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播磨国・龍野城(霞城
■城の種別
平城城
■築城者
赤松村秀
■築城年
明応8年(1499年)
■主な遺構
石垣
■主な再建造物
御殿 / 模擬隅櫓 / 埋門 / 塀
本丸石垣
本龍野駅前郵便局風景印 龍野川原町郵便局風景印 古商家
JR姫新線・本竜野駅から14号線を西へ進む。すぐの駅前堂本交差点を左折すると、すぐ左手に本龍野駅前郵便局がある。風景印は、鶏篭山 / 揖保川 / 龍野城 / 赤とんぼ の図柄になっている。駅前堂本交差点まで戻り、14号線を西へ進む。5分ほどの富永西交差点を右折して179号線を北西方向に進む。5分足らずで揖保川に架かる龍野橋を渡る。龍野橋西詰交差点を左折すると、すぐ右手に龍野川原町郵便局がある。風景印は、鶏篭山 / 聚園亭 / 赤とんぼ の図柄になっている。童謡・赤とんぼは、作詞・三木露風 / 作曲・山田耕筰 による。三木露風は明治22年(1889年)龍野町で生まれた。龍野橋西詰交差点まで戻り、北西に道なりに進む。ここから先は城下町の面影を残す町並みになる。
すぐ右手に文明16年(1484年)蓮如の命により、播磨の国英賀に創建された文明道場が始まりの圓光寺がある。天正6年(1578年)豊臣秀吉の命により龍野に移転する。江戸時代に龍野御坊として播磨六坊になっている。宮本武蔵は圓光流の兵法を学び、二刀方式を加え圓明一刀流を編み出したと云われている。
圓光寺
古商家 古商家 古商家
すぐの突き当りを右折して北へ進む。5分足らずの突き当りを右折、すぐに左折する。すぐの突き当りにある龍野城跡は、桜が満開であった。明応8年(1499年)赤松政秀によって鶏籠山に築城された龍野城が始まりと云われている。山頂に本丸 / 南の尾根に二の丸 を配した山城であった。関ヶ原の戦いの功により慶長5年(1600年)播磨姫路52万石に封じられた池田輝政の頃に、南麓に主郭を移したと云われている。池田輝政は姫路城を居城とし、龍野城には城代を置いていた。
[交通] JR姫新線・本竜野駅-(徒歩約10分)-龍野橋西詰交差点-(徒歩約10分)-龍野城跡
龍野城跡
埋門 模擬隅櫓 御殿
万治元年(1658年)京極高和が丸亀藩に移封になったとき破却されたが、寛文12年(1672年)脇坂安政によって再建された。主に本丸の周囲に石垣が残のみである。御殿 / 模擬隅櫓 / 埋門 / 塀 が再建されている。東門が市内揖保川町浄栄寺の山門 / 大手門が市内揖保川町因念寺の山門 として移築され現存する。市内揖保川町光遍寺の山門 / 揖保郡太子町常全蓮光寺の山門 は、城門を移築したものと云われている。
赤松氏は、村秀→政秀→広貞→広英と続く。天正5年(1577年)織田信長の家臣・羽柴秀吉が播磨へ侵攻すると、戦わずに開城する。天正10年(1582年)赤松広英は羽柴秀吉に従って功を挙げ、但馬国竹田に封じられた。天正5年(1577年)石川光元の入封後は、慌ただしく城主は変わる。天正9年(1581年)蜂須賀正勝が入封→天正13年(1585年)福島正則が入封→天正15年(1587年)木下勝俊が入封→文禄3年(1594年)小出吉政が入封→文禄4年(1595年)豊臣政権蔵入地→慶長5年(1600年)池田輝政が入封して3代続く→元和35年(1617年)本多政朝が入封→寛永3年(1626年)小笠原長次が入封→寛永10年(1633年)岡部宣勝が入封→寛永14年(1637年)京極高和が入封→万治元年(1658年)天領が入封→寛文12年(1672年)脇坂安政が入封、10代続いて明治に至る。明治4年(1871年)廃城になる。
龍野城跡の南西側に、家老門や武家屋敷資料館がある。武家屋敷は、当時の二人扶持、御流格の武家が生活した住宅として貴重な遺構とされる。
家老門 武家屋敷資料館
摂津国・池田城
■城の種別
平山城(丘城)
■築城者
池田教依
■築城年
南北朝時代(1336年〜1392年)初期
■主な遺構
堀 / 井戸 / 土塁
■主な再建造物
模擬櫓台 / 模擬大手門
模擬櫓台

阪急宝塚線・池田駅から池田駅東口交差点を北へ進む。池田城山町交差点先を右折して小道を道なりに進むと、右手に池田城跡公園がある。室町時代から戦国時代にかけて、摂津守護・細川氏の家臣として旧手島郡(現在の池田市 / 豊中市 / 箕面市周辺)を治めていた豪族・池田氏の居城。京都 / 能勢 / 西宮を結ぶ交通の要衝地で、五月山南麓の丘陵地に築かれた。応仁の乱で文明元年(1469年)西軍・大内政弘の攻撃 / 永正4年(1507年)永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で、翌永正5年(1508年)反対勢力であった細川高国の攻撃 / 享禄4年(1531年)の大物崩れでも細川高国の攻撃 / 永禄11年(1568年)織田信長の攻撃 で池田城はたびたび落城している。池田知正のとき足利義昭に就いたため没落、後に家臣だった荒木村重の家臣になっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後に5000石に加増され、家は存続している。荒木村重の謀反から始まった戦いで、信長側は池田城に陣を張る。有岡城が落城した翌天正8年(1580年)廃城となる。
[交通]阪急宝塚線・池田駅-(徒歩20分)-池田城跡公園

摂津国・伊丹城(有岡城)
■城の種別
平城
■築城者
伊丹氏
■築城年
南北朝時代(1336年〜1392年)
■主な遺構
石垣 / 土塁
石垣

JR福知山線・伊丹駅の西側に伊丹城跡がある。城の東側を伊丹川が流れ、崖になっている。さらにその東側に駄六川と猪名川が流れ、天然の要害となっていた。天正6年(1578年)7月〜天正7年(1579年)11月の有岡城の戦いが知られている。織田信長に帰属していた荒木村重が、突然謀反を起こしたことに端を発する。また黒田孝高(如水)が約1年間投獄されていた事も知られている。閉じ込められていた場所は、陽が差し込みにくく湿気が多い場所であった。総攻撃の時に救い出されるが、膝は曲がったまま終生不具者となってしまった。孝高は嫡男・長政を織田信長に人質として差し出しており、信長は孝高が裏切ったとして羽柴秀吉に殺害をに命じる。竹中重治は密かに菩提山城に匿ったことにより、事なきを得ている。天正7年(1579年)11月に有岡城は落城、妻子や家来は尼崎七松で処刑される。村重は事前に脱出しており、秀吉の茶人となったと云われている。天正11年(1583年)に廃城になっている。
JR福知山線・伊丹駅-(すぐ)-伊丹城

摂津国・尼崎城(琴浦城 / 尼丘城)
■城の種別
平城
■築城者
戸田氏鉄
■築城年
元和3年(1617年)
■主な再建造物
石垣 / 土塀
石垣 / 土塀
阪神電鉄・尼崎駅西口から線路沿いに東へ、57号線と庄下川を越える歩道橋を渡る。道なりに進むと、右手の尼崎城址公園に復元された石垣と土塀が見える。近江国・膳所藩から移封した戸田氏鉄(うじかね)が築城する。永正16年(1519年)細川高国が築城した大物城を取り壊し、規模を拡大して築城したとも云われている。大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯にあり、直接船が横付けできた。明治6年(1873年)廃城令により。建物は一部を除き取り壊された。明治7年(1874年)本丸御殿の一部が菩提寺・深正院の本堂として移築されるが、戦災により焼失する。
阪神電鉄・尼崎駅-(徒歩5分)-尼崎城址公園
 
摂津国・大坂城 (金城 / 錦城)
■城の種別
平城
■築城者
豊臣秀吉
■築城年
天正11年(1583年)
■主な遺構
多聞櫓(重文) / 千貫櫓(重文) / 乾櫓(重文) / 一番櫓(重文) / 六番櫓(重文) / 焔硝蔵(重文) / 金蔵(重文) / 金明水井戸屋形(重文) / 大手門(重文) / 大手門南方塀(重文) / 大手門北方塀(重文) / 多聞櫓北方塀(重文) / 石垣 / 堀
■主な再建造物
天守 / 桜門(重文)
復興天守
石山本願寺の跡地に、天正11年(1583年)豊臣秀吉が築城する。慶長20年(1615年)大坂夏の陣で、落城する。徳川幕府により、元和5年(1620年)から跡に盛り土して再建が始めらる。遺構は徳川時代のものである。昭和6年(1931年)に天守が復興される。初層から4層までは徳川時代、5層目は豊臣時代風になっている。
播磨国・明石城 (喜春城 / 錦江城)
■城の種別
平山城
■築城者
小笠原忠真
■築城年
元和5年( 1619年)
■主な遺構
巽櫓(重文) / 坤櫓
ひつじさるやぐら(重文) / 移築門 / 石垣 / 堀
巽櫓
明石駅から明石城が見える。伏見城廃城時に、伏見城薬医門が明石城切手門として移築される。明治の廃城時に、さらに月照寺へ移築されている。
[交通]JR山陽本線・明石駅-(徒歩/約5分)-明石城
播磨国・姫路城(白鷺城)
■城の種別
平山城
■築城者
赤松貞範
■築城年
南朝:正平元年 / 北朝:貞和2年(1346年)
■主な遺構
国宝:大天守 / 東小天守 / 西小天守 / 乾小天守 / イ〜ニ渡櫓
重文:櫓27棟 / 門15棟 / 塀32棟
天守
南朝:正平元年 / 北朝:貞和2年(1346年)赤松貞範による築城するが、砦程度だったとも云われている。城と呼べる規模は、赤松支族の小寺氏家臣・黒田重隆が築城したとも云われている。播磨攻略の拠点として、天正8年(1580年)〜天正9年(1581年)羽柴秀吉が近世城郭に改造する。このとき石垣で城郭を囲い、3層と伝えられる天守を建築した。遺構は、関ヶ原の戦いの後に改修されたものである。平成5年(1993年)ユネスコ世界遺産(文化遺産)登録。
播磨国・赤穂城(加里屋城 / 大鷹城)
■城の種別
平城
■築城者
岡光広
■築城年
文正元年(1466年)〜文明15年(1483年)頃
■主な遺構
石垣 / 堀
花岳寺山門は、塩屋惣門を移築したと云われている。
■主な再建造物
大手隅櫓 / 大手門 / 本丸門 / 本丸厩口門
大手隅櫓
播州赤穂駅からお城通りを進む。道標を右折すると正保2年(1645年)創建の花岳寺がある。山門は赤穂城塩屋惣門を移築されたと云われている。お城通りに平行する道を進むと、大蓮寺や萬福寺がある。堀を左に進むと再建された大手隅櫓がある。大手門から入ると左側に近藤源八宅跡長屋門がある。右側の大石邸長屋門に沿って進みと、大正元年(1912年)創建の大石神社がある。元禄14年(1701年)浅野長矩が、江戸城中で吉良義央に対する刃傷事件を起こし改易となる。大石内蔵助良雄以下四十七士・萱野三平・浅野家三代(長直・長友・長矩)・浅野家の後に赤穂藩主となった森家祖先の七武将(森蘭丸etc.)を祀る。大手門から加里屋川沿いに駅方向へ進むと、浄念寺や随鴎寺がある。
[交通]播州赤穂駅-(徒歩/約20分)-赤穂城