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淡路国・洲本すもと城(三熊城)
■城の種別
山城 / 平城
■築城者
安宅治興
■築城年
大永6年(1526年)
■主な遺構
上城…石垣 / 天守台 下城…石垣 / 堀
■主な再建造物
上城…模擬天守
模擬天守
洲本BCの海岸通交差点から南東へ進む。10分ほどの山手1交差点の南側に、洲本城(下城)がある。山手1交差点を直進すると、5分足らずの右手に洲本城(上城)への登り口がある。15分ほどで、昭和3年(1928年)築の模擬天守に着く。模擬天守としては日本最古のもの。天守台からの洲本八景“大浜を大観”と呼ばれる眺望は、少しけぶっている。
登り口から10分足らずの石垣 搦手口 / 右:本丸石垣 天守台眺望

洲本城(上城)は、大永6年(1526年)三好氏の重臣・安宅治興が築城した。三好長慶の弟・安宅冬康が養子となり、長男・安宅信康は織田信長に従属していた。後を継いだ次男・安宅清康は毛利輝元に内応して織田信長に敵対、天正9年(1581年)羽柴秀吉の攻撃を受ける。降参した安宅清康は織田信長に所領を安堵されるが、程なく所領を没収されて紀伊国に追放される。天正11年(1583年)仙石秀久が淡路国5万石を与えられ、洲本城に入城する。天正13年(1585年)脇坂安治が淡路国洲本で3万石を与えられ、石垣の改修や天守が建てられた。慶長15年(1610年)姫路城主・池田輝政の三男・忠雄が領主になった際に廃城となり、岩屋城から由良城と居城する。慶長20年(1615年)大坂夏の陣の後、徳島藩・蜂須賀氏の領地となり、筆頭家老・稲田植元が由良城代となる。由良城は交通の便が悪いなどから、寛永8年(1631年)〜寛永12年(1635年)に掛けて洲本城に本拠を移した。城下町ごとの大移転であったため、由良引け(ゆらびけ)と呼ばれている。明治4年(1871年)廃城となる。

洲本城跡碑 堀 / 石垣 お登勢像
麓の城(下の城)は、由良引け以降に築城された。跡地洲本市立淡路文化史料館 / 堀の道路側にお登勢(おとせ)像 がある。お登勢は、明治3年(1870年)の庚午事変(こうごじへん)に巻き込まれた娘・お登勢を描いた船山馨の小説。お登勢像の道を挟んだ北側の念法寺は稲田氏向屋敷跡地であるが、遺構は残っていない。
念法寺
稲田家16代・稲田邦植のとき、幕末を迎える。徳島藩は佐幕であったが、稲田家は尊皇攘夷派で新政府軍に帰順して出兵した。明治維新後に徳島藩・蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(家臣・稲田家の家臣)は士族とならなかった。稲田家の家臣は士族編入を徳島藩に訴えたが叶わず、淡路を徳島藩から独立させて立藩することを明治政府に働きかけて行く。明治3年(1870年)蜂須賀家の家臣が、洲本城下で稲田家と家臣の屋敷を襲撃する庚午事変が起きる。稲田騒動とも呼ばれている。その前日には、徳島で稲田屋敷を焼き討ちが行われている。明治4年(1871年)淡路島は兵庫県に編入され、稲田家家臣は士族として北海道静内郡と色丹島の開拓を命じられる。
下の城から堀沿いに南西へ進むと、洲本八幡神社がある。境内にある金天閣は寛永18年(1641年)に徳島藩主・蜂須賀忠英(ただてる)が上の城に建てた洲本御殿の一部。洲本御殿は明治維新後に取り壊されたが、玄関と書院だけが移築された。
洲本八幡神社 金天閣
洲本八幡神社の西方向に厳島神社がある。社殿裏は、室町幕府10代将軍・足利義材(よしき)が亡命したときの黒木御殿跡と云われている。将軍職を追われた流れ公方と云われ、再び将軍に返り咲いた。1度目の将軍在職は延徳2年(1490年)〜明応3年(1495年)在職、約13年半の逃亡生活を送っている。2度目は永正5年(1508年)〜大永元年(1522年)在職した。義材→義尹(よしただ)→義稙(よしたね)と改名している。
厳島神社
下の城北側の城下には、万治元年(1758年)創業の左治屋などの古い商家が点在する。
左治屋 古い商家