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壱岐国・勝本城
■城の種別
山城
■築城者
豊臣秀吉
■築城年
天正19年(1591年)
■主な遺構
石垣
本丸石垣
本丸登城口 土塁 城山稲荷神社
郷ノ浦フェリーターミナルから連絡バスに乗車する。郷ノ浦本町バス停で乗り換え、勝本行に乗車する。382号線の城山バス停から左へ進む。すぐのY字路を右方向に坂を登ると、城山公園がある。豊臣秀吉は朝鮮や中国への侵攻のため、天正19年(1591年)本陣の肥前名護屋城を築城する。名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に、兵站基地を築城する。壱岐市北側に位置している勝本城は、天正19年(1591年)夏から約4ヶ月の短期間で完成する。壱岐島の領主・松浦鎮信が主に築城にあたった。文禄・慶長の役を通じ利用されたが、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなり朝鮮から撤兵した後に取り壊された。本丸跡の石垣が残り、天正20年(1592年)創建の城山稲荷神社がある。本丸跡からは、勝本港 / 若宮島 / 辰の島 / 名烏島 などが見える。訪問時は暴風雨警報で対馬への船便が欠航になる天気で、けぶってよく見えない。
[交通]郷ノ浦フェリーターミナル-(バス)-郷ノ浦本町バス停-(バス)-城山バス停-(徒歩5分)-城山公園
河合曾良句碑 曾良280年忌記念碑 御柱
城山公園には、「ゆきゆきて たふれ伏すとも 萩の原」河合曾良句碑 / 平成元年(1989年)造立の曾良280年忌記念碑 / 御柱 がある。松尾芭蕉の奥の細道における奥州 / 北陸 の旅に同行した河合曾良(かわい そら)は宝永6年(1709年)幕府巡見使として九州を廻るが、宝永7年(1710年)壱岐で病に掛かる。対馬へ向かう一行と可須村風本(現:壱岐市勝本)で別れ、中藤家にて62歳で病死したと云われている。慶安2年(1649年)信濃国高島城下の下桑原村(現:長野県諏訪市)で生まれたことから、平成6年(1994年)生誕の地・諏訪市と終焉の地・旧勝本町は友好都市提携を結んでいる。御柱は、6年間の役目を終えた古御柱を諏訪市から譲り受けたもの。平成10年(1998年)から続き、既に4回目となっている。

河合曾良の墓には、城山公園からも行ける。郷ノ浦本町バスセンターで土道は雨で滑り易いとの情報で、382号線まで戻る。382号線を北へ進むと、すぐ左手に標識がある。道なりに進むと、左手の能満寺の中藤家墓地に墓がある。

河合曾良の墓
元文5年(1740年)没後30年を経て、故郷・諏訪の正願寺にも墓が造立された。
河合曾良の墓
バス停のある勝本公民館から、雨にけぶる勝本港沿いの道を北へ進む。勝本郵便局に向かう途中の左手に「河合曾良終焉之地」石柱がある。
勝本港 河合曾良終焉之地
舟子衆および永取家碑文 鯨供養塔 勝本浦最後の捕鯨家碑文
すぐ左手に、舟子衆および永取家碑文 / 鯨供養塔 / 勝本浦最後の捕鯨家碑文 / 「海上安全 大漁満載 祈願」碑 が並んでいる。玄界灘は紀州熊野灘に次いで鯨が多く、紀州熊野灘より大型の鯨が捕獲されていた。鯨は初冬になると、オホーツク海から日本海を通って南下する。早春になると、五島方面から北上する。壱岐は年2回の通り道になっており、紀州からも鯨を捕るために壱岐に来ていた。捕鯨は壱岐の七浦を潤すほどとなり、「くじら一本とれば七浦の猫まで肥るとか也」と云われた。壱岐の捕鯨は、元禄年間(1688〜1704年)〜享保年間(1716〜1736年)頃に最盛期を迎え、弘化年間(1844〜1848年)頃より捕獲数が激減した。明治30年(1897年)頃に壱岐の捕鯨は終わりを迎えた。
「海上安全 大漁満載 祈願」碑
町並み 町並み 香椎村道路元標
勝本港沿いの道の西側には、古い町並みが残る。勝本港沿いの道と古い町並みを東西に結ぶ道端に、香椎村道路元標がある。香椎村は昭和10年(1935年)勝本町となっている。
勝本郵便局風景印は、鬼凧 日本海に浮かぶ舟 / 辰の島にある断崖・蛇ヶ谷 の図柄になっている。
勝本郵便局風景印
対馬国・金石
■城の種別
平城
■築城者
宗将盛
■築城年
享禄元年(1528年)
■主な遺構
石垣 / 庭園
■主な再建造物
大手口櫓門
大手口櫓門
石垣 石垣 / 庭園 桟原城高麗門
対馬空港からバスに乗車する。厳原バス停の北側にある交差点を西へ進むと、右手に石垣 / 奥に大手口櫓門 が見えてくる。建立時には島分寺と言われた国分寺があったところで、享禄元年(1528年)宗氏14代・宗将盛が築いた金石屋形が始まり。朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したと云われている。寛文5年(1665年)に整備・拡張され、以降は金石城と言った。天守は築かれず、寛文9年(1669年)対馬府中藩3代藩主・宗義真によって造られた大手口櫓門を天守の代用としていた。文化14年(1817年)再建されたが、老朽化により大正8年(1919年)に解体された。現在の大手口櫓門は、平成2年(1990年)に木造で復元されたもの。延宝6年(1687年)桟原(さじきはら)城が築かれ、藩庁としての機能は移動した。桟原城は金石城の北東に位置、城跡は陸上自衛隊対馬駐屯地になっている。大手口櫓門の北東側にある県立対馬歴史民俗資料館付近に、桟原城高麗門がある。昭和62年(1987年)台風12号によって倒壊、平成元年(1987年)移築復元される。
[交通]厳原バス停-(徒歩5分)-金石城大手口櫓門
藩校日新館門 対馬府中藩家老・氏江家長屋門 氏江小路
陰陽石の魔除け石 武家屋敷石垣 石垣
藩校日新館門は、対馬府中藩主・宋氏中屋敷門を用いたもの。翔和45年(1970年)解体・保存していたものを、平成2年(1990年)から3ヶ年計画で始めた「城下町厳原拠整備事業」により復元された。対馬府中藩家老・氏江家屋敷跡には、長屋門と石垣が残っている。現在は、長崎県対馬支庁の庁舎敷地となっている。北側の氏江小路を進むと、陰陽石の魔除け石がある。桟原地区〜厳原地区には、武家屋敷などの石垣が数多く残っている。
金石城大手口櫓門南側の道を進むと、突き当りに万松院(有料施設)がある。元和元年(1615年)金石城の西峰に創建された松音寺を元和8年(1622年)に改称、正保4年(1647年)現在地に移転する。
万松院山門 万松院庫裏
百雁木 万松院の大スギ 宗氏歴代の墓所
万松院は宗氏の菩提寺で、広大な宗氏歴代の墓所がある。墓地への132段の石段は、百雁木(ひゃくがんぎ)と称されている。山門は創建当時のもの。本堂と庫裏は明治12年(1879年)建立であるが、本堂は工事中であった。
対馬や壱岐は、大宝元年(701年)の令制施行により“国”が“島”に改められた。天平13年(741年)聖武天皇により各国に建立された国分寺や国分尼寺は、島分寺(とうぶんじ) / 島分尼寺(とうぶんにじ)と言う。対馬島分寺は天安元年(857年)の変により炎上したと云われている。応仁2年(1468年)宗貞国によって復興に着手する。寛文5年(1665年)に移転、さらに天和3年(1683年)現在地に移転する。江戸時代、国分寺は朝鮮通信使来聘には客館として使われた。享保17年(1732年)焼失するが再建される。山門は対馬随一の四脚門で、文化4年(1807年)に建立されたもの。
対馬国分寺山門
対馬国・清水山
■城の種別
山城
■築城者
毛利高政
■築城年
天正19年(1591年)
■主な遺構
石垣
三の丸先端の石垣
三の丸石垣(二の丸側) 三の丸石垣 三の丸眺望
厳原バス停の北側にある交差点を西へ、県立対馬歴史民俗資料館右側の道を進む。ところどころに道標があり、迷うことはない。三の丸から左手方向に進むと、二の丸・本丸に至る。豊臣秀吉が朝鮮への出兵(文禄・慶長の役)のために、標高206mの清水山に築かれた山城。本陣の名護屋城から、朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に設けられた兵站基地。毛利高政によって築城されたと云われている。対馬府中藩初代藩主となった宗義智築城説もある。
[交通]厳原バス停-(徒歩30分)-清水山城三の丸