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上総国・一宮城(一宮陣屋)
■城の種別
平山城
■築城年
南北朝時代(1336年〜1392年)以降
■主な遺構
曲輪
■主な再建造物
模擬大手門
模擬大手門
JR外房線・上総一ノ宮駅から南に、すぐの228号線を右折して西に進む。すぐに128号線に突き当たる。ここから前方に見える高台は、一宮城の一角である。
一宮城址

128号線を左折して南に進むと、すぐ右手に寶本寺がある。すぐのT字路を右折して坂を登ると、坂の途中右手に「加納久宣公の墓」案内標識がある。道路の掃除をされていた方に伺うと、「以前は建物や祠があったが、いまは何もない」とのことで通過する。道なりに進み、128号線から5分ほどのT字路を右折する。すぐ右手に、模擬大手門 / 一宮城址案内板 / 城山公園案内図 がある。
[交通]JR外房線・上総一ノ宮-(徒歩約15分)-城山公園

加納公紀徳の碑 振武館 模擬土塀
模擬大手門から坂を登ると、左手に加納公紀徳の碑 / 突き当りに振武館がある。振武館は加納藩の武道所の名称を引き継いだ施設。裏手に回ると断崖になっており、左手下に小学校が見える。模擬土塀がフェンス代わりに設置されおり、右方向に進むと加納久宣公の墓に至る。
眺望

標高約30mの台地に築かれた平山城。築城時期は南北朝時代(1336年〜1392年)以降と云われ、天文年間(1532年〜1555年)には、安房里見氏に帰属していた正木氏の支配下にあった。永禄6年(1563年)〜永禄7年(1564年)第2次国府台合戦直前に、正木時忠は離反して小田原北条氏に内通する。正木時忠は、里見氏方の大多喜城・正木憲時が支配する一宮城を攻略、嫡男・正木時通を置いた。永禄年間(1558年〜1570年)里見氏 / 北条氏 / 分裂した正木氏 が絡んで一宮城を巡る攻防戦が度々行われている。天正2年(1574年)頃に正木時忠 / 正木時通 は里見氏に帰参、再び正木憲時の支配下に置かれた。天正6年(1578年)里見義弘が死去すると、里見義頼と梅王丸は家督と領土をめぐって対立する。天正9年(1581年)正木憲時は里見義頼に攻められて敗北、一宮城には里見氏の城代が置かれたと云われている。天正18年(1590年)里見義康が惣無事令違反(そうぶじれいいはん)を理由に上総国を没収され、徳川家康の城代が置かれた。文禄年間(1593年〜1596年)までには廃城となっている。文政9年(1826年)伊勢国八田藩・加納久儔は、飛び地領であった上総国一宮に陣屋を移転して一宮藩とした。廃城となっていた一宮城跡は、土塁のみが残っていた状態であった。加納家は、参勤交代を行なわない定府大名であった。以降、明治4年(1871年)の廃藩置県まで存続した。4代藩主・加納久宜は戊辰戦争のとき、新政府側に与した。

128号線のT字路交差点まで戻り、128号線を南に進む。すぐ右手に趣きある古商家がある。
古商家
T字路から128号線を北に進む。5分ほどの玉前神社前交差点を左折すると、突き当りに上総国一宮・玉前神社がある。延長5年(927年成立の延喜式神名帳では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載されている。社殿は黒漆塗りの権現造りになっている。
玉前神社
JR外房線・上総一ノ宮駅前広場の北側に、案内地図がある。この地図で一宮城 / 玉前神社への道筋が確認できる。何処にも一宮城(城山公園)の案内標識はない。
上総国・東金とうがね城(鴇ヶ根ときがね城)
■城の種別
平山城
■築城者
酒井定隆
■築城年
大永元年(1521年)
■主な遺構
郭 / 堀切
東金城四郭
石碑の並ぶ平坦な道 御殿山神社奥院石柱 東金城四郭からの眺望
JR東金線・東金駅から北西に進む。すぐの交差点を左折して119号線を南西に進む。すぐの交差点を右折すると、八鶴湖が見えてくる。八鶴湖の遊歩道を南西へ道なりに進むと、右手に弁天島 / 左手に東金高校と本漸寺 がある。東金高校と本漸寺の間に東金城登城口があり、本漸寺側に東金城址と東金御殿跡の案内板がある。
東金城登城口を進むと、すぐに「PM4時閉門」の門を越えると、石碑の並ぶ平坦な道を進む。5分足らずのところにある分岐の手前左手に、御殿山神社の小さな社殿が見える。分岐を右に進み5分余り登ると、四郭に「御殿山神社奥院」石柱がある。
大永元年(1521年)酒井定隆によって築城される。室町時代(1338年〜1573年)千葉氏が築城した鴇ケ峯城が始まりとする説もある。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で小田原北条氏は滅亡、東金城は浅野長政によって接収され廃城となる。
[交通]JR東金線・東金駅-(徒歩10分)-東金城登城口
東金高校があるところは、東金御殿跡である。慶長18年(1613年)東金は徳川家康の御鷹場となり、宿泊施設として東金御殿が造営された。寛永7年(1630年)徳川秀忠のときを最後に鷹狩は行なわれなくなり、寛文11年(1671年)に東金御殿は取り壊された。東金高校の正門は、明治時代の煉瓦造り。
東金高校正門
本漸寺の創建年は解っていない。創建時は上総国山辺郡松之郷(現:東金市松之郷)にあったが、東金城主・酒井氏が現在地に移した。
本漸寺本堂
弁財天
八鶴湖 八鶴亭

八鶴湖は鴇池(ときいけ)という小さな池だったが、東金御殿を造営するときに拡張された。弁天島が半島状にせり出しており、弁財天がある。湖畔の南側にある八鶴亭は明治時代創業の老舗旅館で、国の登録有形文化財になっている。

JR東金線・東金駅から北西に進む。すぐの交差点を右折して119号線を北東に進む。10分足らずの右手に東金新宿郵便局がある。風景印は、天然記念物・モウセンゴケ / 無形文化財・北之幸谷の獅子舞 の図柄になっている。
東金新宿郵便局風景印
上総国・椎津しいづ

■城の種別
平山城
■築城者
三浦貞勝 / 三浦定勝 / 真里谷武田氏 説など
■築城年
応永年間(1394年〜1427年) / 応仁年間(1467年〜1469年) / 明応年間(1492年〜1501年) 説など
■主な遺構
土塁 / 空堀

椎津城跡
長遠寺 稲荷大明神 八坂神社

JR内房線・姉ヶ崎駅東口より南東に進む。すぐの姉ヶ崎駅東口交差点を右折して、南西に進む。20分ほどすると右手に長遠寺 / すぐ右手に稲荷大明神 と続く。すぐの境川を越えた左手に八坂神社があり、裏手の標高28mの台地が椎津城跡になる。椎津城は海を前にした台地の北端部にあり、東側を流れる境川は堀の役目を果たしていた。
社殿裏の道を進むと、すぐに分岐がある。左に平坦な道を進むと、すぐに夏草に覆われ道は途絶える。先に見える道まで続いている様である。分岐まで戻り、右方向に登り坂を進む。すぐに草に覆われた広場がある。右方向に見える小高い丘が主郭の様であるが、住宅が点在している。庭先を覗き込む様に進む。不審者に間違えられる可能性もあり、根性なく引き返している。
椎津城は、応永年間(1394年〜1427年)三浦貞勝によって築城 / 応仁年間(1467年〜1469年)三浦定勝によって築城 / 明応年間(1492年〜1501年)真里谷武田氏によって築城 とする説 などがある。
天文21年(1552年)里見義堯は正木時茂に命じて椎津城を攻撃、真里谷信政は敗れて自刃した。以降も里見氏と小田原北条氏による争奪戦が繰り返されたが、天正5年(1577年)頃には北条氏の属城として定着した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で小田原北条氏は滅亡、椎津城は廃城となった。
[交通]JR内房線・姉ヶ崎駅-(徒歩20分)-八坂神社

[寄り道]姉崎郵便局
JR内房線・姉ヶ崎駅西口より線路沿いに北東に進む。5分足らずで久留里街道を潜る。道なりに左に進むと、すぐ右手に姉崎郵便局がある。風景印は、東京湾 / タンカー / コンビナート工場郡 / ゴルフ場 の図柄になっている。
姉崎郵便局風景印
上総国・鶴牧陣屋(鶴牧城)
■城の種別
陣屋
■築城者
水野忠韶
■築城年
文政10年(1827年)
姉崎小学校

JR内房線・姉ヶ崎駅より南東に進む。すぐの姉ヶ崎駅東口交差点を右折して、南西に進む。20分ほどの境川を越え、境川沿いに東へ進む。5分ほどの十字路を右折すると、突き当りに鶴牧陣屋が置かれていた姉崎小学校がある。
文政10年(1827年)安房国北条藩から上総国鶴牧に移封となった水野忠韶が鶴牧藩を立藩、陣屋を構える。城主格の大名であったことから、鶴牧城と呼ばれた。 鶴巻藩は水野忠韶〜水野忠実〜水野忠順と続いて明治に至る。明治4年(1871年)廃藩置県で廃藩となる。
[交通]JR内房線・姉ヶ崎駅-(徒歩25分)-姉崎小学校

上総国・八幡御所跡
■城の種別
御所
■築城者
足利義明
■築城年
永正14年(1517年)
白幡神社
飯香岡八幡宮 円頓寺 無量寺
赤い橋 日吉神社 満蔵寺
JR内房線・八幡宿駅から北西に進む。すぐに24号線と交差、左折して久留里街道を南西に進む。八幡御所跡までの街道沿いに、白鳳年間(650年〜654年)創建と云われる飯香岡八幡宮 / 円頓寺 / 白鳳年間(650年〜654年)創建と云われる無量寺 / 赤い橋 / 日吉神社 / 満蔵寺 などがある。15分ほどのT字路を右折すると、八幡御所跡に白幡神社がある。少し解りづらい場所で、社殿裏にあるジョイフル本田が目印になる。
[交通]JR内房線・八幡宿駅-(徒歩15分)-白幡神社

小弓公方・足利義明が永正14年(1517年)館を構えたところと云われている。大永元年(1521年)足利義明は、八幡御所から小弓城に移る。天文7年(1538年)足利義明率いる1万の軍勢と北条氏綱率いる2万の軍勢による国府台(こうのだい)合戦が行われる。足利義明勢は敗北、足利義明は戦死する。八幡御所は廃される。
白幡神社境内に社殿再建記念碑がある。天文7年(1538年)御所が廃され地名が五所に改められこと / 翌天文8年(1539年)跡地に白幡権現を勧進したこと などが記されている。

白幡神社社殿再建記念碑
安房国・久留里城(雨城 / 霧降城 / 浦田城)
■城の種別
山城
■築城者
武田信長
■築城年
康正2年(1456年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
久留里駅から東へ進む。410号線を右折、すぐに次の交差点を左折する。自噴している井戸が数箇所見受けられ、左手に神明神社がある。大多喜君津線と合流、しばらくすると久留里城への道標が現れる。森林体験交流センターと駐車場があり、城山林道から二の丸にある久留里城址資料館へ急坂を登る。男井戸と女井戸を経由して、昭和54年(1979年)天守台脇に建てられた復興天守へ進む。帰路に、坂が急だったことを再認識させられる。駐車場には戻らず、左折してトンネルを潜る。410号線を久留里駅へ戻る。水量の豊富な井戸が途中に2ヶ所あり、ポリタンクに汲んでいる人がいる。井戸水は冷たく、のどを潤し頭を冷やす。往路に左折した信号の手前を左折すると、徳冶2年(1307年)創建の正源寺がある。
[交通]久留里駅-(徒歩/約45分)-久留里城天守
安房国・館山城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城者
里見義康
■築城年
天正16年(1588年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
館山駅東口から東へ、大通りを右折して南へ進む。踏み切りを渡り、潮留橋交差点を右折する。安房三十四観音霊場や安房国白寿六地蔵尊霊場となっている長福寺が左手にあり、しばらくすると左手に城山公園が見えてくる。孔雀園の横を通り館山城天守へ進む。昭和57年(1982年)模擬天守が建てられる。本丸の一角には浅間神社がある。反対側から降りると城山公園入口に戻ることができる。
[交通]館山駅-(徒歩/約20分)-長福寺-(徒歩/約15分)-館山城天守
安房国・大多喜城(大滝城)
■城の種別
平山城
■築城者
武田信清
■築城年
大永2年(1521年)
■主な遺構
二の丸御殿薬医門
■主な再建造物
天守
復興天守
いすみ鉄道・大多喜駅から北へ、Y字路を線路沿いに右へ進む。道なりに進むと線路を渡り、しばらくすると大多喜高校への道標が見えてくる。右折して校内を進む。校舎の前には唯一の遺構である二の丸御殿薬医門がある。校舎の外れにあるロータリーの様になっているところが、二の丸大井戸である。坂を登って行くと、昭和50年(1975年)に建てられた模擬天守がある。往路を駅まで戻りY字路を左へ進むと、夷隅神社がある。西側には古い町並みがある。
[交通]いすみ鉄道・大多喜駅-(徒歩/約20分)-大多喜城天守