加賀国 | ||
加賀国・金沢城(尾山城) | ||
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■城の種別 平山城 ■築城者 本願寺(加賀一向一揆) ■築城年 天文15年(1546年) ■主な遺構 石川門(重文) / 三十間長屋(重文) / 鶴丸倉庫(重文) / 石垣 / 堀 / 土塀 |
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金沢城石川門 | ||
鼠多門 / 橋詰門 / 橋詰門続櫓 / 菱櫓 / 五十間長屋 / 玉泉院丸庭園 が再建されている。 | ||
金沢は第二次世界大戦の戦災を受けることなく、城下町の遺構が色濃く残る。 |
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←金沢駅スタンプ 日本三名園 兼六園の駅。金沢城 / 兼六園 の図柄。 金沢駅スタンプ→ 日本三名園 兼六園の駅。 |
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JR金沢駅あんと内に金沢駅内郵便局がある。風景印は、金沢港口にある郵太郎ポスト / 兼六園の徽軫(ことじ)燈籠 の図柄になっている。郵太郎ポストは、昭和29年(1954年)国鉄・金沢駅舎の落成記念に設置された。金沢の伝統工芸である加賀人形をモチーフに製作した陶器製の人形が郵便ポストの上に乗っている。 |
金沢駅内郵便局風景印 | 郵太郎ポスト | |
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JR金沢駅東口(兼六園口)を出ると、もてなしドーム / 鼓門(つづみもん)がある。金沢城門ではなく、金沢伝統芸能の能楽で使われる鼓をイメージしたもの。 |
後:もてなしドーム / 前:鼓門 | 鼓門夜景 | |
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JR金沢駅東口(兼六園口)から金沢駅通りを南東に進む。すぐ左手に金沢駅前郵便局がある。風景印は、金沢駅もてなしドーム / 鼓門(つづみもん) の図柄になっている。 | |
金沢駅前郵便局風景印 | ||
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尾山神社神門(社殿側から) | 尾山神社神門(春) | 尾山神社社殿 |
金沢駅通りを南東に進む。近江町市場に近い武蔵交差点を右折して157号線を南西に進む。157号線は往時の北国街道である。5分ほどの左手に明治6年(1873年)創建の尾山神社がある。金沢城跡の西側に |
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尾山神社から西に進むと、10分足らずのところに足軽屋敷2棟を移築した足軽資料館がある。足軽資料館を抜けて水路沿いに進むと、長町武家屋敷跡 |
足軽資料館 | 長町武家屋敷跡 | |
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157号線(北国街道)まで戻り南に進む。10分足らずの 犀川に架かる犀川大橋を渡ると、西側ににし茶屋街 / 東側に寺院群 がある。金沢駅からは少し遠いが、江戸時代の中心地・片町や香林坊(こうりんぼう)からは近い。 |
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にし茶屋街 | ||
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武蔵交差点から百万石通りを東に進む。武蔵交差点の南東側に近江町市場がある。5分ほどの尾張町交差点を左折、すぐの突き当りを8右折して百万石通りに平行する道を進む。すぐ左手に、久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)がある。明治元年(1868年)神仏分離令 境内の裏手から、主計町へと抜ける「暗がり坂」に通じている。花街に遊びに行く旦那衆が通った坂であると云う。 |
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久保市乙剣宮 | ||
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主計町茶屋街 | 主計町茶屋街 | 浅野川沿いの主計町茶屋街 |
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尾張町交差点から東に進み、橋場交差点を左折する。すぐの浅野川に架かる浅野川大橋を渡らずに左折する。浅野川沿いに進むと、狭い通りが花街を彷彿する主計町(かずえまち)茶屋街がある。 | |
浅野川に架かる中の橋 | ||
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浅野川に架かる浅野大橋を渡ると、359号線に古い建物の町並みが続く。 | |
359号線に古い建物の町並み | ||
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ひがし茶屋街 |
ひがし茶屋街 |
ひがし茶屋街 |
359号線の東側に、最も規模が大きく重要伝統的建造物群保存地区にも指定されているひがし茶屋街 |
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橋場交差点まで戻り、百万石通りを南に進む。すぐに西側を平行する小路に、加賀藩中級武士の武家屋敷・寺島蔵人邸がある。金沢市内には武家屋敷 |
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寺島蔵人邸 | ||
橋場交差点から10分ほどの兼六園下交差点を右折して土産店が建ち並ぶ紺屋坂を登ると、右手から金沢城に入れる。 | ||
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石川門 櫓(春) | 石川門 | 櫓門塀(鉄砲狭間) |
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二の丸跡 | 菱櫓 | |
天文15年(1546年)に造営された尾山御坊(金沢御堂)は、加賀国の統治を行う加賀一向一揆の拠点となっていた。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれ、 天正8年(1580年)大阪石山本願寺が織田信長に降伏すると、大聖寺城主・佐久間盛政は尾山御坊を陥落させた。 金沢の地名が広く知られていたため、慶長7年(1602年)頃から金沢城の名称が定着したと云われている。 |
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徽軫(ことじ)燈籠(春) | 噴水(春) | 雪吊り(春) |
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金沢城跡の南側に兼六園がある。水戸・偕楽園 / 市内に徽軫(ことじ)燈籠デザインの消火栓蓋がある。 |
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金沢市消火栓蓋 | ||
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兼六園の南側に隣接して成巽閣(せいそんかく)がある。文久3年(1863年)加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建て造営した。 |
成巽閣入口 | 成巽閣 | |
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兼六園から百万石通りを挟んだ西側に、天平年間(729年〜748年)創建と云われる石浦神社がある。金沢で一番古い神社 |
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石浦神社社殿 | ||
加賀国・小松城(芦城 / 小松の浮城) | ||
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■城の種別 平城 ■築城者 若林長門守 ■築城年 天正4年(1576年) ■主な遺構 石垣 / 常盤門 / 鰻橋御門が市内の来生寺に移築され現存する。 |
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本丸櫓台石垣 | ||
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JR小松駅西口から25号線を渡ると、小松駅前郵便局がある。風景印は、弁慶と富樫泰家 / 歌舞伎殿 / お旅まつりの子供 の図柄になっている。 小松市マンホール |
小松駅前郵便局風景印 | 小松市マンホール |
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[寄り道]小松郵便局 | ||
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25号線を北に進むと、5分足らずのところに細工町交差点がある。細工町交差点を右折して360号線を東に進む。北陸線高架を潜り、5分足らずの左手に小松便局がある。風景印は、小松空港 / 安宅の関跡 / 弁慶 の図柄になっている。 | |
小松郵便局風景印 | ||
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細工町交差点まで戻り、直進して360号線を西へ進む。地子町交差点を右折して北へ進むと、城下町を思わせる町並みが続く。 | ||
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すぐのT字路が小松市役所前交差点で、小松市役所 / 芦城公園 / 石川県立小松高校 辺りが城域となっていた。小松市役所駐車場前に「七十間長屋跡」石柱がある。 [交通]JR北陸本線・小松駅-(徒歩約10分)-小松市役所前交差点 |
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七十間長屋跡 石柱 | ||
小松城は、天正4年(1576年)加賀一向一揆方の若林長門守によって築城されたと云われている。 |
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芦城公園 | 土塁(芦城公園) | 三の丸石垣 |
関ヶ原の戦い後、加賀藩初代・ |
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芦城公園に、約2000万年前の珪化木(けいかぼく)が展示されている。木が火山灰に埋まって炭化、岩石の珪酸によって生成された化石。芦城公園の珪化木は巨大で、世界的にも珍しいと云う。 |
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珪化木 | ||
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小松大川郵便局 |
来生寺山門 | |
芦城公園 |
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多田八幡神社鳥居 | 多田八幡神社社殿 | 多田八幡神社 記念撮影用看板 |
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多田八幡神社はJR小松駅の南西方向、徒歩25分 |
芭蕉神社 | 芭蕉句碑 | |
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山王神社鳥居 | 山王神社社殿 | 金毘羅社 |
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山王神社はJR小松駅の南西方向、徒歩20分 |
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日吉稲荷社 | ||
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莵橋神社鳥居 | 莵橋神社鳥居 | 莵橋神社社殿 |
諏訪宮=莵橋(うはし.)神社は、JR小松駅から徒歩10分 |
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加賀国・大聖寺だいしょうじ城(錦城) | ||
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■城の種別 平山城 ■築城者 狩野氏 ■築城年 鎌倉時代 ■主な遺構 曲輪 / 土塁 / 長流亭 |
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本丸跡 | ||
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JR北陸本線・大聖寺駅スタンプは、「加賀百万石の支藩・大聖寺藩城下町の駅」の文字 / 長流亭 / 時鐘堂 / 大聖寺流し舟 の図柄になっている。大聖寺駅1番ホーム(金沢方面)に、山中温泉で詠んだ「やまなかや 菊はたおらし ゆのにほひ」芭蕉句碑がある。 |
大聖寺駅スタンプ | 芭蕉句碑 | |
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JR北陸本線・大聖寺駅より北に進む。5分ほどの大聖寺南町交差点を左折して、305号線を西へ道なりに進む。すぐの図書館前交差点を過ぎると、すぐ左手に大聖寺聖南通郵便局がある。 |
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大聖寺聖南通郵便局風景印 | ||
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大聖寺聖南通郵便局からすぐの十字路を左折して南西に進むと、突き当りに天正4年(1576年)創建の全昌寺がある。大聖寺城主だった山口玄蕃頭宗永の菩提寺。
芭蕉は全昌寺に8月6日から2泊している。 芭蕉は奥の細道で全昌寺に元禄2年(1689年)8月6日から2泊している。芭蕉到着前の前日、曾良も泊まっている。「終宵(よもすがら)秋風聞や うらの山」曾良 |
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全昌寺 | ||
305号線まで戻り、西に進む。大聖寺関町交差点交差点を右折して北へ道なりに進むと、左手に錦城山公園がある。 [交通]JR北陸本線・大聖寺駅-(徒歩15分)-錦城山公園 |
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大聖寺城(錦城)は、鎌倉時代に狩野氏によって築城される。建武2年(1335年)に中先代(なかせんだい)の乱に呼応した名越時兼が南下してきたとき、大聖寺城で迎撃したと云う。中先代の乱は、鎌倉幕府14代執権・北条高時の遺児・時行が鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。建武4年(1337年)新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略している。戦国時代には日谷城などとともに一向一揆の拠点となっていた。天文24年(1555年)越前国・朝倉宗滴が加賀に侵攻、大聖寺城は落城する。永禄10年(1567年)堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱する。足利義昭の斡旋により和議が成立するが、大聖寺城は焼払われる。天正3年(1575年)越前を平定した織田信長軍は加賀に侵攻、柴田勝家に命じて大聖寺城を修復させる。天正4年(1576年)佐久間盛政が城主となる。天正8年(1580年)柴田勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略、拝郷家嘉が城主となる。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い後は溝口秀勝 / 慶長3年(1598年)小早川秀秋の家臣・山口宗永(玄蕃)が城主となる。翌年に小早川秀秋は転封となるが、山口宗永(玄蕃)は豊臣秀吉直臣となり当地に留まった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで山口宗永(玄蕃)は西軍に組したため、東軍の前田利長に攻められて大聖寺城は落城する。山口宗永(玄蕃)は嫡男・修弘と共に自刃した。その後は前田家の家臣が城代を務めたが、元和元年(1615年)の一国一城令での廃城となった。寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常の三男・前田利治が7万石を分地され立藩、大聖寺城跡地に大聖寺陣屋を設けた。 | ||
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本丸への登り坂 | 贋金造りの洞穴 | 土塁 |
錦城山公園入口から標識に従い、本丸へ進む。すぐに本丸と東丸との分岐があり、すぐ左手に“贋金造りの洞穴”がある。明治政府に武器弾薬の供出を命じられた大聖寺藩は、必要な資金を贋金を作り賄った。1分銀に金メッキを施す方法であるが、光沢があり過ぎた。このため山代温泉の湯に数日間浸けて、古い金貨と見分けが付かない様にした。以降も金貨偽造を続けたが、明治2年(1869年)に露見する。贋金作りを命じられた市橋波江は、切腹させられた。大聖寺藩は、継嗣に旧禄高の2倍を与えて跡を継がせている。 | ||
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錦城山公園入口から10分ほどすると、本丸跡に辿り着く。夏草に覆われた東屋や案内板 / 北側に山口玄蕃頭宗永公碑 がある。西の丸方向に、夏草に覆われたところを進む。方角が解らなくなり、泥だらけになる。忠霊塔に下る階段が現れ、安堵する。 |
東屋 | 山口玄蕃頭宗永公碑 | |
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長流亭 | 江沼神社鳥居 | 江沼神社社殿 |
錦城山公園入口を北へ進むと、すぐ右手に茶室・長流亭(重文)がある。大聖寺藩3代藩主・前田利直の休息所として、小堀遠州の設計により宝永6年(1709年)に建てられた数寄屋造りの建築。隣接して宝永元年(1704年)創建の江沼神社がある。大聖寺藩3代藩主・前田利直が邸内に天満天神社を創建したのが始まり。松嶋神社が明治10年(1877年)に江沼神社と改称、明治12年(1879年)天満天神社を合祀する。 | ||
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福田橋 | 山口玄蕃頭宗永公御堂 | 山口宗永首塚 |
慶長5年(1600年)山口宗永(玄蕃)と嫡男・修弘は、新町で共に自決した。昭和10年(1935年)に架け替えられた旧大聖寺川に架かる福田橋を渡った右手に、山口宗永首塚がある。嫡男・修弘は山口宗永の菩提寺・全昌寺に葬られている。 | ||
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旧大聖寺川に架かる福田橋から南へ進むと、5分足らずの右手に吉田屋薬舗がある。吉田屋は酒造業 / 薬種業 を本業としていた豪商で、大聖寺藩に火薬を納める御用商人でもあった。文政7年(1824年)4代・吉田屋伝右衛門は、古九谷再興のため九谷村に吉田屋窯を開いた。九谷村は山奥で不便なため、文政9年(1826年)山代温泉に移された。吉田屋窯の作品は、緑 / 黄 / 紫 / 紺青 の四彩を用いた色絵が多く“青九谷”と称されている。古九谷再興の資金負担は膨大で、吉田屋の財政を圧迫し続けた。文政10年(1827年)伝右衛門が死去、文政13年(1831年)財政難で僅か7年で終えることになる。衰退していた九谷焼を再興したことで高く評価されている。大半の家屋敷と酒造業の株(藩の酒造業免許)を売却、以後薬舗の取り扱いを専業とする様になった。 | |
吉田屋薬舗 | ||
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深田久弥生家 | 深田久弥生誕之地 石柱 | 時鐘堂 |
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深田久弥文学碑 | 八間道船乗場 | 深田久弥 山の文化館 |
日本百名山で知られる深田久弥(ふかだ きゅうや)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)生まれの小説家(随筆家) / 登山家。大聖寺中町通りにある深田久弥生家前には、“深田久弥生誕之地”石柱がある。深田久弥生家から北へ進むと、すぐ右手に平成14年(2002年)再建された旧藩時代の時鐘堂がある。江沼神社の鳥居を潜ると、右手に「山の茜を顧みて 一つの山を終りけり 何の俘のわが心 早も急かるる次の山」深田久弥文学碑がある。江沼神社の北東側に“大聖寺川流し舟”の八間道船乗場があり、旧大聖寺川を渡った右手に深田久弥山の文化館がある。明治43年(1910年)に建てられた絹織物工場・山長の事務所 / 石蔵 / 門 を修築したもので、国登録文化財になっている。石蔵はかつて生糸の保管庫として使われていた木骨石造りで、1階は深田久弥遺品を中心とした展示室 / 2階は資料の収蔵庫として使用している。 |
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