相模国 最新の追加
相模国・怒田(ぬた)
■城の種別

■築城者
三浦為継
■築城年
平安時代末期
■遺構
空堀 / 曲輪
曲輪(西側)

JR久里浜駅から東に進み、すぐに平作川に平行する134号線を北西に進む。すぐに平作川を斜めに渡り、対岸を北西に進む。最初の交差点を右折して北東に進む。京浜急行久里浜線の高架下を潜らず、手前を左折して北に道なりに進む。京浜急行久里浜線の踏切を越えると、すぐ右手に京浜急行の久里浜変電所がある。直進するとT字路に突き当り、右折すると急坂の登り口がある。登り口に吉井貝塚案内板があり、怒田城も記載されている。
[交通]JR久里浜駅-(徒歩25分)-怒田城登り口

吉井貝塚案内板
京浜急行の久里浜変電所がある丘陵一帯が吉井貝塚で、往時は海に面していた。縄文時代初期〜古墳時代後期の土器 / 石器 / 骨角器 / 住居跡 が出土している。漁労関係のものは当時の漁法を知る上で大変貴重なものとされる。吉井貝塚遺跡として整備されており、案内板が各所に設置されている。
*地図の太い茶色の線は遊歩道。
吉井貝塚案内板から抜粋
登り口から急坂を登ると、曲輪(西側)がある。ここは弥生時代から古墳時代の竪穴住居址。
曲輪(西側) / 遊歩道
空堀 曲輪(東側) 曲輪(東側)からの眺望
東方向に進むと空堀と土橋がある。 浅い空堀は草が生い茂って解りづらい。空堀に架かる土橋は、土留めされた階段としか見えない。この曲輪(東側)は縄文時代の竪穴住居址。怒田城の主郭だったと思われる。

ここは三浦一族の水軍の基地・怒田城跡でもある。三浦為通は前九年の役での功により、源頼義から相模国三浦の領地を与えられる。怒田城は、平安時代末期に三浦為通の嫡男・三浦為継によって築城されたと云われている。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した三浦一族の水軍の基地であつた。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵、平家方の秩父氏と源氏方の三浦氏による戦いが衣笠で起きる。和田義盛は要塞堅固な怒田城で戦うことを主張したが、衣笠城に立て籠もることになった。衣笠城の落城寸前に三浦氏は怒田城に逃れ、船に乗って安房に落ち延びたと云われている。
城郭としては古い縄張りで、後の時代に城としては利用されていないとされる。

相模国・浦賀城
■城の種別
海城(山城)
■築城者
三浦義同(三浦道寸)
■遺構
空堀 / 曲輪
浦賀城主郭
京急・浦賀駅の南側に浦賀駅前交差点があり、208号線から209号線が分岐する。208号線は浦賀海道の西側 / 209号線は浦賀海道の東側 を通る。浦賀駅前交差点から209号線を南東に進む。10分ほどすると分岐があり、右折して旧道を進む。桝形を思わせる道筋で、5分ほどの突き当たりに横須賀新町郵便局がある。風景印は、ペリー上陸記念碑 / 黒船 / ペリー の図柄になっている。
横須賀新町郵便局風景印
叶神社(東浦賀)前の浦賀海道 叶神社(東浦賀)

横須賀新町郵便局から右折すると、正保元年(1644年)創建の叶神社(東浦賀)に突き当たる。叶神社(西浦賀)は養和元年(1181年)に京都・石清水八幡宮を勧請したのが始まり。浦賀村が東西に別れたとき、別れたと云われている。鳥居右手に、2019年造立の日西墨比貿易港之碑がある。
[交通]京急・浦賀駅-(徒歩20分)-叶神社(東浦賀)

 日西墨比貿易港之碑
勝海舟断食の跡碑 叶神社(東浦賀)奥の院 招魂塔

数え間違いがなければ、社殿まで33段の石段 / 社殿左手より薄暗い急な223段の石段 を登る。223段の石段の途中に、勝海舟断食の跡碑がある。勝海舟は咸臨丸出航前に、当地で断食修行をしたと云われている。明神山山頂が主郭で、叶神社(東浦賀)奥の院 / 大正9年(1920年)造立の招魂塔 がある。

永正13年(1516年)に滅亡した相模三浦氏の最後の当主・三浦義同(三浦道寸)によって築城されたのが始まり。安房里見氏からの攻撃に備えて小田原北条氏・北条氏康が三崎城の支城として改修、北条水軍の拠点として使われた。安房里見氏と小田原北条氏との天正5年(1577年)房相一和後、または天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。
主郭からの浦賀海道
相模国・丸山城
■城の種別
平城
■築城者
上杉定正
■築城年
明応4年(1495年)以降
■遺構
土塁 / 空堀 / 曲輪
丸山城主郭
小田急・伊勢原駅北口から西に進み、すぐの十字路を右折して北に進む。すぐの伊勢原駅入口交差点を右折して北東に進む。10分ほどすると市は北に進路が変わる。5分ほどすると渋田川に架かる道潅橋がある。道潅橋を渡る手前右手に太田道灌の菩提寺・大慈寺がある。大慈寺は建長寺の末寺として鎌倉に創建されたのが始まり。
大慈寺
道潅橋を渡る手前を左折して渋田川沿いに進むと、すぐ左手に太田道灌首塚がある。文明18年(1486年)太田道灌は、扇谷・上杉定正によって府第(ふてい)におびき出され謀殺された。
太田道灌首塚
道潅橋を渡り北に坂を登る。すぐの交差点を左折すると、すぐ右手の丸山城の郭だったところに高部屋神社がある。延喜式神名帳に記載されている相模国の延喜式内社十三社とされる。慶応元年(1865年)拝殿が再建される。正保4年(1647年)再建の本殿は大正12年(1923年)関東大震災で倒壊、昭和4年(1929年)に柱 / 彫刻 / 正面扉 等をそのまま使用し再建された。
[交通]小田急・伊勢原駅-(徒歩20分)-高部屋神社
高部屋神社
交差点まで戻り、左折して北に進み坂を下る。すぐの246号線の北ノ根交差点を左折するとすぐ右手に丸山城入口がある。246号線を南西方向に進むと、左手の高部屋神社のある丘 と右手の城址公園に歩道橋が架かっている。246号線が堀の様に見える。
北ノ根交差点側からの丸山城址公園 左:高部屋神社方向 / 右:丸山城跡
丸山城入口を進み木橋の階段を登ると、広い主郭がある。西側に柵で囲まれた土塁がある。 西側奥の木橋の階段を下ると、主郭を回り込む郭に遊具が置かれている。
土塁 木橋の階段(西側)
丸山城は糟屋(かすや)有季館跡に築城されたと云われている。糟屋氏は、平安時代末期に藤原北家・藤原冬嗣の子孫が相模国大住郡糟屋荘(現:神奈川県伊勢原市)の荘司となったことに始まると云われている。糟屋盛久は、治承4年(1180年)源頼朝挙兵では平家方として石橋山の戦いに大庭景親の軍に従っている。その後は源頼朝に臣従、糟屋盛久の嫡男・糟屋有季は寿永3年(1184年)宇治川の戦いや文治5年(1189年)奥州合戦に参加している。建仁3年(1203年)比企の乱が起きる。糟屋有季の妻が比企能員の娘であったことから、と云われている。比企能員の娘婿だった糟屋有季は、北条義時軍と戦い討ち死にした。
室町時代になり、糟屋荘は鎌倉公方を補佐する関東管領・上杉氏が領することになる。明応4年(1495年)伊勢宗瑞(北条早雲)は、大森藤頼から小田原城を奪取して西相模に進出する。扇谷・上杉定正は、相模国に進出した伊勢宗瑞に備えるために糟屋有季館跡に丸山城を築城したと云われている。発掘調査で障子堀が発見されており、小田原北条氏により改修されたと云われている。障子堀は埋め戻されている。
小田急・伊勢原駅までの帰路、246号線を南西に進む。10分ほどの市役所を左折して南東に進むと、すぐ左手に伊勢原郵便局がある。風景印は、大山 / 大山ケーブルカー / 竹ヘビ の図柄になっている。
伊勢原郵便局風景印
相模国・大庭城
■城の種別
平山城
■築城者
鎌倉景正(景政)
■築城年
平安時代末期
■主な遺構
土塁 / 堀 / 曲輪
曲輪
小田急江ノ島線・善行駅から西に直線距離2kmほどのところに大庭城址公園がある。往復とも小田急江ノ島線・善行駅を利用しているが、迷い易くアップダウンも多い。帰路は頼みの綱のナビが固まり、道を尋ねる始末となる。JR東海道本線・藤沢駅北口から湘南台駅西口行きバスに乗車、舟地蔵バス停で下車するのが解り易い。
舟地蔵交差点の北西側に舟地蔵がある。永正9年(1512年)扇谷上杉家の支配する大庭城を伊勢宗瑞(北条早雲)が攻めるが、平地から攻めると沼地に阻まれて攻めあぐねる。ぼた餅を売っていた老婆が、引地川の堤を切れば水が抜けて沼地ではなくなることを教えた。このことが扇谷上杉家側に知らない様に老婆は斬り殺されてしまった。引地川の堤を切って水を抜き、大庭城は攻略された。近隣の者は殺された老婆を哀れみ、霊を慰めるため造立した地蔵とされる。台座が舟型となっていることから舟地蔵と呼ばれている。
舟地蔵
竪穴式住居跡広場 左:木々に覆われた空堀 空堀
曲輪(花の広場) 曲輪(館址広場) 南側の登城道

舟地蔵から北に進み、すぐに鋭角に左に進むとすぐ右手に大庭城公園の南口がある。土留された階段から土道を登る道は、登城道らしい雰囲気がある。川沿いに進み、5分余りの十字路を右折して湘南大庭1号線を道なりに進む。5分余りの右手に大庭城址公園西口がある。石畳の道は整備され過ぎの感がある。往路は西口、帰路は南口を利用している。
大庭城址公園西口から整備された石畳を登り切ると、左手に竪穴式住居跡広場がある。大庭城址公園のある丘陵は、縄文からの遺物が散布している。大庭城が築城される前から集落が形成されていた。弥生時代以後は、東側の引地川 / 西側の小糸川 流域に水田が開かれていた。
竪穴式住居跡広場から東に進むと、大庭城址案内板がある。空堀が東に延びているが、木々に覆われて解りにくい。木々に覆われた空堀沿いに進むと、曲輪(花の広場)がある。大庭城址案内板から南に進むと、曲輪(館址広場)がある。さらに南に下ると、南入口に出る。

起伏に富んだ引地川親水公園 引地川親水公園 / 東側の丘陵 引地川
大庭城址公園の東側に、引地川に面して引地川親水公園がある。さらに東側には小高い丘陵が拡がる。引地川親水公園辺りも城域だったと思われる。

平良文の子孫とされる鎌倉景成は、相模国鎌倉(現:鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜にあったとも云われている。子の鎌倉景正(景政)は大庭城を築城、子の景継より大庭氏を名乗る。源頼朝を石橋山で破った大庭景親は鎌倉景正(景政)の曾孫。
文明年間(1469年?1487年)初めに扇谷上杉氏・上杉定正東が相模における拠点として、家宰の太田道灌が大改修をして東相模の要衝とした。かなりの規模の城であった。永正9年(1512年)伊勢宗瑞(北条早雲)は扇谷上杉家の支配する大庭城を攻撃、落城させる。大庭城は攻略された後にも改修された。天正18年(1590年)小田原征伐で小田原北条氏が滅ぼされると廃城となる。

引地川西岸から東岸に橋を渡り直進する。すぐの突き当りを右折すると左手に大庭神社の鳥居がある。石段を登り薄暗い土道を道なりに進むと、小高い丘陵の中腹に社殿がある。延長5年(927年)の延喜式神名帳に記載された相模国の延喜式内社十三社の一社とされる。
大庭神社鳥居 大庭神社社殿
大庭神社の鳥居から北に進みすぐに右折すると、突き当りに文和年間(1352〜56年)の創建と云われる成就院がある。藤沢宿の感応院の末寺で、以前は宝染院と称していた。明治の神仏分離令以前は大庭神社の別当寺だった。
成就院本堂
[寄り道]藤沢大庭郵便局
大庭城址公園西口から湘南大庭1号線を南に進む。5分余りで橋を渡り、すぐに左折して南に進む。すぐに舟地蔵交差点から延びる藤沢平塚線に突き当り、右折して西に進む。5分足らずのT字路を左折して湘南大庭401号線の坂を登る。5分足らずのT字路を右折して道なりに進むと、すぐ左手に藤沢大庭郵便局がある。風景印は、東海道五十三次・藤沢 / 大庭城址公園 の図柄になっている。
藤沢大庭郵便局風景印
相模国・大庭景親居館
宗賢院山門 宗賢院本堂 宗賢院裏手
舟地蔵交差点から43号線を南に進むと、10分足らずの右手に永正2年(1505年)創建の宗賢院がある。大庭景親の居館は、宗賢院の裏側辺りの台地にあったのではないかと云われている。大庭景親は治承4年(1180年)源頼朝が挙兵すると平家方に付き、石橋山の戦いで源頼朝を撃破した。源頼朝が安房国に渡り東国武士団を従えて鎌倉入りを果たすと、平家軍に合流しようとするが阻まれ河村山に逃れた。富士川の戦いで平維盛が敗走すると降伏、片瀬で処刑された。
相模国・玉縄城(甘縄城)
■城の種別
平山城
■築城者
伊勢宗瑞(北条早雲)
■築城年
永正10年(1513年)
■主な遺構
土塁 / 堀切 / 曲輪
■主な再建造物
模擬冠木門
玉縄城本丸跡
丘陵上に築かれた玉縄城は、壮大な縄張りの堅城だった。外堀が柏尾川と繋がり、舟で相模湾に出ることができた。周囲には、二伝寺砦 / 長尾砦 などが設けられていた。大船観音がある辺りには、物見を兼ねた砦があった。
JR大船駅南改札から西口歩行者デッキを出ると、大船観音が良く見える。昭和4年(1929年)に築造が開始され、昭和35年(1960年)に竣工した。大船観音がある辺りには、物見を兼ねた砦があった。この小高い丘は住宅地が広がっている。
大船観音
玉縄首塚 五輪塔 石碑

西口から柏尾川を渡り、大船駅前交差点を左折して402号線南に進む。10分足らずで、北側をほぼ平行する旧道に鎌倉岡本郵便局がある。旧道の北東方向に玉縄首塚がある。大永6年(1526年)安房国・里見実堯が鎌倉に攻め込んだとき、玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)が応戦する。戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となり、両軍ともに多くの戦死者を出した。小田原北条氏方では戦死した甘糟氏を始め35名の将を供養した塚と云われている。中央の五輪塔が首塚と云われ、塚の脇に昭和43年(1968年)造立の石碑がある。
鎌倉市岡本2-2-20

龍宝寺山門 旧石井家住宅 龍宝寺本堂

402号線を南西に進むと、5分ほどで402号線は山崎跨線橋北交差点から直角に曲がり北に進む。10分足らずの右手に元禄年間(1688年〜1704年)頃の建立と云われる龍宝寺の茅葺山門がある。参道を進むと、右手に江戸時代中期(1601年〜1700年)築の旧石井家住宅(重文) / 正面に本堂 がある。龍宝寺は玉縄城の南東方向にあり、文亀3年(1503年)玉縄城3代目城主・北条綱成が創建した瑞光院が始まり。天正3年(1575年)玉縄6代目城主・北条氏勝が現在の地に移して龍宝寺と改称した。玉縄北条氏の菩堤寺で、七堂伽藍が建ち並ぶ寺院だったと云われている。
鎌倉市植木128

七曲坂入口 土留された階段 模擬冠木門
龍宝寺山門の北西方向に、鎌倉みどりこども園がある。北側に玉縄城の東側から本丸へ続く七曲坂入口がある。くねっている登城道で、ほぼ直角に曲がるところに模擬冠木門がある。登り切ったところは住宅地が広がり、登城道と言うより生活道になっている。登り切って左手方向に進むと、太鼓櫓跡がある。太鼓櫓跡から焔硝蔵(火薬庫)跡 / 堀切 が見える筈であったが、木々に覆われて確認することはできない。通常に見学することができる玉縄城の遺構は、七曲坂〜太鼓櫓跡の範囲となる。
[交通]JR大船駅-(徒歩10分)-玉縄首塚-(徒歩15分)-龍寶寺-(徒歩5分)-七曲坂入口
太鼓櫓跡
道なりに西に進む。すぐ右手に本丸 / 城の最高部にある諏訪壇 があるが、清泉女子学園の敷地となっており立ち入ることはできない。周辺は二階建て住宅が建ち並び、画像は唯一の切れ目より見えた本丸跡。玉縄城跡の壮大な縄張りの堅城は想像できない。
玉縄城本丸跡
本堂側からの山門 二伝寺本堂 旧鎌倉街道
玉縄城本丸の南西方向、直線距離1kmm余りのところに二伝寺砦跡がある。永正2年(1505年)玉縄城の初代城主・北条氏時によって創建された二伝寺は、砦の役割を担うため寺が創建されたと云われている。門前を旧鎌倉街道が通る。
藤沢市渡内3-13-1

明応4年(1495年)伊勢宗瑞(北条早雲)は、大森藤頼から小田原城を奪取して西相模に進出した。次に相模国を把握するため、東相模の三浦半島を本拠地とする相模三浦氏を倒す拠点として永正10年(1513年)玉縄城を築城する。永正13年(1516年)相模三浦氏滅亡後は、小田原城の盾として重要視された。城主には伊勢宗瑞(北条早雲)の次男・北条氏時を始めとして、代々小田原北条氏一門が置かれた。
大永6年(1526年)北条氏綱と安房国・里見義豊が戦った大永鎌倉合戦を始め、里見氏のたびたび攻撃を退けている。上杉謙信や武田信玄が相模国に侵攻したとき、攻略を諦めたほどの堅城であったとされる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、玉縄城主・北条氏勝は山中城の守備に就いていた。山中城の落城が迫り自害を考えるが、弟・北条直重らに諌められて玉縄城に落ち延び籠城した。徳川家康軍に包囲されたが、龍宝寺住職・良達の説得により開城する。北条氏勝は、下総国の小田原北条方の城の降伏開城に尽力する。戦後は徳川家の家臣となり、下総国岩富城1万石の領主となり岩富藩を立藩した。
天正18年(1590年)徳川家康の関東入国後も玉縄城は重要視された。元和3年(1617年)大河内松平家・松平正綱2万2000石で入封する。元禄16年(1703年)松平正久は上総国大多喜藩に移封となり、玉縄城は廃城となった。

相模国・河村城(戸張城 / 猫山城)
■城の種別
山城
■築城者
河村秀高
■築城年
平安時代末期
■主な遺構
曲輪 / 堀
河村城址碑
JR御殿場線・山北駅改札口を出ると、山北循環バスが停車している。ボンネット型とレトロ調の2台で運行されている。
ボンネット型循環バス レトロ調循環バス
ふるさと交流センター設置スタンプ
右手にふるさと交流センターがある。跨線橋でJR御殿場線を越え右方向に進むと、奥まったところに山北鉄道公園がある。国鉄最大の貨物用機関車D52 70が保存されている。平成31年(2019年)4月に撮影。
D52 70
明治22年(1889年)東海道本線の駅として山北駅が開業する。箱根越えの厳しい勾配区間が連続、補助機関車(補機)の基地として機関区が置かれ活況を呈する様になった。機関区では多くの蒸気機関車が待機、大量の煙を上げていたために「山北の雀は色が黒い」という言葉があった。昭和9年(1934年)丹那トンネルの開通により、東海道本線は国府津駅〜熱海駅〜沼津駅の経路になる。国府津駅〜山北駅〜御殿場駅〜沼津駅は、御殿場線と幹線からローカル線へと変わった。
跨線橋でJR御殿場線を越え右方向に坂道を登ると標識があり、左折して南に進む。道なりに進み、246号線を潜ると坂道になる。すぐのY字路を右に進むと、盛翁寺がある。
盛翁寺本堂 盛翁寺観音堂
Y字路を左に進むと、河村城入口石標がある。すぐの駐車場に、河村城址石標 / 案内板 がある。
[交通]山北駅改札口-(徒歩15分)-河村城駐車場
河村城入口石標 河村城址石標
穏やかな階段 急斜面の階段 本城郭への急斜面の階段
ここから本城郭まで15分ほど掛かるが、坂道〜穏やかな階段〜急斜面の階段と、徐々にきつくなる。本城郭への急斜面の階段は登らず、茶臼郭〜お姫井戸〜本城郭の経路を辿る。お姫井戸は、落城した城主の姫が身を投じたと云う哀話がある。井戸はないが、湧き水が溜まっているところがある。
茶臼郭 お姫井戸
冠木門 本城郭
冠木門を潜ると、南北に広い本城郭に城址碑 / 社 がある。社の裏手から畝堀が見えるが、雑草が生い茂り解りずらい。標識があり馬出郭方向に進むが、雑草で道が解らなくなる。
畝堀
本城郭と蔵郭間に架かる橋 本城郭と蔵郭間の掘 蔵郭
本城郭から蔵郭間に架かる橋から深い堀が見える。
蔵郭側から見た橋 橋からの障子堀 近藤郭
蔵郭と近藤郭の間にも橋が架かっている。この橋は城郭愛好家には、景観を損ねていると評判が悪い様である。近藤郭側から見ると、コンクリートが目立つ。公園整備が中途半端で、山林化して遺構が解りづらい等々の批判もWEBに見られる。
大庭郭 眺望
近藤郭から大庭郭に進むと、高原の道を歩いている感じになる。下り坂になったところから酒匂川が見え、ここから往路を引き返す。

相模国 / 甲斐国 / 駿河国の境界線が交差する要衝の近くにある。西側と南側を蛇行する酒匂川が流れている。
平安時代末期、河村城は藤原秀郷の一族である波多野遠義の次男・河村秀高よって築城されたと云われている。治承4年(1180年)石橋山の戦いのとき、河村秀高の子・河村義秀は平家に味方した。領地を没収され死罪になるところ、鶴岡八幡宮の流鏑馬で妙技を披露したことにより助命される。相模国河村郷の所領も安堵された。
南北朝時代は南朝方の新田氏に従い、北朝方の足利尊氏と対峙した。正平7年 / 文和元年(1352年)河村秀国 / 河村秀経 は新田義貞の次男・新田義興 / 脇屋義治 と籠城、畠山国清と攻防戦を繰り広げた。正平9年 / 文和3年(1354年)南原の戦いで河村秀国 / 河村秀経 は討死、河村城は落城する。新田義興は、河村城の支城・中川城を経て甲斐国に逃れたと云われている。
畠山国清 / 関東管領・上杉憲実 が支配するところとなる。さらに第4代鎌倉公方・足利持氏の家臣・大森憲頼の支配するところとなる。明応4年(1495年)韮山城主・伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪取すると、河村城は小田原北条氏の支配下に置かれる様になった。永禄12年(1569年)武田氏の攻撃により落城するが、元亀元年(1570年)北条氏康により奪還される。天正元年(1573年)まで改修工事が行われた。その後も周辺の諸城とともに小田原北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
天正18年(1590年)小田原征伐のとき開城、徳川家康が関東に入ると廃城となった。

山北駅発着の列車は、日中は1時間に1本の運転となっている。平成31年(2019年)に山北鉄道公園を訪れたとき時間があり、足を伸ばす。JR御殿場線・山北駅前の道を東に進む。15分足らずの右手に山北郵便局がある。風景印は、洒水の滝 / 室生神社の流鏑馬 の図柄になっている。
山北郵便局風景印
相模国・毛利季光屋敷
■城の種別

■築城者
毛利季光
■築城年
鎌倉時代初期
岡田三島神社

小田急線・本厚木駅南口より東に進むと、すぐに駅南口入口交差点がある。直進すると、すぐ左手に厚木旭郵便局がある。風景印は、大山 / 駅前のブロンズ像 / 市木・モミジ の図柄になっている。駅南口入口交差点を南に進む。5分ほどの旭町二丁目交差点を左折して東に進む。5分足らずで601号線と交差、右折して601号線を南西に進む。すぐに変則五差路の旭町四丁目交差点があり、601号線と別れて南に進む。15分ほどすると、右手に岡田三島神社がある。
[交通]本厚木駅南口-(徒歩30分)-岡田三島神社

厚木旭郵便局風景印
毛利季光屋敷は恩曽川の西に面した台地にあったとされ、岡田三島神社は屋敷跡の一画と云われている。
岡田三島神社社殿 岡田三島神社鐘楼

大江広元の四男・大江季光は、相模国毛利荘を相続して毛利氏を名乗った。承久3年(1221年)承久の乱が起こると、北条泰時に従って後鳥羽上皇側の勢力と戦う。美濃国・木曽川の戦い / 山城国・宇治川 淀川の戦い に活躍する。この功によって安芸国吉田荘の地頭となった。
宝治元年(1247年)執権北条氏と有力御家人・三浦氏の対立から宝治合戦が起きる。毛利季光は妻の実家・三浦氏に味方して敗北、鎌倉法華堂で息子の広光 / 光正 / 泰光 / 師雄 と共に自刃した。越後にいた毛利季光の四男・毛利経光が残ったに過ぎなかった。毛利経光は同族・長井時広の取り成しもあり、越後国刈羽郡佐橋荘 / 安芸国吉田荘 の領有は許された。大江広元の次男・長井時広は兄・大江親広が承久の乱で失脚すると、大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した人物。
毛利経光は、嫡男・毛利基親に越後国刈羽郡佐橋荘 / 四男・毛利時親に安芸国吉田荘 を継がせている。毛利基親の家系には、安田氏 / 北条(きたじょう)氏 が知られている。毛利時親の家系には、吉田荘の国人領主から芸備防長雲石の六ヶ国を支配した毛利元就が出ている。

相模国・石垣山城(石垣山一夜城)
■城の種別
山城
■築城者
豊臣秀吉
■築城年
天正18年(1590年)
■主な遺構
石垣 / 曲輪 / 堀切 / 井戸
南曲輪石垣
箱根登山鉄道・入生田(いりうだ)駅から線路沿いに北東に進む。すぐに右折して箱根登山鉄道線路を潜る。すぐに138号線と交差、直進して坂道を道なりに進み早川を渡る。標識のない荒れた急坂をひたすら登ると、左手に石垣山一夜城歴史公園 / 右手に駐車場 がある。JR東海道本線・早川駅には、標識が整備され補修された急坂をひたすら下る。東海道新幹線高架下 / 東海道本線高架下 を続いて潜ると、135号線と交差する。右折して南に進むと、右手にJR東海道本線・早川駅がある。
[交通]箱根登山鉄道・入生田駅-(徒歩90分)-石垣山一夜城歴史公園-(徒歩60分)-JR東海道本線・早川駅
二の丸石垣 二の丸石垣 櫓跡
井戸曲輪 小田原市街望見

天正18年(1590年)豊臣秀吉は小田原城を攻略のため、水陸15万の軍勢で包囲していた。小田原城の西3kmにある笠懸山に総石垣で築城したことから、石垣山と呼ばれる様になった。延4万人を動員、昼夜兼行の突貫工事で天正18年(1590年)4月から6月までの約80日で築城したと云われている。10日後に北条氏直は降伏して小田原城は開城する。
小田原城から見えない様に築城を進め、ある程度完成したところで周囲の木を伐採した。関東に総石垣造りの城がない当時、眼前に総石垣の白亜の城が出現した。まるで一夜にして築城されたかの様に見せることにより、小田原城将兵の戦闘意欲を失わせる効果を果たしたと云われている。石垣山一夜城の別名はこれに由来する。また塀や櫓の骨組みを造り白紙を張って白壁のように見せかけ、周囲の木を伐採したとも云われている。
櫓を備えた本格的な城郭で、関東で最初に造られた総石垣の城であったと云われている。豊臣秀吉は石垣山城に淀君ら側室 / 千利休 を呼び、茶会を開いたり天皇の勅使を迎えた。
小田原城開城後、小田原城主となった大久保忠世の預かりになったと云われている。用済みとなった陣城であり、まもなく廃城になったと云われている。関東大震災で石垣に被害を受けている。

相模国・鎌倉幕府跡
治承4年(1180年)大倉に源頼朝が館を構えてから、元弘3年 / 正慶2年(1333年)新田義貞による鎌倉攻めにより鎌倉幕府が滅びるまで、政治の拠点だったところである。
美濃路(みのじ)は江戸時代に、東海道・熱田宿(宮宿)と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(脇街道)である。熱田神宮の西側を通る美濃路(伏見通り)沿いの左側に、右大将頼朝公誕生地碑がある。源義朝の正室・由良御前は熱田大宮司・藤原季範の娘で、久安3年(1147年)別邸で源義朝の三男・源頼朝を生んだと云われている。源頼朝は三男であったが、生母の身分が高かったため嫡男として遇されていた。長男・源義平は平治の乱後の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原で処刑された。次男・源朝長は、平治元年(1160年)負傷した傷が悪化して死亡した。
源頼朝出生地
頼朝墓 白幡神社 大倉幕府跡碑
頼朝は建久10年(1199年)に亡くなり、持仏堂に葬られた。墓は安永8年(1779年)薩摩藩8代当主・島津重豪によって造立されたもの。島津家の祖・島津忠久は鎌倉幕府の御家人で、源頼朝ご落胤説がある。源頼朝墓への石段手前に明治5年(1872年)創建の白幡神社があり、この道を南に進む。すぐの十字路の北東側、清泉小学校側角に大倉幕府跡碑がある。治承4年(1180年)大倉に館を構えて政治の拠点とした跡と云われている。建久3年(1192年)征夷大将軍に任ぜられた。大倉幕府跡碑がある清泉小学校周辺が、嘉禄元年(1225年)宇都宮辻子(うつのみやずし)に移るまで政治の中心地であった。

大倉幕府跡碑から南に進むと、すぐに金沢街道に突き当たる。右折して西へ進むと、すぐに金沢街道は南西方向に向きを変える。すぐのT字路は、右折すると八幡宮前交差点に至る道。直進して次の小路を右折すると、変則十字路の西側に若宮大路(わかみやおおじ)幕府碑がある。若宮大路幕府は、嘉禎2年(1236年)〜元弘3年 / 正慶2年(1333年)迄の98年間、鎌倉幕府が置かれた場所である。以前は宇都宮辻子にあったが、北条泰時により移された。移転の理由は解っていない。また宇都宮辻子幕府を増改築した説 / 若宮大路に面する様になったため名称が変わった説 など、詳細は解っていない。元弘3年 / 正慶2年(1333年)新田義貞による鎌倉攻めにより鎌倉幕府と共に終焉を迎えた。

若宮大路幕府碑
左折して道なりに進むと、若宮大路にある鎌倉雪ノ下郵便局に北側に出る。風景印は、鶴岡八幡宮 / 流鏑馬神事 の図柄になっている。
鎌倉雪ノ下郵便局風景印
太鼓橋 舞殿 本宮
右折して若宮大路を北に進むと、突き当りに康平6年(1063年)由比郷鶴岡に創建したのが始まりの鶴岡八幡宮がある。治承4年(1180年)源頼朝によって、現在の地である小林郷北山に移される。

鎌倉雪ノ下郵便局から若宮大路を南に進む。すぐの鎌倉彫資料館角を左折して、小路を進む。すぐの突き当たる手前右手に、宇都宮稲荷神社がある。この辺りは嘉禄元年(1225年)〜嘉禎2年(1236年)の11年間、宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府がが置かれたところ。宇都宮辻子幕府の名称は、鎌倉にあった小道(辻子)に南面していたことに由来する。幕府有力御家人・宇都宮朝綱の居館がこの界隈にあったことから、宇都宮辻子と呼ばれていた。

宇都宮稲荷神社

鎌倉幕府3代執権・北条泰時によって大倉から宇都宮辻子北側に移転した。建保7年(1219年)3代将軍・源実朝は公暁に襲われて落命、源頼朝の嫡流は絶える。源氏の流れを汲む九条頼経を迎えることとなったが、頼経は未だ2歳であった。将軍不在期間が生じることとなり、北条泰時は合議制の方針を表明する。嘉禄元年(1225年)幕府の中核となっていた北条政子や大江広元が相次いで死去、この流れを断ち切り心機一転を図る目的で宇都宮辻子への移転が行われた。

[寄り道]鎌倉郵便局
若宮大路を南へ進む。10分ほどの鎌倉駅入口交差点を越えると、すぐ左手に鎌倉郵便局がある。 風景印は、鎌倉大仏 / 由比ガ浜 / 大銀杏の葉 の図柄になっている。
鎌倉郵便局風景印
相模国・梶原景時館
■城の種別

■築城者
梶原景時
■築城年
鎌倉時代初期
梶原景時館址石柱
車地蔵 梶原景時館址 天満宮
JR相模線・寒川駅から北へ、寒川駅北口交差点を左折して西へ進む。岡田西交差点で旧中原街道と交差、左折して旧中原街道を南へ進む。すぐのJR相模線の踏切を越え、すぐの交差点を右折する。すぐ左折して南西へ進む。JR相模線の踏切を越えてから5分ほどのところの左手に、慶長2年(1597年)造立の車地蔵がある。車地蔵から5分ほどすると、47号線に突き当たる。47号線の南側は梶原景時館址で、梶原景時館址石柱 / 天満宮 がある。梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、大庭氏とは同族。梶原景時は治承4年(1180年)源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救ったことで知られている。源頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府成立の後に一之宮を所領として館を構えた。頼朝の死後は御家人らにうとまれ、鎌倉を追放される。正治2年(1200年)再起を期し上洛するため一之宮を出立するが、途中で北条方の攻撃を受け清水で討ち死にした。
梶原景時館跡から東へ進む。すぐ右手の一の宮西自治会館に、地蔵 / 地蔵 / 丸石道祖神 がある。
地蔵 / 地蔵 / 丸石道祖神
濱降祭駐興記 箙の梅案内板 伝梶原七士の墓
一の宮西自治会館からすぐの右手に、濱降祭駐興記 / 「梶原伝七の墓」標識がある。浜降祭は神奈川県無形民族文化財に指定されている。寒川神社の神事として行われていた。茅ヶ崎・鶴嶺八幡宮でも同様の祭りを行っていたため、合わせて茅ヶ崎海岸浜降祭となった。右折して突き当りを右折すると、左手に箙(えびら)の梅案内板 / 伝梶原七士の墓 がある。箙の梅は寿永3年(1184年)源平生田の森合戦で、梶原景時長男・梶原景季が梅の枝を箙に差して戦った故事。神戸の生田神社に遺跡があり、能や浄瑠璃の題材となった。伝梶原七士の墓は、梶原景時の家臣たちの墓と云われている五輪塔などがある。
相模国・高麗山城
■城の種別
山城
■築城者
伊勢宗瑞(北条早雲)
■築城年
永正7年(1510年)
■主な遺構
曲輪 / 堀切
高麗山 / 花水川
JR東海道本線・大磯駅より東に進む。すぐの十字路を左折して旧東海道を北東に進む。10分ほどのY字路を左に進み、JR東海道本線を潜る。5分ほどの高来(たかく)神社入口交差点を左折すると、突き当りに高来神社 / 高麗山登り口 がある。
[交通]JR東海道本線・大磯駅-(徒歩20分)-高来神社
高来神社の鳥居を潜ると、右手に慶覚寺 / 直進すると突き当りに高来神社 がある。
慶覚寺 高来神社
高句麗は668年に滅亡、相模国大磯に渡来した高麗人によって高麗神社が創建された。養老元年(717年)高麗山に高麗寺が創建され神仏習合となる。高麗寺は室町時代に数度の戦火に見舞われ、荒廃した。江戸時代に徳川家によって上野寛永寺の末寺となり、東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。山頂の大堂 / 西側の西天照 / 東側の東天照で三権現と呼ばれた。明治元年(1868年)神仏分離令により、高麗寺は廃寺となる。慶覚寺は高麗寺の地蔵堂が始まりで、高麗権現の本地仏と云われる千手観音が移された。明治30年(1897年)高来神社に改称する。社殿は高麗寺の旧観音堂である。
高麗山は高来神社入口交差点から5分ほどの花水川に架かる花水橋からの撮影。

永正7年(1510年)伊勢宗瑞(北条早雲)によって高麗寺を利用して築城された。主郭は山頂にあった。扇谷上杉配下の三浦義同によって落城している。
高麗山には永享10年(1438年)永享の乱のとき、足利持氏討伐軍の上杉持房が陣を構えた。また永禄3年(1560年)上杉謙信が小田原城を攻めたとき陣を構えた。

相模国・小田原城(小峰城)
■城の種別
平山城
■築城者
大森頼春
■築城年
応永24年(1417年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀 / 郭
■主な再建造物
天守 / 二の丸御殿 / 二の丸隅櫓 / 銅門 / 常磐木門
復興天守
おしゃれ横丁入口 北条氏政 / 北条氏照 墓所
JR / 小田急・小田原駅東口から南東に進む。すぐの小田原駅東口交差点を左方向に直進する。すぐ左手におしゃれ横丁入口がある。すぐ道は左に折れ、すぐ右に折れる。すぐ右手の高台に北条氏政 / 北条氏照 の墓がある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏は降伏して小田原城は開城する。4代・北条氏政と弟・北条氏照は切腹を命じられる。城下の田村安斉邸で自刃、遺骸は早雲寺の末寺・伝心庵に葬られた。伝心庵は江戸時代に寺町の地へ移転、墓所のみが残る。墓所には、北条氏政 / 北条氏照 / 氏北条政夫人 のものと云われる五輪塔がある。5代・北条氏直は徳川家康の娘婿であることから特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。
おしゃれ横丁 墓所前 墓所→小田原城址間
令和3年(2021年)に再度訪れる。おしゃれ横丁と墓所前のマンホールが案内板になっていた。また墓所→小田原城址間にも同様のマンホールが設置されていた。
おしゃれ横丁入口まで戻り南へ進む。すぐの錦通入口交差点を直進する。すぐの栄町交差点を過ぎると、すぐ左手に三の丸土塁跡がある。すぐのT字路を左折すると、すぐ右手に小田原郵便局がある。風景印は、小田原城天守閣 / 梅 の図柄になっている。
三の丸土塁跡 小田原郵便局風景印
T字路まで戻り、南に進む。すぐのお堀端通り交差点を過ぎると、すぐ右手に小田原城址公園がある。
[交通]JR/小田急電鉄・小田原駅-(徒歩/約10分)-小田原城址公園
小田原城址公園
二の丸隅櫓(再建) 常磐木門(再建) 銅門(再建)
駿河国を本拠としていた大森頼春は相模国・伊豆国方面に勢力を広げ、応永24年(1417年)小田原城を築城した。明応4年(1459年)大森藤頼のとき、伊豆国を本拠としていた伊勢盛時(北条早雲)によって奪われる。伊勢盛時(北条早雲)は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは嫡男・伊勢氏綱(北条氏綱)からである。以後、北条氏康〜北条氏政〜北条氏直の時代まで小田原北条氏の政治的中心地となった。伊勢氏綱が北条氏を名乗るのは、大永3年(1523年)または大永4年(1524年)からである。
永禄4年(1561年)上杉謙信の侵攻 / 永禄12年(1569年)武田信玄の侵攻 を防ぎ切った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めが行われる。3ヶ月間の篭城戦の末、開城する。小田原北条氏が和議か抗戦の議論したが、結論が出なかった。この故事が小田原評定という言葉になり、「いつになっても結論の出ない会議や相談」として使われる様になった。豊臣秀吉は下野国宇都宮で、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定した。豊臣秀吉の国内統一事業はこれをもって終わった。
天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封になると、大久保忠世を小田原城に置いた。慶長19年(1614年)2代藩主・大久保忠隣のときに政争に敗れ、改易になっている。その後は城代が置かれた。元和5年(1619年)阿部正次 / 寛永9年(1632年)稲葉正勝 と続き、貞享3年(1686年)再興された大久保忠朝が再び入封され明治まで続いた。
小田原城は、寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)に大地震に遭っている。元禄の地震では、天守や櫓などが倒壊する被害を受けている。宝永3年(1706年)に再建された天守は、明治4年(1871年)に廃城となり解体されるまで存続した。現天守は、昭和35年(1960年)に復興されたもの。
小田原城こども遊園地・ミニSL 報徳二宮神社鳥居 報徳二宮神社社殿
復興天守の南側に、小田原城こども遊園地 / 明治27年(1894年)創建の報徳二宮神社 がある。二宮尊徳は天明7年(1787年)相模国足柄上郡栢山村に農民の子として生まれる。報徳社を設立して農村の救済を行い、天保8年(1837年)小田原藩の荒廃した領地を再興したことで知られている。日光神領の荒廃した農村の復興に尽力したが、安政3年(1856年)今市報徳役所で70歳の生涯を閉じた。二宮尊徳が亡くなった後も報徳社は存続、関東や東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年(1891年)二宮尊徳に従四位が贈られ、報徳社員を中心に誕生地である小田原の小田原城址内に創建された。
[参考]二宮尊徳の墓
報徳二宮神社鳥居
報徳二宮神社社殿 二宮尊徳の墓

JR日光線・今市駅より北東へ進む。5分ほどの小倉町交差点を左折して、日光街道(119号線)を北西へ進む。小倉町交差点からすぐの右手に「栃木県史跡 二宮尊徳翁之墓」標識がある。右折すると突き当りに、明治26年(1893年)創建の報徳二宮神社がある。社殿の北側に、二宮尊徳の墓がある。二宮尊徳は天明7年(1787年)相模国足柄上郡栢山村に農民の子として生まれる。報徳社を設立して農村の救済を行い、天保8年(1837年)小田原藩の荒廃した領地を再興したことで知られている。日光神領の荒廃した農村の復興に尽力したが、安政3年(1856年)今市報徳役所で70歳の生涯を閉じた。「分を越えた墓石を建てるなどの葬儀をしてはならない」との遺言であったが、二宮尊徳を慕う門人や妻・歌子の意志により如来寺で葬儀が行われた。報徳二宮神社は、地元をはじめとする全国の崇敬者によって終焉の地に創建された。