武蔵国T 埼玉県 最新の追加
武蔵国・箱田館(中屋敷)
■城の種別
居館
■築城者
箱田廣能
■築城年
平安時代末期
箱田館跡

JR高崎線・熊谷駅から91号線を北に進む。5分ほどすると、17号線と交差する。筑波交差点からは128号線となり北へ進む。やがて進路は北東に変わり、さらに東に進路が変わる。ここの東に進路が変わるところを直進する。すぐ左手に中屋敷跡がある。
平安時代末期に箱田廣能が居館を構えたところと云われている。箱田廣能は成田氏2代・成田助広の子で、箱田氏を名乗った。中西老人会造立の石碑には、土塁や堀があったことが記されている。成田氏一族が成田館周辺に居館を構えていたと考えるのが自然の様である。
源義経に従った箱田廣貞は箱田の出身であるとされ、壇ノ浦における戦功によって長門国下津井の地頭を任じられ下向したと云われている。

中屋敷石碑
武蔵国・成田館
■城の種別
居館
■築城者
成田助高
■築城年
天喜元年(1053年)
成田氏館跡標柱

中屋敷跡からさらに北東へ進むと、道は大きく右に曲がる。すぐ右手に成田小学校がある。東にある熊谷上之郵便局との間にある十字路を左折して北に進むと、すぐ左手に成田館跡がある。熊谷上之郵便局の風景印は、熊谷駅前のラグビータウン熊谷モニュメント / 大雷神社 の図柄になっている。
[交通]JR高崎線・熊谷駅-(徒歩30分)-成田館跡

熊谷上之郵便局の風景印
天喜元年(1053年)藤原忠基から5代目の藤原助高(助隆)が、武蔵国成田郷に居館を構えて成田氏を称したと云われている。成田氏は初代・成田助隆(助高)から延徳3年(1491年)9代・成田顕泰が忍城に移るまで、約400年間ここを本拠とした。
遺構はなく、側面に案内文がある成田氏館跡標柱 / 背後に成田氏館址石柱 があるのみである。
成田氏館址石柱

成田館跡からさらに北に進むと、すぐに熊谷バイパスと交差する。熊谷バイパスを越えると、すぐ左手に龍淵寺がある。龍淵寺は応永18年(1411年)成田氏7代・成田家時が創建した成田家歴代の菩提寺。
徳川家康の駿府人質時代に共に学んだ呑雪は、徳川家康が江戸入府のとき住職を務めていた。

龍淵寺本堂

成田助高の子・太郎助広は成田氏を継ぎ、次郎行隆は別府氏 / 三郎高長は奈良氏 / 四郎助実は玉井氏 名乗った。本家と共に成田四家として武蔵国北部の大勢力となった。
寿永3年(1184年)宇治川の合戦で功を挙げ、文治5年(1189年)源頼朝の奥州藤原氏追討軍にも参陣した。鎌倉時代には御家人として承久3年(1221年)承久の乱にも参陣した。
鎌倉幕府が滅亡すると成田一族は没落したと云われている。代わって成田氏を継承したのは武蔵七党の一つ・丹党の安保氏であると云われている。安保実員の庶子・安保信員が成田家資の娘を娶っており、安保信員の孫・行員が成田氏の名跡と所領を継承したと云われている。
延徳元年(1489年)山内上杉家の家臣として活躍した成田親泰は、扇谷上杉家に属する忍大丞を滅ぼして忍城を築城する。延徳3年(1491年)忍城に居城を移すまで、成田館は400年余りに渡り成田氏の本拠地だった。 

武蔵国・別府館(西別府館)
■城の種別
居館
■築城者
別府行助
■築城年
平安時代末期
西別府館址石柱

JR高崎線・籠原駅から139号線を北に進む。5分足らずで17号線と交差する。17号線を右折すると、すぐ右手に籠原駅前郵便局がある。風景印は、玉井寺の玉 / 三角屋根の局舎 / 別府沼公園 の図柄になっている。17号線を左折して北西に進む。すぐの籠原駅入口交差点を右折して276号線を北東に進む。15分ほどすると左手に別府中学校があり、次の交差点を左折して西に進む。5分足らずのところで道は僅かに北方向に変わるところを右折、さらに右折すると左手に西別府館跡がある。
[交通]JR高崎線・籠原駅-(徒歩30分)-西別府館跡

原駅前郵便局風景印
別府行隆の長男・別府能行と次男・別府行助が相続で争い、別府郷を分けて相続した。別府行助は別府館(西別府館)を築き居館とした。別府行助から始まる別府氏は、南北朝時代の西別府氏5代目・別府頼重まで居館としたと云われている。

別府氏館(西別府館)には土塁や堀があった。現在は宅地や畑となっており、西別府館址石柱 / 背後に稲荷社 がある。

稲荷社 西別府館址石柱北西方向
九品仏堂 安楽寺山門 安楽寺本堂
交差点まで戻り、左折して北へ進む。すぐのT字路を右折して東に進む。すぐ左手に九品仏堂 / 別府頼重ほかの墓がある安楽寺 と続く。養老年間(717年〜年724)に結ばれた草庵が、別府行隆が九品仏堂とした。安楽寺は、九品仏堂の別当として創建された。
武蔵国・別府城(東別府館)
■城の種別
平城
■築城者
別府行隆
■築城年
平安時代末期
■主な遺構
土塁 / 堀
別府城西側の土塁 / 堀跡
安楽寺から東に進み、すぐの突き当りを左折して北に進む。すぐの突き当りを右折して東に道なりに進むと、右手に東別府神社の木立ちが見てくる。
[交通]安楽寺-(15分)-東別府神社
平安時代末期に別府行隆によって築城されたと云われている。別府氏は成田助隆の次男・行隆が別府に住んで別府氏を称した。別府行隆の長男・別府能行と次男・別府行助が相続で争い、別府郷を分けて相続した。別府能行は別府城(東別府館)を居城とした。
別府清重は寿永2年(1183年)に源義経に従い一の谷の合戦で功を挙げるが、建保元年(1213年)和田氏の乱で和田義盛に味方し討ち死にした。南北朝時代に別府幸実は足利尊氏につき、北畠顕家を陸奥から京へ追い伊賀 / 伊勢 を転戦したと云われている。足利尊氏の弟・足利直義征伐でも活躍、正平7年(1352年)恩賞として別府郷並び越生郷の地頭に任じられた。
別府幸忠は応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で鎌倉公方・足利公持氏軍として活躍、乱終結後に上杉禅秀に組した同族であった玉井氏を追討したと云われている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原成敗のとき、別府長清は成田氏長と共に小田原城に籠城する。また子・別府顕清は忍城に籠城する。戦後は所領を没収され、別府城(東別府館)は廃城となった。
東別府神社社殿 東別府神社境内 西側の土塁跡
別府城跡に奈良・春日神社を勧請した春日社が始まりの東別府神社がある。春日社は天正18年(1590)の落城まで城の鎮守だった。明治維新から明治42年(1909年)に東別府神社となるまで、春日稲荷神社と称していた。明治42年(1909年)に大字埋鳥の村社・榛名神社を合祀、東別府神社となった。
東別府神社境内を取り巻く様に、方形に土塁と堀が巡っている。
武蔵国・金子氏館(金子家忠館)
■城の種別
居館
■築城者
金子家忠
■築城年
鎌倉時代初期
瑞泉院駐車場
JR八高線・金子駅から北に進む。道なりに左に曲がり、すぐにJR八高線の踏切を渡る。すぐのT字路を右折して霞川を渡り、5分足らずの南峰交差点を左折して63号線を南西に進む。5分ほどすると桂川(かつらがわ)神社前バス停があり、右折して北に進む。すぐの突き当りに、金子家忠が館の鬼門除けに勧請した赤城明神社が始まりの桂川神社がある。江戸時代には木蓮寺村の鎮守社で、大正4年(1915年)南峯泉蔵院の山上あった雷電神社を合祀して桂川神社と改称した。
桂川神社
桂川神社前から西に道なりに進むと、北側に広大な入間霊園が拡がる。2つ目のT字路を右折して坂を登ると、瑞泉院入口左側に「金子十郎家忠公之墓所」 / 右側に「金龍山木連寺瑞泉禅院」の石柱がある。
[交通]JR八高線・金子駅-(徒歩20分)-瑞泉院入口
瑞泉院入口
金子一族墓所 宝篋印塔 金子一族位牌堂
金子氏は武蔵七党・村山党の一族で、村山党の祖・平頼任の孫・村山家範が入間郡金子に住み金子氏を名乗ったのが始まり。金子家範の館は、瑞泉院の南側約300m辺りにあったと云われている。金子氏館跡は三方を狭山丘陵の尾根に囲まれ、眼前に霞川を望む地にある。金子家忠が創建した瑞泉院境内および墓地となっている。霊園開発が進み、館跡一帯の地形はかなり変わってしまっている。金子家忠から金子家基まで同じ場所に館を構えていたとすると、400年以上続いた館となる。館の遺構はないが、金子一族墓所に金子氏一族の宝篋印塔 / 金子一族位牌堂 がある。宝篋印塔は金子家忠とその一族を偲んで造立されたと云われている。
金子家忠は保元元年(1156年)保元の乱で源義朝に従って初陣を飾る。治承4年(1180年)源頼朝の挙兵のとき、衣笠城の戦いに平家方で奮戦した。源頼朝の再起後は源氏方として源義経に従い、一ノ谷合戦などで活躍する。金子家忠はその功績により、武蔵国 / 伊豆国 / 下総国 で地頭を務めた。応安元年(1368年)武蔵平一揆で、金子家祐は河越直重ら一揆側に属したが敗れて勢力を弱めた。その後は山内上杉氏に属した。天文15年(1546年)河越合戦で北条氏康が上杉連合軍を破ると、金子家長は北条氏康に従った。以後は八王子城の北条氏照に従い下野国進出などで活躍した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、武蔵国内の小田原北条氏支城は前田利家・上杉景勝の軍勢に攻撃された。武蔵松山城主・上田朝直は小田原城に詰めていたため、金子家基は留守居を勤めていた。降伏後、金子家基は先兵となって八王子城を攻めた。八王子城・金子曲輪を守って討死した金子家重は同族と云われる。小田原北条氏が滅亡すると金子家基は上杉景勝に仕え、金子の地を去った。このとき金子氏館は廃されたと云われている。
武蔵国・河越館
■城の種別
居館
■築城者
秩父能隆(河越能隆)
■築城年
久寿2年(1155年)
■主な遺構
土塁 / 空堀 / 井戸
河越館跡

東武東上線・霞ヶ関駅北口のロータリーから北に進む。5分足らずの右手に名細郵便局がある。風景印は、常楽寺表門 / 時の鐘 / 上戸日枝神社の懸仏  / さつまいもに局名 の図柄になっている。114号線に合流、5分足らずの交差点を右折して東に進む。10分足らずの交差点左手に河越館史跡公園 / 常楽寺 と続く。常楽寺の北側に上戸小学校 がある。河越氏館は、河越館史跡公園 / 常楽寺 /上戸小学校 一帯に築かれていた。
[交通]東武東上線・霞ヶ関駅-(徒歩20分)-河越館史跡公園

名細郵便局風景印
平安時代(794年〜1192年頃)末期の久寿2年(1155年)秩父能隆(河越能隆)によって築かれたと云われている。数多くある秩父氏一族で、河越氏は嫡流とされる。
地蔵らしき石仏 南北に伸びる土塁
南北に伸びる土塁 分断された土塁 東西に伸びる土塁

交差点の北西側に南北に長く伸びる土塁があり、木々が生い茂っている。道路に面したネット越しの土塁に、地蔵らしき石仏がある。南北に長く伸びる土塁と東西に短く伸びる土塁は、道路で分断されている。

見学通路 見学通路から常楽寺方向 見学通路から上戸小学校方向
交差点の北東側に河越館跡案内板 / 見学通路 がある。上戸小学校は昭和51年(1976年)開校。
見学通路から南北に伸びる土塁方向
空堀跡 井戸跡 塚状遺構
常楽寺北側に空堀跡 / 井戸跡 / 塚状遺構跡 の順にある。塚状遺構は河越氏が祖先を祀る霊廟や納骨堂跡と云われている。
常楽寺表門 常楽寺鐘楼門 常楽寺本堂
常楽寺は河越館の敷地内にあった持仏堂が始まり。浄興密寺に改称、さらに鎌倉時代後期に常楽寺に改称される。鐘楼門は天明8年(1788年)に再建されたもの。

坂東平氏・平将恒は、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。秩父氏4代・秩父重綱は、武蔵国国司の代理職“武蔵国留守所総検校職”に就き、武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有していた。秩父氏家督は秩父重綱の次男・秩父重隆が継ぎ、下野国・藤姓足利氏 / 上野国・新田氏 と抗争を繰り返していた。また家督を継げなかった兄・秩父重弘の嫡男・畠山重能とも家督を巡り対立していた。秩父重隆は東国に下向した河内源氏・源義賢に娘を嫁がせて、周囲の勢力と対抗する。
久寿2年(1155年)大蔵合戦で源義賢と秩父重隆は、源義平と畠山重能に討たれる。秩父氏の本拠地になっていた大蔵館(武蔵国比企郡)は畠山重能奪われる。秩父重隆の嫡男・秩父能隆は葛貫や河越の地に移り、河越館を拠点として河越氏を称することになる。
保元元年(1156年)保元の乱で、河越能隆の嫡男・河越重頼は源義朝に参陣して平家と戦った。平治元年(1159年)平治の乱で源義朝が討たれた後は平家に従った。河越重頼は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)を妻に迎え、平家に従いながら源氏とも繋がりがあった。
治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で挙兵する。秩父氏一族の河越重頼 / 畠山重忠 / 江戸重長 は平家方に付くが後に源頼朝に服属、平家と戦い鎌倉幕府の設立に尽力した。“武蔵国留守所総検校職”は河越重頼に継承された。
河越重頼の妻が源頼朝の嫡男・頼家の乳母 / 娘(郷御前)は源義経の正室 になっている。源義経が失脚すると縁戚であることを理由に、河越重頼 / 嫡男・河越重房 は連座して討伐された。秩父氏惣領 /“武蔵国留守所総検校職”の地位は、畠山重能の嫡男・畠山重忠に与えられた。
元久元年(1204年)畠山重忠の乱が起き、河越重頼の次男・河越重時 / 三男・河越重員は北条義時率いる討伐軍に参陣する。畠山重忠一族は滅亡、河越重時は秩父氏惣領の地位を奪還する。
以降、河越氏は鎌倉幕府の御家人として活動、北条氏得宗家と良好な関係を築いていた。嘉禄2年(1226年)河越重時が“武蔵国留守所総検校職”に任じられるが、形骸化され実権を伴っていなかった。河越重時の子孫は、御家人の没落が顕著となる鎌倉後期にも富裕な有力御家人の地位を維持してした。
元寇の頃には河越宗重が地頭として豊後国へ下向している。鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)元弘の乱では、河越宗重の跡を継いだ弟・河越貞重が幕府軍に加わり六波羅探題滅亡時に自害している。河越貞重の子・河越高重は倒幕側に転じ、武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加り倒幕に貢献した。
正平7年/文和元年(1352年)観応の擾乱直後の武蔵野合戦では、河越高重の子・河越直重は足利尊氏方として新田義宗を越後に敗走させた。
関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、河越直重は文和2年(1353年)相模国守護職となる。鎌倉公方・足利基氏によって康安2年(1362年)畠山国清が失脚すると、河越直重は相模国守護職を解任される。
貞治7年 / 正平23年(1368年)河越直重は関東管領・上杉憲顕に反乱を起こした。河越館に立て籠もったが敗れ、北畠氏を頼って伊勢国へと敗走した。平安時代から武蔵国の武士団の棟梁だった秩父氏嫡流・河越氏は没落する。
明応6年(1497年)山内上杉顕定は河越城・扇谷上杉氏を攻めるとき、河越氏館跡に陣を構えている。

武蔵国・鉢形城
■城の種別
平山城
■築城者
長尾景春
■築城年
文明8 年(1476年)
■主な遺構
土塁 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
四脚門 / 土塀 / 土橋 / 石垣
伝・御殿曲輪の本丸跡城址碑
寄居駅南口から南へ進む。変則十字路になっている交差点を南に進み荒川を渡ると、右手に鉢形城公園がある。荒川と荒川に合流する深沢川に挟まれた台地に築かれ、荒川側は断崖になっている。南西側に、大手 / 外曲輪 / 三の曲輪がある。三の曲輪から両河川が合流する北東方向に、二の曲輪 / 本曲輪 / 笹曲輪 と曲輪が連なっている。曲輪間の空堀も深い。
[交通]JR / 秩父鉄道 / 東武鉄道・寄居駅-(徒歩15分)-鉢形城公園
二の曲輪 三の曲輪 三の曲輪 四脚門 / 土塀
三の曲輪 虎口土塁 秩父曲輪 石垣 三の曲輪 / 馬出 間の空堀

文明5年(1473年)関東管領・山内上杉家の家臣・長尾景信が陣没する。家督は嫡男・長尾景春ではなく、弟・長尾忠景が継ぐことになる。長尾景春は文明8年(1476年)鉢形城を築城、山内上杉家・上杉顕定に叛いて古河公方・足利成氏側に組した。
文明10年(1478年)扇谷上杉家の家臣・太田道灌は鉢形城を攻め、長尾景春を鉢形城より敗走させた。山内上杉家・上杉顕定が入城する。
長享2年(1488年)扇谷上杉家・上杉定正が攻めるが落とすことができず撤退する。明応3年(1494年)扇谷上杉家・上杉定正は伊勢盛時(北条早雲)とともに再度攻めるが、荒川渡河中に落馬して死去した。
山内上杉家・上杉顕定後を継いだ養子・上杉顕実(実父:古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。永正9年(1512年)上杉顕実は同じ上杉顕定の養子であった上杉憲房に包囲されて鉢形城は落城、上杉顕実は助命されるが山内上杉家当主の座を失う。永正12年(1515年)上杉憲房は山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領職をも継いだ。扇谷上杉家・上杉朝興 / 小田原北条氏2代・北条氏綱 / 甲斐の武田信虎 との長年に渡る抗争のなか、大永5年(1525年)病没した。
後を養子・上杉憲寛が継ぐが、後に争いの末に実子・上杉憲政が継いだ。天文15年(1546年)小田原北条氏3代・北条氏康が河越夜戦に勝利すると、小田原北条氏が武蔵国における覇権を確立した。上杉憲政は越後に逃れ、長尾景虎(上杉謙信)を養子とし上杉家の家督と関東管領職を譲った。永禄7年(1564年)北条氏康四男・北条氏邦が入城、拡張され北関東支配の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、永禄12年(1569年)に武田信玄 / 天正2年(1574年)に上杉謙信 などの攻撃を受けているが、頑強な要害だったとされ攻撃に耐えている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐により、30000を超える軍勢に包囲される。約1ヶ月間籠城、開城して鉢形城は廃城となる。北条氏邦は前田利家にお預けとなり、慶長2年(1597年)金沢で没した。

武蔵国・春日部氏館
■城の種別
居館
■築城者
春日部氏
■築城年
鎌倉時代
春日部八幡神社
東武鉄道・春日部駅西口から南西へ、春日部郵便局交差点を右折して北西へ進む。八幡交差点を卓と、すぐ左手に八幡公園がある。春日部八幡神社や八幡公園の辺りに、春日部氏の館があったと云われている。春日部八幡神社背後の奥の院や、東側にある春日部稲荷神社などは高台にある。起伏に富んだ地形になっている。公園化に伴う一部発掘では、公園内の平地部分から堀跡や礎石などが検出されていると云う。館のあった場所や形態はを解っていない。春日部氏は、紀氏一族(長谷雄流)・紀実直が12世紀始めに武蔵国に土着したのが始まり。子の実高は現在の埼玉県春日部市周辺を拠点とし、春日部氏を名乗った。春日部氏が最初に資料に登場するのは、文治3年(1187年)の吾妻鏡。実高の子・実平 / 孫の実景の代には、鎌倉幕府で有力な武将となっていった。宝治元年(1247年)実景は宝治合戦に三浦氏側として参戦する。三浦泰村が敗戦し自害すると、実景も自害した。実景の孫・重行は、 南北朝時代の延元元年(1336年)新田義貞の挙兵に従い戦功を挙げた。その活躍により、春日部郷と上総国山辺南郡の地頭職を安堵された。南北朝時代の観応年間(1350年〜1351年)における観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で、京都で敗戦し自刃した 。戦国時代末期になると岩槻太田氏に仕え、さらに後北条氏の支配下に置かれる。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐後、領地を没収された。
[交通]東武鉄道・春日部駅-(徒歩15分)-八幡公園
北東へ10分ほどのところに、最勝院がある。本堂西側にある墳丘(ふんきゅう)は、春日部重行の墓と云われている。長男・家縄が春日部に遺骨を持ち帰り、最勝院へ埋葬したと云われている。
最勝院 春日部重行の墓
武蔵国・本庄城
■城の種別
平城
■築城者
本庄実忠
■築城年
弘治2年(1558年)
ケヤキと城山稲荷神社社殿
JR高崎線・本庄駅から北へ、本庄駅入口交差点で旧中山道と交差する。直進して本庄市役所手前の交差点を右折すると、左手に城山稲荷神社の石柱がある。左折して北へ進むと城山稲荷神社がある。鳥居の左手に本庄城城址案内板がある。武蔵七党の小玉党から分かれた庄氏が、本庄氏を名乗り弘治2年(1558年)に築城する。永禄10年(1567年)後北条軍に攻められ落城、服属する。天正18年(1590年)小田原合戦のとき落城、本庄氏は滅亡する。徳川家康の関東入国後は、小笠原信嶺が城主になる。慶長17年(1612年)小笠原信之が古河に転封となり廃城となる。城山稲荷神社の南西部本庄市役所との間に本丸があった。城山稲荷神社社殿前にあるケヤキは、築城のおりに献木されたと云われている。社殿は天保15年(1844年)再建されたもの。
[交通]JR高崎線・本庄駅-(徒歩15分)-城山稲荷神社
武蔵国・金窪城(太揶たや城)
■城の種別
平城
■築城者
加治家治
■築城年
治承年間(1177年〜1180年)

■主な遺構
土塁 / 堀
金窪城址碑
JR神保原駅から北へ進む。5分ほどすると旧中山道と交差、左折して西へ進む。15分ほどすると右手に八幡神社、すぐすぐ右手に金窪城址入口石柱がある。萌美保育園裏に金窪城址公園がある。治承年間(1177年〜1180年)に武蔵七党の丹党から分かれた加治家治が築城したと云われている。神流川(かんながわ)に臨む崖上にあり、土塁や堀が一部に残る。元弘年間(1331年〜1334年)新田義貞が修築、畑時能に守らせたと云われている。寛正年間(1460年〜1466年)から斉藤盛光が居城する。天正10年(1582年)神流川の戦いで落城、斉藤家は没落する。武田信玄の異母弟・河窪信実は天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死、嫡男・信俊が跡を継ぐ。元和3年(1617年)川窪信俊が金窪城主となり、養母である信玄の室・三条夫人と居城する。元禄11年(1698年)丹波に転封となり、廃城となる。川窪氏4代信貞のとき、武田氏に改めている。
[交通]JR高崎線・神保原駅-(徒歩30分)-金窪城址入口
武蔵国・熊谷館
■城の種別

■築城者
熊谷直貞
■築城年
平安時代
熊谷寺本堂
JR熊谷駅東口から北東に進む。すぐの17号線(旧中山道)を左折して北西に進む。鎌倉町交差点を右折して北へ進むと、突き当たりに天正年間(1573年〜1592年)創建の熊谷(ゆうこく)寺がある。
[交通]JR熊谷駅東口-(徒歩15分)-熊谷寺
熊谷寺山門 伊奈利神社

桓武平氏・熊谷氏は、平安時代に武蔵国熊谷郷(現:埼玉県熊谷市)を領し熊谷氏を名乗った。初代は熊谷直貞で、熊谷寺周辺に熊谷館があった。熊谷直実は寿永3年(1184年)一の谷の戦いで平敦盛を打ち取った武将として知られている。熊谷直実は建久2年(1190年)頃に出家したと云われ、熊谷館の一郭に庵を結んだ。天正年間(1573年〜1592年)庵の跡地に、熊谷寺が創建された。通常は山門が閉ざされており、入ることはできない。 熊谷直実の墓と云われる宝筐印塔がある。熊谷寺の右手に、熊谷館の鎮守・伊奈利神社がある。社殿まで自転車が所狭しと置かれている。応永年間(1394年〜1428年)に熊谷氏は比企郡根岸村 / 和泉村 に移り、戦国期まで存続する。

武蔵国・深谷城(木瓜城)
■城の種別
平城
■築城者
上杉房憲
■築城年
康正2年(1456年)
■主な遺構
堀跡
■主な再建造物
模擬石垣 / 模擬塀 / 模擬堀
模擬石垣 / 模擬塀

JR深谷駅から北へ進む。17号線と交差、右折して東へ進む。城址公園入口交差点を右折して北へ進むと、右手に深谷城址公園がある。天正18年(1590年)小田原征伐で開城するまで、深谷上杉氏の居城であった。徳川家康の関東移封に伴い、長沢松平家の松平康直が1万石で入城した。寛永4年(1627年)深谷藩は廃藩となり、寛永11年(1634年)に廃城となった。
[交通]JR深谷駅-(徒歩15分)- 深谷城址公園

城址公園として整備されているが、遺構はほとんど残っていない。東側にある永亨12年(1440年)創建と云われる富士浅間神社の境内東側に、外堀跡が残る。
富士浅間神社 外堀跡
武蔵国・菅谷城(菅谷館)
■城の種別
平城
■築城者
畠山重忠
■主な遺構
土塁 / 堀
本郭・二の郭間の土塁と堀

武蔵嵐山駅西口から南東へ、251号線を右折して南西へ進む。突き当りを左折、さらに突き当りを右折する。254号線を越えると、菅谷館跡がある。畠山重忠が、大里郡畠山荘の館から鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に館を構えたのが始まり。吾妻鏡によれば、元久2年(1205年)には居館があったことが知られている。同年、畠山重忠は武蔵国二俣川で戦死する。長享元年(1487年)山内上杉家と扇谷上杉家による須賀谷原合戦が起きる。菅谷城は扇谷上杉家の河越城に対するおさえとして、太田資康が居城していたと云われている。長享の乱と呼ばれた戦乱は山内上杉家が勝利、以降山内上杉家の拠点として使われる。天文15年(1546年)河越夜戦以降に小田原北条氏が進出するが、既に廃城になっていたと云われている。
[交通]東武東上線・武蔵嵐山駅-(徒歩15分)-菅谷城跡

武蔵国・岩槻城(岩付城 / 白鶴城 / 浮城)
■城の種別
平城
■築城者
成田正等
■築城年
文明10年(1478年)
■主な遺構
黒門 / 裏門 / 時の鐘
岩槻城黒門
岩槻駅から南東へ、岩槻駅入口交差点を左折して122号線を北東へ進む。岩槻本丸公民館がある交差点を右折して南東へ進むと、城址公園に至る。時の鐘への道標はところどころにあるが、
城址公園への道標は見当たらなかった。
方角に気を付けないと、迷い易い。長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築城されたとも云われている。「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」と歌われた寛文11年(1671年)鋳造、享保5年(1720年)改鋳された時の鐘がある。
[交通]東武鉄道野田線・岩槻駅-(徒歩20分)-岩槻城黒門
武蔵国・忍おし城(浮城 / 亀城)

■城の種別
平城
■築城者
成田親泰
■築城年
延徳2年(1490年)
■主な遺構
土塁 / 藩校進修館移築門 / 北谷門(加須市の總願寺黒門)
■主な再建造物
模擬御三階櫓 / 模擬城門

模擬御三階櫓

観光案内所があるJR高崎線・行田駅東口から北東方向へ進む。17号線 / 新幹線 を越え、総合病院とコンビニのある交差点を左折する。17号線バイパスを越えてしばらくすると125号線と交差、右折すると忍城・郷土博物館がある。北に利根川 / 南に荒川 に挟まれた扇状地の湿地帯を利用、沼を埋め立てずに島を曲輪として、橋を渡す形になっていた。数度の城攻めで落城しなかった要害堅固な城として知られる。戦国時代における関東七名城。水堀や沼地は水城公園となっている。125号線を東へ進み、3本目を左折すると秩父鉄道・行田市駅に至る。
[交通]JR高崎線・行田駅-(徒歩40分)-忍城・郷土博物館-(徒歩15分)-秩父鉄道・行田市駅

延徳元年(1489年)山内上杉家の家臣として活躍した成田親泰は、扇谷上杉家に属する忍大丞を滅ぼして忍城を築城する。延徳3年(1491)成田館から忍城に居城を移す。永禄2年(1559年)上杉謙信が関東に遠征してくると恭順、永禄4年(1561年)上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主・成田長泰が参加している。鶴岡八幡宮における上杉謙信の関東管領就任式後に離反、天正2年(1574年)上杉謙信に忍城が包囲されるが持ちこたえている。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐のとき、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。成田氏長の叔父・成田泰季が城代を務めていた忍城は、石田三成を総大将とする軍に攻められる。近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うため、総延長28kmにおよぶ堤を建設した。忍城が落城することはなく、小田原城が落城したことにより開城となった。
徳川家康の関東移封後は、徳川家康の4男・松平忠吉が10万石で入封する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、松平忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げる。尾張尾張藩52万石に加増移封され、忍藩は幕府直轄になった。寛永10年(1633年)松平信綱が3万石で入封する。松平信綱は老中に昇進して島原の乱を鎮圧、寛永16年(1639年)武蔵国・川越藩6万石に加増移封された。替わって阿部忠秋が5万石で入封する。阿部信綱 / 阿部忠秋 相次いで老中に就任、阿部忠秋は8万石に加増されている。阿部正能のとき9万石 / 阿部正武のとき10万石 と加増される。阿部正武23年間も老中を務めている。以降の藩主も老中 / 京都所司代 / 大坂城代 などの要職を歴任している。文政6年(1823年)阿部正権のとき陸奥国・白河藩に移封となった。替わって伊勢国・桑名藩より松平(奥平)忠堯が10万石で入封、第5代藩主・松平忠敬のとき明治維新を迎える。明治4年(1871年)廃藩置県と同時に廃城となり、明治6年(1873年)土塁の一部を残して取り壊された。

藩校進修館移築門 鐘楼 模擬城門

昭和63年(1988年)本丸跡に模擬御三階櫓が再建される。藩校進修館移築門は、文政7年(1824年)松平忠堯によって開校した藩校門を移築したもの。行田市郷土博物館の鐘楼は、二の丸の東隅にあったもの。東照宮は寛永2年(1625年)松平忠明が大和国・郡山城内に創建したのが始まり。藩主移封の都度移転、明治4年(1871年)本丸にあった諏訪神社に移転する。現在の拝殿は昭和5年(1930年)の建立。

諏訪神社 / 東照宮 拝殿
總願寺 總願寺山門 總願寺黒門
加須(かぞ)市の總願寺黒門は、忍城の北谷門を移築したもの。元和2年(1616年)創建の總願寺は不動ヶ岡不動とも呼ばれ、成田山新勝寺 / 高幡不動 とともに関東三大不動と云われている。2月3日の節分には“鬼追い豆まき式”/ 9月28日には護摩火の上を裸足で渡る“柴燈護摩火(さいとうごま)渡り式”が行われる。
[交通]東武伊勢崎線・加須駅-(徒歩30分)-總願寺
武蔵国・騎西城(私市城 / 根古屋城)

■城の種別
平城
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
模擬三重櫓

模擬三重櫓
東武伊勢崎線・加須駅から線路沿いに南東へ、38号線を右折して南西へ進む。20分ほどすると、右手に騎西城がある。
[交通]東武伊勢崎線・加須駅-(徒歩20分)-騎西城
武蔵七党のひとつ、私市(きさい)氏の本拠地があったところと云われている。築城者や築城年は不明であるが、四方を沼に囲まれた堅城だったと云われている。康正元年(1455年)古河公方・足利成氏が、深谷上杉家の城であった騎西城を攻略した記録が残る。天正18年(1590年)小田原の役後は松平康重 / 関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)大久保忠常 が城主になる。寛永9年(1632年)大久保忠職が美濃加納城へ移封となり、廃城となる。昭和50年(1975年)模擬三重櫓が建てられる。

騎西城の西、直線距離で約3.5kmのところに竜興寺がある。308号線の加須市田ヶ谷総合センター南に位置する。本堂の左手に、古河公方・足利成氏の造立と云われている三基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。永享(えいきょう)の乱で自害した成氏の父・持氏、 美濃で切られた成氏の兄・春王丸と安王丸のものである。永享10年(1438年)〜永享11年(14391年)関東で起こった永享の乱は、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立に端を発する戦乱。

宝篋印塔
武蔵国・松山城(武州松山城 / 武蔵松山城)
■城の種別
平山城
■築城者
上田友直
■築城年
応永6年(1399年)

■主な遺構
土塁
本丸跡
東松山駅から東へ進む。百穴(ひゃくあな)入口を右折して川を渡る。直ぐに左折して川沿いに進むと、左手に凝灰岩の岩山に掘られた吉見百穴がある。右手に松山城裏門跡の岩山と岩山の間に建てられた岩室観音堂がある。四国八十八ヶ所の本尊を模した石仏が祀られており、お参りすると同じ功徳が得られるとされている。観音堂前の車道を登り、右折すると城跡への小道がある。松山城は丘陵の先端に建てられた北武蔵屈指の山城で、慶長6年(1601年)松平氏が浜松に転封され廃城となる。雑木林に覆われており土塁が残っている。
[交通]東武東上線・東松山駅-(徒歩40分)-松山城跡
観音堂の左に凝灰岩の岩山に掘られた吉見百穴(よしみひゃくあな)がある。明治20年(1887年)より発掘が行われ、人骨 / 須恵器 / 玉類 / 武具 / 土器等が掘り出された。古代の横穴住居跡で墓穴として利用されたものであるされたが、大正時代に1300年前の古墳時代後期の集合横穴墓群と分かる。大正12年に代表的な横穴墓群として国の史跡に指定される。第二次世界大戦当時は墓の一部を壊して巨大な洞窟を掘り、軍需工場として利用された。そのときの排土により裾野が埋められ、現在確認されている数は219基となっている。国指定天然記念物のヒカリゴケが自生している横穴もある。百穴は有料施設。
吉見百穴
武蔵国・川越城(河越城 / 初雁城 / 霧隠城)
■城の種別
平城
■築城者
太田道真・太田道灌
■築城年
長禄元年(1457年)
■主な遺構
本丸御殿の一部
本丸御殿
本川越駅前から北へ、“蔵造りの町並”方面に進む。“蔵造りの町並”の中程にある信号を右折して東へ進む。左手に時の鐘がある。川越第一小学校が右手に見えると、突き当たりに川越城本丸御殿がある。天文15年(1546年)足利晴氏 / 山内上杉・上杉憲政 / 扇谷上杉・上杉朝定の連合軍が、北条氏が籠る河越城を取り囲む。救援にきた北条氏康は、夜襲で連合軍を壊滅させる。河越夜戦は、桶狭間や厳島と並ぶ戦国三大奇襲戦と云われている。後に上杉憲政は越後に逃亡、長尾景虎(上杉謙信)を養子にして管領職を譲っている。本丸御殿東側には♪とおりゃんせ♪で知られる三芳野神社がある。嘉永元年(1848年)に造営された本丸御殿の一部が残る。
[交通]西武鉄道・本川越駅-(徒歩40分)-川越城
武蔵国・滝の城(本郷城)
■城の種別
平山城
■築城者
大石重定
■築城年
正平11年(1356年)
■主な遺構
掘跡 / 土塁
滝の城址碑
武蔵野線・東所沢駅より南へ進む。すぐに179号線に突き当たり、右折して東に進む。城交差点を右折して道なりに進むと、滝の城址公園がある。城址の縄張り図があり、左折して道なりに進む。遊歩道で滝の城址公園を巡ることができる。
[交通]JR武蔵野線・東所沢駅-(徒歩40分)-滝の城址公園
城山神社 稲荷社 稲荷社
稲荷社(物見台跡) 掘跡 城山神社鳥居
正平11年(1356年)大石重定によって築城される。大石定久の代に小田原北条氏の支配下となり、北条氏照の支城になった。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原城攻めで、八王子城の支城であった滝の城も攻撃される。天正18年(1590年)の北条氏滅亡後に徳川家康が関東に入府すると、滝の城は廃城となる。滝の城本丸跡に城山神社 / 滝の城址碑 がある。物見台跡に稲荷社・天神社などの祠がある。本丸から城山神社参道を石段で下る。城山神社鳥居に出る手前にも堀跡がある。
滝の城址入口から城山神社鳥居まで下る七曲坂は、昼間でも暗い。左手に寛政11年(1799年)造立の馬頭観音 / 血の出る松の跡石柱 がある。小田原城攻めで、支城であった滝の城も攻撃された。討ち殺された城兵の血を吸った黒松に傷をつけると、赤色の樹液が出たことから“血の出る松”と呼ばれる様になった。昭和47年(1972年)枯れてたため伐採された。
馬頭観音 血の出る松の跡
武蔵国・山口城(児玉城)
■城の種別
平城
■築城者
山口小七
■築城年
平安時代末期
城址
下山口駅から北へ、55号線を左折して西へ進む。山口城址前交差点の南東側に碑と案内がある。南側の西武狭山線沿いに土塁が残る。
[交通]西武狭山線・下山口駅-(徒歩10分)-山口城址