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肥前国・鹿島城

■城の種別
平城
■築城者
鍋島直彜
■築城年
文化4年(1807年)
■主な遺構
大手門 / 赤門 / 石垣 / 堀
鹿島城大手門

JR長崎本戦・肥前鹿島駅より西へ進む。すぐの肥前鹿島駅前交差点を左折して、207号線を南へ進む。すぐのスカイロード交差点から右方向に進むと、すぐ右手に鹿島郵便局がある。風景印は、経ヶ岳 / 鹿島城赤門 / 郷土芸能・面浮立 の図柄になっている。

鹿島郵便局風景印
鹿島郵便局から5分足らずの新天町交差点を左折、すぐに右折して南に進む。5分足らずのところに鹿島城大手門がある。曲がりくねった城跡の道を南に進むと、鹿島高校校門になっている文化5年(1808年)建立の赤門がある。
鹿島城赤門

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、鍋島勝茂は当初は西軍に与した。父・鍋島直茂の命令により東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城や小早川秀包の久留米城を攻撃した。慶長6年(1601年)鍋島直茂の次男・鍋島忠茂は人質として江戸に赴いた。慶長7年(1602年)徳川秀忠の近習として仕えて寵愛される。「忠」の偏諱を授けられて忠茂と改名、下総矢作に5000石を与えられる。慶長14年(1609年)2万石を分知され、下総の5000石と合わせて2万5000石の大名となる。鹿島藩を立藩、常広城を修築して居城とする。

石垣 石垣 水堀
常広城は鹿島川と塩田川の間の沖積地のため、水害を受けることが多かった。文化元年(1804年)9代・鍋島直彝(なおのり)のとき、幕府と本藩に移転を願い出る。文化2年(1805年)許可、文化4年(1807年)に鹿島城は完成する。多良岳北東にある山地東端、鹿島川に面する丘陵上に位置している。本丸は南側の高所にあった。明治7年(1874年)佐賀の乱のとき鹿島城は焼失する。城跡は鹿島高校や旭ヶ岡公園になっている。
[交通]JR長崎本線・肥前鹿島駅-(徒歩約20分)-大手門
武家屋敷 家老・原家の武家屋敷棟門 武家屋敷

南側には武家屋敷が残っている。

肥前国・唐船城

■城の種別
平山城
■築城者
松浦栄
■築城年
建保6年(1218年)
■主な遺構
曲輪 / 石垣 / 空堀
山田神社

松浦鉄道・山谷駅から202号線を南に進む。すぐの有田町下山谷交差点を左折して344号線を南東に進む。5分ほどの変則四差路を右折すると、すぐ右手に唐船城公園がある。北側にある山田神社が唐船城跡になる。八坂神社が主郭跡 / 山上西側の高所が狼煙台跡 と云われている。黒髪山麓の丘陵を避ける様に有田川が蛇行、堀とした縄張りになっている。

山田神社拝殿 石垣 八坂神社石段

建保6年(1218年)松浦源栄が築城したと云われている。松浦源栄は松浦党の祖と云われる松浦源久の孫で、松浦党の一翼を担った有田氏の祖である。天正5年(1577年)龍造寺隆信に攻略され、弟・龍造寺信周が城主となる。天正12年(1584年)龍造寺隆信が島津家久・有馬晴信連合軍に敗死すると、龍造寺家の実権は鍋島直茂が担う様になる。天正14年(1586年)〜天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州平定が行われる。天正18年(1590年)小田原北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は、宇都宮城に入城し関東の支配体制を決定する宇都宮仕置を行った。その際いらざる城の破却命令があり、唐船城も廃城となった。
[交通]松浦鉄道・山谷駅-(徒歩約10分)-唐船城公園

肥後国・佐敷さしき城(佐敷花岡城)
■城の種別
山城
■築城者
加藤清正
■築城年
天正年間(1573年〜1592年)
■主な遺構
土塁 / 石垣
本丸西門側の石垣
3号線側にある肥薩おれんじ鉄道・佐敷駅改札口から北へ、線路沿いの道を進む。坂を登り切ると、すぐに右折して肥薩おれんじ鉄道を陸橋で越える。道なりに5分ほどの右手に、昭和12年(1937年)剣道・柔道を行う武道場としてに建てられた武徳殿がある。角を右折すると、すぐ右手に佐敷城徒歩登り口がある。
武徳殿 徒歩登り口
薩摩街道・佐敷宿
武徳殿角を右折しないで直進する。佐敷川に架かる橋を渡る手前を右折して南へ進む。この辺りは薩摩街道の佐敷宿で、城下町の風情を残している。薩摩街道は江戸時代に整備された脇往還で、筑前国・山家宿(現:福岡県筑紫野市)を始点として薩摩国・鹿児島に至る街道。すぐに薩摩街道は左に曲がるが、右折すると車道経由で佐敷城に行ける。佐敷城跡碑は車道を登り切ったところにある。
[交通]肥薩おれんじ鉄道・佐敷駅-(徒歩約20分)-徒歩登り口-(徒歩約15分)-本丸跡
佐敷城跡碑
本丸西門側 二の丸東門側 本丸跡からの眺望
葦北郡は天正16年(1588年)肥後半国に封じられた加藤清正の飛び領地となり、花岡山に石垣を巡らした佐敷城を築城する。佐敷花岡城とも呼ばれている。文禄元年(1592年)城代・加藤重次が文禄の役に従軍して不在のとき、島津歳久の家臣・梅北国兼によって占拠される。留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還される。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、西軍・島津忠長によって包囲される。西軍敗北の報が伝わるまでの約1ヵ月間、佐敷城を守りきる。佐敷城の増改築は続けられたが、元和元年(1615年)の一国一城令により石垣を崩されて廃城となった。石垣の一部は佐敷川堤に利用されたと云われている。昭和54年(1979年)の調査で石垣が発見され、復元される。

佐敷川の対岸に東の城がある。南北朝時代(延元元年 / 建武3年 / 1336年〜元中9年 / 明徳3年 / 1392年)佐敷氏が築城した城と云われている。八代を本拠とする名和氏と球磨を本拠とする相良氏との間で戦いが繰り返された。永禄2年(1559年)肥後守護・菊池為邦により、相良氏の葦北領有が認められた。天正9年(1581年)島津義久は相良義陽と水俣で戦い勝利、葦北郡を割譲させて城代を置いた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐により、肥後の諸城を放棄して撤退した。

今回の佐敷城と出水城巡りは、博多駅-(青春18きっぷ)-八代駅、八代駅からは“おれんじ18フリーきっぷ”を利用する。当日の青春18きっぷ利用者が購入できる割引きっぷである。3年前より消費税分60円高くなっていた。

平成25年8月21日 平成28年3月25日
肥後国・宇土古城
■城の種別
山城
■築城者
宇土氏
■築城年
永承3年(1048)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 土塁
■主な再建造物
城門
復元城門 / 土塁

西岡台と称される小高い丘全域城跡。小西行長が築城した宇土城に対し、宇土古城と呼ばれている。鎌倉時代末期から戦国時代までは、菊池一族の宇土氏が支配していた。宇土為光は文亀元年(1501年)に肥後国守護となるが、文亀3年(1503年)菊池能運によって滅ぼされる。永正2年(1505年)八代を本拠にしていた名和顕忠が宇土城を本拠とする。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に際して名和顕孝は降伏、後に没落する。天正16年(1588年)肥後国の南半国を領した小西行長が宇土古城に入る。天正17年(1589年)東に位置する丘に新城を築き、宇土古城は廃城となる。歴史公園として整備されている。

肥後国・宇土城(鶴の城)
■城の種別
平山城
■築城者
小西行長
■築城年
天正17年(1589年)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 土塁
石垣
天正16年(1588年)肥後国の南半国を領した小西行長が宇土古城に入り、東に位置する丘に築く。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れ、六条河原において石田三成や安国寺恵瓊ととものに斬首された。肥後国の北半国を領していた加藤清正が、肥後一国の大守となる。宇土城を所有するところとなった加藤清正は隠居城と定め、改修を行う。慶長16年(1611年)に死去すると、翌慶長17年(1612年)水俣城 / 矢部城とともに廃城となる。寛永9年(1632年)2代加藤忠広は謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、豊前国小倉藩主・細川忠利が移封する。正保3年(1646年)細川行孝が分封され、宇土藩が成立する。支藩であったため城は築かれず、現在の新小路町に宇土陣屋が設けられた。寛永14年(1637年)島原の乱後に、城跡は徹底的な破却を受けた。本丸跡のみが残り、城山公園となっている。熊本城の宇土櫓は宇土城の天守を移築したと云われていたが、昭和2年(1927年)の解体修理により否定されている。
肥後国・熊本城(銀杏城)  
■城の種別
平山城
■築城者
出田秀信
■築城年
1469年〜1487年頃
復興天守
■主な遺構
宇土櫓(重文) / 監物櫓(長岡図書預櫓・重文) / 平櫓(重文) / 五間櫓(重文) / 北十八間櫓(重文) / 東十八間櫓(重文) / 源之進櫓(重文) / 四間櫓(重文) / 十四間櫓(重文) / 七間櫓(重文) / 田子櫓(重文) / 不開門(重文) / 長塀(重文) / 石垣 / 堀
■主な再建造物
大天守 / 小天守 / 平櫓 / 馬具櫓 / 飯田丸五階櫓 / 西出丸戌亥櫓 / 未申櫓 / 元太鼓櫓 / 未申櫓 / 戌亥櫓 / 南大手門 / 西大手門 / 西出丸長塀 / 本丸御殿大広間 / 数奇屋丸二階広間
明治10年(1877年)西南戦争で、明治政府鎮台兵が籠城する熊本城が攻撃される。大砲の照準にならない様に天守を焼失させ、攻撃を耐え抜く。遺構は天正16年(1588年)に封じられ加藤清正が完成したときのもの。昭和35年(1960年)天守が復興される。
[交通]JR鹿児島本線・熊本駅-(熊本市電)-熊本城前-(徒歩/約5分)-熊本城
肥後国・八代城(白鷺城 / 白石城)  
■城の種別
平城
■築城者
加藤忠広
■築城年
元和元年(1620年)
■主な遺構
石垣 / 堀
表枡形にあった城門が、本城寺に移築され現存する。
石垣
JR鹿児島本線・八代駅から南西へ、3号線との交差点手前を右折して250号線を進む。左手に石垣と堀が見えて来る。本丸跡に、明治13年(1880年)創建の八代宮がある。
[交通]JR鹿児島本線・八代駅-(徒歩/約25分)-八代城

肥後国・人吉城(繊月城 / 三日月城)

■城の種別
平山城
■築城者
相良長頼
■築城年
元久2年(1205年)
■主な遺構
石垣 / 土塁
■主な再建造物
多聞櫓 / 隅櫓
石垣
JR肥薩線・人吉駅から南へ、445号線を左折して東へ進む。五日町交差点を右折して球磨川を水ノ手橋で渡ると、人吉城址公園がある。元久2年(1205年)から明治まで相良氏の領地であった。
[交通]JR肥薩線・人吉駅-(徒歩/約20分)-人吉城址公園
肥後国・鞠智(きくち)
■城の種別
古代山城
■築城者
大和朝廷
■築城年
不明(663年以降、698年以前)
■主な遺構
建物基礎 / 土塁跡
■主な再建造物
鼓楼 / 兵舎 / 米倉 / 板倉
米倉 / 八角形鼓楼
熊本県山鹿市(旧鹿本郡菊鹿町)から菊池市にかけて、55haの面積があった要害。菊池市隈府にあった、菊池氏の居城・菊池城(菊池本城)とは別の城である。663年朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた大和朝廷が、日本列島への侵攻に備え西日本に築いた古代山城。大宰府管轄下にあった六城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地だったと云われている。文武天皇時代の修築記事(698年)で初めて正史に登場する。延暦16年(797年)編纂の続日本紀などにも記載されている。百済からの亡命貴族の指導で築城されたと云われている。遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。72棟の建物基礎が確認されており、韓国の二聖山城跡に類似した八角形建物もあった。廃城年は解っていない。校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元されている。

肥前国・名護屋城

  ■城の種別
平山城
■築城者
豊臣秀吉
■築城年
天正19年(1591年)
■主な遺構
石垣 / 堀
石垣
朝鮮半島へ出兵のために築城される。慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没したため、朝鮮半島へ出兵が取り止めとなり廃城される。天守は唐津城に移築したと云われているが、焼失して現存しない。広大な石垣が残る。
肥前国・唐津城(舞鶴城)
■城の種別
平山城
■築城者
寺沢広高
■築城年
文禄4年(1595年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
模擬天守 / 櫓 / 門
模擬天守
JR唐津線・唐津駅から236号線を北へ進む。市役所前交差点を右折して、204号線を東へ進む。大手口交差点の次の交差点を左折して北東へ進む。二の門交差点を右折して東へ進むと、左手に唐津城がある。松浦氏の一族、波多氏の城があったと云われている。昭和41年(1966年)天守が復興される。三方を海に囲まれ、展望は素晴らしい。
[交通]JR唐津線・唐津駅-(徒歩/約20分)-唐津城
肥前国・佐賀城(栄城 / 亀甲城)
■城の種別
平城
■築城者
鍋島直茂
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
鯱の門(重文) / 続櫓(重文) / 御座の間 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
続櫓・鯱の門
JR長崎本線・佐賀駅から29号線を南へ進むと、佐賀城がある。龍造寺氏が居城していた村中城を改修・拡張。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信が、天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死する。その後、龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握る。
[交通]
JR長崎本線・佐賀駅-(徒歩/約15分)-佐賀城
吉野ヶ里遺跡
■城の種別
城砦集落
■築城年
弥生時代(紀元前3世紀頃〜3世紀頃)
■主な再建造物
環濠 / 柵 / 物見櫓 / 竪穴住居 / 高床住居 / 高床式倉庫 / 墳丘墓など
柵と物見櫓
JR吉野ヶ里公園駅の西側に広大な吉野ヶ里歴史公園がある。神埼駅からも近い。弥生時代の城砦集落。外壕と内壕の二重の環濠 / 柵 / 物見櫓など、日本における城の始まりとも云われている。木器・土器・石器・青銅器・鉄器・銅剣・銅鏡・織物・勾玉・管玉などが多数出土している。有柄銅剣やガラス管玉は、重文。
[交通]吉野ヶ里公園駅-(徒歩/約10分)-吉野ヶ里歴史公園

肥前国・陣笠城

■城の種別
山城
■築城者
峰 昌
(さかえ)
■築城年
延徳3年(1491年)頃
城山公園

松浦鉄道・たびら平戸口駅の北西側、田平港の北東側にある標高73mの高地にある。たびら平戸口駅から北東へ、204号線(唐津街道)を左折して北西へ進む。道が西へ進路が変わると、交差点がある。左折して北へ進み、5分ほどするとT字路があり左折する。道は大きく回り込む様に、城山公園に至る。ところどころに標識がある。延徳2年(1490年)〜永正年間(1504年〜1521年)田平の里城に本拠を構える松浦一族の峰昌と、弟にあたる平戸の松浦弘定との間に争いが起こる。このとき、峰昌方の陣が置かれた。両者の争いは、大内義弘の仲介により和睦、田平の地は松浦弘定が領することになった。平戸瀬戸と平戸城下が見渡すことができる。江戸時代には、船の航行を見張る番所が置かれていた。
[交通]松浦鉄道・たびら平戸口駅-(徒歩/約30分)-城山公園

肥前国・平戸城(亀岡城 / 亀甲城 / 日ノ岳城)
■城の種別
平山城
■築城者
松浦鎮信
■築城年
慶長4年(1599年)
■主な遺構
狸櫓 / 北虎口門(搦手門) / 石垣
■主な再建造物
天守 / 二の櫓 / 地蔵櫓 / 坂櫓 / 乾櫓
模擬天守

平戸港の南側、平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。平戸市役所から北虎口門へと登城するルートが一般的。慶長18年(1613年)破却されるが、元禄16年(1703年)再建される。昭和37年(1962年)模擬天守が建てられる。
[交通]平戸港-(徒歩/約15分)-平戸城

肥前国・玖島くしま城(大村城)
■城の種別
平山城
■築城者
大村喜前
■築城年
慶長4年(1599年)
■主な遺構
堀 / 石垣
■主な再建造物
櫓 / 土塀
板敷櫓

JR大村線・大村駅から南西へ進む。5分ほどすると34号線と交差、左折して南へ進む。10分ほどすると、左手に大村公園がある。大村氏は鎌倉時代より地頭として、大村地方を領有してきた。豊臣秀吉の九州征伐の際に参陣して領土を安堵される。大村湾に突き出した半島に築城、三城城から居城を移す。本丸跡は大村神社の境内となっている。平成4年(1992年)板敷櫓が復興される。
[交通]JR大村線・大村駅-(徒歩/約15分)-大村公園

肥前国・福江城(石田城)
■城の種別
海城
■築城者
五島盛徳
■築城年
文久3年(1863年)
■主な遺構
大手門 / 蹴出門 / 石垣 / 堀 / 庭園
五島観光歴史資料館
福江港ターミナルから西へ、すぐのターミナル前交差点を左折する。2本目を右折すると、突き当りに平成元年(1989年)築の天守閣を模した五島歴史史料館が見える。宇久島を基盤に勢力を伸ばした宇久氏は、元禄元年(1593年)宇久氏20代・宇久純玄のとき五島氏に改称した。大永6年(1526年)宇久盛定によって江川城が築城されるが、慶長19年(1614年)焼失する。以降は石田陣屋が藩庁となった。たびたび築城を幕府へ願い出るが認められなかった。幕末の嘉永2年(1849年)肥前福江藩10代藩主・五島盛成の代に、異国船防禦から築城が認められる。財政難や海沿い特有の問題もあり、14年の歳月を要し文久3年(1863年)肥前福江藩11代藩主・五島盛徳が完成させた。石田陣屋を拡張して築かれ、本丸の内堀 / 外堀の石垣などは陣屋当時のものと云われている。明治維新(1868年)に幕藩制度は解体されたため、日本最後の城とされている。完成から9年後の明治4年(1872年)に廃城となる。築城当時は三方を海に囲まれた海城であったが、現在は埋め 立てられている。異国船防禦を目的としているため、城内には台場(砲台)が設けられていた。天守は本丸の二重櫓がその代用とされた。二の丸跡に安政5年(1858年)から2年の歳月をかけて造られた五島氏庭園(有料施設)がある。本丸跡に長崎県立五島高等学校 / 城内に五島市立図書館や五島市福江文化会館 がある。
[交通]福江港ターミナル-(徒歩5分)-石田城
石垣 堀常灯鼻 武家屋敷跡
福江城築城にあたり、弘化3年(1846年)に灯台としての役割を担う常灯鼻が建設された。嘉永元年(1848年)には北西風による大波を防ぐため、導水堤(防波堤)が建設された。城壁と同じ野面積みの石垣は激しい波に晒されてきたが、150年以上経ても崩れてい ない。
福江城の南西側、武家屋敷町に福江武家屋敷通りがある。五島藩士の中級以下の武士が住んでいたところで、約400mの石垣塀が続く。塀の上に“こぼれ石”といわれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾型の石で止められている。こぼれ石は、外部の侵入を音で知らせる役目があった。
標識 六角井 明人堂
福江港ターミナルから西へ、すぐのターミナル前交差点を右折する。すぐの東浜町交差点を左折する。すぐの文化会館前交差点を右折して、162号線を北西へ進む。5分ほどすると左手に標識がある。右折するとすぐ右手に六角井 / 直進するとすぐ左手に明人堂がある。天文9年(1540年)明国貿易商・王直は、通商を求め福江に来航した。財政的に苦しんでいた宇久盛定は通商を許可、明人堂のある辺りに居住地を与えた。明人堂は王直一党が守護神として海上の安泰を祈った祈願所。現在の廟堂は平成11年(1999年)中国から取り寄せた石材を中国の工人が改築したもの。六角井は飲料用水として、宇久盛定が掘らせた井戸。
福江港ターミナルからバスで「堂崎天主堂入口」バス停から東へ10分ほどすると、左手に明治41年(1908年)に完成した堂崎天主堂がある。江戸時代からのキリスト教禁教令以降、五島列島で最初に建てられた聖堂。現在は堂崎天主堂キリシタン資料館になっている。
堂崎天主堂
肥前国・島原城(森岳城 / 高来城)
■城の種別
平城
■築城者
松倉重政
■築城年
元和4年(1618年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
天守 / 丑寅櫓 / 巽櫓 / 西櫓
復興天守
島原鉄道・島原駅より西へ進むと、突き当りに島原城址公園がある。元和2年(1616年)松倉重政は日野江城に入るが、不便なため島原城を築城する。嘉永14年(1637年)島原の乱が起きる。一揆軍は大手門を破るが攻略できず、南にある原城に約3ヶ月籠城する。昭和39年(1964年)天守が復興される。武家屋敷に城下町の風情が残る。
[交通]島原鉄道・島原駅-(徒歩/約10分)-島原城
肥前国・原城(日暮城)
■城の種別
平山城
■築城者
有馬貴純
■築城年
明応5年(1496年)
■主な遺構
石垣 / 空堀
櫓台石垣

島原半島の南部に位置し、有明海に張り出した丘陵にある。元和2年(1616年)一国一城令により廃城となる。島原藩主の松倉重政・勝家父子は、島原城築城による出費などにより苛政と搾取を行う。また過酷なキリシタン弾圧もあり、島原の乱の主因となる。嘉永14年(1637年)島原の乱が起きる。一揆軍は島原城の大手門を破るが攻略できず、天草の一揆軍と合流して原城に約3ヶ月籠城する。小西行長家臣・子孫と云われる天草四郎を総大将とし、組織だった戦闘を繰り広げた。兵站の補給がないため、弾薬や兵糧が尽き果ててきた。寛永15年(1638年)2月27日から28日の総攻撃で、一揆軍は壊滅する。島原藩主・松倉勝家は、大名としては前例のない斬首に処せられる。本丸の南約300m沖合に東西1000mの浅瀬がある。旧暦3月と8月の最干潮時に最もよくその姿を見せ、白洲(しらす)と呼ばれている。リソサムニュームという珍しい植物が繁殖しているもので、世界的にも他にイギリス海岸とインド洋に見られるだけである。
[交通]島原鉄道バス・原城前バス停-(徒歩/約15分)-原城

肥前国・城の古祉(しろのこし)
■城の種別

■築城者
長崎純景
■築城年
戦国時代
龍頭巌 / 不動明王堂
長崎電気軌道・新中川町電停から西へ進む。すぐの伊良林小学校前交差点を右折して、小路を北へ進む。すぐにシーボルト通りに突き当り右折、すぐに左折して春徳寺通りを北へ坂を登る。突き当りのY字路の手前左手に、「たばこ栽培発祥の地」案内板 / 烟草初植地碑 / 春徳寺通り石柱 がある。突き当りを右へ道なりに坂を登ると、春徳寺の墓地に入る。春徳寺の裏山が長崎氏14代・長崎純景の砦があったところで、城の古址と呼ばれている。石段を登り切ったところに、竜頭巌というひときわ大きな岩 / 手前に不動明王堂 がある。寛永7年(1630年)長崎代官・末次平蔵が先祖の墓を造るため竜頭巌を砕く工事を始めたところ、岩肌から鮮血がほとばしり工事は即刻中止となる。まもなく末次平蔵は密貿易の罪により江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺される。龍頭巌には、お竹という美しい娘の悲恋物語もある。桜馬場中学校の辺りに館があったと云われている。
戦国時代、長崎は領地拡大を狙う周囲の豪族にたびたび攻撃を受けている。長崎純景は大村の領主・大村純忠の家臣となり、支援を得て領地を守ったと云われている。大村純忠は永禄6年(1563年)に洗礼を受けた、日本初のキリシタン大名として知られている。長崎純景もとともに、洗礼を受けたと云われている。長崎純景の妻は、大村純忠の娘。長崎純景は館の近くにあった寺社を寄進、永禄12年(1569年)長崎最初の教会“トードス・オス・サントス教会”が設けられた。慶長2年(1597年)コレジョ(大神学校)とセミナリオ(小神学校) が置かれた。慶長17年(1613年)の禁教令により閉鎖された。春徳寺山門の脇に、“トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡”碑がある。春徳寺は寛永7年(1630年)創建、慶安4年(1651年)跡地に移転する。
烟草初植地碑 / 春徳寺通り石柱
春徳寺山門 トードス・オス・サントス教会迹碑 春徳寺本堂