿が女客でいっぱいだったため宿を替えたと云われている。河合曾良は「象潟や 料理何くふ 神祭」と詠んでいる。
熊野神社社殿
蚶満寺山門 蚶満寺本堂 蚶満寺鐘楼
塩越城跡から熊野神社鳥居方向に東へ進む。すぐの中橋を渡り道なりに進むと、7号線と斜めに交差する。交差点を東方向に進み、JR羽越本線の踏切を越える。すぐのT字路を左折して北に進むと、すぐにJR羽越本線沿いの道となる。すぐ右手に仁寿3年(853年)創建の蚶満寺(かんまんじ)境内が広がる。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られる。江戸中期の建立と云われる山門は、木造切妻造瓦葺の八脚門。
[交通]JR羽越本線・象潟駅-(徒歩約15分)-蚶満寺
蚶満寺境内からの眺望(左:駒留島) にかほ市象潟町マンホール

紀元前466年に鳥海山が噴火、山体崩壊により浅い海と多くの小島できた。やがて砂丘によって仕切られて潟湖となり、小島には松が生い茂り風光明媚な象潟の地形ができあがった。古来より歌枕の地として知られ、古今和歌集や新古今和歌集などにも登場する。江戸時代には、東の松島 / 西の象潟 と称された。松尾芭蕉は西行を偲んで訪れ、松尾芭蕉を偲んで与謝蕪村や小林一茶が訪れている俳人の巡礼地。
元禄2年(1689年)6月に松尾芭蕉が奥の細道で訪れ、九十九島
(つくもじま)と呼ばれた象潟の景観を絶賛している。芭蕉は中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んでいる。
文化元年(1804年)象潟地震で海底が隆起して陸地化した。現在も102の小島が丘となって水田地帯に残り、往時を偲ぶことができる。

701系交流電車 象潟駅スタンプ 秋田象潟郵便局風景印
蚶満寺境内から線路沿いに南に進み、JR羽越本線の踏切を渡る。701系交流電車が通過する。すぐに左折して7号線を南に進む。 象潟駅前交差点から5分ほどの左手に秋田象潟郵便局がある。風景印は、鳥海山 / 九十九島 / 小砂川海岸 の図柄になっている。
出羽国・新庄城(沼田城 / 鵜沼城)
■城の種別
平城
■築城者
戸沢政盛
■築城年
寛永2年(1625年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀
堀と本丸表御門石垣
JR新庄駅から西へ32号線を進むと、新庄城がある。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を離脱したため、攻撃を受けて城と城下町は大半が焼失する。本丸跡に戸沢神社 / 護国神社 / 稲荷神社 / 天満神社がある。寛永5年(1628年)創建の天満神社社殿は、藩政時代から現存する寛文8年(1668年)に再建されたもの。
[交通]JR新庄駅-(徒歩/約25分)-新庄城
出羽国・山形城(霞城 / 吉字城)
■城の種別
平城
■築城者
斯波兼頼
■築城年
正平11年(1356年)
■主な遺構
大手南門が万松寺に、移築され現存する。八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものと云われている。
■主な再建造物
東大手門 / 多聞櫓
多聞櫓・最上義光像
JR山形駅から西へ、直ぐに右折して北に進むと南門がある。城跡は霞城公園になっている。
[交通]JR山形駅-(徒歩/約10分)-山形城南門
出羽国・鶴ヶ岡つるがおか城(大宝寺城 / 大梵寺城)
■城の種別
平城
■築城者
大泉氏
■築城年
鎌倉時代(1185年頃〜1333年)初期
■主な遺構
土塁 / 石垣 / 堀 / 藩校 / 庭園
山王日枝神社 田沢稲舟銅像 「蝉しぐれ」ゆかりの地案内板
JR羽越本線・鶴岡駅より南へ進む。10分ほどすると、右手に鶴岡で一番古い社と云われる山王日枝神社のある交差点を右折する。5分ほどの内川に架かる橋を渡り、内川沿いの道を進む。鶴岡市出身の小説家・田沢稲舟(たざわ いなぶね)銅像 / 藤沢周平の代表作「蝉しぐれ」ゆかりの地案内板 がある。5分ほどすると47号線と交差、右折して内川に架かる橋を渡り西へ進む。すぐ左手に致道館、すぐの交差点を越えた右手に鶴岡公園がある。
[交通]JR羽越本線・鶴岡駅-(徒歩約30分)-鶴岡公園
築城当時は大宝寺城と呼ばれた鶴ヶ岡城は、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭・大泉氏が築城したと云われている。大泉氏はこの地に土着、武藤氏を名乗った。越後の上杉氏と手を組んだ武藤義氏は庄内地方の統一を果たすが、天正11年(1583年)謀反により自害に追い込まれる。庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となるが、天正16年(1588年)上杉景勝の支配地となる。天正18年(1590年)検地により一揆が起き、大宝寺城は落城する。鎮圧に当った直江兼続は大宝寺城の修復を行い、越後兵を常駐させた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は西軍に与したことにより会津120万石から米沢30万石に減封される。替わって山形城を本拠とする最上義光が庄内地方を支配、慶長8年(1603年)亀ヶ崎城と改称する。元和8年(1622年)3代・最上義俊はお家騒動(最上騒動)により改易となる。信濃国・松代城より譜代大名・酒井忠勝が庄内藩145万石として入封、明治維新まで続く。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加わり会津藩と共に最強硬派として官軍と戦った。明治4年(1871年)廃城となり、明治9年(1876年)城内の建築物は全て破却された。
荘内神社 大寶館
本丸跡に、明治10年(1877年)旧藩主を慕う人々 によって創建された荘内神社がある。本丸中門跡に、大正4年(1915年)大正天皇の即位を祝い建てられた大寶館がある。開館当初は物産陳列場、戦後は市立図書館として利用された。現在は、鶴岡出身著名人の資料館となっている。本丸内北門跡にある建物は鶴ヶ岡城の遺構ではないが、雰囲気がある。
本丸内北門跡
鶴岡公園南東側の三の丸跡に、文化2年(1805年)9代・酒井忠徳によって創設された庄内藩の藩校・致道館がある。鶴岡駅前通りにあったが、文化13年(1816年)に移された。明治6年(1873年)に廃校となる。入館料は無料。訪れた日は、毎週水曜日の休館日だった。
致道館
出羽国・米沢城(舞鶴城 / 松ヶ岬城)

■城の種別
平城
■築城者
長井時広
■築城年
暦仁元年(1238年)
■主な遺構
土塁 / 堀
本丸にあった上杉謙信を祀る御堂が、長命寺本堂として移築され現存する。

松が岬公園

JR米沢駅西口から232号線を西へ進むと、左手に松が岬公園がある。本丸跡に上杉神社がある。永禄10年(1567年)伊達正宗が誕生した城として知られている。慶長2年(1597年)120万石で上杉景勝が封じられ、直江兼続が米沢城主になる。関ヶ原の戦い後に30万石に減封され、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となった。
[交通]JR米沢駅-(徒歩/約20分)-松が岬公園
出羽国・上山城(月岡城)

■城の種別
平山城
■築城者
武衛義忠
■築城年
年(1535年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀
■主な再建造物
模儀天守

模儀天守
JRかみのやま温泉駅西口から北へ、169号線を左折する。13号線(羽州街道)を右折して北へ進むと、左手に月岡公園がある。応永年間(1394年〜1427年)初期に、里見満長が築城したのが始りと云われている。二の丸跡に模擬天守や月岡神社がある。
[交通]かみのやま温泉駅-(徒歩/約10分)-月岡公園