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上野国・名胡桃なぐるみ
■城の種別
山城
■築城者
沼田氏
■築城年
明応元年(1492年)
■主な遺構
土塁 / 曲輪
名胡桃城址碑
往路は上越線・後閑駅よりタクシーを利用する予定であったが、タクシー乗り場には1台も待機していない。同好の方が2名おり、タクシー会社に電話し続けていた。タクシーが到着したのは1時間余り経った頃で、相乗りさせていただく。所要時間は10分ほどである。三方が切り立った天然の要害になっているが、城址前を通る17号線からは平坦な道筋になっている。ある程度登ることを覚悟していたが、拍子抜けである。帰路は17号線を東に下る。利根川に架かる月夜野大橋を渡ると、歩道は車道と別れる。道なりに進み、T字路を左折して北西に進む。この道は旧街道を彷彿される道幅で、雰囲気もある。帰宅後、上野国と越後国を短絡する清水街道かと調べてみたがよく解らない。清水街道は上杉謙信が関東出陣のときに利用していた道である。新聞店の角を右折して坂道を登ると、後閑駅に至る。
[交通]上越線・後閑駅-(徒歩45分)-名胡桃城
月夜野町マンホール 群馬県カラーマンホール 群馬県マンホール
旧街道を彷彿される道にあるマンホールは、月夜野(つきよの)町と群馬県が混在していた。月夜野町は平成17年(2005年)水上町 / 新治村 と合併、みなかみ町になっている。
新聞店の角を右折せず直進、5分ほどのところを左折して利根川を渡る。273号線を10分ほど登ると、左手に月夜野郵便局がある。この道は旧三国街道・塚原宿の北側に通じている。風景印は、大峰山 / 千日堂 / 奈女沢温泉 の図柄になっている。
月夜野郵便局風景印
三郭堀切
二郭 三郭
名胡桃城址碑 本郭 ささ郭眺望

明応元年(1492年)沼田城の支城として、沼田氏によって名胡桃館が築かれたと云われている。天正7年(1579年)武田勝頼は、真田昌幸に沼田領奪取を命じた。真田昌幸は名胡桃館を攻略、隣接地に名胡桃城を築城する。ここを前線基地として天正8年(1580年)沼田城を攻略する。天正10年(1582年)武田氏の滅亡後、独立した真田昌幸と小田原北条氏が沼田領を巡って争うことになる。天正15年(1587年)豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令する。天正17年(1589年)沼田領については、沼田城を含めた2/3は小田原北条領 / 名胡桃城を含めた1/3は真田領 と裁定された。沼田城代の小田原北条氏家臣・猪俣邦憲は、名胡桃城を占領した。この事変をきっかけに、天正18年(1590年)惣無事令違反とされ小田原征伐が行われることとなる。小田原征伐後、沼田領は真田昌幸が領することになったが名胡桃城は廃城となった。名胡桃城が使用されたのは約10年間であった。郭の間には堀切が設けられている。

上野国・沼田城(倉内城)
■城の種別
丘城
■築城者
沼田顕泰
■築城年
天文元年(1532年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
鐘楼

鐘楼
上越線・沼田駅から東へ進む。上り坂を道なりに進み、左手にある階段を登る。突き当たりを左折して北へ進むと、沼田公園がある。北関東の要衝として上杉 / 武田 / 北条の争奪戦が繰り広げられた。武田氏の滅亡後は真田信幸の支配となる。天和元年(1681年)廃城となり破却されるが、真田信幸によって改修された本丸西櫓台の石垣が発掘される。
[交通]JR上越線・沼田駅-(徒歩/約30分)-沼田公園
上野国・新田金山城(金山城 / 太田金山城)
■城の種別
山城
■築城者
岩松家純
■築城年
文明元年(1469年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀 / 曲輪 / 井戸
御台所曲輪 / 日の池
東武伊勢崎線・太田駅の北に位置する新田金山に築かれた城。戦国時代の関東の山城では、珍しく多くの石垣が使用されている。上杉謙信や武田勝頼の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされる。往路は東武伊勢崎線・太田駅から山上駐車場までタクシーを利用、2020年8月4日訪問時は1860円掛かっている。帰路は本丸跡にある新田神社から御台所曲輪を経て車道を下る。金山城址線から321号線を経由して、東武伊勢崎線・太田駅まで約90分掛かっている。つづら折りの金山城址線を短絡する登山道があるが、同時に降りた方と時間は変わらなかった。
文明元年(1469年)新田一族・岩松家純によって築城される。享禄元年(1528年)岩松守純のとき、家老であった横瀬成繁に奪われる。横瀬成繁は武蔵七党・猪股党の一族で、のちに由良氏を称するようになった。由良国繁と2代続き、天正12年(1584年)小田原北条氏の支配下になる。天正13年(1585年)高山定重と宇津木氏久が新田金山城の守将となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、廃城となった。
馬橋下通路 物見台 馬場曲輪
月の池 大手虎口 日の池
二の丸石垣 新田神社石段 新田神社
山上駐車場から本丸跡まで、通路 / 案内板 が整備されている。本丸跡に、新田神社 / 御嶽神社 / 梅若稲荷神社 がある。新田神社の石段は登りづらいが、右手にスロープが設けられている。
上野国・伊勢崎城
■城の種別
平城→陣屋
■築城者
那波宗俊
■築城年
室町時代(1500年代中頃)
■主な遺構
陣屋門が同聚院総門として移築され現存する。
伊勢崎陣屋跡
両毛線 / 東武伊勢崎線・伊勢崎駅より、75号線を南に進む。10分ほどの信用金庫前交差点を右折して西に進む。5分ほどすると、広瀬川に架かる栄橋の手前右手に、伊勢崎城址に伊勢崎市図書館がある。
交通]JR両毛線 / 東武伊勢崎線・伊勢崎駅-(約15分)-伊勢崎市図書館
山内上杉家の家臣・那波宗俊が築城したと云われている。築城当初は赤石城と呼ばれていた。那波宗俊は、後に小田原北条氏に寝返る。永禄3年(1560年)上杉謙信に攻撃され、落城する。所領は横瀬成繁に与えられ、伊勢崎城に改称された。横瀬成繁は武蔵七党・猪股党の一族で、横瀬氏を改めて由良を称するようになった。関ケ原の戦いの功により、慶長6年(1601年)稲垣長茂が伊勢崎藩1万石で入封して城跡に陣屋を構えた。元和2年(1616年)稲垣重綱のとき移封となり、酒井忠世が入封する。元和3年(1617年)本家・前橋藩を継いだため廃藩となり、陣屋も破却された。天和元年(1681年)酒井忠寛によって2万石で再立藩、新たに陣屋を構えた。現在城址には伊勢崎市図書館がある。
伊勢崎市図書館から北に進み伊勢崎駅に進むと、曲輪町に平治元年(1159年)創建の同聚院がある。総門は、稲垣氏時代の陣屋門を移築したもの。
陣屋門
上野国・箕輪(みのわ)
■城の種別
平山城城
■築城者
長野業尚
■築城年
永正9年(1512年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
本丸跡
箕郷(みわ)本町バス停から西へ、西明屋交差点を右折して北へ進む。道なりに進むと、右手に箕輪城大手虎韜門口がある。城の西に榛名白川 / 南には榛名沼があり、天然の堀を形成していた。甲斐の武田氏、越後の上杉氏が侵攻を繰り返す場であった。永禄9年(1566年)武田氏により落城。武田氏の上野経営の拠点と位置づけられる。天正10年(1582年)武田氏は滅亡、北条氏政の弟・氏邦が侵攻する。北条氏と織田氏による攻防が行われるが、本能寺の変後は北条氏の支配となる。天正18年(1590年)小田原征伐後は徳川家康が関東に移封、箕輪城は井伊直政に与えられる。慶長3年(1598年)高崎城に移封、箕輪城は廃城となる。
[交通]JR高崎駅-(群馬バス / 箕輪行き / 30分)- 箕郷本町バス停-(徒歩/約15分)-箕輪城大手虎韜門口-(徒歩/約15分)- 箕輪城本丸跡
城址碑 三の丸付近の石垣
上野国・高崎城(和田城)
■城の種別
平城
■築城者
和田義信
■築城年
正長元年(1426年)
■主な遺構
乾櫓・東門
土塁・堀
乾櫓
高崎駅西口から29号線を西へ、高崎市役所方向に進む。右手にある新町諏訪神社を過ぎ、堀沿いに右折して進む。左手に乾櫓や移築された東門がある。正長元年(1426年)和田義信が和田山城を築城する。天正18年(1590年)小田原合戦のとき落城、和田氏は滅亡する。慶長2年(1597年)井伊直政は和田城跡に築城する。碓井川と烏川の合流点の台地にあり、三の丸外郭の土塁と堀が残る。
[交通]JR・高崎駅-(徒歩/約15分)-高崎城乾櫓
東門
上野国・前橋城(厩橋城)
■城の種別
平城
■築城者
長野方業
■築城年
延徳年間(1489年〜1492年)
■主な遺構
石垣・堀
市内総社町に、城門が移築され現存する。 
 本丸土塁
前橋駅から北へ、109号線を左折して西へ進む。利根橋手前を右折して、利根川沿いに北へ進む。群馬県庁を囲む様に、土塁が残る。利根川の氾濫による浸食により、江戸時代中期には放棄される。文久3年(1863年)松平直克によって再築城を開始される。城址には再築前橋城の案内板がある。
[交通]JR前橋駅-(徒歩/約30分)-群馬県庁 
上野国・館林城(尾曳城)
■城の種別
平城
■築城者
赤井照光
■築城年
享禄3年(1530年)
■主な遺構
土塁 / 曲輪
■主な再建造物
土橋門 / 土塀
館林城三の丸 / 土橋門
館林駅から370号線を東へ進む。市役所前交差点の手前右手に竹生島神社がある。慶長2年(1597年)古くから信仰されていた弁才天を、鶴生田川北岸の大通り付近に建立した。後に城沼続きの池水に囲まれた現在地に移転、浮島弁天と称した。神仏習合の禁止により、明治2年(1869年)竹生島神社になった。市役所前交差点を越えると、左手に標識がある。左折すると復元された土橋門がある。
[交通]東武伊勢崎線・館林駅-(徒歩15分)-館林城土橋門
竹生島神社
土塀 土橋門 井戸
城沼を城の東側の外堀とし、沼に突き出す低台地に築城された。城の建物は明治7年(1874年)にほとんど焼失した。昭和58年(1983年)土橋門が復元された。防御用に黒色の鉄板が打ち付けられている。城跡地に、市役所 / 文化会館 / 市立図書館 / 子ども科学館 などが建てられている。
赤井照光が築城したと云われているが、築城時期 / 築城者 には諸説ある。越後国・上杉氏 / 甲斐国・武田氏 / 相模国・小田原北条氏 による攻防があった城である。天正18年(1590年)徳川家康の関東入封により、徳川四天王・榊原康政が城主となる。このとき石垣や天守を持つ城に造り変えられた。寛永20年(1643年)榊原忠次のとき陸奥国白河に転封、館林領は天領となる。正保元年(1644年)松平(大給)乗寿が入封する。寛文元年(1661年)松平乗久のとき下総国佐倉に転封、徳川綱吉が入封する。延宝8年(1680年)徳川綱吉は5代将軍になり、徳川徳松が家督を継ぐ。天和3年(1683年)徳川徳松が急死すると廃藩となり、廃城となった。宝永4年(1707年)松平清武が入封、本丸に天守代用の二重櫓 / 南曲輪と三ノ丸に二重櫓 と規模を縮小して再度築城された。享保13年(1728年)松平武元のとき陸奥国棚倉へ転封、太田資晴が入封する。享保19年(1734年)太田資晴は大坂城代となり、館林領は再度天領となり城番が置かれた。元文5年(1740年)太田資俊が入封する。延享3年(1746年)遠江国掛川に転封、松平武元が入封する。天保7年(1836年)松平斉厚のとき石見国浜田へ転封、井上正春が入封する。弘化2年(1845年)遠江国浜松へ転封、秋元志朝が入封する。秋元礼朝は戊辰戦争のとき、新政府軍に加担して関東 / 東北方面 に部隊を派遣した。明治7年(1874年)廃城になる。