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近江国・賤ヶ岳(しずがたけ)
■城の種別

■築城者
桑山重晴
■築城年
天正11年(1583年)
山頂の賤ヶ岳戦趾碑
JR北陸本線・木ノ本駅東口からバスに乗車、大音(おおと)バス停で降車する。バスはいろいろ経由するため、3kmほどの距離の割には時間が掛かる。また手前に賤ヶ岳入口バス停があり、紛らわしい。大音バス停から8号線を西に進み、すぐのトンネル入口手前を右折して北に進む。すぐに514号線を越え、左方向にある坂を登る。駐車場から、さらに賤ヶ岳リフト乗り場まで登る。帰路の大音バス停→木ノ本駅は、15:28発の後は18:29発になる。リフト乗り場から木ノ本駅まで35分ほど歩くが、1/3程は歩道のない道でトラックの通行量も多い。
[交通]JR北陸本線・木ノ本駅-(バス)-大音バス停-(徒歩約10分)-賤ヶ岳リフト乗り場 / JR北陸本線・木ノ本駅-(徒歩約35分)-賤ヶ岳リフト乗り場
 
琵琶湖 / 余呉湖
賤ヶ岳は標高421mの山で、琵琶湖と余呉湖を分ける風光明媚な位置にある。山頂からは、余呉湖 / 琵琶湖 / 竹生島 / 伊吹山 が望まれる。賤ケ岳の古称は伊香山(いかぐやま)で、「伊香山 野辺に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し思ほゆ」と万葉集に読まれている。昭和25年(1950年)に指定された琵琶湖八景のひとつに数えられている。
万葉歌碑
賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)賤ヶ岳周辺での合戦。柴田勝家に勝利した羽柴秀吉は天下人への道が開かれた。両軍とも多くの砦を造って陣地を固めた。賤ヶ岳砦の守将は桑山重晴で、桑山家は鎌倉幕府御家人・結城朝光の子孫と云われている。織田信長の家臣・丹羽長秀に与力として仕え、姉川の戦いなどで活躍した。天正8年(1580年)但馬国竹田城主となって1万石を与えられた。賤ヶ岳砦を佐久間盛政の攻撃から死守するなどの武功を挙げ、2万石に加増された。

賤ヶ岳から北東に延びた尾根の先にある大岩山(標高270m)は、賤ヶ岳の戦いの火蓋が切られたところである。羽柴秀吉軍の多くが近江から離れた隙に、大岩山砦の守将・中川清秀は佐久間盛政に攻撃され戦死する。羽柴秀吉は大垣城から木ノ本までの13里(52km)を5時間で軍を返し、両軍は激戦となった。 茂山に布陣していた柴田勝家側の前田利家軍が突如として戦線離脱したため、後方の守りの陣形が崩れることになる。さらに柴田勝家側の不破勝光 / 金森長近 軍も退却、戦線を支えきれなくなり柴田勝家は越前・北ノ庄城に退却した。
羽柴秀吉方で功名を挙げた、脇坂安治 / 片桐且元 / 平野長泰 / 福島正則 / 加藤清正 / 糟屋武則 / 加藤嘉明 の7人は賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。実際には14人の若手武将が最前線で武功を挙げており、7人というのは語呂合わせと云われている。

七本槍古戦場賤ヶ岳 標柱
近江国・居初いそめ氏館跡
■城の種別

■築城者
居初氏
■主な遺構
石垣 / 庭園
居初家住宅
JR湖西線・堅田駅から南東に進む。すぐの堅田駅前交差点を右折して、558号線を南西に進む。10分ほどの仰木口交差点を左折して、南東へ道なりに進む。10分足らずの右手に寛弘7年(1010年)創建の妙盛寺がある。
妙盛寺
道なりに南東に進むと、桝形の道になる。北へ進むと、すぐの突き当りに鎌倉時代後期創建と云われる本福寺がある。
本福寺
桝形まで戻り、南東に進む。すぐの十字路を左折して北へ進むと、すぐの突き当りに寛平4年(892年)創建と云われる伊豆神社がある。
町並み 伊豆神社拝殿
満月寺山門
満月寺観音堂 満月寺浮御堂
十字路まで戻り南西に進む。すぐの変則十字路を南西に進むと、すぐの突き当りに満月寺がある。境内の琵琶湖に突き出た浮御堂(有料施設)は、近江八景「堅田の落雁」で知られている。源信(恵心僧都)が魚類殺生供養と湖上安全祈願のために、平安時代に建立したと云われている。現在の建物は昭和12年(1937年)に再建されたもの。古くより一休和尚 / 蓮如上人 が滞在したり、松尾芭蕉 / 小林一茶 / 安藤広重 / 葛飾北斎 等も訪れている。
絵馬
満月寺から道を戻り、変則十字路を北に進む。すぐ左手に大津本堅田郵便局がある。風景印は、琵琶湖大橋 / 浮御堂 の図柄になっている。堅田駅の北西方向にある堅田郵便局の風景印も図柄は同じである。
大津本堅田郵便局風景印 堅田郵便局風景印
大津本堅田郵便局から北へ、左手に伊豆神社を囲っている水路を見ながら進む。すぐ右手に都久生須麻神社がある。
都久生須麻神社
満月寺の北側から都久生須麻神社辺りまでは、堅田藩陣屋があったところ。元禄11年(1698年)堀田正高が下野国佐野から堅田に1万石で移封となり、陣屋を構えた。文化3年(1806年)堀田正敦のとき1万3000石に加封され、文政9年(1626年)に1万6000石で再び下野国佐野に転封となる。堅田藩は消滅し天領となった。
都久生須麻神社から北に進む。すぐの突き当りを右折、すぐに左折して北に進む。都久生須麻神社から5分ほどの右手に居初氏館跡(有料施設)がある。訪れたとき閉ざされており、ご近所の方に伺うと、近頃は閉ざされた状態とのことであった。琵琶湖側から居初氏庭園が見える場所に行く道を教えていただく。湖畔の道は石垣下になり、庭園は良く見えない。
琵琶湖側からの居初氏庭園
琵琶湖の西岸に位置する堅田は古くから湖上交通の要衝であった。中世には堅田衆と呼ばれる自治組織がこの地を支配し、水上交通 / 漁業 / 徴税 などの湖上特権を有していた。居初氏は堅田湖族の中で中心的な役割を果たしていた三家のひとつで、堅田衆は中世末期に至るまで勢力を持っていた。豊臣秀吉の時代に湖上の自由通行を認める交通政策をとったことから、堅田衆の勢力は衰退した。元和年間(1615年〜 1624年)幕府へ請願、居初家は舟運を取り仕切る権利が再び認められる様になった。
居初家住宅は通りの東側に面しており、敷地南側に主屋 / 北側には米蔵や文庫蔵 がある。主屋から廊下で繋がった数寄屋造の書院(茶室)があり、書院の北から東にかけて天和元年(1681年)に作庭したと云われる庭園が広がる。居初氏庭園は琵琶湖と対岸の三上山などの山並みを借景としている枯山水庭園で、昭和56年(1981年)国の名勝に指定された。
居初家住宅から北へ進むと、すぐ左手に元弘元年(1331年)創建の福聚禅院がある。
福聚禅院
近江国・土小谷おだに城(小谷城)
■城の種別
山城
■築城者
浅井亮政
■築城年
大永3年(1523年)または大永4年(1524年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
本丸跡
河毛駅コミュニティハウスのスタンプ

浅井長政 / お市の方 の図柄になっている。

電車に乗って 北びわこ巡りの文字 / 琵琶湖のハクチョウ の図柄になっている。
JR北陸本線・河毛駅より256号線を東へ進む。365号線の郡上交差点を右折する。郡上南交差点を左折して北へ進むと、小谷城戦国歴史史料館手前右手に登山道がある。
[交通]JR北陸本線・河毛駅-(徒歩30分)-登山道(追手道)入口-(徒歩30分)-本丸
JR北陸本線・河毛駅のスタンプは,近江戦国の道の文字 / 河毛駅舎 の図柄になっている。
小谷城戦国歴史資料館 小谷山登山道(追手道) 磯野屋敷跡
追手道
間柄峠 ぼうしょう峠からの眺望
小谷山登山道(追手道)を進むと磯野屋敷跡があり、木立の土道を登る。間柄峠を過ぎ5分ほどすると、ぼうしょう峠で林道と合流する。“ぼう”は“望”、“しょう”は“草冠りに生”の字。ぼうしょう峠から琵琶湖や竹生島が眺望できる。
金吾丸は大永5年(1525年)浅井氏と六角氏の調停のため、朝倉宗滴(教景)が小谷城の一角に布陣したとされる。金吾とは、朝倉宗滴の官名・衛門府の唐名。
番所には登城道に面して石垣が築かれていたと云われている。
金吾丸跡 番所跡
御茶屋跡 馬洗い池跡 首据石
馬洗池は馬を洗う池とするより、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と云われている。黒金門跡手前に首据石がある。天文2年(1533年)浅井亮政のとき、敵方へ寝返った家臣の首を晒した石と云われている。
黒金門跡 桜馬場跡 浅井氏 / 家臣 の供養塔
本丸石垣 本丸の北側にある堀切
浅井亮政 / 久政 / 長政 の三代に渡り、湖北を治めた浅井氏の居城。大永3年(1523年)または大永4年(1524年)築城と云われ、堅固な山城として知られている。本丸には石垣が残り、二層の天守があったと云われている。元亀元年(1570年)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れ、天正元年(1573年)清水谷から攻め登った織田軍によって落城した。浅井氏滅亡後に木下籐吉郎に湖北三郡を与えられる。天正3年(1575年)今浜の地に長浜城が築城され、廃城となる。浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として知られている。
 
近江国・長浜城(今浜城)
■城の種別
平城
■築城者
佐々木高氏
■築城年
延元元年(1336年)
■主な遺構
彦根城天秤櫓 / 大通寺台所門 / 知善院表門は、長浜城から移築したと云われている。
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
長浜駅の南側に白い壁の洋館が見える。明治15年(1882年)に完成した旧長浜駅舎(有料施設)で、現存する駅舎では日本最古となる。隣接して長浜鉄道文化館や北陸線電化記念館がある。開業当時の長浜駅は東京や敦賀からの終着駅であり、大津駅とは琵琶湖を汽船で結んでいた。1889年に東海道本線が全通するまで続けられていた。湖周道路を琵琶湖に沿って北に進むと、長浜城が見えてくる。天正元年(1573年)に浅井氏の旧領を拝領した羽柴秀吉が、今浜を長浜に改めて築城した。彦根城の天秤櫓 / 大通寺の台所門 / 知善院の表門は、長浜城から移築したと云われている。犬山城や伏見城を参考に昭和58年(1983年)復興された模擬天守は、長浜城歴史資料館(有料施設)になっている。駅の東側には、町を南北に貫く日本海側と太平洋側を結ぶ北国(ほっこく)街道が通る。土蔵造りに黒漆喰壁の第百三十銀行長浜支店(通称:黒壁銀行)が衣替えした「黒壁ガラス館」を中心とした黒壁地区は、船板を利用した蔵や古い町並みが保存されている。慶長7年(1602年)創建の大通寺本堂は伏見桃山城の遺構と云われる。秀吉に関係の深い知善院や豊国神社を廻って駅に戻れる。
[交通]長浜駅-(徒歩/約10分)-旧長浜駅舎-(徒歩/約20分)-長浜城 長浜駅-(徒歩/約10分)-黒壁スクエア-(徒歩/約10分)-大通寺
近江国・佐和山城
■城の種別
山城
■築城者
佐保時綱
■築城年
鎌倉時代
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
佐和山城跡碑
発掘中の塩櫓跡 本丸跡 本丸跡より彦根眺望
本丸隅部の石垣(基底部) 泪石 千貫井
JR東海道本線・彦根駅西口より西へ、すぐの旭町交差点を右折する。右前方に佐和山が見える。5分ほどすると518号線を潜り、道なりに左へ518号線沿いを進む。すぐの船町交差点を右折して北へ進む。5分ほどのT字路を右折してJR東海道本線の踏切を越える。すぐの十字路を左折して北へ進むと、右手に長林稲荷神社 / 清涼寺 / 龍潭(りょうたん)寺 と続く。佐和山城登山口は龍潭寺拝観入口門手前、墓地に通じる小路を進む。20分ほど登ると、佐和山城跡碑がある本丸跡に辿り着く。鎌倉時代、近江守護職であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりと云われている。応仁年間(1467年〜1468年)には、六角氏家臣・小川祐忠が在城した。六角氏は、佐々木氏が四家に分かれた家の1つ。戦国時代が後期に入ると北近江における六角氏勢力は衰退、京極家の家臣だった浅井氏の支城となった。元亀年間(1570年〜1573年)浅井氏家臣・磯野員昌は、織田信長軍と8ヶ月におよぶ激戦を繰り広げた。磯野氏は代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下になる。降伏後は、近江支配の重要拠点であることから信長重臣・丹羽長秀が入城する。天正10年(1582年)本能寺の変の後は、天正11年(1583年)堀秀政 / 天正13年(1585年)堀尾吉晴 / 天正18年(1590年)石田三成 が入城した。石田三成は荒廃していたと云う佐和山城を改修、山頂に五層または三層の天守がある近世城郭とした。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は、佐和山城で再戦を意図していたと云われている。徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。守備兵力2800人は健闘したが、裏切りによる手引きで落城する。父・石田正継を始めとする一族は、戦死あるいは自害している。豊臣政権下で栄華を極めたと思われていた城は、質素な作りであったと云われている。関ヶ原の戦い以降、徳川四天王の井伊直政がこの地に封ぜられた。佐和山城は中世的な古い縄張りの山城のため、井伊直政は新たな築城を計画した。石田三成の威光を払拭する意味もあったと云う。関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、慶長7年(1602年)死去した。嫡子・直継が引き継ぎ慶長8年(1603年)彦根城築城を開始、完成した慶長11年(1606年)に佐和山城は廃城となった。佐和山城の建造物は、彦根城に利用されている。徹底的に破壊されたため遺構はほとんど残っていないが、石垣 / 土塁 / 堀 の一部が現存している。
[交通]JR東海道本線・彦根駅-(約20分)-佐和山城登山口-(約20分)-本丸跡
長林稲荷神社 清涼寺山門 清涼寺本堂
慶長7年(1603年)創建の清涼寺は、佐和山西麓にある井伊家の菩提寺。井伊直政の戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」より清涼寺となった。以降、井伊家代々の菩提所となった。境内は石田三成が佐和山城主だった時代、家老・島左近の屋敷のあったところ。清凉寺の山門は、江戸期に焼失するまでは左近邸の屋敷門を移築して使用していた。本殿は嘉永5年(1852年)に再建されたもの。
清涼寺客殿(庫裏)
龍潭寺は天平5年(733年)遠江国引佐郡(現:浜松市北区引佐町)に創建され、平安時代から井伊氏菩提寺となったと云われている。慶長5年(1600年)井伊直政が近江国佐和山に封ぜられたため、龍潭寺を遠江国から分寺した。江戸期には、廃城となった佐和山城を警備する役割も担っていた。龍潭寺は拝観料が必要。龍潭寺は佐和山全山を所有している。
近江国・彦根城(金亀城)
■城の種別
平山城
■築城者
井伊直継
■築城年
慶長8年(1603年)
■主な遺構
天守(国宝) / 天秤櫓 (重文) / 太鼓門 (重文) / 西の丸三重櫓 (重文) / 佐和口多聞櫓 (重文) / 馬屋 (重文) / 玄宮園
■主な再建造物
二の丸御殿
天守
彦根駅から北西へ、駅前お城通りを進むと観光協会や護国神社がある。T字路を左折、直ぐに堀沿いに右折する。堀を越えると佐和口多聞櫓(重文)や馬屋(重文)がある。表門より鐘の丸と本丸の間を通り、鐘の丸から橋で本丸に渡る。橋を落とせば遮断される造りになっている。彦根藩35万石井伊家の居城である彦根城は、2代藩主・井伊直孝が元和8年(1622年)に完成させた。天守は大津城から、西の丸三重櫓は小谷城から、天秤櫓(重文)は長浜城から、太鼓門(重文)は佐和山城から、それぞれ移築されたと云われている。天守(有料施設)は、松本城・犬山城・姫路城とともに国宝四城となっている。黒門を出ると、4代藩主・井伊直興によって造営された玄宮園(有料施設)がある。池泉回遊式の大名庭園で、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえて造られている。天守を背景に秋の紅葉は素晴らしいらしいが、青春18きっぷが発売されていない時期で訪れたことはない。彦根城は数回訪れているが、1300本の桜が咲く春と雪景色は素晴らしい。北側は琵琶湖が広がり、堀には湖水が引き入れられている。琵琶湖観光船乗り場があり、多景島や竹生島に渡れる。南側の京橋を出ると夢京橋キャッスルロードがあり、江戸の町並みを再現している。
[交通]JR彦根駅-(徒歩/約15分)-彦根城-(徒歩/約15分)-彦根城天守
近江国・安土城(安土山城)
■城の種別
山城
■築城者
織田信長
■築城年
天正4年(1576年)
■主な遺構
石垣
信長の館にある天主の上部
安土駅前には城郭資料館(有料施設)、地下道で東海道本線を越えると観光案内所がある。北西へ進み下豊浦交差点を右折、しばらくすると左手に天正7年(1579年)安土山に織田信長が天下統一の拠点として築城した安土城跡がある。天正10年(1582年)本能寺の変後に天主は焼失、天正13年(1585年)に廃城されたと云われる。築城当時は三方を琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽寺湖)に囲まれ、南方のみが開けた地形となっていた。総見寺仁王門や三重塔(重文)がある百々橋口や、埋もれていた登城道が発掘された大手口から登ることができる。2006年1月に訪れた際は、百々橋口からの通行はできなくなっていた。大手道脇には羽柴秀吉邸や前田利家邸などの石垣造りの家臣団屋敷跡がある。天守台には礎石が残るが狭い感じがする。大手口まで戻り東へ進み、右折して東海道本線を越える。しばらくすると信長の館(有料施設)がある。信長の館には1992年スペイン・セビリア万国博覧会に出展された、五層七階と云われる天主の五・六階部分が復元展示されている。近くにある安土城考古博物館(有料施設)には、古代の出土品や安土城の資料が展示されている。
[交通]安土駅-(徒歩/約20分)-安土城跡-(徒歩/約20分)-信長の館/安土城考古博物館-(徒歩/約25分)-安土駅
近江国・近江八幡城(八幡山城)
■城の種別
山城
■築城者
豊臣秀次
■築城年
天正13年(1585年)
■主な遺構
石垣 / 堀
石垣
JR近江八幡駅の北西、約3kmの八幡山にある。八幡城址駅が二の丸跡で、出丸跡〜西の丸跡〜北の丸跡と一周する散策路がある。本丸跡に文禄5年(1596年)創建の瑞龍寺がある。豊臣秀次の菩提寺で、昭和37年(1962年)に京都嵯峨野から移転する。
[交通]JR近江八幡駅-(バス/約10分)-大杉町-(徒歩/約5分)-公園前駅-(ロープウエィ/約5分)-八幡城址駅
近江国・水口城(碧水城)
  ■城の種別
平城
■築城者
徳川家光
■築城年
寛永11年(1634年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
隅櫓 / 門
 
復興隅櫓 
近江鉄道・水口城南駅から北へ進むと、左手に見えて来る。関ヶ原合戦後、水口は幕府直轄地となる。三代将軍徳川家光が、上洛の際の宿館として築かせたのが水口城である。将軍の宿舎として使われたのは、この1回限りであった。天和2年(1682年)水口藩が成立するが、本丸御殿は使用されなかった。本丸御殿は、正徳3年に幕府によって取り壊される。
[交通]近江鉄道・水口城南駅-(徒歩/約5分)-水口城跡
近江国・坂本城
■城の種別
平城(水城)
■築城者
明智光秀
■築城年
元亀2年(1571年)
■主な遺構
石垣
西教寺の総門は、坂本城から移築したと云われている。
坂本城址碑
京阪電鉄石山坂本線・坂本駅から西へ進む。161号線(西近江路)を南へ進むと、西側に東南寺がある。南側の二の丸跡に坂本城址碑がある。坂本は西に比叡山、東に琵琶湖が面する交通の要所である。比叡山焼き討ちの後、京と比叡山の抑えとして築城される。城郭の大半は宅地化されている。
[交通]京阪電鉄石山坂本線・坂本駅-(徒歩/約15分)-坂本城址碑
近江国・膳所城(石鹿城 / 望湖城)
■城の種別
平城
■築城者
徳川家康
■築城年
慶長6年(1601年)
■主な遺構
石垣
本丸大手門(重文)が膳所神社に、北大手門(重文)が篠津神社に、南大手門(重文)が鞭崎神社に、犬走り門が若宮八幡神社に、藩校遵義堂(じゅんきどう)門が和田神社に、移築され現存する。
■主な再建造物
模擬門
膳所城址碑
膳所神社表門(本丸大手門) 篠津神社表門(北大手門) 若宮八幡神社表門(犬走り門)
和田神社表門(藩校遵義堂門) 石鹿地蔵
膳所本町駅から東へ進むと、突き当たりの琵琶湖畔に膳所城跡公園がある。石鹿地蔵は、比叡山にあった石地蔵。元亀2年(1571年)織田信長による比叡山を焼き打ち後、比叡山にあった石地蔵を坂本城の礎石にする。天正14年(1586年)大津城築城に転用する。慶長6年(1601年)膳所城築城に再度転用する。明治3年(1870年)膳所城は廃城、本丸 / 二の丸 / 三の丸から姿を現した60基が集められている。
[交通]京阪電鉄石山坂本線・膳所本町駅 -(徒歩/約10分)-膳所城跡公園